Nights.

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  They said, "Goodbye, love."  

 湯船に浸かって、思わず声を漏らす瞬間が好きだった。肌にしみるくらいの温度のお湯に、体温が徐々になじんでいくときの快感は、なんともいえないものがある。疲れた日だと格別だ。しかも、誰からも邪魔が入らないというのがまたいい。
 香坂皐月は湯船に浸かり、タオルでアップにまとめた髪からはみ出たひとふさを布地の間に押し込んだ。大きな湯船は二人でも余裕で浸かれるほどに大きい。未だに試したことはなかったが。
 足を伸ばして湯船に沈み込み、息を吐き出して水面にぶくぶくと泡を立てる。入浴の時間は、心から安心できる数少ない機会の一つだ。湯気がもうもうと立ちこめるバスルームは、向こう一時間は彼女だけの城である。父も母もそれを咎め立てすることはない。考え事をするにはうってつけである。
 季節は冬。十二月二十二日、時刻は夕食後の午後八時を僅かに回っている。クリスマスイブを二日後に控えたこの日、彼女が思い悩むことはたった一つだ。
 即ち、あの朴念仁アツギコウヤに、いかにして蜷川愛ニナガワマナを誘わせるかといった話である。
 高校二年生の冬、華の十七歳である皐月が何故こんなことを考えているのか。それはあの二人が恋愛に対してやや消極的であることに起因する。片や空手バカの超級朴念仁に、片や箱入りのお嬢様だ。九月にあの二人の間を取り持ってから丸三ヶ月が過ぎているのに、関係が進展した様子は一切見えない。
 皐月の予定では十二月には互いが初々しくクリスマスの予定を伺いあうといった光景が見られるはずだったのに、未だにそんなことはさっぱりなく、自分だけが勢いよく空回りしているような気分になる。
 ――愛から厚木を誘うなんてことはまずないだろうし、放って置けば厚木も残り二馬鹿と遊びに行きかねないし。
 彼女の苦悩は深まるばかりだ。またどこぞのチケットを調達して康哉に押し付けなければならなくなるかもしれない。色恋沙汰なんて、一度火がつけば勝手に燃え上がるものだと思っていたのに、いくらお膳立てをしても火は一向に勢いを増す気配がない。
 昔からそうだ。
 康哉は、皐月の考えなどお構いなしなのだ。
 そう、思い出してみればあのときだってそうだ。
 厚木康哉と初めて出会ったときを、少しだけ思い出す。


 二〇〇四年、五月。巳河東高等学校の校舎裏。四時間目も半ばの十一時五十四分、空から降り注ぐ陽光は随分と春めいていて、吹いてくる風も若葉のにおいがする。コンクリート壁に背を預けながらぼんやりと空を見上げた。いい季節だと香坂皐月は思う。なんてったって自分の名前と同じ季節だ。これでもし縄でぐるぐる巻きでなかったなら、すぐにでも校舎を飛び出して遊びに行こうと思うくらいだった。
 ――あ、でもダメか。この時間に制服姿で歩いてたら変な目で見られそうだし。
「……聞いてんのかコラァ! テメー、今どういう状況か判ってんのか? アァ!?」
 うわ、唾飛んで来た。露骨に顔をしかめてやる。目の前には、頭蓋骨の容積と脳味噌の体積が釣り合ってなさそうな上級生がしめて六人、勢揃いといった格好で立っている。授業中で人気のない校舎裏に、汚いロープでぐるぐる縛りにされたいたいけな少女と品性下劣っぽい六人の男子。状況だけで犯罪級に危険である。
 皐月は呆れたような表情を浮かべて、縛られたまま器用に肩を竦めた。
「間近で唾飛ばさないでくれない? 臭いのよ。ついでにあんた、ヤニ臭いし。止めてよね本当」
「こんの……クソアマ、立場が判ってねえらしいな」
 怒りに震えながら剃り込みを入れた少年が指を鳴らす。頭がスイカみたいな模様になっているので、皐月は勝手に彼のことをウリ坊と呼ぶことにした。
 ウリ坊の指からバキボキ、と音が響く。地球の重力が変な方向に作用しているらしく、妙に傾きながら皐月の顔を覗き込んできた。ヤンキー物理学とかそういう題でまとめたらレポート一本くらい書けるんじゃないかしら、などと益体もない事を考えながら、皐月はため息をついた。
「判ってるわよ。で? これからどうするわけ? 人数そろえてこんな女の子一人囲んで、情けないと思わない? ……ま、どうでもいいんだけどね。やることやるならさっさとやっちゃってよ。どうせ、そんな度胸ないだろうけど」
 べ、と舌を出しながら事も無げに言ってのける皐月に、六人の不良が色めき立つ。怒り心頭といった具合のウリ坊が青筋を浮かべながら、拳を握り固めて一歩詰め寄る。息の触れるような距離で拳を振り被った。
 皐月は反射的に身を縮めながら、自分に言い聞かせる。一発くらい、覚悟はしていた。我慢できる。ぎゅっと目を瞑って衝撃に備えていると――不意に、ゴッ、と鈍い音が響いた。
 それは喩えるなら、骨と骨のぶつかり合う音というか――
「うわあっ……やっちゃった」
「おーっと鮮やかな飛びヒザが直撃! そして踏む! 踏む! 踏みつける! ルール無用の極悪ファイトだー!!」
「何でそんな盛り上がってんの……大地……」
「だってオレこういうの大好きだもんよ」
 声が聞こえてくる。L字に奥まって、コンクリート壁と校舎に囲まれたこの袋小路に、入ってきた誰かがいるらしい。ゆっくりと目を開けてみると、目の前にはウリ坊ではなく、短髪のツンツン頭をした少年が立っていた。さらに声の聞こえてきたほうから、長めのウルフカットと長身、ピアスじゃらじゃらの少年と、それとは対照的に小柄で保護欲を誘う顔つきをした少年が歩いてくる。
「ま、マコッちゃん?!」
「何だてめえらァ!!」
 どうやら踏まれて呻いているウリ坊はマコッちゃんというらしい。そのマコッちゃんの胸元を踏みつけながら、ツンツン頭が周りをじろりと睨む。
「あんたら、この娘に何してンの」
「アァ? 生意気な下級生に礼儀教えてやろうっつうんだよ、てめえらも痛い目見たくなきゃとっとと帰れや」
「マコッちゃんから足どけろや、チビが」
 不良達が口々に答え、じりじりとツンツン頭を取り囲みにかかる。不良達は誰も彼も身長一八〇センチ手前と言ったところで、ツンツン頭より皆一回り大きい。しかし彼は気後れすることなく、首をコキコキと回しながら両の拳を打ち合わせた。
「いいや。めんどくせえ。縛った理由も理不尽だし、こっちも理不尽にいくわ」
「ちょ、あんた、待っ――」
 皐月が声をかけようとしたときには、短髪は旋風のように動いていた。ウリ坊の身体を地面代わりにして手近な少年目掛けて一足飛び、顎の高さに上げていた左手を鋭く突き出す。鼻っ柱に当たってたたらを踏む相手にすかさず第二打、胴部目掛けての右正拳突き。聞くに堪えない声と共にくの字に身体を折った瞬間、さらに脇腹狙いの右の回し蹴り。不良少年の体躯が倒れるように横に転がる。もしかしたら少し浮いていたかもしれない、という勢いだ。
「て、てめえッ……――?!」
 拳を振り被り、テレフォン・パンチの態勢で殴りかかろうとした不良の動きが止まる。皐月までもが驚いた。長身の少年がその不良の腕を掴んで、そのままの態勢で引きとめているのだ。
 ぎこちなく振り返った不良に、ピアスじゃらじゃらの少年は人懐っこい笑顔を浮かべて声をかけた。
「ハロー」
「は、――?」
 思わずと言った様子で声を漏らす不良の目に入ったのは、目一杯に引かれた拳。
「そして、グッバイ」
 いくら来る事が判っていても、避けられないのでは元も子もない。ピアス男の拳が哀れな不良の側頭部に直撃し、彼は物も言わずに昏倒した。
「な、なんだこいつら!?」
「意味わかんねェ……!」
 あっという間に残り半数となった不良達が、口々に焦りを漏らす。が、次の瞬間、鈍い音がしてさらに一人が仰け反った。
「おー、当たったー」
「うわ、いったそー」
 ピアス男がゲラゲラ笑う。やってきた三人組のうち、最後の一人が、土に汚れた硬式野球ボールを手にして当たった当たったと喜んでいる。仰け反った不良にすかさず短髪が襲い掛かり、蹴り倒してまだ足りんとばかりにけたぐり回す。
 何もそこまでしなくてもと皐月が擁護したくなるほどに念の入った蹴り方だった。
「なんだよお前ら! 横からいきなり出てきやがって!!」
「俺たちが誰だか知ってんのかコラァ!!」
 虚勢を張るように残り二人が口々に言い募るが、聞いているのかいないのか、三人の少年は平然とした顔のまま彼ら二人を囲んだ。ピアス男が肩を竦め、ボール男が苦笑いし、ツンツン頭が指を鳴らす。
「「「知らねーよ」」」
 二人がギタギタにのされるまで、それこそ十秒かそこらだった。


 懐かしい話。
 ヒーローみたいに助けに着た三人組は、昔の教育番組に出てきそうな、ツンツン頭にノッポと笑顔。皐月はぶくぶくと風呂の湯船に泡を吐きながら、あのときの彼らの顔を思い出した。
 ――今とあんまり変わんないわね。三人とも、バカっぽい顔して。
 皐月は思わず笑ってしまった。彼らの突っ走りぶりで、自分の計画が粉々に瓦解したことを思い出したためだ。
 裏庭を見下ろす三階には、写真部員の一年生が待機していて、自分に暴行を加えるところをしっかり写真に撮った上で教師に通報してくれるという手はずだったのだ。
 その算段が台無しになったことを、皐月はその後すぐに彼らに抗議した。呆れた顔をする大谷と字坂のリアクションは曖昧で印象に薄かったけれど、康哉の言葉だけは頭に残っている。
『バカ女。お前一人殴られて、顔に傷でも残ったらどうすんだ。頷いたその写真部のヤツもアホだ。踵落とし食らわせてやる』
 真面目に憤慨した顔で、あの時、康哉はそんなことを言ったのだ。
 理不尽な言葉だと聞いた瞬間は思ったし、だからこそ皐月はそのあと、計画を台無しにした責任を取れと、暫く康哉の周りをうろついたり、また幾つかの面倒ごとを彼のところに持ち込んだりもした。
 結局、それは彼との腐れ縁を強めることになるだけだったのだけれど。
 厚木康哉を知れば知るほど、あの怒ったような台詞の意味を、よくよく分からされた。彼は基本的に古い考えの人間なのだ。
 男が女の顔に傷をつけたら、責任を取らなきゃいけないなんて本気で思っているタイプ。皐月は自分が整った容姿をしていることを自覚しているが、康哉がその容姿に釣られてあんな台詞を言ったのではないと知ったころから、なんとなく彼を心の中で、他の男子と区別して扱い始めた。
 熱血バカで、単純で、背もあんまり高くない。
 ガキくさくて空気も読めない、冷めたフリがヘタで暑苦しい。
 彼氏にするなんてことを考えたら、熱気で死んじゃいそうだからごめんなさいと断れそうなほどの熱血漢で、困った人がいたら自分の予定なんてお構い無しでそっちに首を突っ込みにいく。
 極限まで縮めて一言で言ったら、お人よしで真っ正直なバカ。それが康哉だ。
 ――彼のところに自分の持ち込んだ面倒ごとのもう一つを思い出してみれば、それが簡単にわかる。
 普通の男子なら、隣のクラスの一女子のために、押し付けられただけの『ボディーガード』なんて肩書きを後生大事に抱え込んで、逆恨みで襲ってきた二十人からの集団を相手取っての殴り合いなんて、絶対にやらないだろうに。
『オレなら絶対やらねえ。相手がお前なら尚更』
 皐月を目の前にしてうかつにもそんなことを口走り、喉に水平チョップを食いこまされて悶絶したのは大谷大地だが、普通の男の感性ってそういうものだ。
 別に大谷が悪いって思うほど自分は乙女乙女してない。仕方ないだろうなって割り切るくらいにはすれているし、同級生にそんな夢を抱いたりもしない。
 抱きもしなかった、夢の体現みたいな……助けて欲しいなと思ったときに、当たり前に助けに来てくれる、あいつ。
 そんな康哉に、自分の親友が恋をしたと聞いた時には、皐月も驚いたけれど、それが叶うといいと思うのは親友として当然の考えだった。
 恋愛沙汰が不器用だけど、なんの衒いもためらいもなく、助けると決めた誰かを助けに行ける、あの暑苦しい少年に、愛を好きになって欲しいと、思うのだ。
 皐月はそう思っている。
 ――思っている。
 そうしてくれないと、困る。
「……あのにぶちん、愛のこと泣かせたら、絶対に承知しないんだから」
 自分を鼓舞するように呟くと、皐月は唇まで湯船に浸かって、それ以上の独り言を断った。
 余計なことを呟いてしまいそうだった。
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