Nights.
PASSING [
目と鼻の先にいるのに、彼女が酷く遠く見える。腕を伸ばしても、横たわったままでは届かない距離だ。
ジークは、届かない三十センチの距離を埋めるために煙草の箱を枕元に置いた。痛む身体を押して、横たえていた身を起こす。ただそれだけのことが途方もなく辛い。
「……っ」
涙を流したままリリーナは身を縮めた。一瞬だけ垣間見えた烈火のような怒りは今はなりを潜め、ただ吐き出しつくした言葉に戸惑うように身体を丸めている。叱られるのを恐れるように。
全身を支配する刺すような痛みを押しのけ、ジークは腕を伸ばした。肩に触れる。身を震わせる少女を安心させるように、優しく抱き締めた。息を呑むリリーナの耳元へ、顔を寄せる。
「ごめん。……悪かったよ。ごめんな、リリィ」
謝罪の言葉を囁くと、リリーナの喉が何かを嚥下するように動いた。
「オレは、お前のことが判らなかったんだろうな。判ってなかったんだ。きっと」
ジークは張り付いた上下の唇を引き剥がすようにして、言葉を口にした。口の中はカラカラで水気がなくて、唇を舐めても殆ど意味がないくらいだった。
「……怖いっていうのは、とどのつまり判らないってことだ。だから遠ざけようとしたのかもしれない。悩んでるのは自分だけだと思ってた。一人で背負うことが崇高なことだと思っていたのも、認めるさ。オレ一人が、親父の事を背負ったつもりでいたんだ。……お前にこれだけ言われた今でも、オレは背負えるものなら一人で、全ての悲しみを持って行きたいと思ってる」
「……!」
リリーナが抱きしめるジークの身体を突っぱねようと、胸に腕を立てる。鋭い痛みが体を襲った。しかしジークは腕を離さない。言葉の続きを言えないままでこじれるのは、もう御免だ。
「けど実際には、お前の悲しみを肩代わりしてやることは出来ない。判ってたことだ。オレとお前は、どこまで行ったって二人だ。一人じゃない。お前がオレの全てを理解できないみたいに、オレもお前の全部を判ることなんて出来ない。今回のことが、そのいい証明さ――」
腕の中で、ジークの胸に手をついたリリーナが戸惑ったように動きを止める。
「オレには、お前の悲しみの大きさを全て理解してやれるなんてことは言えない。他人の悲しみを定量化して評価するなんて、そんなのはただの傲慢だ。……心の中が判らない、考えていることもわからない、悲しみの量だって把握できない。『Can't』ばかりが目につく。……オレたちは不自由だ。あの真怨どもが言ったように」
ジークの言動の意味を図りかねたように、リリーナが腕の中で顔を上げた。ジークはかすかに腕を緩め、顎を引いて彼女の瞳を見つめた。泣き腫らした瞳が、不安げに揺れている。
ジークは目を閉じ、こつん、と彼女の額に自分のそれを重ねる。
「けど、それだけじゃない」
吐息のかかる距離で、訥々と言葉を紡ぐ。
「不器用なオレたちには言葉があった。つたない意思伝達の手段さ。……当たり前のように齟齬が生まれるから、オレたちは今回、大分回り道をしたんだ。……それでも、伝わった。お前がオレに言ってくれたことが、そのままオレにだって当てはまる。オレはお前を護りたい。目の前で誰かを亡くすなんてもう真っ平だ。……それがお前なら尚更。だから遠ざけておきたかった。安穏と生きて欲しかった。……けどそれがお前を苦しめるなら、オレは……」
ジークは、躊躇うように一度だけ言葉を止めた。それを言うことは、もしかしたら罪なのかもしれなかったから。
けれど、それは自分の心を裏切り続け、彼女を泣かせ続けることより重い罪だろうか。
自分に問いかける。言葉の続きを待つリリーナの目を見れば、答えはすぐに出た。
ジークは解答を呟いた。それはたった一つの冴えたやり方ではなかったが、打算も誤魔化しもなくせる、唯一の方法だった。
「……オレはお前を呼ぶよ。リリィ。他の誰でもないお前の名前を。都合のいい事ばかり言うけど――少しだけ許してくれないか。一度きりしか言わないから」
渇いた口の中はそのままだ。声も掠れる。けれどそれでも最後まで言葉を口にした。
「……傍にいよう。いさせてくれ。知っていたはずのお前を見失わないように。オレはお前を護って、お前はオレを護って。今までしてきたみたいに……これからもそうしてほしい」
今まで当たり前にしてきた事を改めて言うのが、こんなにも照れくさいことだとは思わなかった。
並べた言葉を咀嚼するその前に、リリーナは目を見開いて、それから声もなく俯いた。重い沈黙が部屋の中を満たす。また、電車の音が聞こえた。警報器が耳障りな音でがなり立て、電車が窓の外を通り過ぎていく。
列車が通り過ぎて数秒、リリーナはジークの胸に額を当てた。始めにそうしたように、身を預けるように。軽く握った拳で、ジークの胸を叩く。ノックするぐらいの力で、とん、とん、と。何度かそうして、もう一度数秒間の沈黙を挟み、ようやくリリーナは唇を動かした。
「……初めからそう言ってくれたら……アタシ、こんなに泣いたり怒ったりしなかったんだから」
拗ねたような声で呟くと、顔を上げる。目元の腫れは簡単には引かないし、かすれた鼻声もすぐには元に戻らない。それでも、リリーナはいつもの笑顔を浮かべた。ジークのすることに呆れながらも、それを許容して浮かべるあの笑顔を。
「……それ、本音ってことでいいんでしょ?」
「嘘を言うと思うのか? 得意の読心術でオレの内心を当ててみせろよ」
「ふふ」
息を漏らすように笑い、機嫌よさそうに、ジークの胸元に頭を寄せる。
「いつも正直ならいいのに。ジークは追い詰められないと本音、言わないんだから」
「……ひねくれ者なのは承知のことだろ。大体なんだ、追い詰められないと本音を言わないって。いつの事だよ」
「最近だとジェイルの時とかね。アタシ、一言一句覚えてるわよ?」
悪戯っぽく笑い、リリーナは声を作った。
「『ああ、毎度手間掛けるよ、本当にな。どうもお前がいないと』もがっ」
ジークは無言でリリーナの頭を抱え込んだ。認めよう。認めるしかない。言った覚えがある。だがそれ以上聞かされるのは勘弁してほしかった。
追い詰められた時やらハイになったときやら、自分はどうも我を忘れて言いたい事を撒き散らすらしい。深い反省をしていると、腕の中で猫が暴れだした。噛み付きも辞さない覚悟らしいので解放する。
「〜〜〜っ」
息を思い切り吸い込んで、顔を横に二度振る。乱れた髪がやや治まった。
「何すんのよ折角プレイバックしてあげたのに! 自分がどれだけ恥ずかしい台詞を素で言ってるか自覚させてあげようってんじゃない!」
「やかましい今更自分の言ったこと思い出させるな。お前も一個一個そんな台詞を覚えてるんじゃねえよ」
はあ、と溜息をつくと、ジークは煙草のケースに手を伸ばし、一本振り出して口に咥えた。ケースから引きずり出したガスライターのホイールを擦ったところで、リリーナが唇を尖らせる。
「……」
半目を向けてくるのに困ったような顔をしてみせると、リリーナは深く溜息をついて、一言続けた。
「煙、上に吐いてよね」
言うなり、彼女はジークの胸元にしがみ付いて、頬を胸に沿わせた。心臓の音を聞くように、耳がぺたりと胸につくのが判る。体を支える右手を、彼女の後れ毛がくすぐった。
「……わかったよ」
ジークは緩い笑いを浮かべて、煙草に火をつけた。顎を反らせて深く吸い込み、天井へ煙を吐き出す。睦まじく寄りそう様子は、恋人同士のようにも見えるのかもしれないと思う。――それは、近いけど、違う。少なくとも今は。
煙がゆらゆらと漂う中、胸元から細い声が上ってくる。
「ねえ、ジーク」
「ん?」
「さっき……これからの展望が決まってないって言ったわよね。ジェイルを殺した後、何もないって。それで悩んでたんだって」
「ああ」
微かな頷きを返すと、リリーナは抱き縋る腕をジークの背中に回して、強く引き寄せ密着する。
「あたしもそう。決まってない」
事も無げにリリーナが呟く。下を見ようとすると、「けむい」の一言と掌底が飛んできた。頭を跳ね上げられてまた天井と対面する。
リリーナはくすくす笑いながら続けた。
「だって、そんなの決まってるわけないじゃない。それとも、決まってなきゃいけないの? 無軌道な生活だって、いいじゃない。少なくとも今は目標があるわ」
リリーナの言葉は弾むような響きで、聞く側が勇気付けられるような声色をしている。悩んでいたことが小さく見えてくるような……そういう、力のある声だ。
「ハイスクール出てそれっきりよ、あたし達。ご大層な将来の夢なんて見る暇もなかったし――だいたいジェイルを倒したら何をすればいいかなんて、考えるのはその時にとっておけばいいのよ。楽しいことは後に残した方が、ハリが出るってもんでしょ」
ジークは煙草を吸うのを忘れて、彼女の言葉を聴いていた。単純明快なその言葉が、自分の置くまですっと染み込んでくる。それは、彼女との接し方を改めて決めたからなのかもしれない。傍にいようと、そう思うからなのかもしれない。
「……もしその時になってどうしても何も浮かばなかったら、一緒に見る夢を考えようよ、ジーク。……そりゃ、幅は狭いかもしれないけど。それでも、手が掠りそうな場所にある夢、沢山あるはずだからさ」
リリーナはまさにその夢を見ているように呟いた。ジークは、吸いかけの煙草をベッドサイドの灰皿に捻じ込んで顎を引き、視線を合わせる。煙が薄れて消える。リリーナは灰皿で燻る煙草をちらりと見てから、ジークの目を迷いなく見つめ返してきた。
そして、野に咲く一輪の百合のように、笑う。
「それで、そんな夢が見つかったら、二人で一緒に背伸びしようよ。夢を見るために悩んで気疲れするなんてバカみたいな話は、ここでおしまい。……いいでしょ?」
笑顔と声は、仲違いした時とは違って棘もなく明るい。言葉を噛み締めるようにジークは目を伏せ、一つ頷いた。噛み締めるように、ゆっくりと。伏せた目を閉じ、視界を闇に閉じ込める。
閉じた目の裏側に、誰かの背中が見えた。
「……ああ。まずは、目の前の目標を片付けるところから、だな」
「そうよ、終わってみたらおじさんとおばさんでした、なんて洒落にならないんだからね。しっかりしてよ、ジーク?」
「ああ――わかってるさ。今度みたいなヘマもこいつで最後だ。もう――大丈夫だ」
ジークは瞼の裏側にいる影に、心の中で呼びかけた。
――これでいいんだよな。父さん。
瞼の内側で、背中が振り向く。――実際にそんなものが見えるわけがないけれど、ジークはそれを今だけ、感じられる気がしていた。眠る間際と起きた直後、夢の入りしなと残滓に思考が掠れるその時間だけは、リアリストでもありふれた夢を信じていられる。そう思いたい。
それは児戯にも等しい空想の産物であったろうけれど、振り向いた父は、親指を立てて笑っていた。
ジークはくしゃっと破顔して、一人、それに笑い返す。
「……ちょっと、何よー。一人で笑ったりして」
「いや、なに。こんな事をしてると、まるで仲を立て直してる恋人同士みたいだなって思ったのさ」
「ぅな……っ」
邪気のない誤魔化しの言葉を吐く。冗談のつもりで零した言葉に、リリーナが妙な声を漏らした。くるりとベッドの上で背を見せて、あさっての方向に視線を投げ始める。
「……リリィ?」
「なんでもない」
名を呼ぶ途中から彼女の声がかぶさってくる。
また何か気に障る事を言っただろうか。このお姫様は変なところで気難しい。
「あー、なんでもないように聞こえないんだが――」
「なんでもないっ」
ばん、とベッドのシーツを蹴立て、リリーナは寝台から立ち上がった。そのまま窓際に寄って、夕日のしみこんだカーテンを払うように開ける。夕日が彼女の顔を赤く照らして染めた。
逆光を背負ってリリーナは人差し指を向け、宣言するように言い放つ。
「――今日はお酒禁止! その代わりちゃんと栄養のあるものを作るから、それ食べてしっかり休みなさい! 早く分室に戻ってきて、言ったこと守ってくれなきゃ承知しないんだからね!」
言い終えるなり腕を組んで顔を背ける。呑まれたようにその様子を眺めていたジークだったが、それも彼女の頬を染めるのが夕日だけでないと気付くときまでのことだった。
「……はいはい。せいぜい養生しますよ、お姫様」
「返事は一つ!」
「はーい、ってな」
軽薄な返事をして笑みを浮かべる。夕日に霞む部屋の中で、身を翻しざまにリリーナがこちらに舌を出すのが見えた。干してあったタオルと下着を引っつかみ、駆け込むように浴室に消えていく。
少しの静寂の後、部屋の中に水音が聞こえてくる。配管を水が潜り抜ける音と、水滴がバスタブを濡らす音の二つが。安普請の壁を伝う音を子守唄がわりに、ジークはベッドに倒れこんだ。
きっと彼女はこれから、夕餉の買出しに出かけるだろう。そして自分はあの太陽が沈んで、蛍光灯の明かりが似合う時間になる頃、料理の匂いで目を覚ますのだろう。
「……ああ。悪くないな」
眠りに落ちる前、確認するように呟いた。
目を覚ましたときに掛け替えのない笑顔を見られるのなら、それはきっと幸せと呼べるだろう。彼女だけでなくこの幸せも守ろう。最後に考えたのはそんなことだった。
顔の横には煙草の箱。
かすかな葉の香りが、夢への入口を開いてくれる――
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