Nights.

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  TOMOSHIBI V  

 凄まじい落下速に我を失わないでいられたのは僥倖だったと、笹原志縞は考える。
 下に光が見えたとき、彼は側面の壁を蹴り飛ばし、さらに反対側の壁に足をつけた。三角跳びの要領で速度を落としながら降下していく。幅三メートルほどのチューブ状の竪穴を果てしなく下って行き、竪穴の終わりで速度を殺しきりながら、敷き詰められた石畳へと降り立つ。
 ドームのような空間。そこには、既に先客がいた。
 反社会的な、真赤な髪の毛。ピアス代わりか、左の耳たぶに通された安全ピン。右手に黒い革手袋を嵌めている。左手には、何もない。擦り切れたジーンズと、モスグリーンの革のジャケットを着ていた。年齢は、志縞と同年代といったところか。
「……」
 無言のまま、赤髪の男が志縞に向き直った。
 志縞もまた、口を開かぬまま赤髪の男を見やる。彼我の距離はおよそ五メートルほど。同じリングの上に立っているほどの距離だ。一度踏み込めば、瞬時に格闘戦の間合いになるだろう。
 赤い髪が揺れた。男が、僅かに前傾姿勢を取る。それに応じて、志縞もまた、ゆっくりと身体を前に傾けた。
 石畳が、幾枚か吹き飛んだ。
 踏み込みによって砕けた石畳の破片が地面に落ちる前に、拳が交錯する。志縞の右拳が、相手の左拳によって止められていた。軋むような一瞬の静止のあと、衝撃を発露し、相手の拳を弾く。拮抗が解除された瞬間、瞬きの間すら許さず、相手が踏み込んできた。黒い手袋――迫撃手甲インパクトグラブをつけた右拳が繰り出される。
 相手の拳を外側に弾くように、左手のガードで相手の拳を叩いて、志縞は驚愕に目を見開いた。
 止まらない。
 あまりにも重たい拳が、不動のものであるかのようにガードを逆に弾き、強かに志縞の胸を叩いた。突き抜ける衝撃に、息が止まる。足が地面から離れる。あまりの威力に、身体が後ろに放り出された。心肺機能が一瞬マヒして、動きが停止する。
 そうなることが判っていたように、赤い髪の男は爆発的に踏み込んだ。吹き飛ぶ志縞に追いつき、その襟首を掴んで地面に叩きつける。
 拍動を再開しようとした心臓がまたも衝撃に圧迫され、視界が明滅した。
 咳をすることさえ許されない。酸素を無駄にはできない。
 志縞は仰臥した態勢のまま歯を食い縛り、右拳を繰り出そうとした。しかし、間髪入れずに敵が左足で上腕を踏みつける。拳がロックされたように止まる。苦し紛れに左拳を突き出すが、力の入っていない突きは、黒い手袋を嵌めた手に易々と受け止められた。
 赤髪の男の右膝が鳩尾にめり込み、横隔膜が押し上げられる。えづくような声を上げた時には、左拳が志縞の顔面に突きつけられていた。
「……よくそれでここまで生き残ってこれたな。それとも相手がよほどの腑抜けばかりだったのか?」
 歌い疲れたように掠れた、深みのある声で赤髪の男が呟いた。拳を引いて、立ち上がる。
 解放された志縞は咳をこらえ、歯を食い縛ったまま冷たい床に手をついた。おぼつかない所作でふらふらと立ち上がる。返す言葉はない。実際に一度、相手にねじ伏せられた以上、それ以上は何を言っても言い訳だった。
 呼吸を整え、拳を握りなおす。目を刃のように尖らせ、今見た相手の動きをもう一度頭の中で反芻する。それが済めば、黙って拳を持ち上げる。志縞は、ただそれだけのことしかしなかった。ファイティングポーズは、ただただ続行を望む姿勢だ。弱気になることも、過度に怒ることもない。
 強くなることしか、頭にない。
「……どうやら、ただのヘタレってわけじゃあなさそうだ」
 赤髪の男はニヤリと笑うと、肩幅に足を開いた。左の手のひらを胸の前ほどに構え、右拳は握って引き気味に、脇腹の横に構える。やや崩れた、空手の構えだ。
「"震撼グランドスラム"――ナギサワ・カガリだ。霊結等級エーテルゲインW+フォースプラス。お前から見て先々代になるかな、インパクトグラブのマスターをやってた」
 やや饒舌に語る赤髪の男――カガリを前に、志縞は静かに口を開いた。
「エーテルゲイン・サードプラス。"空撃エア・ボマ"、笹原志縞」
 名前と等級だけを名乗り、口をつぐむ。後は揺らがぬ構えを取る。半身立ちになり、左拳は顔の高さに。右拳は顎に触れるか触れないかの位置につけ、脇を締める。
 一糸乱れぬファイティングポーズに、カガリが唇を歪ませた。
「そのクソ根性だけは認めてやるよ。掛かってきな、こいつの使い方を教えてやる」
 カガリが右手だけに嵌められたインパクトグラブを叩くのを見ながら、志縞は再び踏み出した。
 真正面からの接近戦だ。突っ込んで距離を測るように衝撃を伴ったジャブを連発する。カガリはステップと左手だけで拳の連発をかわし続けた。
 さらに強く踏み込んで右のストレートを繰り出した瞬間、カガリは身を沈めながら首を傾げるようにして拳を回避し、あっさりと手首を掴んできた。呆れたように口を開く。
「大振りすぎるぜ。その構え、ボクシングでもやってんだろ? ならもうちょっとマシなパンチを出せ」
 前に引っ張られるような力の動きに、志縞は目を剥いた。視界がめまぐるしく入れ替わり、身体が浮遊感に包まれる。投げ飛ばされた、と思い至った瞬間に空中で身をひねり、寸でのところで着地する。すぐに相手に向き直ってバックステップし、間合いを取った。
 志縞が軽業師も驚くような身のこなしを見せようとも、カガリには驚いた風もない。退屈そうに首を回している。
 拳はことごとく防がれる。……となれば、技を使って対処するしかない。
 志縞は左手の親指を強く弾いた。圧搾された『衝撃』が高速で射出される。二発、三発、連続的に撃ち出した。空気が張り裂け、甲高い破裂音が鳴る。
「……っと」
 カガリが左手を上げた。顔面だけを守るようにガードを固める。衝撃の弾丸が次々と着弾し、足が止まる。
 その隙を見逃さず、志縞は右腕を伸ばした。イメージは剣、手刀の先に衝撃を幾つも細片として連ねるイメージを走らせる。切れ味など要らない。必要なのは、対象を破断する一打限りの重い打撃だけだ。
爆撃空域・四式デストラクトエア・デルタ……」
 重ね合わせて七百十二、その間を意思という名のワイヤーで繋ぐ。その瞬間、連ねた衝撃は一本の剣となる。左手から忙しなく衝撃弾を連射しながら、志縞は地を蹴った。
 足を止めたままのカガリに肉薄し、疾風のごとく踏み込む。大上段に構えた手刀を、骨まで断てよとばかりに振り下ろす。
爆裂空刃クルードセイバーッ!!」
 透明な衝撃の剣がカガリを真っ二つにせんと奔った瞬間、赤い髪が揺れた。
 腰溜めに構えられていたカガリの右拳が上を向く。燐光を帯びた黒い拳が、無造作に突き上げられた――その刹那。志縞は目を見開いた。
「――!?」
 重金属がひしゃげるような音を立て、クルードセイバーが中心からへし折れる。無数の衝撃の細片が宙を舞い、次々と破裂した。空気が歪む。
 暴風に等しい余波が衣服をバサバサと翻らせる中、カガリは溜息混じりに肩を竦めた。
「待っててやったが、その程度か。溜めが必要でその威力じゃ、羽虫を殺すのが精々だな」
 必殺の筈の一撃を叩き潰されてたたらを踏む志縞を前に、カガリは右の拳を引いた。正面から背中が見えるほどに身体をひねる。禍々しいまでの威圧感と、放たれるまでもなく理解できる破壊力の存在感が、志縞の本能を揺さぶった。
「"固着衝撃ブロークン・エア"」
 涼やかな声で、カガリが呟く。
 ――あれは、ボクシングで言うとするならばジョルト・ブロー。
 理想的なウェイトシフトと、全身のしなやかなバネを総動員した打撃だ。バックステップは間に合わない。つんのめった上体を起してガードを上げるので精一杯だ。
 覚悟を決める間も無く、剛拳が唸りを上げた。
圧鍵マグナム!!」
 カガリの拳の周りに、赤色の螺旋が渦巻くのが見えた。それが空気摩擦によるものだと理解した瞬間、全身がひしゃげた。
 ――オレが相手にしたのはなんだ? たった一人の男の拳じゃ、なかったのか?
 その一撃を前に、ガードに使った左腕が、痛みを感じる前にへし折れて壊れた。
 腕から伝播した衝撃が、背骨を軸とした体幹を右側に歪曲させる。トラックに横からぶち当たられたところで、体験できそうにない衝撃だった。すぐに、砕けた腕ごと顔面を叩かれて、首がねじ切れそうな衝撃が来る。
 意地を保てたのは、そこまでだった。
 自分の膝が地面に落ちる感覚を最後に、笹原志縞は意識を手放した。


「……鍛え甲斐のあるやつが来たもんだな」
 カガリは頭に手をやり、髪を掻きまわした。
 視線の先では、倒れ臥した笹原志縞という男が少しずつ光になって消えていくところだった。
 完全に彼の姿が消える頃、どすん、と腰を下ろし、大きな欠伸をすると、ジャケットの内ポケットから取り出した煙草に火をつける。
 うまそうに吸い付けて、煙をふわふわと宙に浮かべた。空中に伸びる副流煙は、やがて薄れて空気と混じり、消えていく。
「随分と人間臭いことをなさるんですね」
 煙を見上げていると後ろから声が聞こえて、カガリは肩を竦めた。
「そういう風に出来てんだ。あんただってそうだろ?」
「少なくとも私は、そういう無駄な事はしません」
「無駄ってなぁ、またご挨拶だな」
 ゆっくりと立ち上がり、振り返ると、灰色のコートを着た少女が立っていた。胸にあしらわれた、金の縁取りをした紅玉のブローチが目を引く。無表情がちで、明るい茶色の髪とは裏腹に、落ち着いた印象を与える顔の造作をしている。
「あんたが出てくるのはもうちょっと後じゃなかったのか? 俺に歯が立たないようじゃ、あんた相手はまだ無理だろ。それとも、成長を見越した上の意向かい?」
「そういうことになりますね。ここの主は、随分と彼のことを買っているようです。だから私も呼び出された。この、忘却領域ロストメモリーに」
 淡々と話す少女に、カガリはへえ、と気のない相槌を打った。煙草を深く吸うと、薄く煙を吐き出し、ゆっくりとした語調で問う。
「で? あんたから見て、あいつはどうだい。見込みがありそうか?」
「天才ではありません。それは確かです」
 少女はコートの裾を揺らしながら、ゆっくりと、先程まで志縞が倒れていた場所に歩み寄った。地に視線を落とす。
「……そう、私やあなたのように、初めから様々な事が出来るタイプではありません。けれど、彼には折れない強さがある。それは、私やあなたにはないもの。……違いますか?」
 振り向いて問いかけてくる少女に、カガリは苦笑がちに応じた。
「――そうさな」
 煙草を上向きに吐き捨て、右拳を繰り出す。風船が割れるような音を立てて、煙草は無数の細片となって飛び散った。
「間違っちゃいねえよ。俺は逃げたのかも知れねェ」
 まだほんの少し白く濁る息を吐き、カガリはポケットに手を突っ込んだ。
「俺には、相棒を護り通す自信がなかったから。だから、一緒に逃げた。戦うあいつを見ていたくなかったし、血反吐を吐くのも吐くのを見るのも、もう沢山だった。――魔具を返すには、十分な理由さ」
 言葉を切り、右拳を握る。
「……自分がこんなだからなんだろうな、あいつみたいな真っ直ぐなヤツを見るとさ、羨ましくなるんだ。ああいうヤツは、自分を疑うってことをしない。守ると決めたら、守れるか、だとか守れなかったらどうする、とか、そんな事は考えない。ただ守る――そのためだけに、どこまでだって強くなれる。……昔知り合いにいたんだ、そういう無鉄砲なヤツが。――だから、解るんだ」
 長い言葉の後に、カガリはおもむろにドームの天井を仰ぎ、深く息を吸って、吐いた。肺がちくりと痛んだ気がした。実体など、もうここにはないのに。
 人形劇じみていた。ここでこうして、仮初めの思考を得て、同じ虚像と言葉を交わす自分自身が。
 視線を天井から下ろす。少女と目が合う。彼女は目を細めると、ゆっくりと背中を向けた。
「あなたは死なず、死なせないうちに夜から抜け出したんでしょう? それなら、それは一つの生き方ですよ。社会の中で一人のパートナーを守り抜いていくことも、戦いには違いありません。ただ舞台が変わっただけ」
 後悔を言葉の端に滲ませながら、少女は呟く。
「……私のように、大切な人を死なせてからでは、何もかも遅いんですから」
 言葉を聞いて、カガリは耳に通した安全ピンを撫でた。溜息をついて、少女の後姿を見送る。
「……俺のやり方でヤツを鍛え終わったなら、そん時はあんたの番だ。頼むぜ」
「無論です。それでは」
 ひゅん、と掻き消える少女。
 見送ってから、カガリは腰を下ろし、身を投げ出すように仰臥した。目を閉じる。
 眠気はすぐに訪れた。また目覚めれば、あの銀髪の男が鋭い目をして、自分の前に立っているのだろう。
 それまでは仮初めの空間の中で、仮初めの眠りに付こう。
 頭の下で腕を組む。――ギターの音色と彼女の歌声が恋しかった。
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