Nights.

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  They said, "Goodbye, love."  

 六牟黒はぼんやりと壁に下がったコルクボードを見上げる。日付と名前が掲示されたそれは、メンバーの予定を管理する為のものだ。
 二十三日に目を滑らせると、康哉の欄に休みを示す青いピンが刺さっているほかは、全員の欄に赤いピンが立っている。
 続いて二十四日に目を移す。しかし青いピンは慎ましく二本増えただけだ。康哉の欄に加えて、ジークとリリーナの欄に青のピンが光る。
 その他の欄は、微動だにせず赤一色である。
 溜息をついてしまうような光景である。それも嘆きと言うよりは呆れの溜息を。
 ──無論、ここぞとばかりに全員に休まれるよりは、こうあった方がいいのはわかっているのだが、不健全な気がしてならないのは気のせいではあるまい。
「世間では赤服の老人が夜空を翔るぞと謳って久しい時分だと思ったのだがね」
 十二月は二十三日、夜のことである。
 誰に言うでもなく呟いてくるりと振り向いた男は、仏頂面の男と、それにもまして仏頂面の女を眺めた。
 静かに茶を嗜んでいた笹原志縞の横に彼女、長谷部神海が突っ込んできて十五分。何とも収まりの悪いことに、この瞬間まで彼らの間には会話がない。
「……笹原はともかく、そちらの不景気な顔の理由を伺いたいな。どうした、長谷部」
「別にィ」
 湯呑みから緑茶をがぶがぶと飲み、おかわり、と一声、カウンターへ叩きつける。
 横にいる志縞が顔をしかめるような所作である。
「べっつっにぃ。なぁぁぁぁんもあらへん。予定見ても分かるやろ?」
 分かりやすい不満の色を滲ませてまくし立てる神海を前に、空の湯呑みと綺麗になった皿を取る。少し前まで、その皿の上には山盛りの煎餅が鎮座していたはずなのだが──黒はその点については考えることを止めた。
「その何もないのが不満で仕方ない、という顔をしているが。何かね、結局男は捕まらなんだか」
 急須に湯を注ぎながら気のない口調で返す。
 その声が突き刺さったかのように、神海は上体を二度揺らして、ゆっくりカウンターに突っ伏した。せやねん、とだるそうな発声一つ。
 組んだ両腕に顔を埋め、くぐもった声を上げる。
「なあ黒ちゃん、言うたってや。ウチのなにが悪いん、ウチの」
「好かれているときは飽きっぽい」
 黒はつぶやきながら急須を傾けた。口を挟まれる前に続ける。
「そのくせさして好かれていないときに限って未練がましい」
 皿の上に煎餅を盛りつける。
「極端から極端に走る、浮き沈みが激しい、自分本位が目立つ、与え合う恋愛に慣れていない。恋愛を自分が悦に入るための手段として捉えている」
 畳みかけるように言ってから、皿と湯呑みを突っ返した。
 皿に山と乗っている煎餅は軒並み割れていたし、湯呑みの中身は出涸らしだったが。
「反論があれば受け付けよう」
 黒の涼しい笑いに、神海はぐったりしたように肩を落とした。
「そないはっきり言わんでもええやん……」
「もっと簡単な一言で済みますよ、黒さん」
 拗ねる神海の横で、志縞が、神海がスツールに座ってから初めて口を利いた。
「男にだらしない、とでも」
 素知らぬ顔で茶を啜る志縞を、神海が横目でじろりと睨んだ。
「言うようになったやん、暫く見ないうちに。ムッツリの癖してよう言うわこの男」
「ムッツリと言われる心当たりがありません。言いがかりは見苦しいですよ」
 取り澄ました口調でやり返す志縞に、神海は蛇の目をして笑った。今彼女が舌を出したなら、舌先は二つに割れているに違いない。
「なんや、今年もみつりんにプレゼント買っとるくせに」
 神海が指さす先、カウンターの上。彼には不似合いな可愛らしい包みがある。
 大きさからして、おそらくは女物のマフラーと手袋のセットだと黒は当たりをつけた。
「去年渡して今年渡さないと言うのは妙な話ではありませんか」
 こともなげに緑茶を啜って志縞が言葉を跳ね返したところで、神海は実に楽しそうに笑った。
「ふうん。まあええけど。──ところで、もう一個は誰に渡すん?」
 げふっ、と腹に拳を食らったような咳が聞こえた。そちらを振り向くと、志縞が露骨なまでに咳込んでいる。
 黒は時折、どういう環境で育てばここまで実直に育つのだろうと感嘆に似た念を覚える。
「なぜそれを、って顔しとんね」
 にやにやと、捕まえた獲物で遊ぶ猫のように笑うと、神海は割れた煎餅を噛み砕きながら出涸らしの茶を啜った。一呼吸で、割れているとはいえ三枚の煎餅が消え失せる。湯呑みの中身はそろそろ湯を沸かさなければと反射的に考えるほどだ。
 そのあまりにもすばらしい飲みっぷりと食べっぷりに、黒はひっそりと手元のメモスタンドに軽いメモを取った。
 ──彼女に出す茶と煎餅の銘柄を再考する必要がある。
 志縞が立ち直るには十秒近くの時間が必要だった。黒は手で弄んでいたペンを置くと、諭すような口調で、肩で息をする男に語りかける。
「笹原、君はもう少しポーカーフェイスを覚えた方がいいな。厚木相手に見せる鉄面皮を、長谷部の前でも保って見せてほしいものだ。出向先の分室での経験が生きていないぞ」
 出向先の分室、というのは、彼がこの間まで出向いていた第二分室のことだ。その話を出した瞬間、志縞の顔が露骨に堅くなる。
「──後生です、もう島流しはご勘弁を」
「なにが島流しやアホか。女の子ばっかりで楽しかったやろ?」
 げんなりした口調を混ぜっ返す神海の言葉。志縞はうんざりした調子でため息をついて、低い声で漏らした。
「地獄でした」
 第二分室、戦姫ディーヴァ=B
 癖物揃いのナイツの中でも変わった分室で、メンバーのほとんどが女性で構成されている。
 そこに出向を命じられたとき、志縞はこの世の終わりのような顔をしていた。
『また可愛い男の子を寄越してよ』とは第二分室の室長の言であるが、志縞本人としては相当なストレスだったことだろう。文字通り女性陣のおもちゃになる彼の顔が思い浮かぶ。
 ──帰ってきたときの康哉への当たりの強さに、そのストレスが原因の一端として絡んでいることは間違いない。
 黒は志縞の胸中を本でも読むように理解できたが、神海はどうやらページを読み飛ばしたらしい。志縞の仏頂面を無視して、滑るように関西弁が弾む。
「天国やろが。第二分室は綺麗所の溜まり場やで。クリスマスプレゼントも案外、あっこの分室の娘になんと違う?」
「断固違います」
 重い声で即答すると、志縞は横目で神海を睨んだ。そうしたのも一瞬、ぐいと体の角度を変え、彼女へと向き直る。こういうときは師弟関係そっちのけで、志縞は自分の言いたいことを言う。
 ただ一つ、黒にも救えないことがあるとするのなら──
「今年『も』相手がいないのはわかりました。しかしそのストレスの捌け口にオレを使うのは止めてもらえませんか、長谷部さん」
 ──彼が余りに率直で端的な物言いをすることだろう。歯に着せる衣を仕立ててやりたいほどに。
 蛇の目がきりり、と音の立つほどに絞られた。黒は音もなく、語る体勢になった志縞の前から煎餅の皿と湯呑みを取り上げた。
 相手の表情が見えていないように志縞は指を立てた。
「そういう根性でいていいことがあった試しがありますか。去年の今頃もそうです、執拗にプレゼントの中身を問うこと三時間。中身が聞きたいのなら芝崎さんに聞けばすぐにわかるでしょうに、オレの口から言わせなければ気が済まないとばかりに絡む。あのときも確か、過剰にナーバスになって男漁りをしていた前後だったと思いますが、オレの記憶する限り釣果はゼロ。長谷部さん、貴女はもうすこし喋り方を考えた方がいいんじゃあないですか。何にでも首を突っ込みたがるのは結構ですが、それを抑えるべきところ世の中往々にしてあるでしょう。それを抑えなかったのが前回の失恋のげんい」
「シャらァっ!!」
 核心に触れた志縞の言葉を斬り裂かんばかりに繰り出されたのは鋭利な拳であった。無造作にぶらぶら振っていた左手が弾けるように凶器に変わるその瞬間を黒は間近で見る。
 志縞が側頭部に拳を食らって机に突っ伏す。樫の木のカウンターが鈍い音を立てた。額をも強かに打ったらしい。
「ウチが振られたんとちゃう。ウチが振ったんや」
 ゆーらり、ゆらり、とフックのように曲げた左腕を揺らしながら嘯く神海の前で、拳の揺れるリズムに乗ったような緩慢さで志縞が体を起こした。
「……てっきりオレはもう少し、言葉のクッションなりなんなりが挟まるかと思ったんですが」
「残念やね。さっき売り切れたとこやってん」
 かたやヒットマン・スタイルで次に繰り出す一撃の機会を伺いつつ笑う神海、かたや仏頂面に磨きの掛かる志縞。
 黒はカウンターの内側に煎餅の皿を置き直し、両者の顔を眺めた。
 ここぞとばかりにストレス解消を図っているのが見え見えの神海の笑顔とは対照的に、志縞は不機嫌そうな表情を解かないままだ。しかして、怒り心頭、と言うわけではないのは一目見ればわかる。
 大方のところで鈍い男だが、本当に大事なところを外すことはない。そういった部分で、黒は志縞を信頼している。真っ直ぐで不器用で、それでも実直なこの青年のことが、黒は嫌いではない。
「そのまま睨み合っているだけなら構わないが、長谷部、君、手を出さずにいる自信があるかね?」
「アホ言うな。ヒットマンスタイルからフリッカーが出んで何が出るねん。ほら志縞、こっち来や。お姉さんと語ろ、拳で」
 笑顔のまま噛みつくように言うと、神海は椅子を離れて床の上で軽いステップを踏んで見せた。
 だろうな、と肩を竦め、黒はぱちんと指を鳴らす。
 次の瞬間、すこん、と軽い音がして、神海の姿が床に沈み込んだ。
 彼女の顔が見えなくなるまでコンマ五秒である。今更のような悲鳴が、突然に開いた床の穴の奥から呪詛のように這い上ってきた。
 その光景に対して理解が追いつくまで暫くかかったのかもしれない。五秒ほどして志縞が重い口を開いた。
「……やりすぎでは」
「下手に気を遣わない方がいいこともある。君はいつも通りでいればいい、下手なことを考えると彼女はすぐに悟るからな。難しい娘だ」
 気遣わしげな志縞の声をさらりと受け流すと、黒は煙草を取り出してカウンターを出た。
「負担をかけて悪いが、後を追ってやってくれるか。どうせ打ち合うのなら、俺が用意した場所で存分にやった方が、長谷部の気も晴れるだろうしな。──今の彼女に必要なのは、愚痴を都合よく聞いてくれる人形ではない」
 緩めた口元に煙草をくわえ、指先で触れて火をつける。手品じみた所作に動揺してもいない様子で、志縞は軽く首を傾げた。言葉の続きを促すように。
「彼女に必要なのは、手向かって口答えをする愛弟子だよ、笹原。君が身につけた実力を彼女に見せてやるといい。隠すことなく、すべて。去年の君では早すぎたが、今年の君なら勝負にもなろう」
 暫くの沈黙。
 静寂に区切りを付けるような溜息の後、志縞は手に黒い手袋をはめた。
 それとほぼ同時に、彼を取り巻く空気が空色に凝り固まり、外套の形を成す。シンプルな単色の外套を纏い、志縞は穴に向き直った。
「──言いたいことが山程ありますが、後で愚痴聞きくらいはお願いしても構いませんか」
「暴れないのなら幾らでも付き合おう」
 軽く返した声に、含むような低い笑い声がぶつかる。
「難儀な仕事です。いつになったら後任ができるやら」
「後任が早晩逃げ出して、君が引っ張り出されるのが見えるようだよ」
 でしょうね、と軽い返事。
 志縞は諦めたような、しかし軽い笑みを浮かべると、ひょいと床の穴に身を躍らせた。
 幾度か縦穴の壁面を蹴る音が響き、それも少しずつ遠ざかっていく。
 音が完全に消えたのを確認して、軽く指を鳴らした。床の穴が嘘のように消えて、元の板張りの質感を取り戻す。
「……さて」
 黒は床の穴が消えたのを目視確認したのち、部屋の隅のほうに視線をやった。心なしか、しつらえられたドアの向こうからぎくりとした気配が伝わってくるような気がする。
 少し前からそのドアの向こうにある気配へ、黒は穏やかに語りかけた。
「出てきてはどうかね。もう笹原は行ったよ」
 勧める声から、三秒の沈黙。ドアノブが音を立てて回って、遠慮がちに扉が開いた。
 おずおずと進み出るのは、紫水晶の瞳をした女性だ。裾近くに嫌味にならない程度に花柄の入ったスカートワンピースに、クリーム色の薄いカーディガンを羽織っている。浅黒い肌とバレッタでアップにした髪は、エキゾチックな趣の魅力を醸し出していた。本人に言ったら、真っ赤な顔で否定されたのだが。
「おはよう、ユガラ」
 ユガラと呼ばれた女性は、目線を下げて軽く目礼し、部屋の中に進み入った。
 この女性こそ、第三十九番分室「矛盾」唯二のメンバーのうちの一人。壊し屋デストロイヤー≠アとユガラ=ドゥーンソングである。
 年齢二十二歳、笹原志縞と同じ大学に身分を偽って在籍しており、巳河市の片隅に姉と二人で居を構えている。偽名は「澄島遊楽」。周囲の気温と湿度を自在にコントロールし、無数の氷を生み出して敵を圧殺する『重殺氷柱コールドフラクタル』の使い手である――
 黒が知っている彼女のプロフィールは、おおよそ以上のようなところだった。
「おはよう、黒さん」
 遠慮がちに喋る彼女の声は、姉とは対照的に落ち着いていて小さい。その姉の姿が見えず、黒は軽く首を傾げた。
「サルファは一緒ではないのかね?」
「……今は学校のクリスマス会に。もう間もなく来ると思う」
 クリスマス会、という言葉に黒は思わず肩を竦めて笑ってしまった。
 彼女の姉、サルファ=ドゥーンソングは、ある特殊な事情のために肉体的な成長が停止している。潜伏先は中学校になっていたはずだ。クリスマス会があると言うのにも、納得が行く。
「そこまでなりきることはない、と思うのだけど」
 嘆息するユガラに、黒は人差し指を立てて答えた。
「悪いことではないさ。我々はともすれば、昏闇を狩ることだけを目的に生きがちだからな。本来あるべきはずの様々な生活の形を忘れず、楽しむのは悪いことではないよ、むしろ健全だ。――君もそうだろう、ユガラ?」
 黒が軽く言葉で突くと、ユガラは困ったような表情をした。カウンター席に腰を落ち着けながら、彼女の視線は志縞が置いていった包みに向く。
「そのプレゼントの行き先が気になるかね」
 彼女はぴたりと動きを止めて逡巡した。黒が穏やかに笑いかけると、諦めたように息をつく。
「……分かっていて聞くのは、意地悪」
 刺さるほど強くはない、咎める目をして頬を膨らます仕草。すまない、と黒は軽く笑った。
「それは芝崎に宛てたものだろう。長谷部が揶揄しても動じなかったからな」
「……そう」
 眉尻を下げて作る表情は、『残念』という単語を固めて張り付けたような顔だった。
 分かりやすい落胆ぶりは、黒から見れば若く、青い。擦り切れているよりは好ましいが。
 助け船を出すように黒は切り出した。
「しかし、もう一つが誰宛かは分からんぞ。それだけは最後まで喋らないままだったからな」
「もう一つ?」
 上昇調で問うと、ユガラは目を瞬き、一拍遅れてカウンターに肘を突いた。軽く身を乗り出す。
「聞こえていなかったかね、ドアの向こうまでは」
「……私に聞こえたのは、神海の悲鳴から」
「それは面白い場面を見逃したな。下手なバラエティよりはよほど笑えたぞ、あの絵面は」
 のどを鳴らすように笑っていると、ユガラは小さく嘆息して、髪留めの位置を直すように手をやった。
「あまり神海を虐めては駄目、黒さん。──それと、話、逸れてる」
「ああ──済まない、『もう一つ』の話だったな」
 虐め云々の話には意図的に返答を控え、黒は先に話を進めた。
「長谷部の話によれば、今年笹原は二つのプレゼントを買っているようだった。長谷部がわざわざ話題に挙げるほど、きちんと選んでいたようだよ。衝かれた当人もかなりの動揺を見せていた。彼はどうも想定外の事態に弱いきらいがあるな。いずれ克服させたいものだが――」
 語る途中で、黒は、ユガラの表情の変化を見て、息を漏らすように笑った。
 先ほどまでの消沈した顔から一転して、まだ希望はあると自分を鼓舞するような顔になっている。現金と笑い飛ばすには健気過ぎて、黒はひょいとポットを持ち上げた。
「さて、誰に宛てたものかは明日にでも判ることだ。哨戒に出るまで暫く、茶でも楽しまんかね」
 うん、と頷く声にはまだ不安の影があったが、それでもカウンターのプレゼントの行き先を知ったときよりは随分と弾んでいた。
 黒はその声が、明日の夕刻にはもっと弾むであろうと確信してやまない。
 常々信じている通り、あの朴念仁は、一番大事なところは、いつもきちんと押さえているのである。
「……さて……」
 志縞とユガラについては心配は要るまい。神海の世話まで任せてしまったのはオーバーワークかもしれないが、彼ならばやってやれないことはないだろう。ジークとリリーナはこの間の大喧嘩以来、すっかり大人しく仲がいい。……まあ、昨日の今日で怒鳴り合ってもらっても困るのだが。光莉はいつもどおり、サルファも学校で上手くやっているようだ。
 となれば黒の老婆心の向かう先は唯一である。
「熱血少年の動向が気になるな」
「?」
 首を傾げるユガラになんでもない、と軽く手を振ってみせ、茶葉を量り始めた。
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