Nights.

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  GrandFALL Memories  

 少し、あの人のことを思い出す。
 涙が出ないくらいに、本当に少しだけ。
 
 私――芝崎光莉が初めて彼と出会ったのは、六年前の夏のことだった。そのころ、世間では二〇〇〇年問題が叫ばれていて、この節目の年にコンピュータに重大なバグが発生するのではないかと心配されていた。そういえば、ノストラダムスの大予言なんて話もあった。「一九九九年七の月、恐怖の大王空より来たり、火星マルスは首尾良く支配せり」、という、いかようにでも取れるような例のフレーズである。
 私はこれでもリアリストだった。「数学で世の全てを説明できる」などとは言わないにせよ、オカルティックな話をされるたびに、そんなことあるわけがないと鼻で笑っていた。実際、かなり嫌な子供だったと思う。その頃の私は、学業の成績がよかった事もあって、簡単に説明できてしまう現実に飽きていた。そんな風にシニシズムを気取る少女に、友人と呼べるほどの人間がいるはずもない。私はいつも一人だった。救いがあるとするなら、それを苦に思わなかったということだろう。
 加えて、両親にもあまり恵まれなかった。彼らがはしゃぐのは、家の中で互いの欠点をあげつらうときだけだった。生まれてこの方、家族で出かけた思い出はない。
 当時の自分が不幸だったと訴えるつもりはないが、とにかく、私は私を縛る環境から飛び出したかった。退屈な世界に諦めを覚えながらも、高校を出れば新しい世界があるとどこかで思っていた。
 ……回りくどい話はそろそろおしまいにしよう。
 とにかく、そんな私の高校時代最後の夏、七月の話だ。
 私は遠くの、とある大学に入学するために、必死で勉強を重ねていた。塾に行く資金も親は出してはくれなかったから、学校の教諭に嫌がられるほど質問を重ねる毎日を続けた。誰も自分を知らず、自分も回りを何も知らない、そういう場所が欲しかったがために。
 忘れもしない、七月十六日の夜の事だった。その日も、私は遅くまで学校に残り、教師に時間外労働を強いたあとで欠伸混じりに学校を出た。駅まで数分、込み合う夜の駅を抜けて、いつもの電車に乗り込んで帰路に着く。
 比較的空いた車両の中もいつもと同じだった。帰る時間が一定だと、いつしか車内にある種の規則性を見出す事が出来るようになる。その日も、私の斜向かいにはウォークマンを聞く中年男性がいた。それに、虚空を見上げながら唇を動かして、何かを勘案している主婦もいる。目が合えば、会釈程度はする。話したことはなくても、同じ時間に電車に乗っていると、自然と覚えてしまう顔ぶれというのはあるものだ。
 彼らの服装などは違っても、マクロ的に見れば全ては同じだった。窓の外を流れていく町並みを見ながら、今日も退屈な時間を過ごしていくのかと少しだけセンチな気分になっていると、目の端を白い影が掠めた。目の端で揺れた純白が気になって、本当に何となく目を向ける。
 その瞬間、私は見事に硬直した。
 隣の車両に繋がるドアの影に、男がいた。それはいい。問題は、七月も半ばで、夏服の学生が街を闊歩する時期だというのに、その男が真っ白なロングコートを纏っているということだった。この時期にそんな衣服を纏うなど、正気の沙汰ではない。前髪が長く、表情を隠している、長身の男だ。
 ふと、男と目があった。もちろん会釈なんてするはずもない。男はしばらくそのまま硬直した後、不意に身を翻した。後方の車両に向けて足早に人を縫って歩き出す男を見た瞬間、私の中に柄にもない行動力と好奇心が湧いてくる。
 非日常が目の前に転がっている気がしたのだ。追いかけない理由がなかった。
 すっくと立ち上がり、早歩きで男の後を追いかける。人にぶつかりそうになるたび会釈と目礼でやり過ごし、車両を通り抜けていく。私が乗っていたのは六両編成の前から三つ目。彼は後方の車両に向けて逃げ出した。追い詰めるのは時間の問題の筈だった。
 後ろから二両目で彼の姿を見失ったが、あの真っ白なコートを早々にどうにかできる筈もない。がら空きの車両を大股に横切り、私は最後のドアを力を込めて開けた。
 結論から言うと、彼はいなかった。
 窓から夏の夜風が吹き込んでいる。一つだけ大きく開いた窓だけがあり、どうしてか、その車両だけは無人だった。白いコートの影などどこにもなく、私はしばらく車両の入り口で立ち尽くしていた。

 釈然としない思いを抱えながら家路を歩く。あの後、窓の外を見ても、やはりそこには誰もおらず、闇に染まった町並みが流れていくだけだった。
 繰り返すが、その頃の私はリアリストだった。幽霊の話を聞いて怖がるクラスメートたちが理解できなかったし、レクリエーションの肝試しの時には相棒の男子の方が震えているという有様で、鉄の女だのと呼ばれた事もあった。
 しかし、自分の目ではっきりと見たものが煙のように消え失せる光景を目にするとやはりゾッとするものを感じる。見逃す筈がないあの派手な白いコート姿。ゆらゆらと裾を揺らし、表情を見せないまま車両の奥に向かって、忽然と消える影。
「……バカみたい」
 溜息をついた。いつもなら単語帳片手に歩くのに、その日はそれさえ忘れていた。幻覚を見るほど疲れてはいないはずだけれど、もしかしたら日頃の疲れが溜まっているのかもしれない。
 そう、こんな真夏に真っ白なコートを着た男がいるはずがない。コートを脱いで何食わぬ顔でどこかに隠れたんだろう。そうでなければ私の見間違いか。
 いずれにせよ、今日は軽く予習と復習を済ませて寝るべきだと思った。家にたどり着き、ポケットから鍵を取り出して差し込み、半回転。錠がかちゃりと上がる。
 ドアノブに手を触れようとしたその瞬間、まったく突然に、女の悲鳴が響き渡った。
 母の声だ。家の内側からだと気付いた瞬間、反射的にドアノブを回して家の中へと駆け込んだ。長く尾を引く悲鳴はリビングから聞こえてくる。フローリングの床を蹴り、私はカバンを手放して、リビングのドアを引き開けた。
「お母さん?!」
 返事はなく――室内は惨状だった。
 父が普段から小棚の上に自慢げに飾っていた若き日の栄光――サッカーの全国大会のトロフィーだとか、盾だとか、そういったものが残らず粉々になって散乱していて、砕けた栄光の真ん中で当の父が倒れていた。頭から血を流している。
 キッチンに程近い側では、母が空中浮遊していた。手品のようだ。一瞬、その程度の感想しか抱けなかった。母の足は地面から二十センチほど浮いている。苦しげにもがくが、高度が下がる気配は見られない。
 一瞬、思考停止に追いやられる。掠れていく母の悲鳴で我を取り戻すまで、たっぷり数秒はかかった。母はまだ空中にいる。顔色がどんどん紫色に近くなっていく。もがく足も動きを弱め始めていた。焦りが背筋を這い登る。
 何とかしなければ、と考えたとき、ふと、母の首元が奇妙に歪んでいる事に気が付いた。まるで、魚眼レンズを通して見るような、異様な歪みだ。その歪みを辿って横へ視線をずらすと、歪みは一続きとなって人間大の『何か』を形作っているように見えた。人型で、体長は一八二センチほど。そこに何か、危険なものが『いる』ことだけがわかる。それがいる部分だけ、向こう側の景色が歪んで見えるのだ。
 こんな現実を見てしまっては、もう理屈は意味を成さなかった。
「離……せっ!」
 私はリアリストであることを放棄しながら、手近な棒切れ――父のゴルフクラブを握って、その歪みに駆け寄った。間髪入れず振り下ろす。とにかく、この闖入者を追い出さなければならないと言う思いが先に立っていた。
 しかし、小ぶりなゴルフクラブ――パターは空を切った。勢い余ったパターがフローリングをへこませる。身体が泳いだ瞬間、私の胸を強い衝撃が襲った。息が止まる。
 色々なものをなぎ倒しながら、大きな音を立てて私は部屋の壁に叩きつけられた。痛みがこみ上げてくる。言葉にならない。咳をするので精一杯だった。涙が滲む目を『何か』が立っていた位置に向けると、母はすでに地面に倒れてぐったりとしており、代わりに伺うように、『何か』が私を見ていた。
 肉食獣に睨まれた草食動物のようなものだ。これから殺されることが、本能的にわかってしまう。
 なるほど、あの予言はあながち嘘ではなかったのかもしれない。理解不能な『恐怖の大王』は確かにここに来た。私のこの退屈でつまらない世界を、壊しにやってきた。
『歪み』が腕を振り上げる。私は咄嗟に転がって左に避けた。これから生きていく世界を見られずに死にたくはなかった。振り下ろされた腕に引っかかったのか、制服の背中側から布地の裂ける嫌な音が響いた。
 ――死にたくない!
『歪み』の巨腕が私の体を横殴りに張り飛ばす。フローリングの上を転がり滑り、テーブルの脚をへし折りながら、私の身体は止まった。
 もはや首を動かす気力さえなかった。視界に、『歪み』の巨体が映る。音もなく歩み寄ってくるそれが、何より確かな死の具現に見えた。
 涙がほほをつたう。
 こんなところで、こんな短い時間で、つまらないままに人生が終わるのか。そう考えると、痛みと虚しさで泣き叫びたい気分になった。
『歪み』が腕を振り上げ、私に向けて振り下ろそうとするその瞬間まで、私はずっと空ろな気持ちのままそれを見上げていた。歪んだ電灯の光が、視界を滲ませる――

 轟音と共に、視界が白く染まった。

 真っ白だった。寒気がするほどに白くて、一点でも汚れたら途方もなく目立ってしまいそうな純白だった。雪よりも白い白色が目の前にある。思わず、私は目を瞬いた。瞼は動く。背中を支える腕の感触。
 恐る恐る、純白の正体を探るように目線を上げると、そこには、帰りの車両で見た、あの白いコートの男の顔があった。
 そこで気付く。私は、あの『歪み』の一撃から助けられたのだ。幽霊だと、幻覚だと、そう思っていた男に。

「二人分の悪意がシンクロして固まるなんて、実はこの人たち、すごく波長が合ってるんじゃないのかな……もうちょっと違う方向で協調すればよかったのに」
 男は呆れたような口調で言うと、『歪み』の方に目を向けた。胸の中から見上げると、彼の目がはっきりと見える。どこか優しげだけれど、決然としたものを持った、強い意思の光を宿した瞳。それが、私を見下ろした。
 ――理解不能の非常事態だったっていうのに、私は不覚にも、心臓を高鳴らせた。
「大丈夫? 俺が見えてるよね。君」
「……え? あの、……私」
「いいんだ。説明はするから、少しだけ待っててくれないか」
 唐突な言葉にどもる私に人懐こい笑みを浮かべると、純白のコートを纏った青年は私を横たえて、ゆっくりと立ち上がった。
 彼の眼前二メートルの位置で、『歪み』が、砕いたフローリングから拳を引きぬく。あれが当たっていたらとぞっとする私をよそに、青年は気負いもせずにコートのポケットに手を入れた。
「誰も死んでいないから、それが救いだけれどね。夫婦喧嘩に娘を巻き込むのは、感心しないな」
 ポケットから引き抜いた彼の手には、ごつい拳銃が握られていた。それと同時に、『歪み』が腕を振り上げ、青年に向けて襲い掛かる。
 しかし青年は銃口を跳ね上げて、動揺した様子もなくトリガーを引いた。ガラスをぶつけ合わせるような高音が響き、振り上げられた『歪み』の腕が、銃から溢れた光に貫かれて吹き飛んだ。地面に腕が落ちる前にもう三発。『歪み』の両膝の関節が砕け、態勢を崩して前のめりに倒れ込む。
 青年は地面に臥すことを許さないかのように『歪み』の胴体に回し蹴りを打ち込み、もんどりうって後ろに倒れる『歪み』に向けて、ゴミを処理するような気軽さで更に数発の弾丸を撃ち込んだ。
 ぶるぶると『歪み』の身体が震え、やがて空気に還るかのように、あっさりとそのバケモノは霧散した。
 一言で言うなら、圧倒的だった。バケモノは抵抗らしい抵抗さえ出来ずに、あっさりと消滅した。彼は溜息を一つもらすと、ぼやくように口を開く。
「……やれやれ。Nightsおれたちは夫婦喧嘩の仲裁をするためにいるんじゃないのにさ」
 ポケットに元通りに拳銃をしまうと、白いコートの裾をひらりと揺らしながら、青年は私を振り返った。
「さて、もう安心だよ、盾脇さ……」
 一仕事終えた風情の青年は私を見るなり、斜め上に視線をそらした。あまりに唐突できょとんとしてしまう。
「……え?」
「いや、その、すまない! 見てないから! 天地身命に誓って!」
 その慌てぶりときたら、向きを間違えて山手線に乗り込んだサラリーマンもかくやといったところだった。不思議に思いつつ、やや顎を引いて自分の格好を見下ろしてみる。
 ……ちょうどそのタイミングで、破れた制服が、はらりと落ちた。

 悲鳴を上げる私をどうにかして落ち着かせた、その『白いコートの青年』こそが、今はもういない、芝崎十夜なのである。
 彼は、私が『歪み』と名付けていたものは『昏闇』と呼ばれていること、自分が何をしているかということ、そして私には同じ仕事をする素質があること、それを裏付けるためにしばらく張り付いて調査していたことなどを(謝罪つきで)丁寧に教えてくれた。
 私には、昏闇や彼ら――猟人を視認できるだけの霊的な素質があったらしい。年齢も若く、柔軟に現実を受け入れられると判断されたそうだ。皮肉なものだ。オカルトになんて、縁がなかったはずなのに。
「忘れるのも、入るのも自由だ。できれば君みたいな女の子には、平和な道を取ってほしいけれどね」
 どこか歯切れ悪く、十夜さんは言う。
 それに反骨心を抱いた。不覚にも一瞬見とれてしまった、あの真摯な瞳で、私を肯定してほしかった。彼とまた会いたい、もっと知りたい。退屈な日常からの出口が、すぐそばに見えた気がした。
「一週間、時間をあげる。その時が着たら、俺はまた君に会いに来るよ。だから、それまでよく考えて、悔いのない選択をしてほしい」
 タオルを身体に巻きつけて俯く私を、彼はどんな心境で眺めていたのだろう。実を言うなら、あのときにはもう決まっていたのだ。

 目に眩しいほどに白い外套と、銃から溢れ出る光の筋。――あの輝きが、焼きついて離れない。
 眩しくて眩しくて寒気がするくらいの、純白を忘れない。

 私は、ナイツに入る事を選んだ。
 今でも後悔はしていない。私は貴重な友人を何人も見つけたし、ナイツの一員として積んだ経験は手にしがたい大切なものだとも思っている。悲しみに涙を零しても、思いでは色褪せずに胸の中に残るから。
 ――十夜さん、聞こえていますか?
 二〇〇五年、十二月十二日。
 私は今でも、あなたのことを想っています。
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