Nights.

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  Stomy girls  

「はい、これ」
 有無を言わさぬ調子で、香坂が何かを突き出した。カラフルな紙切れだったが、その前にコメントを許してくれてもいいんじゃないだろうか。
「もうちょっと前後関係の説明が欲しい」
「黙って受け取りなさい」
「はい」
 逆らえねー。
 おれは差し出された紙切れ二枚をしょうがなく受け取って、ため息をついた。
 人気のない校舎の隅っこ、襟首掴まれ引っ張られてきて、下から挑みかかるように向かってくる視線に辟易とする。いったいこれは何の拷問だろう。そしてこの握らされた紙切れは何なんだろう。
「……これ、何だよ」
「あんたの目は節穴? それとも聞き癖がついてるの? 考える癖をつけなきゃ社会に出たときに役立たずのレッテル貼られるわよ? 知りたかったら自分の目でなんだか確かめなさい」
「説教臭い奴だなおまえ……」
 疑問をそのまま口にしても言葉尻に噛み付くような調子で帰ってくる。仕方なしにひらひらと指の間で踊る紙を固定して、目をやった。
 その後、少し沈黙した。
 香坂に視線を戻すと、にんまりと唇の端をあげて笑っている。悪女の笑いである。こいつはこれから先、この顔で何人騙して何回こういう顔をするんだろうか。誰か数えといて欲しい。行き先地獄にするいい証拠になると思うよ。
「おれの目が悪くなかったら、巳河ファンタジーパークの一日フリーパスに見える。それも、二枚」
 巳河ファンタジーパーク、というのは、そこそこ大きなこの巳河市にある、それなりに垢抜けた娯楽施設だ。底抜けに大きいって訳じゃないけど、定番のアトラクションは押さえてある。一日潰すには十分な設備が整ってるとは聞いているが、それをおれに渡す意味というのはなんだろう。一緒に来て欲しいとでも? いや、この女に限ってそれはない。ないと思いたい。
「正解よ。あんたにあげる意味くらいは判るでしょ」
 判らんね。
「さっぱり」
 ゴキッ。
 下あごに右フック。傾いた首が異音。
 グーだ! ビンタとかの次元をワープで超えて拳が来た!
「〜〜……!!」
「考えろっつってんでしょう、がっ」
 容赦ねえ、こいつ。
 たぶん回答が間違っていても同じ仕打ちだ。なんとなくそれを感じつつも、おれは寝違えたように痛む首をさすりさすり、肩を大きくすくめた。
「……二枚って事は誰かと行けって事だろ、お前それ」
「そうよ迷探偵。ちなみにその誰かっていうのは死んでもあたしじゃありません。これ超ヒントね」
 なるほど良かった。考えたことをそのまま口に出してたらフック一発がコンビネーションになってたところだ。ワン・ツーからアッパーとか。
「ヒントも何も、お前以外で割と親しい女子なんて」
 とまで言ったところで、また押し黙る羽目になった。
 顔が意識するわけでもなく渋面になる。反対に香坂の笑みはいよいよもって楽しげにゆがみ、ドッキリカメラでびっくり箱を開けるのを知りながら見守るギャラリーのようなツラである。
「……蜷川かよ」
 ファイナルアンサー、と答えたあとのあの司会者ぐらいの間を置いて答えると、目の前で得意満面の笑顔を浮かべながら人差し指と親指で輪を描く絶好調元気娘が一人。こいつが元気になるとおれの元気がしぼんで行くという不思議な法則が成立している。帰っていいか。
「大正解。お膳立てはしてあげたんだから、しっかりやんなさいよね」
「……何だって強制されなきゃならねえんだ、誘いたくなったらおれから誘うっての」
「あんたがその気になるころには、愛もあたしもおばあちゃんよ」
 鼻でせせら笑いながら肩をすくめて見せる香坂。やっぱり性格ブスだこいつ。
「それに第一、まだはっきりしてないんでしょ、付き合うか付き合わないかも。……あたしは愛の背中を押したいし、あんたたちにくっついて欲しいし。まー、それ決めんのはあんたなんだけどね。それでもひとつ言っておきたいのは」
 すらっと長い人差し指が突きつけられる。
「あの子の可能性を潰し続けないでって事。あんたがそんな態度のままじゃ、愛はいつまで経ったって前に進めもしないんだから。よく覚えといて。忘れたら、その都度ビンタして思い出させてやるからね」
「……ビンタの前にグーが出んだろ、おまえなら」
 こいつも結構考えてるのだ。普段は何も考えてないように見えるのに。軽口を叩いてやると、香坂は舌を出して小さく笑った。
「ま、否定はしないけど。……さっさと誘ってあげなさいよね。明日の朝にでも。台詞考えときなさい、いやでも日は昇るんだから。――はい、用件おしまい。化学準備室に戻るなり教室に戻るなり好きにしなさい」
 スカートを翻してターンする香坂。肩を竦めざるを得ないおれ。
「ったく、台風みたいに連れてきたと思ったらこれかよ、全く」
「そろそろ慣れとかないと大変よ、あたしは事あるごとにこうだから」
「冗談だろ……」
 ステップも軽く走り去る彼女の最後の弁に、ぐったりと肩を落としてみた。現状は嫌になるほど何も変わらなくて、少しぐったりとした溜息が出た。
 手の中に残るチケットに目をやると、マスコットキャラクターが笑っている。
 お前は能天気でいいよなと毒づいてから、とりあえず化学準備室へ向けて歩き出した。弁当箱を取りに。


 真昼のスポーツジムの中で、快音が響く。
 踵を軽く地面から浮かせ、フットワークを効かせるようにして二発のジャブ。鎖がじゃりじゃりと音を立て、サンドバッグの輪郭が歪む。揺れるサンドバッグめがけて一歩踏み込み、体重を乗せたコンパクトなショートアッパー。命中と同時にサンドバッグが奥へと傾ぐ。
 拳を叩き込む瞬間に肩を突き抜ける得も言われぬ快感は、他では味わえないものだと、笹原志縞は常々感じていた。
 ただの衝撃ではなく、ただの振動でもない。自分の拳を通って感じる、何かを攻撃しているという実感とでも呼ぶべきものが、胸の一番奥を揺らしていく。
 ぎしぃ、と鎖の軋む音。揺れて戻ってくるサンドバッグに拳を叩き付ける。また奥へと振り子のように触れるサンドバッグに一歩踏み込み、身体の中心軸の回転を伸ばす腕に乗せて、さらにもう一発、ストレートパンチ。どかん、と音がして、サンドバッグが目を疑う角度まで振れ上がる。
 体が熱い。無心になって叩き始めると、いつも時を忘れる。
 戻ってきたサンドバッグに力を抜いた拳を当て、揺れを止めると、重たい砂袋に額を当て、何度も深呼吸をした。
 ジムの中は薄暗い。大学付属の設備にしては異様に充実しているそこで、彼はいつも無心になってサンドバッグを打つ。嫌な事があった日も、いい事があった日も、雨の日も雪の日も、晴れていても風があっても、欠かさず。サンドバッグの中に、打ち破るべき敵の姿を浮かべて、何度も、腕が上がらなくなるまで打ち続ける。
 自分にはできると信じ込むためには、自分はここまでやってきたというプライドが必要なのだ。志縞は常々そう感じ、誰にも言わないまま努力を重ねてきた。初めから上手く行っていたわけではない。ボクシングサークルに入った初日は特に酷かった。勢い込んでサンドバッグに拳をたたきつけ、全治二週間の捻挫を負った。周りには笑われたし、馬鹿にもされた。
 ――しかし、である。
 笹原志縞は賢明ではない代わりに懸命であり、それに加えて愚鈍ではなかった。同じ過ちは二度と繰り返さなかったし、回りを見て学習することもすぐに覚えた。手が治った頃から、彼はサンドバッグを叩き始めた。毎日、毎日、確実に。何度も。何事も最初は稚拙なものだと思いながら、ひたすらに鍛錬を重ねてきた。インストラクターやボクシングサークルの友人などの薫陶を受けるたび、一つ、また一つと問題点を潰し、常に努力を怠らずに、より磨きをかけていく。空色の外套を着て夜に跋扈するとき、己の内側に「これだけやった」というバックボーンがあるということは、それすなわち敵を打ち破るための心の力の増強に直結する。
 鍛錬を続けると次第に、拳のごつごつとした部分が平らになり、固さを増し、よりフラットに衝撃を伝えるための形に少しずつ変化していく。日を追うに連れて後背筋が発達し、無駄な脂肪が削げ落ちていく。拳が、ただ、殴打するという機能一つに特化していく。日を追うに連れて周囲の嘲笑交じりの笑い声が徐々に静まり、どよめきに変わり、やがて教えを請われるまでになる。
 しかし彼がそれに応じることはない。いつも答えは一つだ。
「毎日、腕が上がらなくなるまで叩け」
 そう答えるだけで、志縞はまたサンドバッグを相手にした単調な格闘に戻ってしまう。
 後輩たちはその答えに呆れて、傍観の姿勢に戻る……それが、いつものボクシングサークルの風景だった。
 だが、今日は誰もいない。日曜日はそもそも、サークル自体が休みだった。だと言うのに、志縞はサンドバッグを殴っている。彼にとっては、土曜も日曜も関係がなかった。ただ、腕が上がらなくなるまで毎日叩くことを己に課していた。
 ――まだこの拳は固くなる。絶対に。そう信じ込みながら、懐にしまった革手袋――迫撃手甲インパクトグラブを触れる。
 呼吸が落ち着き、脈拍が正常に戻る頃、志縞はサンドバッグから額を浮かせて一歩引き、また拳を構えた。肺腑の八分を満たす分だけ息を吸い、打ち込む態勢を整えたその瞬間、ぎい、と音がしてジムのドアが軋んだ。
 吸い込んだ息をゆっくり吐き出してそちらに向き直ると、開いたドアから一人の女性が顔を出しているのが見える。
「……澄嶋すみしま?」
 声をかけると、女性はおっかなびっくりといった風にドアの隙間から身体を滑り込ませ、ひら、と胸元で小さく手を振った。
 ジーンズとカーディガン。その上に白衣。女っ気のない格好をして、髪をバレッタで高めに纏めている。やや浅黒い肌がエキゾチックな雰囲気を滲ませている。服装の如何にかかわらず、すらりと背が高く、優れたプロポーションをしていることは瞭然であった。
 澄嶋遊楽すみしまゆがら――という珍しい名前をした女性であった。学年は志縞と同じだが、正確な年齢はまだ志縞も聞いたことがない。構えを解いて向き直った志縞に、彼女はゆっくりと歩み寄る。
「笹原。……探した。またここにいたの?」
 彼女は白衣の襟を直しながら、詰問に近い語調とは裏腹にゆったりとした口調で言った。
 表情の動き方に乏しい彼女だが、見慣れれば今、どういう心情でいるのかを把握する事ができる。それなりに長い時間を過ごしてきたせいか、志縞には彼女の心情の機微を僅かながら垣間見る事ができた。たとえば今は少しだけ不満に思っている。ぱっと見には判らない程度に僅かに尖らせた唇、普段よりほんの少しだけ細めた瞳。
「課題は済ませてある。問われて口篭らない程度には勉強もしている。その上で何をしようと自由だろう?」
 肩を竦め答えると、むくれた様子のまま遊楽はサンドバッグに近づいて、華奢な手のひらを当てる。
「それでも。……少しくらい研究室の同輩と話をしてもいいと思う。ここは、何もかもが事務的な場所じゃないはず」
 いつもこう、なのである。
 同じ研究室に所属することになって以来、遊楽は絶えず笹原志縞の世話を焼いてきた。言葉少なに、もっと社交的にしろ、皆と仲良くしよう、生活を作業的にしてはならない、などなど、志縞のそれまでの生活を一変させるほどに介入してきたのである。
 最初は疎んでいた志縞も、徐々に一歩二歩と譲れないところを譲っていくうちに、いつしか彼女の小言を聞き入れるのが当たり前になってしまっていた。他者からの干渉に慣れていない志縞だったが、こうまでしつこく言われると順応せざるを得ない。いつからか不快感を覚えることも少なくなり、今では顔を合わせるたび、この調子である。
「悪かったよ。……でも、これは日課だ。研究室の奴と折り合いが悪いわけじゃない。何もそこまで、お前が気にすることはないだろう?」
「……それは、そうだけど」
 困ったように身体の前で手を結び、目を伏せて黙り込む遊楽に溜息をつくと、志縞は手持ち無沙汰にグローブの位置を正しながら、促すように言った。
「何か用があってオレを探してたんだろう。用件は?」
 声をかけると、一瞬きょとんとした風な顔を浮かべてから、遊楽は不意打ちを食らったように表情をカチカチの無表情で固め、その後で若干視線をそらし、あさっての方向を見ながら続けた。
「……笹原、今度の日曜日は、空いてる?」
 聞いた瞬間、自分の顔が間抜けに「は?」と言う形に歪むのを自覚した。
 口から素っ頓狂な声が漏れるのを覚えて、志縞は慌てて口を閉じる。
「すまん、よく聞こえなかった、もう一回頼む」
 疲れているのかと目元と耳元を揉みほぐしてからもう一度問うと、遊楽は視線をやや伏せて、先程よりも硬い声で繰り返した。
「だから……次の日曜日、時間、ある? って」
 律儀に耳を済ませていたせいで、今度は聞き間違ったという言い訳も出来なかった。
 呆け半分、冷静半分。頭の中で妙に客観的に、思考停止している自分と、来週の日曜日の予定を検索している自分がいる。冷静な自分が「どうせサンドバッグを叩く以外に予定なんてないだろう」と呟くのを感じて、ぼうっとしていた自分もまた、ようやく我に帰ったように動き出す。油を差していないロボットのような動きで上がった右手を顎元に添え、志縞は呆然と呟く。これは夢なんだろうか。
「特に予定は入っていないはずだが」
 声が震えなかったのは、予想外すぎて思考が麻痺しているからに違いない。二人きりのトレーニングジムに響く声。
 弾かれたように遊楽が顔を上げ、上背で勝る志縞の顔を見上げる。
「……じゃあ、これ」
 言葉少なに、遊楽の右手が突き出される。ひらりと揺れる紙片。反射的に手を上げて、ひらりと揺れた紙を受け取った。
 それが隣町のテーマパークの一日フリーパスだと気付いて志縞が目を白黒させた瞬間、まさしく脱兎の如く遊楽は身を翻し、ジムの出口へと走り出していた。
「お、おい、待て澄嶋!! これは一体」
 ばたんっ!
「――……」
 ドアが無情にも閉まった。
 遠ざかる足音に、「ガン」だの「ゴン」だの何かをぶつけるような音が混じり、やがて静かになる。
 サンドバッグが取り残された志縞を笑うように、キイキイと揺れていた。
「…………夢か、これは」
 自分の頬に拳を入れてみて、すぐに後悔した。
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