Nights.

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  Cold sky, kindly heart  

 ベッドの上には、破裂寸前のスポーツバッグ。手回り品を残らず押し込めた結果であった。ジッパーを閉め終わって一息ついたかと思えば、閉じていたはずの封が悲鳴を上げて端から開く。
 これだから安物は困る、などと考えながら、一度ジッパーを開き、中身を圧縮しなおして今度は反対側から閉じた。幸いにも、今度はジッパーがバカになることはなかった。
「さて、と」
 ジーク=スクラッドは二週間弱を過ごした病室を見回した。乱痴気騒ぎを繰り広げたり、酒を持ち込んで他の患者と飲み明かしたりした部屋である。すっかり煙草臭くなった部屋の四隅には、ご丁寧に同じ消臭剤が並んでいる。人工的な香りにやや苦笑すると、ゆっくりと部屋のドアを開いた。
 ベージュのジャケットに同色のスラックス、黒のインナーを纏い、色気のないスポーツバッグを提げて病院の廊下を歩く。寝てばかりだったから体力は落ちているが、それもトレーニングですぐに取り戻せるだろう。それにそもそも、魔具を用いての戦闘に筋力は必要ない。信じる力が己を高める。
 ――これなら、今夜にでも職場復帰できそうだ。
 そう思うと、口元に薄っすらと笑みが乗る。早く銃を握りたくてたまらなかった。
 階段を下り、出口へ急ぐ。すでに康哉と志縞には話を通してあった。歩行器につかまって歩く老人と器用にすれ違い、病棟に酒を持ち込んだ不良仲間とハイタッチを交わし、ざわめく病院の中を歩いていく。
 ナースステーションに通りかかったところで、馴染みの二人に出くわした。今年入ったばかりの新人看護婦と、五十がらみの看護婦長である。ジークが軽く手を上げると、婦長が気づいたように足を止めた。
「あら、今日退院だったの」
「そっちのお嬢さんの献身的な介護のおかげでね」
「え、ええっ?!」
「確かにあたしには怒鳴った記憶しかないわね。ここ二週間で四つは老け込んだ気分だわ」
 頬を染める新人に構わず、婦長は軽く眼鏡を押し上げて目を細める。好意的とは言いがたい視線に、ジークは軽く肩を竦めた。
「悪かったよ、ボス。それじゃあオレは出てくから、十でも二十でも好きなだけ若返ってくれ」
「それができたら世の中どんなに素敵でしょうね、まったく。不養生のくせに治りだけは早いなんて、便利な身体してるわね、あんた」
「慈愛の心は病人を救うってな。白衣の天使さまさまってことさ」
 皮肉っぽく受け流し、新人目掛けてウィンクを一つ。軽薄な物言いはいつもと同じ。調子が戻っているのをこんなことで実感する。
「あ、う」
「……うちの新人をからかわないでちょうだい。骨抜きにされると仕事にならないのよ、看護婦は」
「なぁっ、な、ふふふ婦長! わたし別になんとも思ってませんから! なんとも!」
「残念だね、そりゃ。さらってこうかと思ってたんだけどな」
「あ、あなたみたいなカルい人、タイプじゃないですから!」
「ホントは一途で純情なんだぜ?」
 そこだけ真顔で言ってのけ、反論を聞かぬままジークは二人の横を通り抜ける。
「なんだかんだで色々ありがとよ。二人とも、身体に気をつけてな」
「その台詞、そっくりそのまま返すわ。見送りしなくていいの?」
「ああ、迎えが来てる」
 最後に一度振り返ると、婦長は悪戯小僧を見る目で、新人はまだ頬に赤みを残して、少しだけ名残惜しそうに笑っていた。バカなことは数多くやったが、同じだけ笑わせた覚えもある。入院生活もたまになら悪くないと思えた。
「じゃあな」
「「お大事に」」

 病院を出て、吹きつける風の冷たさに気付く。温度管理が行き届いている室内とは違い、荒れる風が身を切るように身体に当たる。
 病院を出て数歩のところで、『迎え』の姿を見つけた。紺色のプリーツスカートにシンプルな黒のジャケット、黒のニーソックス。門柱に寄りかかって気だるげに携帯電話のフリップを開いたり閉めたりしている。更に歩くと、足音に気付いたように顔を上げた。ロングヘアがさらりと流れ、彼女は門柱から背中を浮かせる。携帯電話を荒っぽく閉じると、ブーツの踵を鳴らしながらジークに向けて歩み寄った。手に紙袋を持っている。
「……遅い」
「すまん、野暮用でな」
「どうせまた誰かたらしこんでたんでしょ」
「酷えな、そこまで信用されてないのかね」
「十九年もあんたの妹やってれば、イヤでもこうなるわ」
「言葉もないね。泣きそうだ」
「いくらでも泣いてればいいのよ。ジェイルにボコボコにされたときみたいにね」
 ぐっ、と詰まったところに更に彼女は続ける。
「オマケに、あれだけ汚すなっていっておいた部屋も壊滅的だし。ベッドの周りの空き缶の山に、溢れた灰でぐちゃぐちゃのテーブル回り。いくら半年いなかったからってね、吸い殻で山脈を築ける人間が身内にいると思うとがっかりするわ。泣きたいのはこっちのほうよ。あんた、兄としての自覚とかそういうのあるの? あるんだったらもうちょっとしっかりしてよ。二週間近くも仕事休んであたしに働かせてんのよ。しかも家に帰ったら休まず掃除させられて、冗談じゃないわ。あんたはジゴロ? それともヒモ? 申し開きがあるなら言ってみなさい、今すぐ、ほら、さあ、早く」
「……返す言葉もない。すまん」
 溜息一つ。白い息が冬の外気に散る。口上に追い詰められたように、ジークは軽く天を仰いだ。彼女――リリーナ=スクラッドは、怯むジークを見て楽しそうに笑い、歩き出した。つかつかと足を進める妹を追うように、ジークもまた足を進める。
「ま、反省したところで治るわけないって諦めてるあたしもあたしだけどね」
「いや、改善の努力はするぞ。とりあえず山になった灰は捨てに行く程度に」
「山になる前に捨てにいけ」
 ごん、と頬骨にリリーナの拳が当たる。頭が揺れた。ツッコミの苛烈さは半年前と全く変わっていない。出先でもこうだったのだろうか、と考えて、ジークは出張先――二十番分室の面々に同情した。
「あーあ、あたしもホンット暇人よね。勝手に先走って勝手にぶっ倒れたこーんな兄貴の見舞いに来たり出迎えにきたりってさ」
「悪いな、感謝してる。昼のバイトはどうした? 戻ってきて、また始めたんだろ」
「ここんとこ動いてばっかりだったしね。調子が戻るまでは週四くらいで調節してもらってる。今日は休み」
「忙しい毎日を送ってるな、夜と両立してるのには驚嘆するね」
「あんたが怠惰なだけよ。シジマとコウヤを見習いなさい」
 リリーナは巳河市へと帰ってきてから、また以前と同じファミリーレストランでアルバイトを再開していた。働いている現場には絶対来るなと何度も念を押されていたから、ジークは今だ彼女が働いているファミレスへと足を踏み入れた事がない。
 いずれ光莉あたりを焚きつけて送り込むか、とは考えるものの、今だ実現には至っていなかった。
「……ジーク、なんかタチ悪いこと考えてない?」
「考えてないぞ」
「本当?」
「本当だぞ」
 そ知らぬ顔でひた隠しにしながら、近くのバス停まで歩く。郊外のアパートまでの道はまともに歩けば一時間はかかる。この寒空の下でそれだけの距離を歩くのは避けたかった。何せ今は薄着だ。前から吹きつけた身を切るような風に、思わず身を震わせてしまう。
「……大丈夫?」
「ああ。大したことない、これくらいならな」
 ジャケットの襟元をかき寄せ、ジークは淡々と言った。しかしやせ我慢をする間にも風は容赦なく吹き抜ける。その温度たるや、肌を表面から凍らせていくかのようだ。「ここ何日かで、急に冷え込んだな」
「そうね」リリーナは肩を竦め、手に提げた紙袋をふらふらと揺らした。どこか上の空な様子で視線を落とす。
 ジークはやや首をかしげ、紙袋を見やる。さほど大きくはない、小洒落た袋だった。中身が気になりながらも、追及は後回しにしてバス停を探す。街外れのほうに向かう路線は、中央に向かうものに比べて数がまばらだ。手近なバス停に足を向けると、口を開いた。
「向こうは、どんな感じだった」
「……」
「リリィ?」
「……え?」
「向こうはどうだった、って聞いたんだが」
「え、ええとああ向こうね、向こうの話ね! べ、別に何もなかったわよ、普通だったわ」
「……熱でもあるのか、お前」
 受け答えに精彩を欠くさまにジークはやや心配そうな視線を向けるも、彼女の返事は見事なまでの否定だった。
「あたしはタバコは吸わないしお酒も飲まないし、どんなときでも三食きちんと食べてるし、レトルトは嫌いだし! そりゃ夜更かしはするけどジークよりはよっぽど健康な生活してるから全然不調とかないし風邪も引かないもの!」
 首をぶんぶんと横に振りながら弾丸のようにまくし立てるリリーナにジークはたじろぐように一歩引いた。有無を言わせない口調であった。
「……別にそこまで言わんでも解るが、ただ少し心配になってな。急に寒くなると風邪ひく奴が増えるだろ」
 バス停が近づく。ジークは軽い口調で言ってのけつつバスの時刻表を覗き込んだ。腕にした時計と時刻表を見比べ、厄介ごとを見つけたように表情を歪める。
「どうかしたの?」
「三十分ある」
 げんなりしたように時刻表を指先で叩くと、リリーナもまた時刻表の十時の欄を覗いて、なんとも言えない表情をした。スイッチを入れ忘れた炊飯ジャーを開けたときのような表情だ。ジークと同じように何度も時計と時刻表の間で視線をさまよわせる。
 そのとき、また強く風が吹いた。リリーナの髪がなびき、ほのかなシャンプーの香りが流れた。彼女が長髪なのは今に始まった話ではない。ナイツに入った頃から、ずっと、彼女は髪をこの長さに保ち続けている。
 柔らかな匂いに一瞬、過去に飛んだ思索も、風の冷たさにすぐに引き戻された。今すぐこの場で魔具を使って、いつもの黒いコートを纏いたくなる。両肘を抱え、ジークは落ち着かない様子で地面を蹴った。この態勢で三十分の待ちぼうけを強いられることが確定していなかったら、もう少し意地も張れたろうが、到着時刻は無情にも十時三十九分から動こうとしなかった。ぐったりと口を開く。
「……風邪だ。風邪をひく。お前が熱を出す前にオレが高熱で倒れる」
「や、やっぱり寒いんじゃない。いっつも意地ばっか張るんだから」
「限度ってものがあんだろ。バス停が見えてたからこそ言えることもある」
「くだらないことを格言調で言わないでよ……」
 リリーナはそっぽを向いて、そっと紙袋を持ち上げた。
「寒いんでしょ、素直に認めなさいよ」
「……いや、そりゃ、寒いさ」
「だったら、ちょっと向こう向いてなさい」
「は?」
「向こう向いてろって言ったのよ」
 肩越しに振り返って、鋭い視線を投げつけてくるリリーナに圧されて、ジークは思わずあさっての方向に首を向け、それから身体ごと、そちらに向き直った。後ろから、紙袋をあさる音が聞こえる。
 がさがさという音がしばらく続いた後で、不意に、ジークの首を暖かな感触が覆った。首元に手をやる。指先に触れたのは、毛糸の温かみだった。前に回った一端を手ですくい上げて、しげしげと眺める。
 マフラーだった。
 何だか長すぎる気がするし、編み目も若干不揃いだった。手編みだとすぐにわかるつたなさがある。けれど、暖かかった。群青のマフラーは、彼の――また彼女の瞳の色と、よく似ている。
 振り向こうとすると、べち、と音を立てて、先程とは反対の頬に掌底が入った。前を向かされて、ジークは少しだけ苦笑いする。
「向こう向いてろって、言ってんでしょ」
「……悪い」
 今、彼女はどんな顔をしているのだろう。ジークは想像してみて、少し笑った。
「リリィ」
「……何よ」
「寒くなくなった」
「現金よね、あんた」
「純朴だって言ってくれ」
「嘘つくと口が曲がるわよ」
 軽いやり取り。ジークは口元を満たす笑みを押さえきれずに、煙草のケースをポケットから取り出して、一本だけ口にくわえた。
 火をつける前に首元を一周覆っただけのマフラーの長さを少しだけ調節して、片端を背中に回す。なんだか、出来損ないの変身ヒーローのような格好になってしまう。
「このマフラー、少し長いな。まるで二人用みたいに」
「……うっさい。初めてだったんだからしょうがないでしょ」
「ああ。でも、片端引き摺るのも気分が悪い」
 ジークは振り向かないままに、右手で背中に回したほうをゆらゆらと揺らした。
「だから、そっち側を持ってて、、、、くれ。……多分、二倍暖かい」
 しばらくの間、帰って来る言葉はなかった。逡巡するような沈黙の後、横の道路を三台の車が通り過ぎる頃に、消え入りそうな声で、彼女が呟く。
「……ばか」
 マフラーに僅かに力がかかる。リリーナの背中が、よりかかるように自分の背中に当たるのを感じた。
 それを確認してから、ジークはゆっくりと煙草に火をつけた。ふわりと煙が立ち上り、冷たい風に溶けていく。
 背中合わせの距離は、戦場にいるときと同じだ。この距離感がきっと一番心地好い。素直じゃないようでその実誰より素直な彼女の心音が伝わってくる気がするから。ジークは、いつもそう感じる。
「遅くなったが」
「……何よ」
「お帰り、リリィ」
「……」
 こつん。
 背中に、彼女の頭がそっと当たった。
「ただいま、ジーク」
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