Nights.

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  Sin-En  

 日が沈むのと時を同じくしてジークが「ねじれの位置」のドアを開けると、電話をしていたのか、黒がちょうど受話器を下ろした。音の残響が収まる頃、ジークは室内に足を進める。カウンターで紅茶を飲んでいた光莉がゆっくりと振り向く。
「こんばんは、ジーク。今日は少し早起きですね」
「皮肉のつもりか、ミツリ。……まあ、いつもより少し早いのは認めるが、それにしたって寝てたって決め付けることもないだろ」
「普段の行いのせいだな」
 カウンターの向こうで黒が辛辣な一言。豆を挽き始める音と、幽かなコーヒー豆のにおいが漂う。ジークは鼻を鳴らすと、大儀そうにカウンター席の奥から二番目のスツールに腰を下ろす。
「固定観念に縛られるとろくな事がないぜ」
「ならば問うが、三十分前に君はどこで何をしていた?」
「夢の中で妹に追いかけられてた」
 光莉が吹き出す。口元に手を当ててくすくすと笑う声を聞きながら、黒はそれ見たことかという風に肩を竦めた。
「少し向上心というものを身に着けることだ。日常生活に関して、特にな」
「お前はオレのオヤジかよ。大体昏闇の連中は宵っ張りの上に気まぐれなんだ、いつも明け方までここに居座って他の連中の分まで労働に精を出してるオレに感謝こそすれ、早く起きろなんて言えた義理、ないだろ」
 ジークのほうは澄ました顔で、黒は呆れ顔である。両者を眺めて光莉が笑う。三人にとって、もう随分前から当たり前になってしまった光景。リリーナや神海がいた頃は、彼女らのかしましさもあいまってもう少々賑やかしかったものだが、この穏やかな空気も、慣れれば慣れたで居心地がいい。少なくともジークはそう感じていた。溜息をつきながら黒はドリップしたコーヒーをカップに注ぎ、ジークへと差し出した。いつもの間合いだ。僅かに笑みを唇に乗せると、慣れた仕草で受け取ってブラックのまま一口。苦味と香りを楽しむ。
「お前が淹れたのより美味いコーヒーはそうそう無いぜ。自慢したっていい」
「真似事だ。手慰みと言う奴だよ」
 謙遜か、肩を竦める黒。かちゃ、と響きの良い音を立てて光莉が紅茶のカップをソーサーに置く。
「でも、本当にそう思います。わたしはいつも紅茶をお願いしますけど。……影響されて、自分でも淹れはじめるくらい」
「おやおや、驚くほど褒められる日だ。いいことばかりあると後が怖くなるな」
 重なる褒め言葉に、黒はどこか照れくさそうにグラスを手に取り、曇り一つないそれを布で磨き始める。それをからかってやろうかとジークが口を開く前に、光莉が言葉を続ける。
「きっと、いい事は続きますよ。そう信じるのが幸せになるコツだって聞きました。……ところで、先程も電話があったみたいですけれど、今日は随分と連絡が多い日ですね。どちらからでしたか?」
 コーヒーを口に含み、からかい文句とともに飲み干していると、光莉の言葉を受けて黒がやや真面目な表情を作る。音もなくソーサーにカップを置き、ジークはこの部屋の主の顔に目を向けなおした。
「厚木と笹原から連絡があった。今日は仕事に出られない、とのことだ。……彼らはいつも競っているように毎日仕事に精を出しているからな、少しくらい休んでくれても問題はないのだが、このタイミングに同時というのが少々気がかりでな」
「厚木くんは同級生の女の子とお出かけらしいとは聞いていますけれど。笹原くんまで同時に休むのは、初めてじゃないですか?」
「……コウヤの野郎、デートで仕事すっぽかしてオレの労働量を増やすのか。まったく、たまんねえな……」
 横目で光莉を見て、目で言葉を確認するようにすると頷きが帰ってきたので、悪態を垂れるようにぶつぶつと漏らす。溜息を一つついてから、ジークはゆっくりと視線を黒に戻した。
「まあ、いいや。……それより、奥歯に引っかかったような物言いは止せよ、クロ。気になった事があるんなら、さっさと言っちまえばいい。情報はあるに越したことはないからな」
 ジークのあっけらかんとした言葉に黒はしばし口元に手を当て、沈黙を守る。ややあって光莉が指をカップの持ち手に絡めたとき、「そうだな」と、重い口が開かれた。
「先日から、この一帯に奇妙な感覚を感じている。……より正確に言えば、今日まではさしてそれを違和感とも思わなかったのだが、異常がない事が異常だという可能性を見落としていたことに、先刻の立て続けの連絡で気付いた」
 黒はジークと光莉の顔を、確かめるように一度ずつ見つめた。ジークが軽く頷けば、言葉を続ける。
「小規模な昏闇の活動を除いて、現在この一帯に脅威と見られるものはなかった。古いネームドが確認されたとあればともかく、有象無象の昏闇など君たちの敵ではないからな。俺も平和なものだと思いながら、殲滅されていく昏闇の反応とそのログを蓄積していくだけに留めていた……だが」
 言葉を切り、黒は手に持っていたグラスを置く。僅かな呼気の後、また声を連ねる。
「君たちはクロスボーンを覚えているな? 笹原と厚木が交戦したネームドだ。……多少の紆余曲折はあったが難なく葬られたあのネームドの後、巳河市とその近隣市街には、あれ以来一体のネームドの反応もない、、、、、、、、、、、、、。一ヶ月だ。より住みやすい場所を求めて影を渡るネームドどもが、霊脈が息衝き、昏闇が活性化するはずのこの街に寄り付いていない。意味がわかるか」
「不自然だ、というのは理解できます」
 紅茶を一口啜り、頬に笑いを乗せずに光莉が眼鏡を押し上げる。
「ですが、決してあり得ないことではないはずです。自惚れるわけではありませんが、私たちがここにいる以上、彼らもそうおいそれとはここには近づけないはず。ネームドに情報交換を行うだけの高等な知能があるとすれば、ここを避ける事があってもおかしくはないはずです」
「大筋で同意だ。だがまあ、そんなことはお前も判ってんだろう、クロ。それでもお前が口に出すって事は、ヤバい匂いがしたってことだ。そうだろ?」
 光莉の言葉に頷きながら、ジークは煙草を取り出して火をつけ、黒に言葉を促した。安い紫煙がランプの光に透ける頃、黒は赤銅の髪を梳き上げて、再び口を開く。
「……俺は自分の力量を卑下するつもりはない。それを踏まえて聞いてくれ。知っての通り、俺は共鳴探知をで常時昏闇の動向を探っている。二十四時間、常時、毎日ログを確認しながら、だ。それでも有力な昏闇は見つからなかった。それで今まで、俺はネームドがこの街に足を踏み入れていないものだと思っていた。だが……きな臭い。嫌な匂いがするのだよ。力を入れたのに、布を押すようにいなされたような……掴もうとしたボールが虚像だったときのような……そんな違和感を、今になって感じたのだ」
 言葉を聞きながら、ジークは僅かに横に眼を向けた。光莉の白い喉が、紅茶ではなく唾液を嚥下するように動く。緊張を飲み下そうとするかのようだ。自分とは対照的だった。ジークの意識は、危険に晒されれば晒されるほどに冷たく鋭く研ぎ澄まされる。それこそ、普段が嘘のように。
「芝崎、君の揚げ足を取るようで済まないが……いい事が続くと信じる、大変結構な話だ。しかし、悪い予感ほどよく当たるとも言う。俺は一つ仮説を立てた。『見つからなかった』のではなく、『見えていなかった』のだとしたら」
「……つまり、探知妨害ジャミングがあったと?」
「仮説の一つに過ぎんがな。無論、俺の共鳴探知からこの広域をカバーして、ネームドだけを覆い隠すような高度な妨害ができる昏闇など、存在するわけがない。いるとするならば、その上……」
 一拍置いて、岩戸のように重い声で、黒は呟くように言った。
真怨シンエンだ」
 静まり返る。光莉も、ジークも、口を開こうとしない。ジークが咥えた煙草から紫煙がくゆるのだけが、時の経過を告げている。やがて短くなり始めた煙草を指でつまみとり、ジークは静かな口調で切り出した。
「論理的じゃない。無数に想定できる状況の中の一つに肩入れして主観に基づく論拠を使ってるあたりで、説得力がどうしようもないくらい欠けてやがる。他の奴が言ったなら鼻で笑って、家に帰ってビールでも飲んでるところだ。けどな」
 言葉を切り、灰皿に煙草を押し付け、火を消す。煙が薄れる。
「お前が言うなら信じるぜ、十三番分室長。そうでなくても、真怨とくれば覚えのある名前が浮かんでくるところだ。連中なら、オレたちの評判聞きつけて、ノコノコ出張ってきてもきてもおかしかねえからな」
 ジークはどこか好戦的な笑みを浮かべた。僅かに歪んでいると、彼は自覚していた。それはどちらかと言えば、狂気と名づけるのが適切な笑み。消えかけた煙の向こう側で、光莉がやや顔を伏せる。
「それは光栄だ。……だが、君の言うようにこれは飽くまで俺の主観的な想定に過ぎない。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ともよく言うしな。だから、心の隅に置いておいてくれるだけでいい」
 そこまで言葉にしてから、黒はゆっくりと言い含めるように、ジークへ向かって続けた。
「……危ういぞ、ジーク。奴らに因縁があるのは俺も、芝崎も同じだ。しかし、俺たちは憎しみで戦っているのではない。憎悪に身を委ねれば、俺たちは容易く裏返る、、、。それに、真怨がいるかどうかさえ定かではないのに、奴の存在を想起するのは突飛というものだ」
「判ってるさ、そんなに言わなくても。オレはいつも冷静だ。知ってるだろ? 昔も、今も、これからも、オレは変わらない」
「……」
 いつもの表情へと戻ったジークに、黒は何か言いたげに視線を向けるが、ややあって嘆息しながら視線を外した。それを確認してから、ジークは一つ席をずらし、壁に背中をもたれさせる。
 光莉が俯いてカップの中を覗き込むようにしているのを見て、ジークは口を開いた。
「ミツリ」
 僅かにミツリの肩が揺れる。ゆっくりと自分のほうを向くライトブラウンの瞳を見つめながら、ジークは続ける。
「そう、暗い顔すんなよ」
「……別に、いつも通りですよ、私は」
「あいつのことを思い出したんだろ」
 今度こそ、目を凝らさずともわかるほどに光莉の肩が跳ね、強張る。ジークは溜息混じりに言葉を吐き出し続けた。
「ああ、このタイミングでオレが含みのあるようなことを言ったのは悪かったよ。けどな、お前、いい加減に引っ張りすぎだぜ」
「ジーク」
 静かな声で黒が、割り込むように名前を呼ぶ。しかしジークの口は止まらない。カウンターの木目を見るように俯いた光莉に、言葉を投げ続ける。
「過去を思い出すな、とは言わねえさ。幸せなことも楽しかったことも、今日を生きて行くために必要な思い出だ。けど、そいつを戦場に持ち込むのはやめとけ。トーヤはもう、いないんだ。死人に引きずられれば、後を追うことに――」
 バンッ!!
 樫の木のテーブルが、叩きつけられるような音で鳴った。光莉は立ち上がっていた。テーブルに、たおやかな手を強く強く押し当てて。ジークに向けられる、いっそ敵意と呼んでもいいほどの非難の瞳。さしものジークも僅かに怯む。言い返そうとして口を開く前に、光莉はそれをさえぎるように身を翻した。黒に向けて、彼女は早口に呟いた。
「転送を。巳河市中心部、駅前通裏へ」
「まだ特に異常は見られないが」
「見回ります。……お願いだから」
 下唇を噛み締め、光莉は少しだけ俯いて、訴えるように言った。黒はゆっくりと息を吸い、長く吐き出すと、少しの沈黙を挟んで口を開く。
「いいだろう。異常が起きたら告げよう」
「……ありがとう、黒くん」
 ジークが口を挟む暇もない。黒がぱちんと指を鳴らすと、光莉の身体が足元から解けるように薄れ始める。身体が全て消え失せる前に、光莉は最後にジークを刺し貫くように睨んだ。視線に切っ先があったとしたら、眉間をぶち抜かれているような鋭さである。彼としては肩を竦めるほかない。すぐに光莉の身体は部屋から消え失せ、後に取り残された二人の間に居心地の悪い沈黙が流れる。
 十秒。二十秒。三十秒。歪な時計の針が、一分と二十四秒の時を刻んだ頃。
「……今のは君が悪い」
「ミツリの肩を持つのかよ、お前」
 静寂を破ったのは黒が先で、すぐにジークがそれに噛み付く。黒は大げさに肩を竦めると、自分の分のコーヒーをマグカップに注いだ。
「彼女の中で、芝崎十夜シバサキ・トオヤはまだ思い出になりきっていないと言うことだよ。まだ三年だ、すぐに癒える傷ではないさ。カレル=スクラッドを亡くして三年の君に、今の様子を見せてやりたいものだな。血相を変えて君に飛び掛るだろうに」
「オレは納得はしてないが、オヤジが死んだのを受け入れてる。あの頃も、そして今も」
 自説を曲げようとしないジークを見て、黒は僅かながら嘆息する。呆れた、と言わんばかりに。
「……あまり俺に説教をさせるな、ジーク。苦言というのは文字通り言うものの口に苦く、聞くものの耳には痛いのだから。喩え君が、近しいものの死をそうして受け入れられたとして、彼女がそうであるという保障がどこにある。『戦場にネガティブな気持ちで入るな』、大変結構、至言だな。君が彼女を心配してそう言ったのも、俺は判っているつもりだ。それでも、君には少しデリカシーというものが欠けている。考えても見たまえ、なぜ彼女は芝崎を名乗る? なぜ彼女はあのベレッタを頑なに使い続ける? なぜ彼女は迫撃手甲インパクトグラブをナイツに返却し、慟哭の原石クライアイを使い出した?」
「……」
「簡単だろう、ジーク」
 黒の言葉を聞きながら、ジークは答えを返すこともなく、胸のロザリオに触れた。父親が直接自分に託した、唯一のものだ。……忘れられない。これを持っている限りは、嫌でも父親の事を忘れることはない。能力を使うたび、この十字架エターナルに触れるたび、ジーク=スクラッドはカレル=スクラッドを思い出す。――つまりは、それが答えだった。認めるのが嫌で、口には出さない。
「彼女は、忘れたくないのだよ。自分をここへ連れてきた人間を。芝崎十夜は自分の中で生きていると信じている。……実際に彼がどこにもいないことなど、芝崎は判っているさ。けれどそれでも、縋りたいのだ。そうしなければ、辛いのだよ。そこに君は、判りきっている現実を……彼女が誰よりもよく理解していて、それでも認めようとしない現実を、無造作に叩きつけた」
 黒はいつになく饒舌に言葉を紡ぐ。ジークは、二本目の煙草に火をつけた。吸いつけたラッキーストライクは、どうしてかいつもより、ひどく苦い気がした。
「……ジーク、君は全ての人間を自分と同じように考えすぎる。誰もが君のように強いわけではない。少しだけでいい、周りの気持ちになることを覚えたまえ。そうでなければ、小競り合いは軋轢になり、亀裂を生むぞ」
「演説はそいつでお仕舞いか、室長」
 うんざりしたような調子で、ジークはスツールを立つ。煙草の煙が揺らめいて、コーヒーミルクのように空気に混ざった。
「これで理解できないようなら、もとよりそれ以上話す意味もあるまい。今の俺に出来るのは、君が馬鹿でないことを信じることだけだ」
 気のない様子で黒は言う。まだまだ言いたいことは余っているが、とその目が語っていた。
 ジークは胸元の十字架に軽く触れて、しばらく沈黙に耐えていたが、やがて溜息をつきながら黒の前に行く。視線が絡む。十秒と少しの沈黙。ジークはざっくばらんに揃えた髪をガシガシと掻いて、目線を斜め下に外す。
「送ってくれ。あいつ一人に回らせるのは、居心地が悪い」
「……よかろう」
 ジークの言葉に黒はようやく薄い笑顔を浮かべ、親友に向けて手を翳す。
「謝れとは言わない。芝崎も、いつまでもこのことを引き摺るほど思慮に欠けるわけでもないだろう。……ただ、繰り返すな。今回の間違いを地雷だと認識できるならば、君はもうそれを避けて通れるのだから」
「まったく耳に痛い台詞だね。転送、オレは駅前通りにそのまま頼む。あいつとは反対方向を見張ってくる。……頭を冷やしたら、何かしら言うさ。それまではしばらく放っておいてくれ」
 クラスメートの少女を苛めすぎたガキ大将のような具合だ、とジークは自分の台詞にげんなりした。黒を見れば笑いを堪えている風に肩を震わせている。
 ……ああ、まったく、今日は厄日だ。改めて溜息をついて、ジークはゆっくりと目を閉じた。足元から自分の体が光の粒子になって行くのを感じながら、これ以上の厄介がないように祈るのだった。
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