Nights.

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  Nightmare Now  

 その日は飛ぶように時間が過ぎていった。
 蜷川と一緒になって遊んでいるうちに、胸の奥のわだかまりは少しだけ引っ込んだ。蜷川が楽しそうに笑うから、おれも一緒になって笑う事ができた。そのうちひょんな弾みから後ろをつけて来てる二人組の姿に気付いて、最後はダブルデートというか集団ダベりというか、そういうなあなあな状態になったりもしたんだけど、こういうのもありだろう。大谷も香坂も最後は笑っていたし、多分いいのだ。香坂は時々ぶつくさ言ってたけど。
 大体、あのルックスで、横に大谷を連れて尾行というのが土台間違ってる気がする。唇にピアス、キャラメルカラーでウルフカットの髪、そして男なら誰でも羨むような長身。美男美女のカップルがこそこそと物陰に隠れながら誰かを尾行してるあたりで、それはすでに尾行とは呼べなくなっているというかなんというか。
 ただでさえ感覚が過敏になってる今日にそんなことをされたら、流石のおれでも気付くってものだ。夕暮れ、流石に肌寒くなってきたあたりで、入り口に戻ってきて解散。おれは当然ながら香坂に言い含められていたり、朝のこととかがあって心配だったりで、蜷川を伴って帰路に着いた。
「えと……楽しかったです。それと、誘ってくれて、すごく嬉しかったです」
 家まで送って手を振る段になって、蜷川がくれた言葉が胸に響いた。これが香坂だったらこんな台詞は言うまいなと何となく比べてしまう。……いや、猫被りモードだったら言うかもな。そのあとドアの向こうで舌を出してそうだけど。

 それから少し時は流れる。
 時刻、午前一時四十七分。

「昏闇が何故無尽蔵に発生するのか、理由がわかるか」
「人間はいつも鬱屈して生きてる。フラストレーションとストレスの行き場が少なすぎるんだろ」
「半分は正解だ。オレも最初はそう教わった」
 夜の死んだ空気の中で、おれはファンタジーパークの前に立っている。横には、朝よりか幾分かラフな格好になった笹原がいた。
「半分?」
「少しストレスが溜まった程度で昏闇が自然に発生していたら、この世界はとっくの昔に奴らの手に落ちているだろう。裏で糸を引いてる連中がいるのさ。人から悪意を汲み取り、それを形にして眷族にする。自然発生する昏闇も勿論いるが、その手の連中よりも多いのは、些細な悪意から作り出される昏闇だ」
「昏闇の上の連中ってことか」
「そういうことだ。昏闇はオレたちの監視を抜け、人を喰らい、やがて強大になって、霊的な資質を持った人間の身体を乗っ取る。人の身体を持った昏闇は、負の感情を増幅させて、やがて純粋な悪となる。そうして現実に肉体を持ち、人間から負の感情を切り取って形にする事ができるようになった昏闇のことを、オレたちは真怨シンエンと呼んでいる」
 つらつらと並び立つ説明は淀みない。今初めて聞く事だが、笹原が嘘を言っているのでないことくらいはおれにも容易に理解できた。
「聞いた事もなかったぜ」
「だろうな。本来なら、もっと下積みをしたあとに聞くべき話だ。真怨は絶対数が少ない。最後まで遭遇せずに猟人としての生活を終えるハンターすらいる」
 言葉を紡ぎながら、笹原はゆっくりと指貫グローブを自分の手に嵌めた。インパクトグラブ――打撃に固有衝撃を付随させて敵を爆破する、笹原が使う魔具だ。それにつられておれは足元を見る。足首に巻きついているはずの魔具の感触を確かめた。……大丈夫、確かにある。
「真怨は普通の昏闇とは違う。やつらは実体を持っている。ただそれだけではない。昏闇とネームド程度の差をお前が想定していたとするなら、その考えは今すぐに捨てろ」
 笹原は静かな口調で切り出した。前置きに、思わず神妙な顔になってしまう。
「昏闇とは知っての通り、人間の悪意が凝り固まって発生した怪物だ。生物よりも現象に近く、それ故にオレたちの攻撃で容易に霧消する。本来なら時を重ねる前にそうして殺してしまう筈の昏闇が生き残り、力を付けたものが、ネームド。この両者の間には、お前も以前実感している通り、歴然とした力の差がある」
「ああ、判ってる。あのクロスボーンとか言うネームドのときに思い知った」
 前半分がドクロ、後ろ半分が美しい女、というちぐはぐで不気味な姿をした昏闇を思い出す。おれと笹原の軋轢の原因にもなったヤツを、忘れろって方が難しい。
 笹原が軽く頷き、続ける。
「そこまでは理解しているな。では、次に真怨の話に移ろう。昏闇は生き残り、人を喰らい続ければ、そのいずれもがネームドになる事ができる。しかし、ネームドと呼ばれるまでになった昏闇の中で、真怨へと至るものはその中のほんの一握りだ」
おれたちナイツに狩られるからか?」
 口を挟むと、笹原は軽く頷き、髪を気にするように前髪に触れて後ろに流す。
「それもある。だが、それだけでは半分正解とだけしか言えん。ネームドになった時点で、昏闇の能力はある程度頭打ちになる。人間の意識というのは案外頑健に出来ていてな、半端な能力の昏闇では乗り移って完全に支配することは出来ない。……乱暴に喩えるなら、コンピューターを例に示そう。二度と使えないように壊すのは簡単だが、それを完全に使いこなすことは難しい。つまりは、幾ら人を容易に殺しうる力を持った昏闇であろうとも、人を器として乗りこなせる能力を持つかは、また別の問題というわけだ」
 ここまではいいか、とでも言うように笹原はおれに視線を向けた。喩えが持って回った感じだが、ニュアンスは伝わってきた。しかし理屈っぽいのは苦手だ。こいつが講義をする授業がもしあったら、おれは一番後ろから三番目の席に座って、精一杯眠るに違いない。
 軽い頷きを返すと、笹原は顎元に手を当てて再び語りだす。
「そうして、力あるネームドたちの中でも、人間の意識を完全に塗り潰すだけの強固な自我を持ったものだけが、真怨として昇華する。手に入れた肉体の中に、今まで以上の憎しみと理不尽な怒りを詰め込み、あらゆるものを嘲笑し破壊する、そういった存在に成り果てる」
 言葉を切り、笹原は少しの沈黙を挟んで、再び口を開いた。
「現象としての在り方から、一個の存在へと姿を変えてこの世に定着した奴らの戦闘能力は昏闇の比ではない。肉体を持ち、それ単体でも特殊な能力を行使する事ができる、文字通りの化け物だ。そして始末の悪いことに、奴らは人を母体にしているがゆえに、厄介な資質を持っている。それが何か、わかるか」
 話の流れが速くて追いついていくので精一杯だってのに、笹原は畳み掛けるように質問を投げかけてくる。整理するので精一杯で首をひねるしかない。
 おれが沈黙を守るのを見て、笹原は出来の悪い生徒を見る顔で、これ見よがしな溜息をついた。オツムの出来がよくなくて悪かったなこの野郎。やっぱり二発ぐらい蹴っておこうか。
「余計な喧嘩を買うつもりはない。……直截に言おう。肉体としては人間であり、負の感情に基づく霊的資質を持つ真怨たちは、猟人と同じように魔具を使いこなす」
 心臓が一度跳ね上がって、底冷えがするほどに縮んだ。笹原の言葉には客観的事実しかなく、そこに個人の感情は差し挟まれていない。ただの、純粋な解説だ。
 それ故に、話されたことの全てがどうしようもない事実だと否応なく思い知らされる。言葉を失って立ち尽くすおれに、笹原は強い口調で言った。
「……説明はこんなところだ。しかし、厚木。オレはお前を怖がらせるためにこんな話をしたわけじゃない。相手の脅威を知らないまま戦う愚を犯して欲しくなかっただけだ」
 言葉に揺さぶられるように、心臓がゆっくりと元のペースに戻っていく。不安は根付くが、確かに、何も知らずに挑んで死んだ後では、そんな感情すら抱けない。クールになれ、と自分に言い聞かせながら、精一杯不敵な口調を作って、おれは口を開いた。
「充分、怪談になりそうな内容だったっての。現実的にな。……ところで、一つ判った事があるぜ」
「言ってみろ」
「おまえ、理系だろ」
「……」
 叩いた軽口に、笹原は実に微妙な表情を浮かべて沈黙した。何故またこの台詞が出てくるのだろう、と苦悩しているような顔だ。今更気付いたことだけど、こいつはなんでもすぐに顔に出る。それこそおれのことを笑えないくらいに。
「……何故わかる」
「自分の喋りを録音して、教授と聞き比べてみるんだな」
 そう言って、肩をすくめた瞬間、ピン――と、張り詰めた感覚がした。
 笹原が背を伸ばす。その体が、一瞬で薄曇空の色をした外套に包まれる。それに習って踵を打ち鳴らした。おれの肩から少し下までを覆う、真っ赤な炎色の変則外套が姿を現す。外套ってよりはマントよりかもしれない。
「一つ、覚悟しておけ」
「何をだよ」
 空中が、みちみちと軋みを上げる。おれは間違ったことを言っているのではない。……何もないはずの虚空が、音を立てて歪んで、ひびが入って裂けて、少しずつ壊れていくのが見えるのだ。その向こう側には、ただ赤いどこかが見える――
「ナイツの死亡者の九割は、真怨と戦って死んでいる」
「……今更無駄に怖がらせんなよ、バカ野郎」
 悪態をついた瞬間、おれと笹原の周囲を壊れた空間が取り囲んだ。軋みを上げて飲み込むような亀裂を避ける術などないまま、その逸脱した世界へと飲み込まれる。
 ――かすかに見えた腕時計。時刻、一時五十八分……二十六秒。


「……領域反応?!」
 それは全くの突然に訪れた。六牟黒は驚愕しながらも、その一方で素早く共鳴探知を走らせる。しかし、反応は一瞬で微弱化し、すぐに何も聞こえなくなる。しかし、今度こそ黒にはわかった。『領域反応』とは、真怨が戦闘相手を己の領域に引きずりこむ際に起こる反応のことだ。彼ら、真怨が用いる領域は、一種の結界のようなもの。展開し続ける限り反応はあり続けるはず。そして、一瞬で展開が終わることなどありえない。領域の中では、猟人と真怨との熾烈な戦いがあるはずなのだから。
『……芝崎、ジーク、気を付けろ、敵がいる。巳河ファンタジーパーク入り口に領域反応を確認した、直ちに調査に――』
「残念、もう聞こえてないよ」
「――!」
 連絡を飛ばそうとした矢先、少年の声が聞こえた。ノイズ交じりの声だ。この部屋の壁を、または調度品を、棚に置いたグラスを、そのまま震わせているような、喜悦に満ちた周波数。
「案外脆いもんだね、陸骸セブンス・アライブも。セキュリティが脆すぎて話にならないよ。それとも平和続きでボケていたのかな?」
 くすくすくす、と笑い声。黒は一瞬、冷静さを欠いた己を戒めるように目を閉じると、深く呼吸をして開いた。磨いていたグラスをことりとシンクに置き、慣れた部屋の中をゆっくりと見回す。人影はない。
「俺の名も随分遠くまで響いたものだ。確かにこのところ警戒を欠いていたのは認めよう。気を引き締めるいい機会になるな」
「次があるといいんだけどねぇ……? 知ってるかい、大方のミスは取り返しのつかないことになってから公になるものなんだよ。十三番目は不吉の数字、そろそろもう一度滅んでおくべきじゃないかい?」
「御免被る。……私の部屋を君の声でがたがたと揺らされるのは心外だな。せめて形を取りたまえ、真怨。その程度の真似は造作もなかろう」
 黒はカウンターの中を出て、樫の木の卓に指を滑らせながら、時代錯誤な電話の元に向かった。彼の細く長い指が電話に掠ろうかというところで、部屋の中央の空気がぶれる。虫の羽音に似た音声が響き、ざわざわと、染み出すように、そいつは姿を現した。
 オリーブドラブの髪に、同じ色の瞳。小柄な体躯を甲虫の殻のような光沢を持つ甲冑で包んだ、十代も半ばの少年である。だが、それは外見のみの話。口の端に浮かんだ笑みは老獪で、付け入る隙を与えないかのよう。
「これで満足かな、セブンス・アライブ……いや、六牟黒?」
 今度は少年らしい声が聞こえた。まだ声変わりも済んでいないような、柔らかで美しい声だった。だがそれを褒める気にはならない。黒はゆっくりと目を細めて、その少年を見眇めた。
「もう一つ言うのならば、そちらの名を教えてもらえるか。貴様というあまりよろしくない人称代名詞を使ってしまいそうなのでな」
 飄々とした口調で答えながら、黒は現状を把握するために部屋の状況に目を走らせた。通信機能、一部を除きダウン、転送機能、完全ダウン、共鳴探知、反応なし……高度なジャミングか、反位相波による相殺かのいずれか。外部監視機能、完全ダウン。プロテクトを走らせたところで、焼け石に水。現状を維持するのが精一杯か。
 黒が水面下で思考を走らせる間に、現れた真怨はにっこりと笑った。
色彩闇洞パレット苔色オリーブ虚構奇虫モータルバグズ……セスタス=オリーブシェル。初めましてになるね、六牟黒。色々とジェイルから聞いてるよ」
 ジェイル、という名に黒は己の背中が粟立つのを感じた。ジークの想像は突飛でもなんでもない、全くの真実に直結していたのだ。今更歯噛みをしても遅すぎた。……全てが判っていたとしても、相手が奴では、どちらにせよ今と同じ状態に置かれていただろう。ならば、隠しているカードがある分こちらが有利だ。
 部屋の外見の構築を破棄。演算領域を通信機能の維持に回す。部屋の外壁がさらさらと崩れ落ち始め、ただ真っ暗な空間と化して行く。ねじれの位置スパイラルタイムという概念だけを残して、無窮の闇へと変わって行く周囲。セスタスと名乗った真怨は、嘲笑いながら眉を上げた。
「おや、結構諦めが悪いんだね、六牟黒。僕相手に情報戦を仕掛ける気でもあるのかい?」
「勝算のない勝負はしない趣味でな。部屋との心中を考えていたところだ」
「へえ、おめでたいなあ。まあ、勝手に死んでくれれば死んでくれたで厄介ごとが一つ消えてジェイルが喜ぶだろうけど。……もう暫く待っていなよ、カミラとユイとジェイルが、あんたの仲間の首を持ってここに来るからさ。そこに仲間入りしたほうが、寂しくないだろ?」
「吐き気がするほど丁寧な心遣い、痛み入る。だが無用の心配だ。バグは正される運命にある」
「僕の渾名とかけて上手いことを言ったつもりかい? 残念だけど、そりゃ無理な話だね。まあ、しばらく仲良くおしゃべりでもしようよ。どうせすぐに済むからさ――」
 屈託なく笑う真怨を目の前にして、黒は息を潜めた。
 静かに、静かに、真っ暗な闇の底で、彼は息を殺し、電話のベル、、、、、を待っている……
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