Nights.

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  They said, "Goodbye, love"  

 デートという言葉の意味を、おれは昨日一日かけて思い知った。デートというのは有史以来男女間で流行し続けてきた伝統的な競歩の一種で、終わった後男は立つ気力もなくなっているという恐るべきスポーツなのだ。
 広辞苑にも追加で書くべきだ。いっそ書き換えてもいい。
 ヘトヘトになって家にたどり着き、夕食もそこそこに切り上げてベッドに倒れ込んで目を閉じた。
 これで安らげると思っていれば、夢の中でまで香坂に追い回され、ベッドから落ちるという史上最悪な目覚めを味わう羽目になった。
 ──おかげで緊張する暇もなかった、と言えばそうなのだが。
 昼前のクリスマスツリーの下はカップルでごった返している。たまに一人で立っている連中も、すぐにやってくる待ち人と、睦まじく笑いながらどこかへと歩み去っていく。
 みんな幸せそうに笑っていた。街の空気は浮き立つように弾んでいて、どこからともなく聞こえてくるジングルベルがそれに拍車をかけている。
「あれ、康哉?」
 後ろから名前を呼ばわる声に振り向くと、雑踏から進み出る見慣れた顔があった。
「字坂」
 よう、と軽く手を挙げてからちょっと後悔した。
 振り向いた先にいたのは字坂信二で、見慣れた顔はいっそホッとするくらいのものだったのだが、その腕を取っている女には見覚えがない。
「信二、知り合い?」
「ん、友達。ごめんね美奈さん、ちょっと待って」
 問う女に軽い声で答えると、右腕を女の腕と絡めたまま、ミスター年上殺しはいつもと全く変わりなく笑った。
「どうしたのさ、こんな日にめかし込んで駅前とか、デートみたいじゃないか」
「──んん、まあ、そんなとこかな」
 めかし込んで、と言われれば確かに今日は格好に気を遣っている。じゃらついたファスナーやポケットが山ほどついたカーゴパンツにダークブラウンのレザージャケット、インナーは軽めの白いシャツ。香坂の見立てとおれの主張の折衷案だが、無難な感じにまとまっているとは思う。少なくともメーカー不明のジーンズと安いパーカーのコンビネーションよりはマシなはずだ。
「否定しないわけね。香坂さんと?」
「おれとあいつをくっつけたがるのはやめてくれ。別口だよ、今日は」
「なあんだ。僕と大地に『呪われろ』とか言っといて、ちゃんとした相手がいるんじゃないか。一応聞くけど女の子だよね?」
「こんな日に男と二人でうろつきたくねえよ。連れ立って行くんならともかくさ」
 そこまで声を返して、置いてけぼりにしてしまっている女の方をちらっと見る。
 何度改めて見ても、初めて見る顔だった。
「おまえこそ、綺麗な女性ヒト連れてるじゃんか。こんなとこで油売ってていいのかよ?」
 新しいヒト、と言うのを控えてやったのは良心だと思っていただきたい。半月前まで、確かこいつの隣には巳河東高ウチの上級生がいたはずだ。
「康哉の待ち人に興味があるから。ね、美奈さん、もうちょっと待ってくれないかな」
 お願い、といっそストレートなくらいの媚びを見せながら笑う字坂。
「別にいいわよ。君、なんて名前?」
 砕けた口調と言うべきか、不躾と言うべきか。美奈と呼ばれた女がおれの方を向いた。
「厚木康哉っす。字坂とはだいぶ前からの腐れ縁」
「腐ってない腐ってない。いい友達だよ」
 字坂が笑ってみせるのを横に置いて、女はふうん、と気のない声を漏らしてためつ眇めつとおれを眺めてくる。
 居心地の悪い思いをしていると、「それなりね」とありがたい品評が下った。涙が出そうだ。
「私は平沢美奈。信二の──まあ、見れば分かるわよね」
 自分が美しいことを疑っていないタイプだ、と思う。所作の一つ一つに自信があり、突き放したような物言いをする。
「まあ、そりゃあ」
 面白くも何ともない相槌を打ちながら、おれは字坂に視線を投げた。
「ちょっと前に遊んでるときに意気投合してさ」
「UFOキャッチャー、マジ上手いんだよね。この子」
 犬でも撫でるように字坂の頭を撫でる平沢さんに、おれはそのときばかりはちょっとした同情を覚えた。
 ──お姉さん、取れないの? 取ってあげようか。
 三文小説にあるような台詞が次から次へと字坂の口から飛び出すところが、容易に想像できる。
 ──平沢さん、あんたもそのときにこいつに捕まって持ち上げられてるんだぜ。
「字坂は何でもソツなくこなすからなァ」
 内心思ったことを言わずにおくのは、時々、ひどく神経を使う作業だ。
 どうにかひねりだした返答はこれまた面白味もへったくれもない無難なものになった。
 間を埋めるように、広場の時計に一瞥くれる。時計の針は長短仲良く寄り添って、あと少しで約束の時刻になることを教えてくれた。
「待ち合わせしてるんだろ? 何時?」
 字坂がのんびりした声で話の向きを変えてくれる。ノロケ合いでも始まったらどうしようかと思っていただけにありがたい。
 余計な言葉が挟まる前に声を返した。
「十二時ちょうど」
「その割に康哉、早かったみたいじゃないか。僕らと遊ぶときは遅刻上等なのに」
「そりゃそっちもだろ、メールしたらまだ寝てたとかザラのくせして。……なんつうか、気ィ遣うんだよ」
 気心知れたこいつや大谷に『あとで合流する』と顔文字の一つもないメールを送りつけるのと、蜷川に『本当ごめん、ちょっと遅れそう』と汗だの土下座で謝るアニメ付の絵文字だのをちりばめたメールを送るのとでは、そりゃあ重みが違うってものだ。
「うわー、男女差別だ。僕達にもそのくらい優しくしてくれていいと思うんだけど。たとえば師範と僕らの間を取りなしてくれるとかさ」
「取りなそうにもお前ら練習に来ないだろうが。普段から来てりゃあ何かしら言えるけどよ」
 初めは大谷や字坂の方がおれよりよほど上手かったのに、今となってはおれが一番打ち込んでいるような有様だ。
 余談だが、次の昇段試験の時には二段を受けることになっている。
「そこを何とかするのが康哉の仕事だって大地が言ってた。僕もそう──」
 不意に、変なところで言葉が切れた。
 字坂がぱちぱちと目を瞬き、おれをじっと眺めている。
「あの──厚木君」
 何だよ、と問い返す前に疑問は氷解した。
 後ろからかかる細い声はいつもの通学路で聞き慣れたものだったからだ。
 声の方を振り向いて、いつも通り軽く手を挙げて応じようとした矢先、喉の奥で声が固まってしまった。
「遅れて、ごめんなさい」
 小さな歩幅の足を、おれの少し手前で揃えて止まる。
「……ちょっと驚いた」
 背後で字坂が、それが精一杯という風に呟いた。おれの驚きはちょっとどころじゃないのだが。
 振り返った瞬間に目に入ったのは、見た事のない少女だった。長い髪は真っ直ぐで、冬の風に波打ち、艶めく。上着は大きなボタンが四つあしらわれた、フォックスファー付のウールコート。キャメルカラーのコートの下には、臙脂色のコーデュロイのスカートと、刺繍入りのトップスを合わせている。ブラウンの布地、控えめな白い花の刺繍が襟まわりに映えた。足下を飾るのは明るいブラウンの、踵の高いブーツ。
 自信なさげな立ち姿が目立つが、清純そうな雰囲気が前面に押し出されていて気にならない。大きな目を不安げに揺らし、その少女がこちらを見ている。
 字坂が呟いたように、彼でも振り向くようなルックスの少女だ。大谷なら付け加えて口笛も吹いていたことだろう。
 はしゃいだ口調で字坂が騒ぎ立て──
「康哉康哉、こんな可愛い子どこで引っ掛けたの? すごい気になるんだけドゥオッ」
 奇声を最後に沈黙する。
 その声に振り向いて、向かなきゃよかったとおれはちょっと後悔した。
「行くわよ、信二。邪魔しちゃ悪いでしょ」
 平沢さんがあからさまに不機嫌な顔で、絡めた腕の肘を字坂の脇腹に食い込ませている。般若がいる、とおれは背筋で感じた。
 睨めつけるように現れた少女に一瞥をくれ、最低限の愛想を顔に張り付けて、彼女は言った。
「それじゃ厚木君も楽しんできてね。そっちの子と一緒に」
 肘鉄を食い込まされた字坂は目線をこちらに向けながら、踵を返してずんずん歩き出す彼女に引きずられていく。
 その目が助けを求めるような視線だと気づいたのは、彼らの姿が雑踏の中に埋もれて見えなくなる頃だった。
「あ、あの──お話中でしたか?」
「いや、いいんだ。もう終わったから」
 いろんな意味で。字坂が。
 あいつもあそこで逆鱗に触れなくてもいいと思う。
 ──現れた少女が何の変哲もない普通の娘であれば、字坂の言葉は社交辞令になって宙に溶け消えたはずだ。しかし、現れた少女はあの香坂皐月にも劣らないような容姿をしていた。
 未だに信じられないような気分で、康哉はゆっくりと彼女に向き直る。
「……あいつじゃないけど、おれもちょっと驚いた。蜷川、だよな?」
 念を押すように聞くと、彼女はにっこり笑った。
「確認されなくても、蜷川愛ニナガワ・マナです。いつもと違う服を着たら、私は厚木君に見つけてもらえないんですか?」
 それは寂しいかも、なんて悪戯な口調で付け加える彼女は、いつもと違う雰囲気を纏っていた。
 声も、心なしかいつもよりも明るい。
「悪かったって。……うん、いや、似合いすぎてて、驚いたんだ。ごめん」
 頭を掻きながら、おれは照れくさい台詞を素直に口に出した。
「久しぶり、蜷川。服も髪型も、似合ってる」
 直球の誉め言葉に、蜷川の頬に朱が差した。誤魔化すような照れ笑いをして、彼女は軽く両手を振る。
「ありがとうございます。でも、これは魔法使いさんのお陰だから」
 不意に蜷川の口からこぼれた投げっぱなしの暗喩は、しかしすぐに誰を指しているのかわかった。
 彼女にここまでに合う服を用立てられる、恋の魔法使いなんて、一人しかいない。
 おれ相手には恋愛鬼教官のくせに。
「それでも、着てんのは蜷川だろ。おれはお前を誉めてんの」
 照れくささついでに素直なところを吐露すると、蜷川は少し驚いたような表情をしてから、頬を押さえて微笑んだ。
「……ありがとうございます、厚木君」
「礼言うようなことじゃねえって」
 軽く返しながらデートコースを反芻した。
 まずは最初に軽くウィンドウショッピング、だった気がする。本から服まで、あらゆるものが目白押しのショッピングモールが目の前に広がっている。そのボリュームは昨日にも体験済みだ。相手にとって不足はない。
 押さえておくべきいくつかの店の場所を反芻して、軽く靴を鳴らす。
「よし、それじゃ」
 言いさした瞬間、伸べかけた手が軽い音を立てて取られる。
 驚く間もくれずに、蜷川はにっこりと笑っておれの手を引いた。
「行きましょうか。どこに連れていってくれるんですか、厚木君?」
 彼女は取った手をぎゅっと握って、急かすように踏み出した。おれは手を引かれてつんのめりながら、目の前の光景にちょっとした既視感デジャヴを覚えた。
 その正体を探る前に、蜷川が返事を求めるようにこちらを見返る。
 頭の中で答えを探しながら、おれは口を開いた。
「山ほどあるぜ、アクセとか売ってる店に、可愛い小物置いてるとことか、後は……そうだな、本屋とかも覗いてみようぜ。おれ、マンガとかしか読まないからさ。蜷川のお勧めとか、見てみたい」
 おれが言う一つ一つに、蜷川は笑いながらうなずくと、言葉の切れるタイミングで「それじゃあ」と声を割り込ませた。
「引っ張っていってください。そこまで」
 普段の控えめな声を、今日は笑みを含ませ、張って響かせる。繋いだ手をきゅっと握って、答えを求めるような上目遣い。
「──ん」
 頷いて、軽く返事を返すのが精一杯だ。これが見たことのない彼女の一面だって言うなら、女ってのはどれだけ底の知れない生き物なんだろうか。
 注文通りに歩き出しながら、おれはそんなことを考えていた。


 そのときにおれが、もう少しだけ、デジャヴについて深く考えていたなら。
 彼女が普段と違う声で、姿で、笑顔で、振る舞う意味を考えていたなら。
 真昼の駅前でおれたちを見つめる一対の虚ろな瞳に、気づいていたのなら。
 おれが人生で言うさよならの数は、少しだけ減っていたのかも知れない。
 誰もそのIFの話の答えを知らないけれど──ありもしないその可能性に慰めを求めることを、やめられないのだ。
 ……今でも、ずっと。
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