Nights.

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  Strike back  

 空気を裂く音がして、六牟黒の右腕からキラキラと光る鮮血が飛び散った。暗闇の中で黒は二歩ほど後退し、たたらを踏む。多少の傷では死なない自信はある。表情をゆがめずに、左腕で傷口を握り締めた。溢れ、光を撒いて昇華して行く血は止まり、傷が塞がる。
 これで八度目か。黒は攻撃を受けた回数を冷静に計算し、自分のコンディションと、あと何度耐えられるかを客観的に考える。
「気に入らないなぁ」
 平衡感覚さえ失ってしまいそうな闇一色の空間の中で、黒と差し向かった真怨――セスタス=オリーブシェルは嘯いた。彼の周りには銀色の、甲虫に似た何かが飛び交っている。
「何がかね」
「その顔だよ、六牟黒。もうちょっと絶望的な顔をしてみてもいいんじゃないかな? ゴミみたいなルーキーが二人でユイに敵う訳がないし、カミラもジェイルも一対一であんたのところの猟人を殺しに掛かってる。まあ、いくらそいつらが強くたってあの二人に掛かれば時間の問題だよね。そして、この分室の機能は僕が封鎖した。君は袋の鼠ってわけだ」
 セスタスの言葉はおおよそ正しい。黒はそれを理解していた。真怨を相手取るときは熟練した猟人で二人一組、そうでなければ三人、四人一組で挑むのが普通だ。加えて、今は司令塔であるこの分室自体の機能が封じられている。
 確かに、状況は、笑い出したくなるほど絶望的だった。
「ジェイルは油断するなって言ってたけど、僕にしてみればあくびの出るほど簡単な仕事だったよ。人間ごときを相手にして僕の全力を振るったのが間違いだったかって思うくらいにね。言ってみれば、今のあんたは俎上の鯉だ。僕の機嫌をちょっとでも損ねれば、仲間の首を拝む前にあんたは死ぬんだよ。そこのとこ、判ってる?」
 ばひゅ、と空気を裂く音。咄嗟に身を翻すが、大腿部が切り裂かれて持っていかれる。避けなければ右足が使い物にならなくなるところだった。僅かな汗を浮かべながら、黒はまた患部に手を当て、傷口を最低限度に塞ぎ、癒す。
「これでも十分心得ているつもりだ。だが、俺にもささやかなプライドというものがある。そうやすやすと折れはせんよ。セスタス、と言ったか、真怨。聞かん名だな。まだ年若いか」
「さっさと諦めた方が楽になれるってのにね。……そうとも、まだ名は知れてないさ。けど、僕はジェイルに形を貰った、言ってみれば色彩闇洞の生え抜きさ。すぐに名前も知れ渡る……分室を潰したとあればね」
 愉快そうに言うと、セスタスは端整な顔を粘着質な笑みに歪めて、嘲笑うように言った。
「……ああ、それとも今更十三番分室ここを潰したっていったって話題にもならないかな? 『ああ、またあそこが潰れたのか』ってさ」
「……」
 黒はギリ、と歯を噛み締めた。――十三番分室ネームレス。この分室に名前がないのは、名前をつけて再編するたび、そうなる事が決まっているかのように、主要なメンバーが死亡するか、または全滅するか、という憂き目を見て解散してしまうからだ。他のあらゆる分室が、そうはならないというのに。
 分室が終わって、また始まる瞬間ポイント・ゼロが、他の分室に比べて圧倒的に多い。ナイツの歴史を見ても、長期欠番になっているのは十三番分室を置いて他にないのだ。
 近い歴史を見れば、先々代は全滅。分室解体。十数年ぶりに再編された先代では、十三番分室の主要メンバー、カレル=スクラッド、天木戒アマギ・カイ、レイン=ヴァスケンスの三名のうち、二名死亡、一名退役。分室解体。そして現行十三番分室では、三年前に芝崎十夜、一之瀬有須イチノセ・アリスの二名が死亡している。辛うじて、危ういバランスの上で、この分室は続いていた。
 ジンクスがあるかのように、十三番分室は危うい。ここ三年ばかりは小康を保っていたが、今夜ばかりはそれも破られたと言わざるを得ない。黒は、深く呼吸をした。
「……お喋りが過ぎるな。あまり余裕を見せていると足元を掬われ……」
 るぞ、と言い切る前に、うるさそうにセスタスが右腕を振った。甲虫が二匹、視認出来ないほどのスピードで空を裂き、黒の右腕と右肩に突き刺さる。声も出せない。黒の身体は風にあおられた木の葉のように一転して、勢いを殺せぬままに黒い地面へと叩きつけられた。痛みに迸る呻きを噛み殺す。
「誰に向かってモノ言ってるんだか、そのちっちゃな脳みそで考えてから喋りなよ? ムシケラ同然の人間の身の上でさ、この僕に意見しようってのはちょっと傲慢じゃないかい? ん?」
 セスタスの言葉を聞きながら、黒は伏臥した姿勢のまま、傷の具合を確かめる。右腕に力が入らない。辛うじて動かす程度は出来るが、そのたびに激痛のおまけがつく。使い物にならないと諦めるには十分だった。
「俺はいつでもものを言うときは熟慮してから口を開いている。しかし、倒すべき敵に礼節を尽くす理由などあるまい。それが怨敵であれば、尚更だ。我々は侍でも騎士でもないのだから」
 左手を地面につき、ゆっくりと身を起こそうとしたとき、爪先が目に入った。同時に、顎に衝撃が走る。今まで伏臥していた姿勢から、一瞬で自分の体が宙に浮いて一転するのを感じた。背中から真っ暗闇の地面に叩きつけられ、肺から空気が全て吐き出される。背中で少しだけ地面を滑り、黒の身体は停止した。
 セスタスの声が、嘲弄するように響く。
「生意気なんだよ。人間が僕らに意見しよう、ましてや立ち向おうなんてのは、おこがましいにもほどがあるんじゃないか? 僕らの根本は、あんたらが描いた最も激しくて醜い感情……憎しみや妬みやそねみの塊なんだから。今更都合のいい希望を思い描いたって、この状況がひっくり返ることはないんだよ」
 黒の肩から溢れる血液は、滲み出るたびに昇華するように、僅かな光を伴って痕も残さずに消えていく。左手を右の肩口に当て、傷口を塞いだ。ゆっくりと身体に力を入れ、起き上がる。地面に膝をつき、現在の時刻を感じ取る。午前二時十五分。
「何が……おこがましいものか。ナイツは、あらん限りの心の力を振り絞り、貴様らを排除するために魔具を取ったエキスパートの集まりだ。魔具を持った以上、貴様らと我々は対等なのだよ、セスタス。希望はいつも胸の中にある。今更その程度の脅しを受けたところで、いちいち震え上がっていられんさ」
 立ち上がり、黒は不敵な顔で言った。薄い笑みを唇に貼り付け、鋭い視線でセスタスを射抜く。セスタスは目に見えるほどの苛立ちを表情に乗せて、右手をぴたりと顔の横に挙げた。十数匹の銀の甲虫の動きが指揮されたように揃い、彼の身体の前で、角の切っ先を黒に向けたまま静止する。
「あんまりイライラさせないでくれないかなぁ? そういうね、正義は必ず勝つ! って顔をした手合いが、僕は一番嫌いなんだよね。……付け加えて言うなら、そういう連中の退路を、虫の足をもぐみたいに一本一本ちぎっていって、顔をぐしゃぐしゃにして助けを請うのを見るのがたまらなく好きなんだけどさ。もうそろそろ諦めて命乞いでもしてみたらどうだい、そっちが素直ならさ、ジェイルに僕から口添えしてやってもいいんだよ?」
「聞く耳持たん」
 応答はひどく簡素だった。黒はたった一言で、セスタスの言のすべてを否定する。
「……く、く……」
 セスタスは僅かに肩を震わせた。やがて笑い声は弾けたような哄笑に代わる。
「くく、ふ、あはははっ、ははははははははははっ!!」
 楽しくてたまらないと言う風に、少年の形をした真怨は表情をゆがめて、天を仰いで黒の言葉を笑い飛ばした。ぴたり、と笑い声が止まったとき――ゆっくりと黒に視線を戻した彼の顔には、
「じゃあ、死ね」
 思い通りにならない存在に対する子供じみた――だがそれゆえに強い――憎悪の念が色濃く出ていた。セスタスが腕を振るのと同時に、嵐となった銀の甲虫が黒に殺到する。視認して避ける暇は、無論ない。右腕に一匹突き刺されば、あとはもうそのまま直撃が続くだけだった。突き刺さった数を数えられたのは四体まで。喰らった数がそれより多いのだけは、間違いない。
 突き刺さった衝撃で黒がたたらを踏んだ瞬間、セスタスが伸ばしきった右手の拳を握り締めた。それを怪訝に思う間も無く、黒に限りなく近い位置で爆音と衝撃波が巻き起こる。黒に聞こえたのは、ばぐん、というくぐもった破裂音だけだった。衝撃波に押されて吹き飛ぶように倒れ、甲虫が刺さったであろう位置から急激に血液が昇華し始めることを感じて、初めて、セスタスが甲虫を爆破したのだと気付く。
 死、という一文字が僅かに思考をよぎる。しかし、黒はそれでも動きを止めなかった。まだ死んでいないのなら、死んだらどうしようと考えるのは愚考だ。今の状況を脱却することだけを考えていれば、それでいい。
 自分から外れた甲虫がセスタスの元へ舞い戻るのを見ながら、黒は左手で傷口をなぞる。傷口を消す。実際のところ、中身を完全に修復することは出来ていない。だが、それでも出血を防いで最低限動けるようにはなる。
「……へぇ、今ので殺せないなんて、意外と頑丈なんだなぁ。ちょっと意外だったよ。室長は大体脆いもんだって聞いてたからね」
 セスタスが悠長に声を紡ぐ。それに答えてやる必要はない。次の一撃に何が来るかだけを真剣に見ていればいい。
 ――今のが来るなら保ってあと一発。今以上のが来れば、おそらく次で死ねる。
 冷静に自分の限界を見極めながら、黒はゆっくりと身体を起こし――

 そして、
 待っていた電話のベルを聞いた。

「……なんだ? 六牟黒、こりゃ何の悪ふざけだい? 今更こんな音を鳴らして、僕が慌てるとでも?」
 セスタスが怪訝な顔を浮かべながら呟いたときには、黒の唇には隠していたジョーカーを切ったときの微笑が浮かんでいた。
「暗号化」
 黒はベルの鳴り響く中で囁いた。
「……何だ? 何を言ってるんだよ、おまえ……気でも触れたか、僕は何もかも遮断してるんだぞ!」
 セスタスがわめき散らす声に合わせて、甲虫がやかましく羽ばたく。
 黒はゆっくりとボロボロの左腕を虚空へ伸ばし、握り締め、引き寄せた。ベルが止まる。彼の手の中にあるのは――アンティークな電話の受話器。
「ステルス。秘匿回線より外部との接続を確保」
 呟くと同時に、回線の維持に努めていた演算機能を全てそのまま接続の維持に当て、察知される前に全ての作業を実行する。召還用のルーチンを組み替え、強制召集を行なえるようにアレンジ。二十番分室に許可を取る時間が惜しい。向こうのシステムの一部を乗っ取る。短時間のみでいい。
 今や六牟黒は、高性能なコンピュータに等しかった。
「圧縮情報展開。デーモン起動。二十番分室の転送機能をクラッキング、転送権を管理者権限アドミニストレーターモードで取得。期間五秒。アクセス、所在人員の検索、検索キー『十三番分室』or『三十九番分室』、開始、結果取得、四名ヒット、検索結果を対象にディストース・ワープ開始。着地点――」
 次の言葉は勝利宣言に等しかった。そこで初めて、六牟黒は誇るように笑った。
「十三番分室」
 超高速で情報処理を行ないながら、黒はゆらりと立ち上がった。口元には笑みが乗っている。セスタスは目を見開いた。……暗号化した通信内容は、黒と通信先以外の何者にも知ることは叶わない。
「……ろ、六牟黒、おまえっ……」
 信じられない、とばかりに、セスタスは一歩後退った。今までの完全優位の状態に、水盆に混ざる墨のような不安感が落ちたときの心境、そして思考。黒には、経験の浅いその真怨がどのような思いを抱えているか、手に取るようにわかった。
 黒の笑みを奮い立たせた怒りで打ち砕こうとするように、セスタスは両手を突き出して何節か呪文を詠唱した。聞き取れないほどの早口、高速の圧縮詠唱。銀の甲虫がその数を増やし、十数匹しかいなかった甲虫は、今や群れと呼べるレベルにまで数を増やしていく。
「死ね、死ね死ね死ね死ねぇえぇぇぇっ!!!」
 逆上したセスタスが群れを従え、一直線に黒を指差す。黒の笑みは崩れない。真怨はそのとき初めて、顔に恐怖を浮かべた。黒はそれを笑っているのではない。一歩間違えばあの表情は、自分が浮かべていたものだから。
 彼は――ただ、頼るべき仲間たちが到着することを喜んでいた。
 命令を受けた甲虫が、群れになって黒へと襲い掛かる。銀の嵐に巻かれれば、いかな彼といえども今度こそは即死する――はず。
 しかし、
「……!!!」
 呼吸を止めたのは、セスタスの方であった。甲虫が空中で透明な『壁』にぶつかり、火花を散らした。


「詰み、だな。俺の勝ちだ」
 セスタスの視線の先で、黒はボロボロになった服の裾を摘み、肩を竦めながら言う。
「ジェイル=クリムゾンメモリーは俺の恐ろしさをよく知っている。俺が奴の恐ろしさを知っているように。だからこそ奴は油断するなと貴様に命じたのだろう、セスタス=オリーブシェル。流石に分の悪い賭けだったが……諦めないで待ってみるものだ。俺と俺の仲間は、貴様が予測していたものよりも遥かに優秀だったということだな」
 一拍遅れて甲虫が地面にぼたぼたと落ちる。黒の後ろに気配が生まれ、小柄で可憐な少女が姿を現した。黒を守るように進み出た少女は、怒りを孕ませてセスタスを睨みつける。
「ぼ、僕のクラッキングから回線を秘匿して維持するなんて、……この僕を欺くなんて、……人間ごときがァァァっ!!」
 セスタスは絶叫を上げ、最大出力で攻撃するために十三番分室の制御権を放棄した。その瞬間から地面が再構築され、十三番分室はいつもの姿を取り戻し始める。セスタスが腕を振り被る。
「あああああああああああああああああああっ!!」
 喉を枯らす様な叫びと共に振り下ろされた腕は――しかし、何も生み出しはしなかった。ただ、ひゅるひゅると部屋の隅に、細い腕が、プラモデルの部品のように何気ない調子で飛んで、どさりと落ちただけだった。
 セスタスは喉を潰したように、ひゅうひゅうと声にすらならない息を発しながら、存在しない自分の右腕を見た。
 ばち、ぃ。
 火花の散るような電荷の音。視界の隅に、真っ青な長いポニーテールが映り込む。長い髪だった。刀を納める鍔鳴りの音がキィン、と響くのを聴いた瞬間、セスタスに戦う気力など、すでに残されていなかった。
 その髪の主を見ることもせず、ただ離脱しようと地面を蹴る。しかし、――足が動かない。
「……!!」
 恐慌状態で見下ろせば、足は地面に吸い付くように凍っていた、、、、、。視線を上に戻した瞬間、胸に足に肩に腕に喉に、一瞬で凍ったように冷たい刃が打ち込まれる。身体の芯が痺れる。凍える。恐怖に引きつった声さえも、貫かれた喉では漏らす事ができない。
 温度がゼロを通り越してマイナスにシフトしていく。身体が凍結していく。気がつけば、いつの間にかカウンターにもたれるように、藍色のコートを着た女が立っている。セスタスに向かって折れた剣を向けていた。
 白濁していく視界の中、黒いコートが視界一杯に映りこんだ。それは、正しく死神の衣に見えた。無表情な顔、尻尾のようにベルトが揺れているのが見える。女だった。――上から下までが、全て不吉の象徴に見えるのは、その女が黒猫に似ているからなのかもしれない。
 身動きはすでに取れない。恐怖で、思考が飽和している。女は、きつめの目に一片の感情さえ浮かべることなく、コートの前を肌蹴た。手を入れて引き出す、長い、長い、何か――それが大槌であることを認識した瞬間、黒い影が翻るようにぶれる。
 ――直撃インパクト
 セスタス=オリーブシェルの意識は、恐怖に凍えたまま、身体と一緒にばらばらになって吹き飛んだ。
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