Nights.

| next | index

  They said, "Goodbye, love."  

「言い訳があるなら今のうちに言うといいわ。全却下するけど」
 胸倉をつかまれる、という経験をしたことはあるだろうか。
 手に篭る力が強ければ強いほど、威圧感を強く感じるものだと、おれは今更のように再確認した。入った力と同じだけのプレッシャーが心にのしかかって来る。
 それで眼まできっちりあわせて睨んでいれば完璧だ。善良な一般市民は、よほど気が強くない限り目をそらしてしまう。かくいうおれもそうだった。ああ、チキンとでもなんとでも呼ぶといいさ。
 若干下から襲い掛かってくる視線に耐えかねて、おれは右上を見た。ショッピングモールの広場中央、飾り付けられたクリスマスツリーが眩しい。
 待ち合わせにもよく使われる背の高い木がデコレーションされて、見事なクリスマスツリーになっている。夜はライトアップされて、遠目に見ても絢爛に輝くようになる。
「こっち見なさい」
 おれがツリーの来歴について思いを馳せながらさりげなく現実逃避を決め込んだ瞬間、逃避するまもなく文字通り現実に引っ張り戻された。
 顎を引っ掴まれて無理やり首の角度を修正するその手の力は、正直女にはあるまじきもんである。
 これがカツアゲだったら気が楽だと思ったほどだ。こいつから逃げられるんだったら、三千円までなら気前よく出すね。
「おい、周りの連中が何が起こってるのか興味津々にこっち見てるの、知ってるか?」
「そんなこと判ってるわよバカじゃないの。だからとっとと話を済ませたいんでしょうが。はぐらかそうとしないであたしの目を見なさい、目を」
 近頃、しょっちゅうこいつ――香坂皐月に胸倉を掴まれている気がする。この台風女、おれの一ヶ月前の予想を容易に覆すかのごとく未だに誰ともくっついていない。クリスマスには大人しくなってくれるだろうと想像していたあの遊園地での休日が実に懐かしい。
 ファーつきの黒いコートに、下はオーソドックスにプリーツスカート。ストッキングで覆った脚を脛まで守っているのは実に高そうなロングブーツだ。こいつが服飾品を買う金はどこから出てきているのだろう。男の財布からじゃないことを祈りたいね。
「バカでもわかる質問から始めてあげるわ。今日は何日?」
「バカ言うなバカ。十二月の二十三日だ。間違ってないよな?」
「ええ、正しいわバカ。それで、明日は何の日?」
「しつこいぞバカ。クリスマスイブだなッってえええ?!」
 くるぶしが割れたかと思った。
 答えた瞬間に香坂の電光石火の右足が閃いたんである。それも生半な踏み方じゃない、おもっくそ踵を使って全力で踏み下ろしてきやがった。おれの右足が頑丈でよかった。生半な鍛え方じゃ今頃亀裂骨折くらいはしてそうである。
 痛みにたまらず屈みこもうとしても、胸元をロックした香坂の右手がそれを許さない。
「正しいわね。それがわかってるならあんた、なんで、愛に、連絡の一つも、しないの、よっ!!」
 ぐりぐりぐりぐり。
 この上踏みにじるように踵を動かすこの女の前世はサド侯爵だ間違いねえ。
「あだだああああ折れる割れる折れる!!」
「これでも軽いほうよ! 自制してピンヒールは止めてあげたあたしの優しさに感謝しなさい!」
「お前満員電車のピンヒールの威力知らないだろ絶対?! 一回踏まれてみろ、二度と同じ口が利けなくなるぞ?!」
「いいから黙れこの朴念仁!!」
 華奢な右手が翻る。次の瞬間にはスナップの効いたビンタが飛んできて、慌てて仰け反ろうとするも襟首ロック解除不能残念です。
 耳元で鳴り響く拍手かしわでみたいな平手の音を、半ば諦めたような心地で聞く羽目になる。おい、正義の味方はまだか?
「――あああああ、どうしてあんたはそういつもいつも、あたしが考えてるのと逆方向に行くわけ!? 普通誘うでしょうよシングルクリスマスが嫌なら! それともあんた愛のこと嫌い?! 嫌いなの?!」
「なんでそこでそうやって飛躍するんだよお前は……」
 ガクガクと揺さぶられながら投げ返した台詞は、自分で言ってて泣けてくるくらい弱弱しい。
 誘わないイコール嫌いの等式を簡単に成立させることのできる、感情で生きている生物全般が怖い。具体的には目の前のこの女とかだが。
「逆に言うけどあんたは少しくらい飛躍しなさいよ朴念仁! 鈍感男!! 単純バカ!!! もういいわ正直こうなるだろうと思ってたから! いい? これから一日使って明日の準備よ、愛に思わせぶりなメール打っておきなさい!」
 この女が朝も早くから『駅前集合、昼十二時。遅刻厳禁、来ないと死刑』とメールを送ってきたときからこうなるだろうとは思っていた。ビンタとストンピングは想定外だったが。
 携帯を取り出しながら、言われるままに蜷川のアドレスを手繰る。
 溜息をつきながら、熱い頬を摩る。これが恋の熱さなら、どれだけよかったことか。
「わかったよ……で、準備って何があるんだ。プレゼントとかか」
「……でしょうね、あんたはそうでしょうね、『プレゼントは用意したけどなかなか誘う声が掛けられなくて……』ってガラじゃないわよね。プレゼント用意するのは当たり前でしょうが。デートコースの下見もしとくわよ。前日なら空いてるだろうから」
 さすが恋愛の鉄人は男に求める理想が違う。
 デートコースの予行演習までしとけとは、こいつのバイブルは一昔前の女性向け週刊誌だろうか。
 お袋が熱心に読んでいた雑誌を思い出した。親父はそれを見て実に微妙な表情をしていたものだ。今ならその気持ちがよくよくわかる。
「あー、わかったわかった。精々明日恥掻かない程度に勉強させてもらうさ」
 おれだって、そりゃあ全く蜷川に気がないか、と真正面から聞かれたら、口ごもらざるを得ない身である。
 煮え切らないって言ってくれるな。こちとらこれまで彼女がいたことなんてないんだから。
「へえ、殊勝なこと言うじゃない。じゃあ覚悟しなさい、今日言ったこと忘れてドジ踏んだら今度こそピンヒールよあんた。愛から聞くからね」
 お袋ばりの口やかましさだ。思ったがさすがに口には出さなかった。ビンタの音が鳴ってやっと会話が進行するようなやりとりは、いくらおれがタフだろうとごめんである。
「へいへい。──で、まずどこに行くんだ、先生」
「まずモールでウィンドウショッピング。ついでにプレゼントも調達するわよ。映画のめぼしいのを調べてから、感じのいい喫茶店とレストランでも探しときましょ。後は別れ際の練習でもしとこうかしらね、このツリーの下で」
 香坂は形良い顎のラインを反らすと、白い息をふわりと浮かべてクリスマスツリーを見上げた。
 思わず、釣られて見上げてしまう。デカデカとこんなものをおっ立てる余裕があるというのだから、このショッピングモールはかなり儲かっているんだろう。このはっきりしない景気の中たいしたもんだ、なんて爺臭いことを考える。けれども、そんな思考も香坂の表情を横目で伺うまでだった。
 クリスマスツリーを見上げる彼女の目は、遠くを見ているようだった。少しだけ寂しそうに、ツリーの天辺あたりを見ているように感じられる。
 胸のあたりにむず痒さを覚えた。言葉を探して、沈黙を破る。
「どうした、欲しくなったのか?」
 ツリーの頂点に据え付けられた大きな星を指すと、香坂は不意を打たれたように瞬き、小さく笑った。
「ばーか。──取ったら、クリスマスじゃなくなっちゃうでしょうが」
 口元に笑みを浮かべたまま、彼女は手を伸ばした。おれの手首をひっ掴んで、そのまま引っ張る。
「行くわよ、ほらっ。時間ないんだからね」
 つんのめりかけるおれにも構わず進み出す。その目には、さっきまで浮いていたあのどこか寂しげな色はない。
 それに若干ほっとしてしまうのは、何でだろう。
 腕を引っ張る力は強い。考え込む前に、おれは疑問に蓋をした。──そうさ、こいつはいつも元気で、うるさくなかった試しがない。だからたまにあんな目を見たら、おれじゃなくたって気になるに決まっている。
「分かったからもっとゆっくり歩けって、二人並んで転ぶとかおれはゴメンだぞ!」
 はあいはい、と元気のいい生返事。
 午後に差し掛かった寒空の下を二人で歩き出す。
 ──こいつは余談だけど、暫くしてからいつまで手を引っ張ってるんだと突っ込んでやったら、思いっきりひっぱたかれた。
 理不尽だ。
 誰かこいつにもう少し、可愛げってやつを教えてやってくれないか?
 それをこいつが覚えたら、おれだって少しはいい気分で後ろに付いていけるってもんなんだけどさ。
「きりきり歩けーっ!」
 わかったよ。だから引っ張るな、袖が伸びる。
| next | index
Copyright (c) 2009 TAKA All rights reserved.