Nights.

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  PASSING/Y  

 気がつくと、白い場所にいた。遠くを見ていたら上下の感覚も失われてしまいそうだった。がたがたと音を立てて、電車が通り過ぎていく音がする。電車なんて、陰も形も見えないのに。
 ジークは立ち尽くしていた。頭が、どこかはっきりとしない。けれど周囲の状況は認識できた。目の前には、自動販売機の前にあるような据え付けの灰皿が立っている。それを挟んで、対面に一人の男がいた。男は肩を軽く上下させて笑う。
「ひでえツラだ」
 声が響く。
 殴りあってきた友人を呆れ半分好奇半分で冷やかすような口調だった。言ってから、男はもったいぶった仕草で煙草に火をつける。ラッキー・ストライク、焦げてほろ苦い馴染みの香り。
「納得のいかない喧嘩をしただろ。お前は昔からそうだ。リリーナを守って喧嘩した時なんか、いかにも兄貴してますってツラで帰ってくるのに、そうでない時――自分に非があるって判ってるときは特にそうだな――そういう、起こした撃鉄ハンマーの落とし先を見失ったような顔をする。やり場のない怒りを抱えて尖って、こうして俺の前で黙り込むんだ。ガキの頃から、まるで変わらない」
 男は駅で売っているペーパーバックの登場人物が言うような口調で喋った。無造作に伸ばした黒い髪と、ガン・ブルーの瞳。唇に咥えた煙草のフィルターを歯で噛み、言葉を紡ぐ。ひどく懐かしいにおいがした。硝煙と、鉄と、煙草と、微かに混ざるコロンの匂い。
 それを強さの象徴だと、少年の頃は純真に信じていたように思う。……下手をすれば、それは今もかもしれない。泣きそうになる。何を言っていいか判らなくなる。
 ジークは思う。
 ここは、どこだろう。もしかしたらオレは今、どこかひどく曖昧な、黄泉と常世の狭間にいるんじゃないだろうか。
 だって、この人には、そんな場所でしか会えないはずなんだ。
 ジークは俯いた。手の届きそうな距離に、彼がいる。もう二度と言葉を交わす事のできないはずの男が、いるのだ。
「……顔を上げろ、ジーク。泣くなよ。男だろう? お前が泣いたら、リリーナが泣けなくなる。俺がいた頃はそれでも良かったさ。けど、今は違う。……そうだろ」
 ジークは涙を、歯を食いしばって押し込めて、顔を上げた。視界の潤みがそうさせるのか、あるいはここがそういう場所なのか、相手の顔は良く見えなかった。けれど、どうしてか――彼が満足そうに笑ったことだけは、ひどく鮮明に理解できる。
「そうだ。判ってんじゃねえか」
 男は、父の――カレル=スクラッドの姿をしていた。ジークは煙草を取り出すことも忘れて、掠れ声を出す。
「……ああ。判ってるさ。教えてくれたことは何もかも。俺の中で、きっと生きてる」
 父は、もう一度満足げに頷いた。
「じゃあ俺が何を言いたいのか判るな。……話してみろよ。今日は何をやらかしたんだ?」
 カレルは諭すような口調で言う。子供の頃、何度も怒られたことがあった。拳骨を喰らったことも二度や三度ではない。けれど父は、どんな時でも、自分の言い分を聞いてくれた。
 だからジークは口を開いた。
「情けない話さ。そのリリィと、大喧嘩をやらかしたんだ」
「……」
「子供みたいに……いつまでもくっついてられないと思ったんだ、リリィと。オレがあいつを守るのはいい。父さんがいなくなって……オレたちを庇護する大人が消えて、あいつを守ってやれるのはオレ一人になっちまった。だから、俺はあいつを守ることには、何のためらいも感じない」
 静かな目で、自分と同じガンブルーの瞳で、カレルが自分を見つめているのを時々確かめるように見ながら、ジークはかすれた喉を鳴らす。
「でも、あいつは、オレのすぐ傍まで近づいてこようとするんだ。オレの背中に隠れていないで、横に立とうとする。前までは、それでもいいと思ってた。あいつに助けられたことだって何回もあったしさ。……けど、ダメなんだ」
 カレルは何も言わない。ただ煙草をくゆらせて、ジークの言葉の続きを待っている。言葉を整理するような沈黙の後で、ジークは息を吸った。
「あいつに助けられるたびに、あいつに溺れていく気がする。甘えそうになるんだ。リリィは父さんがいなくなったあの日から、ずっとオレが鍵をかけてしまい込んできたものを欲しがるんだ。辛さも苦しさも背負ってあげるって……半分にしようって。でも、出来ないじゃないか。そんなことをしたら、オレは離れられなくなっちまう。――あいつもオレも、いつまでも二人のままじゃいられないって判ってるのに、今更、なお強く依存し合うような事をしたら、戻れなくなるって。最近、そんなことばっかり考えてた。……間が悪かったのかもな。こんなことが頭から離れないような時に、あんな話が出たのは」
 言葉を切って、まとまらない言葉を無理やりに束ねる。ジークはカレルを確かめるように見つめながら、続きを切り出した。
「今日、分室で、仲間と話をしたんだ。仇を討った後、ナイツを抜けた連中の話でさ……そいつらには、分室を抜けた後に縋るものがあったっていうんだ。生きていくための活力みたいなものが。うらやましい話だって思って、気がついたんだ。オレにはそういうのが、なにもない。ジェイルを殺した後、何をしようかなんて、考えたこともなかったって」
 言葉を切る。ジークはかすみがかかったような思考の中で、それでも言葉を文章として固めた。灰皿を挟んで対面に父がいる。何か、聞きたかったことがあったような気がしたのに、思い出せない。
「――それで?」
 促すような声が聞こえて、ジークは慌てて続きの言葉を引っ張り出した。
「その時にさ、リリィがオレの顔を見て、言うんだ。『どうしたの』って。余計な心配、させたくないからさ。何でもないって流そうとしたら、『嘘ね』って。あいつ、聡いから……下手に隠そうとしたって、すぐにバレちまうんだ。オレは分室の外に逃げて、隠そうとした。けどあいつは室長を頼りにして追いかけてきて、言い募るんだ。悩みなら聞いてあげるからさっさと出しなさい、ってさ。――情けないって言うのもさ、それなんだよ。よりによって、押し問答の果てにキレたのはオレが先だった。あいつの詮索を要らないって全部遮った。頭に血を上らせて――自分が正しいつもりになって。導火線に火をつけたのにも気付かないままで、まくしたてたのさ。……判るだろ。あとは。したり顔でまとめに入ろうとした途端、大爆発だよ。締めの一言は言えずじまいで、食い違ったまま、オレたちは真怨と遭遇戦に入った」
「……それでこんなところにいるってことは、そっちの喧嘩もロクでもないものだった、って訳だな。大体判った」
 カレルは煙草を、目の前にある灰皿で揉み消した。
「……ジーク、お前の悩みに俺は答えられない。けどな、一つだけ言えることがある。人生の先輩としてな」
 カレルは手に持ったラッキーストライクのソフトケースを揺らすと、溜めを作るように、数秒間沈黙する。やがて煙草のケースの上面を強く人差し指で叩くと、飛び出たフィルターを口に咥えてにやりと笑った。
「火消しは早いほうがいい。特に女がらみのことは。あいつらは論理より先に感情が出る。燃え上がったら、男は絶対に勝てないのさ。火の玉みたいになった女を宥めるには、謝罪と甘いものとキスがよく効く」
「……父さん。三つ目はどうかと思う」
 ジークがぐったりしたような口調で言うと、カレルはおもむろに真剣な顔を作って、
「実はリリーナは腹違いの子でな」
「その冗談聞き飽きたし笑えねえよ。大体腹違いでもアウトだろ」
「愛があれば」
「三文小説かよ」
 次々と真顔でとぼける父親の顔に、ジークは思わず笑いを零した。肩を震わせて、そんなに笑うところでもないはずなのに、声を上げて笑った。
 ――電車の音が少しだけ鮮明に聞こえる。さっきよりも少しだけ。
 頭に掛かった霧が、少しずつ晴れていくようなイメージがある。目の前にいる父の顔は、少しずつぼやけていくのに。
「……おいおい、そこまで笑うこたないだろ」
 カレルが肩を竦めた。それを見て、ジークは顔を覆って笑った。歯を食いしばって、震える肩で、父に言葉を返さないままで笑いつづけようとして、息を詰める。
 気付けば終わってしまう。だから考えないように逃げたかった。でも、現実はそんなことにはお構いなしだ。警報器の音が聞こえる。電車の音が耳鳴りみたいに、小さく、でも確かに耳の奥にこびりつく。
「……リアリストってのは、いけねえな。お前にはロマンチストになって欲しかった。どこにもない天国を、それでも求めるような、チープな夢を掲げるロマンチストに」
 ジークの耳に声が聞こえる。それは使い古したテープレコーダーから出たような、曖昧にかすれた声だった。 
「知ってる……知ってるさ。だって、何回も言ってくれたもんな」
 ジークは、ぐしゃぐしゃになった声で呟いた。
 そう、聞いた事のある声ばかりだ。父が今喋ったことは全て、ジークがカレル自身から聞いた事のある言葉ばかりだった。カレルは答えをくれない。あのカレルは、                 ジークがしらないことを、しゃべれない。ジークは思考から目を逸らした。気付けば終わってしまうと、何度も何度も自分に言い聞かせた。
 熱く濡れる目を、手のひらで擦り上げるみたいに拭う。それでも溢れてくるものは止まらない。視線の先には、困り笑いの父の顔だけがはっきりと見える。
「……お前はもう気付いてる。お終いなんだと」
「そんなこと……」
「いいや。気付いてるのさ。だから俺がこう言ってるんだ」
 違う、とジークが言い募る声をカレルは腕で制した。
「お前は理解してる。自分を待っているヤツがいることを。そして自分がリアリストであることを。……なあ、ジーク。これ以上俺に喋らせるな。俺はお前が気付いていないことを言えても、お前の知らないことは言えないんだ。……俺を目覚めた時が悲しい ユメにしてくれるな」
 カレルは一歩踏み出して、右手に持ったラッキー・ストライクのソフトケースを差し出した。ジークは直感的に理解する。それを受け取ったときが、この会話の終わりなのだと。
 カレルは言う。涼しい声で、ジークが憧れて止まなかった理想の声で。
「行けよ、俺の自慢の息子。生きていけ。自分の足で踏ん張って生きていけ。さっさといなくなっておいて酷な言葉かもしれないが、何、世の中なんていつだって酷なもんだ。幸せを掴み取らせてくれないくせ、苦難ばかり平気な顔で押し付ける。……けどな、折れるな。斜に構えても、曲がっても構わない。だが折れるなよ。そうすることが出来るだけの強さを、俺はいつだって背中で教えてきたつもりだ」
 カレルが強く突き出した煙草のケースが、ジークの手のひらに当たった。カレルが促すように頷く。
「……ずっと見てたよ」
 ジークは嗚咽を噛み殺した。
「ずっとなりたかったんだ、父さんみたいに。強く、なりたかったんだ」
「なれるさ」
 父の姿をした幻影が笑った。
「――お前とリリーナは生きていく。お前が悩むように、リリーナも悩むだろう。その悩みはきっと背中合わせの螺旋形だ。一人で考えても答えが出ないなら、二人で考えて叩き出せ。数多ある悩みと答えの階段を上った先に、強さはある」
 一息、
「駆け上れよ。お前なら出来るさ」
 頬を伝う雫を振り払って、ジークは煙草のケースを握る。カレルの手がケースから離れる。
 父は背中を向けた。はためくコートが、周囲の白に融けていく。蜃気楼のように父の姿が揺らめき、世界ごと静かに薄れて消えていく。
「……強くなるよ!」
 いつか少年だった男は、消えていく背中に叫んだ。煙草の箱をつぶれるくらいに握り締めて、涙をこらえて叫ぶ。
「もっと、きっと、ずっと――強くなるから!!」
 見えなくなる寸前に、父が手を挙げた。別れを告げるように。世界が希薄になって、ジークの意識は浮上した。
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