Nights.

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  PASSING/Z  

 ――ジークが目を開けて最初に見たものは、天井に突き出した自分の腕と、手に握られたラッキーストライクのソフトケースだった。その向こう側に煙草のヤニで薄く汚れた天井がある。見慣れた天井だ。毎日のように、ここで寝起きしている。若干西日加減の太陽が、カーテンを縫って部屋をかすかに濡らしていた。
 手を下ろすと、身体に痛みがあった。そっと、落ち着く位置に腕を下ろして一息つく。すると吐息に合わせるように、横で何かが動いた。目を向けると、そこには見慣れた姿がある。自分に寄り添うような格好で眠っている女の、散らばる髪が艶かしい。タンクトップから覗く腕は、両方が真っ白な包帯で巻かれている。包帯に埋められた手で、彼女は顔にかかった髪を後ろに流して、それからうっすらと目を開けた。
「……」
 もぞりと身動ぎ、無言で眼を向けてくる。
 猫か何かを相手にしているみたいだった。彼女はまだ寝ぼけているような顔をして、ベッドの上に起き上がる。狭苦しいベッドの上で二人。怠惰な恋人たちの朝に似ているなと益体もない事をジークは思った。
 乱れた髪を整えもせずに、女――リリーナはジークを見つめた。右腕の包帯に少しだけ血が滲んでいる。きっと自分がしてやられたあと、彼女はあの真怨たちをひとりで相手取ったのだろう。シーツの海の隙間に覗く彼女の白い肌に、点々と打撲痕がある。
「……泣いてたの」
 痛ましい、傷だらけの姿に気を取られていると、リリーナは色のない声で呟いた。問いかけの形をした声は、とても無感情に聞こえる。ジークは指先を目元にやった。かすかな水気、ひりひりとつっぱる涙の痕がある。
「……かもな。良く、覚えてない」
 嘘だ。おぼろげにだが夢を覚えている。最も尊敬した人の幻想を見ていた。今は彼岸の彼方でしか会えないはずのその姿を、夢の中で再生していた。これは弱さだろうか。自問する。
 会話も、前半の少しだけは覚えているけれど、それはひどく当たり障りのないものだったように思う。自分の記憶していることしか喋らない父。それがなんだか、悲しくて仕方がなかった。
 だから泣いたのかもしれない。脳が覚えるのをやめたみたいに、夢の真ん中からはすっぽりと抜け落ちていて、ただ煙草の箱を握って父の背中に何事か叫んだことしか覚えていない。
 煙草を吸いたい、と思ったその時、とすん、と胸の上に軽い重みが乗った。その衝撃に痛みを覚える。それでも、想定していたものよりはずっと軽い痛みだった。全身を貫かれた割には随分と痛みが少ないのは、黒が処置をしてくれたからなんだろうなとぼんやりと思う。
 リリーナの頭が目の前にあった。胸に額を乗せるように、ひどく近い距離にいる。髪からは消毒薬と、血と、甘いシャンプーのにおいがする。胸に額をつけたまま、彼女は口火を切った。
「そうやって隠すの? 隠しちゃうの……? アタシに、何も見せないように」
 静かな声にどきりとさせられる。彼女の声は少しだけ震えていた。悲しそうに、垂れた花が風に揺れるように、俯いたまま。
「アタシ、頼りないかな。……弱いのかな。ずっと守られてるだけで、アタシには何も出来ないの? ……何も出来ないまま、いつかは離れるなんて話されたって、アタシは納得なんて出来ない」
 寝起きのかすれた声で、リリーナは言い募る。包帯の白と滲む血の赤に彩られた彼女の細い腕が伸びて、ジークの肩口の服を掴む。身を預けてしがみ付くような体勢になって、リリーナは額をジークの胸元に擦った。
「答えてよ……アタシは何? 壊したくないお人形? ただの邪魔者? 背負わされた重荷? それとも、……それ以外の何かなの?」
 激昂した時の怒りは抜け落ち、リリーナの声はただ悲しそうだった。揺れる木々の葉擦れのように密やかで、夕暮れの雨のように切ない。
 声を受け止めたジークは、答えあぐねて、天井を見上げた。見飽きた天井は、外の晴れとは裏腹に陰鬱だ。壁掛け時計が午後三時を指している。時計の秒針の進みが遅く感じられた。
 自分と彼女の息遣いと、秒針の音だけが満ちる。通りかかる電車が、その薄暗い沈黙を本の数秒だけ拭っていったが、それもほんの僅かな時のことだった。
 ジークは、何から喋ればいいかも判らないまま口を開いた。
「……怖かった」
「……」
 リリーナが少しだけ身を固くする。その感触を感じたまま、ジークは言葉を続けた。
「オレはさ、リリィ。お前と近づきすぎるのが、怖かった。お前を守るって……ずっと決めてきたんだ。お前が一人で生きていけるまで、ずっと守ろうと思ってた。けどお前は、オレのいる場所に来ようとする。何度も傷ついてまでオレの横に並びながら、オレに苦痛を分けろって言う。……それは嬉しいさ。受け入れたくなる」
 じゃあ、とリリーナが声を上げるのを制して、ジークは言葉を続ける。
「聞いてくれ。……身勝手なのは判ってるさ。でも、それを受け入れたらオレはきっと、その味を忘れられなくなる。そして、世界はいつまでもオレとお前が二人でいる事を認めちゃくれない。いつか、きっと……離れたほうがいい時が来る。オレは――ジェイルを殺した後の未来に、何の展望もないような男なんだ。そいつに一人で頭を抱えて、問い募るお前を怒鳴りつけるような、どうしようもないヤツなんだよ。……それでもお前を護りたいとだけ思ってる。いつかお前が、オレの前から巣立って――お前を護ってくれる、お前が本気で護りたいと思える、そういうヤツを見つけるまで。危険のない世界で生きていけるようになるまで。だから――」
 ジークは、言葉を切った。そして続けようとした言葉を喉から出せずに、前を見た。
 リリーナが顔を上げている。腫れぼったい目元と、うっすらと赤い目が、彼女が泣いている事を教えている。潤みは止まらず伝い落ちた。吐息のかかるような距離で、リリーナが身体を起こし、ジークの胸に手をつく。
「……アタシ、そういう人、一人だけ知ってるよ」
 怖がるように、けれど止めはせず、リリーナが手を伸ばした。ベッドに横たわるジークの肩を抱えて、彼の右頬に自分の右頬を合わせるように、身を倒す。ジークの顔を、少しだけ跳ねた髪が擽った。
「リリィ――」
「喋らないで。目を閉じて。アタシを見ないで、五秒間だけ」
 リリーナの華奢な手が、ジークの目を隠した。ジークは身をよじろうとするが、しなだれかかる重みを除けることはできない。身体を刺すような痛みが包み、反射的に身を固めてしまう。
 塞がれた視界の中、耳元に伝わる彼女の息遣いだけがリアルに感じられる。永久にも近い五秒間が流れていく。
「――」
 リリーナは酷く小さな声で、何事かを囁いた。吐息に近い言葉の列がジークの耳朶をバウンドする。ジークがその意味を考える前に、目を隠していたリリーナの左手が離れた。
 開けた視界、駆け足の夕日が逃げ込む部屋の中でジークが次に見たものは、
「この、」
 五指を揃えて高速で向かってくる平手で、
「――大バカ、」
 目覚めたての反射神経でそんなものが避けられるはずもなく、
「兄貴ッ!!」
 左頬が弾けて目から火花が飛び出した。夕暮れ前の部屋に流星が見えた気もする。残念ながら願い事を三度言う前に胸倉つかまれて、ジークの意識は目の前に引き戻された。
 リリーナが睨むような目つきでジークを見つめている。その目に既に涙はなく、代わりに遅れて燃えてきたらしい怒りの色が見え隠れしていた。
 この目つきはまずい、と、平素の怠惰な男としての自分が警鐘を鳴らすのを感じる。この目はアレだ、煙草の吸殻で山脈を築いた時だとか、空き缶で部屋の真ん中に雪崩を起こした時だとか、そういう時、投げるナイフの前触れとして見せるあの目だ。
 リリーナはジークの襟首を掴んだまま、息の触れるような距離で睥睨する。視線を逸らそうにも逸らせない。逸らしたらそのぶんの角度を補正するように平手が飛んでくるだろう。こうなった時の彼女は、びっくりするほど容赦がない。反論の声を出し損ねたジークに、畳み掛けるようにリリーナは言った。
「あんたがアタシを護ろうとするってのは結構な話よ。そりゃアタシだって嬉しいわよ? でもね、それとアタシがあんたの思い通りになるかってのは別の話でしょ、ジーク」
 ジークの言葉尻を捕えるように、よく似た切り出し方で言葉を発する。声には有無を言わさぬ響きがあり、そして事実、ジークは言葉を差し挟むことができなかった。
「あんたの言ってることは矛盾してんのよ。アタシを自由に、安全に生きさせるために護り続ける。アタシの自由を縛って、危険に晒すかもしれないから傍に近寄り過ぎたくはない。結構な持論よね。でもねジーク、危険はともかく――あんたの言葉のどこに、アタシの自由があるの?」
 絡まった感情の糸を叩き切るナイフみたいな言葉が、ジークが用意しようとした反論を引き裂く。息をつめたジークを前に、尚もリリーナは続けた。
「そのうち離れ離れになる? 世界が一緒にいる事を認めない? バカじゃないの? 誰が世界に許可取りたいなんて言ったのよ。アタシはね、アタシがいたい場所にいるわ。世界だろうが神様だろうが、そんな強制力のないものに何を言われても、アタシは変わらない」
 眦を吊り上げたままで、むき出しの感情論を吐き出す。しかしそれは、紛れもなく彼女にとっての真実なのだろう。その響きは、口先だけの繰言など容易に破壊するような力を持っている。切り出すことさえ出来ないジークを前に、リリーナは叩きつけるように叫んだ。
「――卑怯なのよ! あんたは!! 一緒にいたくないなら、あんたの言葉でそう言ってよ! 世界だの、なんだの、言い訳みたいに挟まなければいいじゃない!! あんたが嫌だって言うなら、アタシだって離れるわよ、けど、そうじゃないのに追い払われるなんて絶対に認めらんない!! ……アタシの言ってること、判ってよッ……!!」
 掴みかかっていたのはそこまでだった。ジークの襟首を握っていた手がぱたりと落ちる。手はのろのろと、うつむいた目元を隠すために引き戻された。
「――」
 ジークは息を吐く。言おうとして喉の奥で砕けた言葉の残骸が、重苦しく滑り出たようだった。唇を噛んでうつむくリリーナの姿が、ずっと昔に、些細なことでからかわれて泣いていた少女の姿とダブる。
「忘れられないの」
 掠れ声で、彼女は言う。
「父さんが……アタシ達が見てる前で、死んじゃったこと」
 ジークは、自分の心音が一度高くなるのを聞いた気がした。それは、自分たちの暗部だ。あの日、いい気になった自分たちを打ちのめした最低最悪の事件の話だ。父の死に様が、焼き付いたように離れない。
 ――どうしてこんな簡単なことにも、気付かないのか。
 自分一人で重荷を背負ったつもりだった。何もかもすべて一人で背負い込んだつもりでいた。
 ――なら、なぜ彼女は今泣いている?
「アタシは、もうあんな思いはしたくない。戦える力だって身につけた。アタシはあんたを護りたい。護らせてほしいの。大事にされて、箱のなかの人形みたいに、傷つかないように護られてるだけなんて嫌なの……このままじゃ、また見てることしかできないじゃないっ……」
 涙を指先で掬って拭い、顔を上げる。けれど潤んだガンブルーの瞳からは、とめどなく涙が流れ落ちていた。
 ――人の心の重荷を、横から盗んで背負えはしない。
 父が逝き、リリーナは枯れるほどに泣いた。ジークはその涙を全て受け止めて、そして泣き疲れて眠る彼女から離れ、一人で泣いた。
 気付かされる。自分がしてきたことは全てその延長だ。涙が悲しみの全てだと――シャツにしみこんだ涙の重さが、リリーナの悲しみの全てだと思い込んでいた。
 そんな訳が、ない。
 泣いても洗い流せない、涙を拭いても拭えない、抱きしめられても塞がらない、心の傷とはそういうものではなかったか。
「アタシは、決めてたのよ」
 吐息交じりの濡れた声で、リリーナは囁く。
「もう同じ後悔はしないって。あんたの事、絶対護るんだって。……それができなかったら、きっともう、生きていけない。それでもあんたは、アタシに離れろって言う? オレの心配なんてするなって言う? ……護ってくれなくていい、一人でできるって、そう言うの?」
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