Nights.
Seventh-Alive
樫の木のカウンターに肘を突き、六牟黒は、上が空っぽになった砂時計をひっくり返してまた一つ数を数えた。これで十四回目になる。
珍しく室長としての仕事がない日だった。上申書、報告書、その他諸々は全て出してあり、共鳴探知の処理はそもそも眠っていようとも脳の片端で行なっている。
湯気を上げるカップを持ち上げ、溜息をついた。自分のために淹れる紅茶はいつも適当になってしまう。葉の蒸らしも湯の温度も出鱈目でちぐはぐだった。口をつけると、絵の具を溶いた湯を飲んでいるような気分になる。
ぽっかりと空いた空白の時間を持て余し、黒はカウンターに肘を突く。退屈は人を老いさせるというが、なるほど、それもよく判る気がした。何もする事がなければ、人は自然にあらゆる分野で衰えるだろう。それが、老いるということなのかもしれない。
黒は、話好きの老人の気持ちが少しわかった気がした。今ならジークと、実のない話を何時間でも続けられそうな気分だった。時計の針が五時を指す。たっぷりあと十三時間はこの部屋には訪れない。
「退屈だな」
語る相手はなく、声を出しても帰る言葉はない。静かすぎる『ねじれの位置』の中で、紅茶の水面だけが揺れている。
黒は、意識的に右手のカップの中を覗き込んだ。濃く淹れすぎた紅茶がたゆたう。波立つ赤い液体を見ていると、ふと昔のことを思い出した。
いよいよ老人の心境がわかるところまで来たらしい。老いた人間は過去を振り返りたがるものだ。黒は自嘲めいた苦笑を漏らすと、ゆっくりと記憶を辿り始めた。
眠くなるまでの暇つぶしになればいいと思いながら。
遡れば、三十年も前の話になる。
ロクムクロというふざけた名前は、自分の本当の名ではない。もっとも最初に与えられた名前は、『ゼロ』だった。自分の周りにいる人間は、みな彼のことをゼロと呼んだ。それもそのはずだ。そもそも、黒は人間ですらなかった。
ナイツには様々な出自のものがいる。そもそも、ナイツに所属しているのは直接戦闘を行う猟人たちばかりではない。魔具を修繕する魔工師や、能力の補助に武器を使う者たちのための武器鍛冶、猟人を補佐する室長など、様々だ。
黒――『ゼロ』が生まれたのは、猟人のいない十三番分室、『虹銀』――俗に研究室と呼ばれる分室だった。猟人以外のメンバーの中でも一際異質な錬金術師の集団である。
長年の研究の成果か、彼らは魔具について熟知しており、本来なら長く時間をかけて自然に醸成する魔具を、秘術によって作成することを可能としていた。
しかし、彼らはそこに留まろうとせず、技術を磨き続け、ある一つの命題に挑んだのである。
三十年前にそこで研究されていたのは、体内に魔具を宿し、自律的に戦闘する、人を模した何か。
生まれ来る者たちは、皆一様にナンバーを振られた。
零番、無名の『ゼロ』。
一番、炎の『煉熱』。
二番、水の『絶温』。
三番、風の『飛爪』。
四番、地の『誕樹』。
五番、光の『極神』。
六番、闇の『深淵』。
魔具を使うために意思を持たされた七人の人工生命体たちを揃え、錬金術師達は研究を進めた。
彼らの最終目的は、天に達する『七番』を作ることにあったと聞いている。昏闇を滅ぼすに足りる『神』を作ろうとしたのだろう。
雲を掴むような話だった。両腕を広げて、絶壁から飛べると信じて飛び立つようなものだ。
出来損ないの翼を貼り付けて跳んだ錬金術師達は、当然のように落ちた。ただそれだけの話だった。
この神を作ろうという計画は、七つ目の楽園と呼称された。ホムンクルスは基本的には人間だが、その身体の中には高等な魔具が埋め込まれていた。骨が魔具であったり、心臓が魔具であったり、はたまた眼球が魔具であったりと、その位置は各人によって異なる。
埋め込まれた魔具に蓄積された記憶を用いて、ホムンクルスたちは高度な能力を発揮した。また、彼らは同じ属性の魔具であれば、身体の中に埋め込んだものの他にもう一つの魔具を同時に使うことさえも可能とする。熟練の猟人でさえ容易には成しえない技を、彼らは生まれながらにして持っていた。
しかし、である。
そんな天才的な少年少女と同じ存在として生み出されながら、ゼロは自分のどこに魔具が埋め込まれているかさえも知らなかった。加えて、自分に何ができるのかさえもわからなかった。他の六体は、自らに埋め込まれた魔具を知覚し、目覚しく能力を開花させたというのに、ゼロにできたことは昏闇を視認し、拳を一撃入れること、それだけだった。拳を入れた後はいわずもがな吹き飛ばされ、数時間後にベッドの上で目を覚ました。
惰弱なゼロ。脆弱なゼロ。救いようもない無能。同時期に生まれたホムンクルスたちも、ただ一人を除いては、彼を侮蔑を込めてゼロと呼んだ。
この頃の記憶には苦い思い出しかない。仲間であるはずのホムンクルスから投げかけられる罵倒と冷笑は、彼の心をささくれ立たせていた。自暴自棄になった時期もあったが、それで何かが変わるわけでもなかった。自分の無力さだけを、ただ思い知る日々が続いた。
そんな日々の中で、それでも彼が生きていられたのは、四番――誕樹がいたからだった。ただの格闘しかできず、それでも昏闇に対して訓練を続けるゼロを、常に横で癒し続けたのが彼女だった。
ある夜のことだ。いつもと同じように昏闇と戦い、回りの面々がいともたやすく昏闇を殺して引き上げた頃、大の字で地面に仰臥するゼロの横で、正座したイグドラが口を開いた。
「ねぇ」
「……なんだ。口を開くのも億劫なんだが」
「今日は、倒せたね。昏闇」
「ひどい遅さでな」
イグドラは薄い笑みを唇に乗せると、ゼロの身体に手を伸ばした。まずは腕から、そっとなぞるようにさすっていく。彼女の手が触れた部分から、痛みが消えていく。
「必要ない。どうせ打ち身だけだ」
「それでも、痕が残ると嫌でしょう」
「女ならともかく、男にそれを言うか、君は」
「じゃあ、もうちょっと言おうかな。嫌なの、私が。あなたの肌に、烙印みたいな痕が残るのが」
ゼロは口をつぐんだ。相も変わらず、イグドラは薄く微笑んでいた。エメラルドグリーンの髪の下、透き通るような白い頬に、紫色の紋様が見える。髪と同じ色の瞳が、慈しむような眼差しを注いできた。
ゼロは目を泳がせ、彼女から視線を外した。身体から痛みが薄れていく。彼女だけが、自分をゼロと呼ばない。
「……君は俺にいつも付きまとうな。俺の心配をしていると、他の連中がいい顔をしないぞ。特に煉熱はひどい。あれは君に懸想しているのだろう。恐らくは、だが」
淡々と言ってやると、イグドラは困ったように自らの頬に手を当てた。
「そんなことはないわ。……仮にそうだとしても、私は彼に応えられない。あなたが当たられるなら、私から彼に言い含めておくけれど」
「止めておいてくれ。俺の生傷が増えるだけだ」
メルティアは烈火のごとき気性を持つ少年だ。身体は小さいのに、セブンスヘブンのメンバーの中では最大の攻撃力を持つ。絶温やゼロとは特に仲が悪く、メンバーの和を乱すのは彼がまず最初だった。
横暴にして粗暴、傲慢にして不遜と、一口で説明できてしまう紅蓮の少年を思い浮かべ、ゼロは溜息をつく。
「思うように行かないものね」
「世の中はそういう風にできているものだよ、イグドラ。……さて、帰ろうか。君のおかげで痛みも抜けた」
ゼロはゆっくりと立ち上がる。少女もそれに続いた。目を伏せ、彼女は囁く。
「……私はあなたの傍にいたいだけなのよ。ただひとつ、そうしたいと思うだけなのに、どうしてたくさん壁があるのかしらね」
真っ直ぐな言葉。見上げる視線。一四六センチメートルの身の丈は、メルティアよりも低い。彼女がゼロに語りかけるときはいつも顎を押し出し、見上げる形になる。
「……思わせぶりなことを言わないでくれ。俺は目の前の課題に追われて必死になってる」
「そうね――」
イグドラは淡く笑うと、ゆっくりと身を翻した。
「それなら、課題が少なくなったときにもう一度言おうかしら」
イグドラは微笑を保ったまま、肩越しに振り返った。ゼロは溜息をつく。彼女はいつもこうだった。必要以上に近づこうとはしないで、いつも距離を計って、柔らかく寄り添ってくれた。
だから、ゼロはゼロでいられた。
けれど、『もう一度』が来ることはついぞなかった。
六人の仲間と共に暮らして、十年が経った頃だったように思う。
あの日もいつもと同じように、戦場でイグドラと会話を交わしてから、分室に戻った。
その日は少しだけ長く話した覚えがあった。けれど、会話の内容は覚えていない。
――その直後の記憶が、生々しく、今も脳裏にこびりついている。
「……なぜ、殺した」
「わからないかい、ゼロ。君は愚鈍だな。いつも思っていたが、救いようもないほどに愚鈍だ」
「こんな……ことって」
「イグドラ、前々から思っていたが、ゼロを選んだあたり、君もやはり凡愚の仲間だったようだ。これ以上ない結論じゃないか。私は強く、彼らは弱かった。ただ、それだけの話だろう?」
部屋が、燃えていた。研究所を模した分室の中、一番広い休憩室が、今は地獄のような有様になっている。所々で炎が渦巻き踊る、変わり果てた部屋の中心に、『それ』は立っていた。
血にまみれた、それでもなお青く輝く橈骨を無理やりに、自分の右胸に押し込みながら、『それ』は笑った。赤い髪が、燃える分室の中で紅蓮に煌く。長く赤い髪だ。
変わり果てた姿だった。
本来白くあるべき部分さえも真っ黒な右の目。あれは深淵のものだ。バキバキと異常な音を立てながら胸に吸い込まれていく青く長い骨は、絶温の腕の中にあったものだろう。
「私は今、充実している」
『それ』は髪を振り乱し、足元から変わり果てた姿の死体を持ち上げた。白い髪が血で真っ赤に染まった死体――飛爪だ――の胸に爪を突き立て、嬲るような手付きで肉を抉り、心臓だけを引きちぎって、死体を投げ捨てる。引き抜いた心臓をそのまま、左胸に押し当てた。心臓は淡い輝きを発し、『それ』の体内に吸い込まれていった。
ゼロは、何も言えないままその光景を見ているしかなかった。一歩でも踏み出せば、焼き尽くされると思った。
長い赤色がばさりと翻る。『それ』の周りには、すでに物言わぬ三つの肉塊が転がっている。皆、死んでいる。もう泣くことも笑うこともない。ヴォードが皮肉を言うことも、ファルケが軽薄な言葉を吐くことも、アブソルが無言で本を捲ることも、――メルティアがゼロに突っかかってくることも。
「そうそう、愚鈍といえばメルティアだ。結局のところ、彼はイグドラでなくても良かったのだよ。彼を誑かすのは容易だったな。この身体が女であったことに始めて感謝したよ。ついさっきの話さ……今頃は私のベッドで二度と覚めぬ眠りを味わっているだろう。今日も仲良く君たちが乳繰り合っているのを見たからね。こっちにいる頭数が少ないうちに、用意をしておこうと思ったのさ」
赤い髪――かつてメルティアを彩っていた赤色を梳りながら、『それ』――極神は歪んだ笑みを浮かべる。
「……下衆め」
「賢い生き方を選択しただけだよ、ゼロ。どちらにしても、このまま行けば彼らは死んでいたのだからね」
「どういうことなの、ヘイズル」
おぼつかない足を叱咤するように、イグドラが一歩進み出て、ヘイズルを睨みつけた。
「私たちはね、ただの培養器に過ぎなかったということだよ、イグドラ。ファーストからシックススまでのメンバーは、みんなそこのゼロに吸収されるためにいた存在なんだよ」
「……!」
ゼロは、顔を跳ね上げ、目を見開いた。
「プロジェクト・セブンスヘブンのホムンクルスは、一つの属性に特化し、先鋭化したものの集まりだ。だが、一つの属性のスペシャリストなら探せばざらにいる。我らが主たるアルケミストたちは、一人で何でもできる究極の猟人を生み出したかったのさ。そこにある連中が話しているのを聞いたのだから間違いない」
ヘイズルが指差した先には、グラスやワインのビンを並べるための棚がある。
ゼロは棚に注目して、こみ上げる吐き気を抑えた。イグドラまでもが、顔を蒼白にして棚を見つめていた。
グラスを並べるはずのそこには、人の首が、変形するほどの力で詰め込まれていた。幾つも、幾つも、幾つも。
「ゼロが能力を持っていないのは当然さ、だって彼は器でしかないのだから。どんな魔具を練りこまれているかは知らないけれどね。そこの連中、最後まで口を割らなかったよ。大した意思じゃないか。私達を欺いたことはさておき、そこだけは褒めてやってもいい。――ああ、室長は生かしてあるよ。ここの状態固定を任せなくてはならないからね」
ヘイズルが楽しげに言葉を続ける。いつもの彼女は、こんなことは言わないはずだった。理知的で、みなのまとめ役を買って出ていた。ゼロに対する、メルティアやアブソルの行過ぎた暴言を諌めることもあった。決して味方してくれるわけではなかったが、ゼロを必要以上に貶めもしなかった。
――何が彼女をそうさせたのだ。
そうもう一度問いかけたなら、恐らく彼女は愚問とまた笑うだろう。
――俺がいたから悪いのか。
それ以外にありはしない。
現実、ヘイズルは技量、力量、判断力、魔具の操作法、全てにおいて優れていた。彼女がもっとも七番に近いとゼロは思っていた。
何が、どこで狂ったのだろう。彼女が選ばれなかったことだろうか。この計画が始まった時点ですべては狂い始めていたのか。取り留めのない思考から結論を汲み取れないままに、ゼロは恐れるように一歩後退った。
しかし、逃げるように後退したゼロの前に、小柄な影が立つ。
「……それを知って、みんなに話したのなら、私たちは力を貸せたわ。みんなで生きていられる道を、探せたはずよ」
イグドラだった。震える手で、腰のワンドを抜く。彼女の力は、癒しと大地の猛り。攻撃もできるが突出してはいない。それでも、眼前の脅威に向かって、立っていた。
「疑わしいな、イグドラ。無能にいつも尻尾を振ってついて回る偽善者になど、最初から話す気はなかったよ。当然、私より劣る回りの連中にも――」
「偽善なんかじゃない!!」
イグドラの叫びが、ヘイズルの声を断ち切った。
常に微笑みを絶やさず、穏やかな声で話し続けたイグドラが、切り裂くような叫びを上げたのだ。ヘイズルは瞠目したが、すぐにそれは薄笑いに戻った。
「……主張するならそれもいい。どうせ結果は変わらない。すでに私は四人殺した。あと二人殺して、私が天に至る七番になる。それだけだ」
「逃げて、ここは私が止めるから。お願い」
イグドラの声が、ゼロの脳を揺さぶった。逃げなければ死ぬ。間違いなく死ぬ。だが逃げれば間違いなく、イグドラは死ぬだろう。物言わぬ三体の死体が目に映る。
彼女がああなると考えた瞬間、ゼロは喩えようもない怒りを覚えた。怒りで、恐怖を上塗りした。どれだけ愚かでも、今このまま逃げることだけはできないと、そう感じた。
ヘイズルは正しい。――確かに、自分は愚鈍のようだ。
「逃げるのは俺じゃない。君だ」
「え――」
「君がいてよかった。さよならだ、イグドラ」
一足の踏み込みで、イグドラの横を駆け抜ける。
ゼロはさらに地面を蹴った。体術のみを磨き続けて、十年。格闘戦ならば少しは持つだろう。身体の頑丈さだけは他の誰より上だった。固く、そう信じていたから。
しかし、信じる心は次の瞬間には打ち砕かれた。
「遅すぎる」
ヘイズルが嘲笑う。ゼロの顔面に拳が襲い掛かった。刹那にも満たない間隙に放たれた拳だ。強襲したのはこちらのはずなのに、自分の拳が届く前に右頬を打たれた。ガードの腕を上げる間もない。次に左頬。拳が見えない。左の肩口に蹴りが来た。初動は見えたが、軌道が捉えきれない。右肩をえぐる蹴り足。打撃の重い感触の後、灼熱感が右肩を支配した。
「……がぐ、ぅぅぁ!?」
燃えていた。そこら中で逆巻く炎と同様の勢いで、自分の右肩が燃えた。右腕は骨が折れたのか腱が切れたのか、皮膚が引きつっているのか神経がいかれたのか――或いはその全部か、すでに上がらなかった。
「足止めをするつもりだったか、健気だな、無能なナイト様」
喉にヘイズルの華奢な右手が添えられた。膝を付きかけたゼロの身体が、その右腕一本で支えられる。
「……ッ!!」
「君はあとで解体しよう。どこに魔具が仕込まれているのかわからないからね。まったく、面倒な話だよ。まぁ、そのときまでは――」
ヘイズルは左手で手刀を形作った。
「冷凍しておこうか」
手刀が、ゼロの心臓目掛けて突き出された。思わず瞼を下ろし、視界を閉じる。
――しかし、待とうとも来るはずの衝撃は来ない。それとも自分はすでに死んだのだろうかと、ゆっくりと目を開く。突き出された手刀は、自分の胸には刺さっていなかった。ただ――自分とヘイズルの間に、消えてしまいそうなほどにはかなく小さい、少女の姿があった。
ふん、と、つま先に当たった石ころを見たような軽さで、ヘイズルが鼻を鳴らす。
「下手な横槍だな、イグドラ。偽善者らしい最期だ。そのまま、凍えて死ぬがいい。あとでゆっくり、魔具を穿り出してやる」
どん、と衝撃があった。ゼロは衝撃に押されるように、もんどりうって後ろに倒れ込む。反射的に伸ばした腕の中に、ともに突き飛ばされたイグドラの身体があった。
命の灯火が徐々に消えていくのが見えるようだった。傷ついた胸から、広がるように凍っていく。
「……イグドラ?」
ゼロは、呆けたような声を上げた。
「逃げ、て……って、言ったのに」
イグドラはくすっと、いつものように笑うと、冷たい腕をそっと伸ばして、ゼロの体を抱いた。死体のように冷たい。ゼロは、無我夢中に彼女を抱きしめた。ただそうしなくてはいけない気がした。
こうなる事が嫌で、自分は勝ち目もない戦いに飛び出したはずなのに――目の前には、それすら傲慢だったとでもいうかのように、死に瀕した少女の姿がある。
「イグドラ……!! 何故逃げなかった、俺は君を逃がしたかった、少しでも遠くに! 生きてほしかったんだ!! ……なのに何故――」
言葉が止まる。
イグドラの唇は、凍えたように冷たく、柔らかかった。
唇が離れた。吸い込まれたように、ゼロの言葉の後尾は失われる。
「自分勝手は、お互い様よ……」
イグドラは凪いだ目をしていた。揺らがず、湖水のような静けさを湛えている。死を受け入れたものの目だと、ゼロは悟った。
「あなたは私を、生かしたかったと言う。……けれどね、私は、その十倍も百倍も、あなたを生かしたいと思った。……だから、こうしてる、の」
ゼロはもう、掛ける言葉を持たなかった。何も言えない。
凍えていく少女を抱いて、流れ落ちる涙も拭わず、腕に力をこめることしかできなかった。
「……あなたはゼロなんかじゃないわ。私が傍にいるから。何年経っても、何十年経っても、あなたの記憶の中にずっといるわ。ずっと、傍に、……誰より近くに、いるから」
そう言うと、彼女は目を閉じた。
それが、イグドラの最期だった。
「お涙頂戴の三文芝居は終わったかね、ゼロ。正直、私は退屈で死にそうだ。そろそろ君たちをバラバラにして魔具を取り出してしまいたいところなんだが、いいかね?」
ゼロは抱きしめた体を離そうとしない。ただずっと俯いたまま、イグドラの体を抱いていた。
冷たい体を抱く。彼女との記憶を思い出す。彼女は自分に、いつも温かい言葉をくれたのに、自分は何か一つでも、彼女に返す事ができていただろうか。
答えは、否だ。
「死体相手にいつまでも何をやっている。逆上して襲い掛かってくるくらいのことはするかと思えば、とんだ感傷主義だ。下らないな、私がもっとも嫌いなタイプだよ、君」
ヘイズルがイライラしたように爪先で地面を叩く。ゼロはヘイズルの言葉を聞いてはいたが、その意味を解そうとは最早しなかった。
抱きしめたイグドラを、記憶する。彼女がくれた言葉の一つ一つを記憶する。そうすることで彼女は永遠になる。ずっと自分の中に、在り続ける。
この強くいびつな思いを愛と呼ぶのなら、きっと自分はイグドラを愛していたのだろうなと、漠然と思った。
「……何だ?」
ヘイズルが戸惑ったように声を上げる。ゼロの腕の中にいたイグドラが、淡く光っていた。片隅から、ほどけるように光と化していく。ゼロは、少しずつ末端から光の飛沫になっていくイグドラを抱いたまま、立ち上がった。
自分の身体の中を、少しずつ彼女が満たしていく。存在全てを記憶していく。白紙の本が並んだ書棚のイメージが浮かぶ。光の粒と化したイグドラが身体に染みこむたび、白紙の本に文字が満ちていく。
「何をしている……ゼロ!」
腕の中が軽くなった。イグドラの身体はすでに光の粒となって消えていた。だが、ゼロの中に彼女はいる。その魔具も、力も、全てが記憶されている。
「俺はゼロではない。イグドラはそう言ってくれた。ヘイズル、君は一つ勘違いをしていたようだ」
「何を言っている、無能の分際で私に意見する気か?」
「そこが勘違いだと言っている」
ゼロは深く呼吸し、真っ向からヘイズルを見据えた。左手で右腕を撫でれば、火傷と裂傷が嘘のように消えていく。頬の打撲も同じように触れた。腫れと痛みが引く。懐かしい、温かみと共に。
イグドラが、触れたかのように。
「どうやら俺は、ただの能無しではなかったようだ。……彼女を呑まなければこうなれなかったのは、呪わしいと言う他ないが」
流れる涙を拭う。もう二度と、涙は流すまい。
「今から、君を倒す」
断固たる口調で、訴えた。
刹那、ヘイズルの動きが止まる。彼女は体を折り、危ういバランスで立ちながら、肩を震わせた。数秒間の沈黙のあとにバネ仕掛けの玩具のように彼女は仰け反り、天を仰いだ。狂人のように体を震わせて、哄笑する。
「あはははははははははッ!! そうか……そうか、それは傑作だよ、ゼロ! つまらない戯曲はここで終わりだ!! その名前の通りに消えてしまえッ!!」
前にかかる緋色の髪を払い除け、少女が叫ぶ。輝くような美貌を、粘ついた憎しみと敵意で塗り固め、いびつな表情で腕を少年に向けた。明確な殺意が伝わってくる。
少年――ゼロは、自分の左胸に右手を当てた。
「言ったはずだ。俺はもうゼロではない」
記憶を引きずり出し、自らが何から作り出されたかを解析する。
誰も名を覚えていないような剣。
誰も名を覚えていないような槍。
誰も名を覚えていないような盾。
誰も名を覚えていないような弓。
誰も名を覚えていないような杖――……
それは、彼だけが思いだせる名前の群れだった。自らの血液に溶かし込まれた、五つの魔具の名である。
追想する。その魔具が使われた時代、使った人間、誰がどのように使い、そしてその中で一番強かったのは誰なのか――情報が流れ込み、それが彼の血の力を使って実体化する。
無銘のゼロはもういない。そこにいるのは、『原書』の魔人だった。
「燃え尽きろおおおおおおおおおおッ!!」
ヘイズルが腕を一振りする。紅蓮の熱波が放たれる。しかし、ゼロがその炎を浴びることはなかった。
銀色の太刀筋が一閃し、熱波を真っ二つに引き裂く。炎の壁と称してもいいほどの熱の固まりは、ゼロを恐れるように左右へと散った。
ヘイズルの動きが止まる。
「……何だと?」
それも当然だ。今しがたまで、彼と彼女しか立っていなかったこの空間に、突如として全身に漆黒の甲冑をまとった長身の騎士が現れたのだから。騎士は身の丈ほどの大剣を振り下ろした態勢からゆっくりと復位し、揺らぐこともなく構えた。
それだけではない。次には槍を携えた長身の男が、両手に小型のシールドを持った小柄な拳闘士が、ボロ布を纏った狩人が、赤い杖を携えたシスターが――最初からそこにいたかのように、佇んでいた。
「暴虐の銀、"黒騎士"・クラウス=シュッツバルト」
黒騎士が進み出る。身の丈ほどの大剣を、片手で突きの構えに持っていく。空いた左手を添えもしないのに、剣先はみじんも揺らがない。
「狼王の牙、"刃狼"・ザリ=ダーナ」
軽装の男が槍を頭上で回転させ、風を切る。その槍は、ともすれば三メートルに届かんかという長さであった。身一つで振り回すには長すぎる。しかし、それを持つ男の目を見ればわかった。
その槍は、確実に昏闇を殺せる武器なのだ。
「竜骨盾、"殺拳"・イリーナ=ジャクセル」
拳を守る護拳程度の大きさしかない二つの盾を持った拳闘士――よく見れば女性であった――が、二つの盾を打ち合わせた。金属質の重い音と、火花が咲く。
「轟天、"雷翁"・アジール=シェンバー」
ボロ切れに被われて顔のよく見えない狩人が、奇怪なデザインの弓を持ち上げる。アーチを三つ、でたらめに組み合わせたような弓だ。彼が矢をつがえた瞬間、空気が爆ぜ、矢じりが赤熱し始める。
「災禍の渦、"災厄"・ローザ=シャルネ」
杖の先に、人の頭ほどの大きさの同心円状の円環があしらわれた杖を持ったシスターが、そっと杖を地面に突く。同心円は通った一本の軸を起点にそれぞれがでたらめに回転し、低く唸りを上げ始めた。
「……ここに回想を始める。偏在化する虚妄。陳腐化する現実。全ては無意味であり、押並べて等価であると知れ」
「莫迦な」
ヘイズルは目を見開き、己が身を抱くように両腕に爪を立てた。
「……こんな、こんなものがある訳がない……ゼロ、君は何者だ?! 我々は元素概念の具現化のはずだ! こんなものを操れるはずがない!!」
少女はよろりと後退る。足場を失ったように、壁に背を預ける。
ゼロはそれを見て、笑わず、顔をゆがめもせず、ただ淡々と呟いた。
「言葉の意味を判っていないようだ。ここに、常識などない。ようこそ牢獄へ、ヘイズル。そして――」
ゼロは腕を上げ、
「さようなら」
振り下ろした。
……黒は目を開いた。
途中から、回想と夢の境目が曖昧になっていたような気がした。溜息をついて、傍にあった紅茶のカップに手を触れた。冷め切った紅茶が、冷たい感触を手に返す。
時計の針は十二時を指している。やれやれ、と溜息をついた。やはり眠っていたらしい。
あの後、黒は五人の『記憶』を使役し、ヘイズルを撃破した。しかし、ヘイズルは強すぎる憎悪を帯びたまま分室を逃れ、そのまま野へと放たれた。秀麗だった眉目はずたずたになり、赤黒い肉と骨の塊のような有様にまで成り果てながら、なおも彼女は逃げた。
追うことは出来なかった。アーカイヴの力は、黒から根こそぎ活力を奪い去っていたのである。
ヘイズルを取り逃がした後、黒は室長を救出し、仲間たちの死骸を弔った後、別の分室に編入された。十三番分室『虹銀』は解体され、その後しばらくは欠番として扱われることになる。
「……もう一眠り、するとするか。まだ時間に余裕はあるからな」
誰にいうでもなしに黒は呟くと、椅子から腰を上げて仮眠室へと歩みを進めた。途中、もう一度だけ振り返る。最期まで飲まなかった冷め切った紅茶が、カウンターの上で揺れていた。
緋色の水面に、思い出す。
あの時の決着は付かずじまいだったが、十三番分室にまた目をつけてきたのならば、今度こそ決着をつけるのみだ。
「……彼女がこれ以上の憎しみを、振りまく前に」
黒は胸の中で静かに燃える決意を秘めたまま、仮眠室へと姿を消した。
その昔極神と呼ばれたセブンスヘブンの五番被検体は、今――
ジェイル=クリムゾンメモリーと呼ばれている。
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