Nights.

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  Smile  

 厚木康哉が明らかに邪推九割の笑顔を浮かべて出て行って三分になる。病室の中は静寂の一言に尽きた。ベッドに横たわったままの志縞と、ベッドサイドに設えられたパイプ椅子に脚を揃えて座るユガラ。たった三分、されど三分。志縞にとっては、それは永遠とも言えるほど長いものだった。
「……傷はどう?」
 ためらいがちに口を開くユガラ。か細い声が静寂を一瞬だけ紛らわす。志縞は軽く身体の状態を自己分析すると、無音の時間を嫌って、息急くように言葉を返した。
「問題ない。外面こそ大げさだが、骨は殆ど元に戻った。ここを出るのにはあと一週間も要らないだろう」
 指先が出ているだけになるまでにきつく固められた右腕のギプス、頭の包帯、胸の包帯。鏡を見た自分が驚くほどの大がかりな治療だった。とはいえあの日からもう一週間と半になる。もともと頑健な身体は、傷を追い出すのも早い。
「そう、よかった」
 ホッとしたようにユガラが胸に手を当て、吐息と共に言葉を紡ぐ。続けて何かを言おうとして、彼女は罰が悪そうに眼を伏せる。また居心地の悪い沈黙が戻ってきそうになる。
 志縞は一度に明るみになった事実に確かに混乱していたが、彼の心の中の冷静な部分は戸惑いを残すなと呟いてもいた。彼女の言葉尻から二秒、会話として不自然ではないタイムラグ。志縞は噛み締めるように呟く。
「ナイツに、いたのか。……澄嶋」
 重々しく響いた言葉に、わずかにユガラの肩が揺れる。ユガラはかすかに唇を震わせ、ためらうように嘆息し、やや俯いて口を開いた。
「ええ。私の本当の名前は、ユガラ=ドゥーンソング。澄嶋遊楽は、身分証のために用意した偽名」
 澄んだウィスパーボイスが、二人しかいない病室に響く。
「別に、隠すつもりではなかったの。あなたのいる大学に来たのは、本当に偶然。分室の拠点を極東寄りにする事が決まったから、拠点を移したの。身分証も偽造。あなたがナイツに所属している事を六牟さんに聞いたのは、あなたと出会ってしばらく経ってから」
 彼女の言葉を信じるなら、六牟黒は彼女がナイツにいる事を知っていて志縞に知らせなかったという事になる。一瞬志縞は顔をしかめるが、すぐに表情を改めた。
 ――確かに自分は黒に、『近しいものにナイツのメンバーがいるか』などとは聞かなかった。
 聞かれなければ教えない、しかし求められれば全力で応える、それが六牟黒だ。今更それを責めるつもりは、志縞にはなかった。
 一度言葉を切り、ユガラは俯きがちだった視線を持ち上げ、志縞の目を見つめた。志縞が知る彼女の瞳は黒かったはずなのに、今、彼を見つめるのは落ち着きをたたえたインディゴ・ブルー。
「出会った頃、笹原は他の人と少しだけ違っていた。何気なく研究室にいるときも、ジムでサンドバッグを叩くときにも、いつも、違う何かを見ているような眼をしているように思えたの。……なんとなく、放っておけなかった。だから、傍に近づこうとしてた。あなたの瞳に私が写るくらい近くまで」
 とめどなくあふれる言葉。志縞が返す言葉を捜すのを待たず、ユガラは先ほどまでとは打って変わって饒舌な口調で語る。
「あなたがナイツの一員だと知ったとき、私も正体を明かす事を考えたわ。……けれど、出来なかった。明かされなかった秘密を知ったとき、人と人との関係は大なり小なり変わるものだと思ったから。あなたと何気なく話すのは、楽しかった。だから――」
 ユガラは言葉をそこで止め、口元に自嘲気味の笑みを浮かべて志縞を見つめた。志縞の言葉を待つかのような沈黙。応えるように、彼もまた口を開く。
「教えてくれなかった事を責めているわけじゃない。ただ驚いてる。それだけだ。……別に深刻に考える事じゃないはずだ。助けてもらった礼をしこそすれ、責めるのはお門違いだろう」
 一瞬で割り切れるほど些細な問題ではないが、彼女が萎縮するほどに大きな問題だとも思えない。それが志縞の素直な感想であった。
 ユガラは驚いたように目を見開くと、床のタイル目を横になぞるように視線を滑らせ、しばらく落ち着かなさそうに唇をもごもごと動かした後に、恐る恐る切り出した。
「……怒っていないの?」
「理由が見当たらん。別に追求するような事でもない。そもそも他人に秘してナイツとして活動するのは基本中の基本だろう」
 志縞はしおれたように目にかかる前髪を、左手で掻き上げて撫で付けた。
「怖がりすぎじゃないのか? 悲観的に見ないほうがいい。この世なんて、案外単純に出来ているものさ。澄嶋……いや、ドゥーンソング、と呼んだほうがいいか?」
「え……あ、ううん、あなたの呼びたいように、呼んで」
「なら、そうさせてもらう」
 戸惑い顔のユガラに、志縞は諭すような口調で告げる。
「澄嶋。現状が安穏としていればしているほど、人は変化を嫌う。居心地のいい環境に落ち着きたがるのは本能といっていい。自己保存の欲求に通じるものがある。……だが、すべての変化が必ずしも悪いものだとは限らない」
 何度掻き上げても、固めていない髪は前にぱさりと落ちてくる。そのうち志縞は頑固な前髪をいつもの髪型に戻すのを諦め、左手を投げ出して断言した。
「……恐れるなとは言わない。ただ、今回の事を言うなら、オレはお前が危惧したほうには変わっていないはずだ。きっと、何も」
 言葉を聞いたユガラは、しばらく呆けたように志縞の顔を見つめていたが、すぐに少しだけ顔を赤らめて窓の外に視線を逃がした。その間にも「あの」「ええと」と意味を持たない言葉を唇に上らせる。
 その様子に、言った自分が気恥ずかしくなってしまいそうになりながら、志縞は続ける。
「それよりも、済まなかった」
「え?」
 きょとんとした顔になるユガラに、ほんの僅かな間を空け、志縞は呟く。
「オレは、自分の一撃にそれなりの自信を持っていたが……最後の最後で詰めを誤って、それが過信だったことに気づかされたよ。あと少しでナイツから二人の欠員を出すところだった。……あの危機を救ってくれて、本当に感謝している。ありがとう」
 志縞の脳裏に浮かぶのは、空爆連鎖エアードマインを直撃させた瞬間の事だ。あの瞬間に慢心せずにもう一撃を加えていたなら、自分も康哉も、ここまでの被害は受けなかったかもしれない。加えて言うなら、ユガラも別の場所の救援に向かえたことだろう。
「……そんなこと、ない。笹原はがんばったと思う。霊結等級エーテルゲインVサードUセカンドの二人で真怨と渡り合うなんて、私が聞いた限りでは、他に例がないから」
 訴えるようにユガラが言うのを、志縞は左手を上げて制した。ユガラは言葉を喉に詰まらせて、押し黙る。志縞は上げた左手に視点を絞り、固く拳を握り締めた。
「例がないから無理はないだとか、例があるから大丈夫だとか、そういう話じゃない。大切なのはオレができたかできなかったかだけだよ、澄嶋」
 志縞の決然とした口調に、ユガラは言葉を失ったように黙り込んだ。
「オレがもっと強ければ、あの場を切り抜ける事も出来ただろう。いや、もっと慎重に事に当たれば、あの状況自体を回避できたかもしれない。今となってはすべてがもしもの話だが」
 拳を下ろし、志縞は少しだけ瞑目して、ユガラに視線を戻した。
「お前が、あの竜を倒してくれたんだろう?」
 問いかけに、ユガラは目を瞬き、顎を引く程度に頷く。
「ええ。……正確には、私ともう一人。姉と一緒に」
「姉? 初耳だな」
「ええ。言っていないから。また分室に戻ってくれば、会える。二十番分室が落ち着いたから、応援だった二人と一緒に戻ってきたの。しばらくは私たちも十三番分室にいるわ」
「応援の二人って、リリーナと……長谷部さんか」
 志縞は自分で名を呟いておいて、なんとも言えない渋そうな表情をする。そのまま思考に没頭してしまう前に、彼はふと我に返ったように再び口を開いた。
「それなら話は早いな。……澄嶋」
「……何?」
 やや背筋を伸ばし、こちらを見つめ返すユガラへ向けて、志縞は静かに切り出した。
「オレは、まだ弱い。強くなったつもりでいたが、まだまだだった。もう慢心はない。……あの竜を倒せる実力があると見込んで、頼みたいことがある」
 ユガラは言葉を聞いて、少しだけ考える風にしてから、かすかに首を縦に振った。
「私に出来る事なら」
 小さな声だが、確かな響きを伴う彼女の声。志縞は胸に暖かいものを感じながらも、表情を引き締める。
「オレを鍛えてくれ。手取り足取り教えろなんて言わないさ。一緒に戦わせてくれればいい。……もっと強くなって、いつかはお前たちと同じ場所に立つ。それこそ、誰よりも前で、皆を守れるくらいに」
 迷いない言葉を聞いて、ユガラは僅かに息を呑む。瞠目は一瞬、少しずつ目は細まり、彼女は優しく微笑むと、肯定するように一つ頷いた。パイプ椅子から立ち、ベッドサイドへと一歩距離を詰める。
「澄嶋……?」
 志縞が見上げると、ユガラはそっと右手を差し出し、志縞の左手に重ねた。少しひんやりとした手のひらに、志縞が驚いたように視線をやると、上から優しいウィスパーボイスが降る。
「大丈夫。笹原なら、きっと出来る。強くなれる。そのための手伝いだって、するわ。……だから今は少しだけ休んで。待っているから、分室でも、大学でも」
 ユガラの真っ直ぐな言葉に、今度は志縞が圧される番だった。彼女の顔を見つめるのがなんとなく気恥ずかしくなって、志縞はシーツのしわに視線を落とす。
「……ありがとう」
 彼にしては非常に珍しい蚊の鳴くような声を上げると、志縞ははにかむように笑った。ユガラが応えるようにもう一度頷く。
 どこかくすぐったく暖かい空気。あまり多くの友人を持たない志縞にとって、あまり慣れない雰囲気だった。……だがこれも、嫌いではない。和やかな空気の中で志縞が言葉を紡ごうとした――その刹那。
 全く唐突に病室のドアが開いた。
「うおーす厚木ィー! 刺されたトコの調子はどうだー? 腹筋OK? 夜のお供に困ってると思っていろいろと持ってきてやったぞありがたく思ヴェッ!?」
「うわ、きれいに入った、肘。生きてる? 大地」
「あ、あの、さつきちゃん、やりすぎじゃ」
「いいのよこのバカにはこのくらいでいいのよむしろ死ねばいいのよ」
「て、てめ、香坂、なにしやがブッ」
「人中は痛いんだよな、あーあー、……あれ?」
 そこにいたのは四人の少年少女であった。病室に先陣切って入り込んできた背の高い少年がパンプスで踏みつけられるのを尻目に、人のよさそうな小柄な少年が志縞と視線を合わせた。
「あれあれ。すみません。同室の方ですか? お邪魔しちゃったみたいで」
 彼が愛嬌のある笑みを浮かべると、なにやらすごい勢いで、志縞の左手を覆っていた感触が消えた。見上げればサウナに入ったのかと疑うほどに真っ赤になったユガラの顔がある。
「いや、邪魔だとかそういう事では」
 志縞が横目にユガラの顔を見ながら受け答えを返した瞬間、風が巻き起こった。ユガラは志縞の前髪を揺らすほどの勢いで身を翻すと、そのまま病室から飛び出していってしまった。
「……行っちゃった」
 眼鏡にお下げの少女が、ずり落ちた眼鏡もそのままに呆然とした風に呟く。その言葉に全員が曖昧に頷くことしかできないような、見事な退場の仕方だった。
 志縞は左手で頭を掻くと、ゆっくりと話すのはまた今度にしようと思いながら、一つだけ溜息をついた。
 ……時間はきっと、まだ沢山ある。
 とりあえず今は、容赦なく踏まれている少年を助ける事から始めようと思いながら、志縞はいつもの仏頂面で口を開くのだった。
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