Nights.

| next | index

  Stay in my heart  

 駆け抜けるような十六ビートを刻む、ギターの旋律が響き渡る。曲の合間のギターソロは素人らしさが残るものの随分と達者で、輝いてステージの上をうねるライトがそれに彩りを添えた。ハイタムとロータムの丸みを帯びた音が、単音では想像がつかないほど激しく攻撃的に鳴り響き、閉じたハイハットでビートを刻む。
 汗とコロンと真新しいペンキの匂いがあたりを席巻している。活気の匂いだ。熱気が立ち込めるフロアはむせ返るほど。スピーカーの前にいては視界がゆがむほどの大音量。
 ステージの前は熱狂的な盛り上がりを見せていた。オーディエンスはペンライトの代わりに携帯電話のフリップを開き、薄暗いフロアの中で腕を突き上げる。観客の視線を一身に浴び、ボーカルがブルーの髪を振り乱す。

 空の果てへ響く咆哮
 雲を裂き現れる紫電
 幻想的な光景
 あの日の空を今も見上げている
 空は繋がっているはずなのに
 あいつは
 いつもの顔を見せてはくれない


 ハスキーな声を響かせるのは若い女。タイトな黒のレザーパンツと同色のジャケットに身を包み、その場のすべてを震わすような大音声で、少しも掠れずに歌い上げる。ギターがドラムに目配せ、それを察したようにドラムの男がタッチを繊細に変えてトーンダウンする。
 ギターの旋律が止まり、ベースが低音をリード。客も引かれるように歓声を静め、ステージを見上げる。マイクを両手で包むように握り締めたボーカルが、呼吸をはさむ。

 あの頃と同じには戻らない
 私は遠くへ来てしまった
 あの頃と同じには戻れない
 あの日の空を今も見上げているのに


 一呼吸、ボーカルが息を吸って溜めた瞬間、ギターが右手を振り上げ、ドラムがスティックを振りかぶり、ベースが唇の端を持ち上げ、――シャウト!
 それこそ遠雷のように遠く響く声、叫び。声がやがてゆっくりと消えていき、最後にボーカルが独特のイントネーションで「ありがとう」とマイクへ囁く。我に返ったように観客が沸き、拍手や歓声などが飛び交う中で、ブラック・レザーのボーカルは背中を向けた。
 ステージのライトが落ちる。振り返る間際、彼女が笑みを唇に上らせてウィンクした事にどれほどの観客が気づいただろう。さして広くないフロアの一番後ろで、芝崎光莉はグラスを傾けながら仄かに笑った。ファー付きの白いコートの下にカーディガンとプリーツスカート、長めのブーツといった私服姿である。
 巳河市の片隅にあるライブハウスだった。仕事帰りに寄ってくれと親友に誘われ、呼ばれるままに夕方の街を歩き、辿りついたのが一時間前。フロアには今だ灯りは点らず、次のバンドが用意をする間の、僅かな沈黙が続いている。
 薄暗がりの中で光莉がノンアルコールのドリンクを飲み終わったとき、置いたグラスの音に誘われるように二人の男が寄ってきた。ムラなく染めた茶色の髪にピアスと長い足、画一的なファッションをした軽薄な若い二人組だった。二人が二人とも同じような格好をしていて、恐らく名乗られてもしばらくはどちらがどちらかを呼び間違えるだろうと光莉は何となく思う。
「キミ、一人? 酒奢ろうか?」
「お前ずるいって、オレが先に見つけたんだって。お嬢さん、どうっすか? オレと一緒にライブ見ない? この後うちのバンドが演るんだけどさ、前のほうを空けさせるから――」
「はいはいはい、そこまでー」
 矢継ぎ早に繰り出される言葉を、よく通るハスキーボイスが遮った。男たちは驚いた様子で振り返る。光莉は声の主を認めて、男たちには見せなかった淡い笑みを浮かべた。
「お疲れ様、神海」
「遅うなってすまんな、堪忍や。打ち上げ断るのとかエライ手間やってん」
 悪戯っぽく瞳を光らせて、手をぴしゃんと音を立てて合わせるその女性こそ、先程フロアを沸かせたバンド『Zephyr』のサブリーダーにしてボーカル、長谷部神海であった。長く青いポニーテールがゆらゆら揺れて、髪留めが僅かな光源を照り返して光る。先ほどまでとは違い、全身真っ黒のツナギを身に纏っていた。彼女が黒い革の衣服を好むことを、光莉は知っている。
「長谷部、てめっ」
「あー、モテない男の僻みは聞ききとおない、お家帰って鏡見るところからやり直しや。そんな格好やからいつまでも仰山おるうちの一人なんやで、島野、上田」
 ひらひらと手を振り、神海は光莉と男たちの間に割って入る。光莉の肩に手を回す神海に、男たちは毒気を抜かれたような表情をした。互いに名前を知っている様子から、顔馴染みなのだろうと推測が付く。そして、彼らが神海に頭が上がらないであろうことも。
「このとーり、この子はウチの彼女やからいくら誘っても無駄や。残念やったな。片っ端から女あさりしとると、そのうち後ろから刺されるで」
「余計な世話だよ、バカ」
 島野と呼ばれていた方が肩を竦めて溜息をつく。次いで、上田が複雑そうな顔でぼそりと呟いた。
「女はみんなあんたみたいなのばっかりじゃねぇって。ちょっと強気にナンパしたら膝蹴りが飛んでくるような女ばっかじゃねぇって。少なくともオレはそう信じてるって」
「夢見がちやね。そんなんやから未だに童て――」
「うるせえええええ!! それ以上言うなこの野郎!!」
 滂沱のごとく心の涙を流していそうな上田が膝をつく。
「言葉の刃って知ってるか、長谷部」
「知っとるよ。せやから有効活用しとるんやないの。女は怖い言うんを教育したってるだけや。ヒザ二発じゃ足りなかったみたいやし、後は言うて聞かせるくらいしか療法が思いつかん」
 しごく当然といわんばかりに神海が言ってのけるのに、島野が処置無しとばかりに左右に首を振る。光莉はあっけに取られてやり取りを静観するしかない。
「処女はもてはやされてオレたちが珍重されないのはおかしいと思うんだよオレは!」
「攻め込まれたことない城と城に攻め込んだことない兵士、どっちに価値があるかいう話やね」
「ムギィィィーーー!!」
 とどめである。
 がっくりとうなだれた上田の肩を島野が叩いた。
「行こうぜ、な、次出番だろ」
「うるせぇよ……どうせドラムはモテねぇんだよ……そんなもんなんだよ……」
「気ィ落とすなや、そのうち物好きなファンの子が来るよってに」
「うるせぇぇぇぇ! もうどこへなりと消えろ、消えちまえー!!」
 神海は肩を竦めてひらひらと手を振ると、光莉の肩から腕を離し、左手を取って促すように引いた。
「ほな、いこか」
「……いいの? 彼」
「ええんよ。いつものことや」
 ぶつぶつと尚も呪詛のような言葉を呟き続ける上田にひっそりと同情しながら、光莉は歩き出す神海に引かれるように、会釈を残してゆっくりと歩き出した。打ちひしがれた上田に同情の言葉を掛ければ、なおさら傷つけるような気がして迂闊に口を開けない。
 さほど広くないフロアを抜けて、二人は外に出た。空はよく晴れて、グラデーションがかった紫が西日と天空の狭間に広がっていた。夕暮れの匂いのする風に少し身を竦めながら、神海は光莉の手を引いて駐輪場に回る。紫色の大排気量二輪――ドゥカティが止めてあるところまで歩くと、手が離れた。
「毎年のことやけど、すまんな、みつりん」
「……いいえ」
 光莉は首を横に振り、淡い微笑みを見せた。彼女は、なぜこの日、同じ場所で神海が歌を歌うのか知っている。
 救われたように神海も笑顔を見せ、バイクにキーを差し込み、駐輪場から引っ張り出して押しがけする。エンジンの鼓動が猛り始めるのを確認してから、引っ掛けていたメットを片方、光莉に放る。
 滅多に被らないヘルメットを光莉が不器用に被り終わる頃、すでに神海はバイザー付きのヘルメットを身に着け、後れ毛を首に巻き、シートにまたがっていた。
「ほな、いこか」
「ええ」
 光莉は彼女の後ろに座り、その細い腰に腕を回す。常は乱暴にこのバイクを乗り回す神海が、この日だけは静かにアクセルを吹かす。言葉少なに、二人の女は夜に向かう街の中を走り出した。


 高速道路に乗り、南を目指した。頬に当たる風は凍えてしまうほどに冷たい。もうすぐ、本格的な冬が来る。雪はまだ見ていないけれど、それも時間の問題だろう。矢のように吹き飛んでいく周りの景色が、まるで流れていく時間の象徴に見えて、光莉は神海の背に額を当てた。
 振り返りも、言葉を返しもしないけれど、神海は少しだけバイクのスピードを上げる。僅かなGの変化。日が落ち、ライトが闇を切り取って道を照らし出す。
 高速道路を降り、スピードを少し落として十五分。すっかり暮れた藍色の空が広がる海辺の道で、神海はバイクを海側の路肩に寄せ、転落防止用の石壁の傍に停めた。メットを外し、ハンドルに引っ掛けて、バイクから降りる神海。光莉もそれにならう。
「行ってくるわ」
「うん」
 光莉が頷いたのを確かめてから、神海は近くのコンビニエンスストアに足を向けた。それを確認して、光莉は海へと視線をやる。太股ほどまである石壁の向こう、道路から一段低くなった先に広がる砂浜が道に沿って繋がっていた。その先に広がる海も、記憶のままだ。
 心に残った癒えない傷が、さめない熱が、光莉の中で疼く。

『仕方ないなぁ、盾脇は』
『無愛想な顔、似合わないぞ。もっと笑った方が、きっと、綺麗だ』
『疲れたらさざなみの音を聞くといいんだ。今度、海に行かないか?』
『……長谷部とアリスも誘ってさ』

 目を閉じればあの優しく低い声と、四人で仰いだ星空を思い出せる。目にかかるくらいの前髪の下に光る、温かな瞳を思い出せる。伏せていた顔をそっと上げ、光莉は空を見上げた。
 道も、背後の町並みも、砂浜も海も空も、記憶の中のままここにある。何も変わってはいない。寄せては返す波の音と潮の匂いが、光莉の表情を歪ませた。
 ――うそつき。さざなみの音は、私を苦しめるばっかりだ。
 心の中での恨み言は、誰にも届くことはない。いつか四人で来た砂浜で、もう一度彼らに会える事がないのと、同じように。
 そのとき、不意に背後に、砂を踏みにじる靴音が響く。我に返った光莉が振り向く前に、涼やかな声が夜風に混じった。
「……買うてきたで」
 神海がビニール袋を片手に、光莉の横に肩を並べた。神海は袋からビールと缶チューハイを取り出して、低い石壁の上に一つずつ並べる。続けざまに缶コーラを二本取り出し、片方を光莉へと手渡した。
 手に触れる冷たい缶に、光莉は少しだけ目を細める。
 神海は缶のタブを開ける前に、ビニール袋から最後の一つを取り出した。マルボロ、メンソールライト。封を切り、慣れない手付きで一本取り出して咥えた。空になった袋から手を離した。風にまかれて闇の奥へ消えていく袋を尻目に、ポケットから取り出した銀色の、安物のジッポライターで煙草に火をつける。
 神海は深く吸い込んで、思い切り咳き込んだ。それでも、彼女が咥えた煙草を放すことはない。
 光莉はそっと神海の手から煙草の箱を奪い、缶チューハイの横に寄り添わせるように立てた。吸い手のいない煙草と、飲み手のいない酒。身体を少し折って咳をし続ける神海の背を、光莉は可能な限り優しく、そっと撫でた。
 三年間は、傷が癒えるには短すぎる。忘れるためにも、新しい何かを手に入れるためにも、足りなすぎた。癒えることのない傷はないと誰かが言う。けれど、完全に癒えて後も残さない傷だって、またないと光莉は思う。
 少しずつ燃え尽きていく煙草を、神海は少しだけ肩を震わせながら吸い続ける。
「なんや……にっがいな、ほんまに。こんなん美味いなんて、嘘や。ウチ、師匠の事なら何でも判ってるつもりでいるのに、こればっかりは最後まで、さっぱりやったなぁ」
 神海の目の端に涙が光る。光莉は咳のせいだと思うことにした。そうしなければ、自分まで泣いてしまいそうだった。
 神海が今日この日、十二月十二日に歌うのは、彼らが逝ってしまった日を忘れないためなのだと光莉は解釈している。恐らくそれは間違ってはいないだろう。ライブの日程が重ならなくても、彼女はメンバーを集めて、客が来る来ないに関わらず、あのライブハウスで絶対に歌う。去年も、一昨年も、それは同じだった。
 芝崎十夜と一之瀬アリス。
 かけがえのない友であり、よき先輩であり、そして或いは、恋慕や憧憬の対象であった二人。
 彼らを失ったこの日を、初めて四人で過ごした場所で迎える。それが、二人なりの弔いのやり方だった。
 神海は一歩踏み出し、身軽に石段の上に飛び乗って、腰を下ろした。砂浜側に足を投げ出し、光莉に背を向けたままゆらゆらと遊ばせる。
「なぁ……光莉、イヤやなぁ。忘れられへんねや、十夜さんと師匠の事。ウチ、こうしたって辛いの収まらんって解っとるのに、止められへんねん、ここに来るん」
「……同じよ、神海。私だってそう」
 煙草が燃え尽き、神海の唇にはフィルターだけが残る。咳き込むのを止めた筈なのに、神海の肩はまだ震えていた。
 光莉は俯く神海を、背中から包むように抱いた。顔は見ないで、耳元へ囁く。
「辛いの、わかる」
「……」
「けど、私たちは歩かなきゃいけない。十夜さんとアリスさんがいた十三番分室で、二人と同じくらい、頑張らなくちゃいけない。……私たちが、あの人たちに救われたみたいに、きっと私たちも、誰かを救えるから」
「……ん……」
 鼻に掛かった声で神海は、かすかに頷いた。嗚咽が漏れなかったのは救いだったと光莉は思う。
 ――切ない声を聞いたなら、自分の心にかけた錠は、いとも簡単に崩れ落ちてしまうだろうから。

 溢れそうになる涙の奥にある思い出に、光莉はそっと触れる。あの夜の光を、まだずっと覚えている……。
| next | index
Copyright (c) 2007 TAKA All rights reserved.