Nights.

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  Calling bell  

 惰眠を貪っているおれの耳に、つんざくようなベルの音が届いたのは、午後九時のことだった。
 この仕事を始めてからこっち、寝不足が職業病みたいについてきやがる。正直うんざり気味の昨今なのだが、誰に文句を言っても昏闇は出るし、めんどいから辞める、と言うのはおれ的に大却下だ。
 そういえばあまり意識することもないが、これはあくまで職業選択の自由が許される「仕事」なのである。
 学生であるおれでも給料は出る(ただし出来高払いだが)し、普通にバイトするよりは間違いなく儲かる。だがおれはどうしてか、この仕事のためにわざわざ作った口座の中で、いつも目にする家庭の口座よりゼロが一つ余計にくっついている残高を見て、それを使うことが出来ずにいた。何となく――いつものようにバカみたいに散財するのが勿体無く思えていたのである。
 使い道を探しているうちに、まもなく五十万を超えつつある残高なのだが、これをいかがいたしたもんだろうか。目下の課題であった。
 早いもので、この仕事を始めてもうすぐ三ヶ月になる。普通の昏闇にはそうは手こずらなくなったし、ネームドもサポートつきならどうにか撃破できるまでになってきていた。ネームドの絶対数が少ないってこともあって、何度も戦うことが出来たわけではないけど、それなりに経験は積んできている。……そうそう。サポートといえば仲間だが、笹原の野郎とはいまだに仲が悪い。いつ背中を蹴り飛ばしてやろうかって所だ。試みたところ、一回目は指弾で、二回目は平手で、三回目は裏拳で迎撃された。三戦三敗だ。畜生め。
 あいつのいけ好かない部分を、このベルひとつの間に二つは挙げてやることができる。無愛想。仏頂面。ぶっきらぼう。無遠慮。無神経。冷血。冷徹。冷酷……
 薄ぼんやりと霞の掛かった思考の中で取り留めないことを考えながら、カウンターに突っ伏した身体を起こす。目覚ましじみたベルの音の元凶を探して見回すと、ちょうど黒さんがすっとおれの前を通り、大本を黙らせるところだった。
 古臭い音を立てて受話器が上がった。
「十三番分室だ。どちらからの用件かね」
 ばさばさと赤銅色の髪を梳いて回しながら、黒さんが受話器を持ち上げる。古式のインテリアみたいな電話。伝わってくる声を聞いてか、彼の表情が僅かに緩む。
「……ああ、君か。久しいな。活躍は音に聞こえている。勿論、長谷部と合わせてな」
 黒さんの口調は気安いものだった。
 おれ達と話すときといくらも違わない、穏やかな声。時折談笑を交えながら、数分ばかりの会話が続く。
「ん……ああ、ジークか? 済まないな、今は雑魚の掃討に出かけている。そう待たずして帰ってくるだろうが、暫くこうして待つかね? ――いや何、たいした迷惑でもないが……ああ、判った。君がそう言うのであれば。伝言はよく伝えておこう。帰途は気をつけて来たまえよ。ああ、うむ、それではな」
 ちん、と音を立てて、受話器が置かれた。
 俺がテーブルに頬杖を突いているのを見たのに気付いたように黒さんは薄く笑い、「今日はコーヒーの気分かね、それとも紅茶?」と何気ない調子で問いかけてくる。
「紅茶で。それとなんかつまめるものとかあったらそれも」
 リクエストを交えて答え、おれはテーブルからカウンターの席に移った。黒さんの手際は、いつも魔法のようだった。ポットの中身が俺の目の前に出てくるまでの動きが流麗過ぎて、暫く呆けたように濃い琥珀色をした紅茶――その作業の結果を眺めてしまう。バカみたいに紅茶の色を見つめていたら、横にスコーンを乗せた皿がことりと置かれた。
「冷める前に楽しんでくれたまえよ」
 似合わないエプロンを下げたまま、黒さんが笑う。頭を下げながら改めてその容貌を見つめた。
 グラスを取り上げて危なげなく磨くその姿は、しかし喫茶店のマスターというには似つかわしくない、どこか鋭い空気を纏っている。バーテンダーというには格好がそぐわない。カウンターの向こう側にいるのがこれほど似合わない風貌の人間も珍しいが、さりとて彼がその場所以外にいるのをあまり見かける事がないため、おれも近頃では違和感を覚えなくなってきている。
「そういえば黒さん」
 ストレートの紅茶を啜り、スコーンに手を伸ばしながらおれは軽い疑問を口にした。
「さっきの電話、どこからっすか?」
 グラスを磨く手を止めないまま、黒さんはこともなげに答えた。
「二十番分室に新人教育に出向いていた二人が帰って来るそうだ。先ほどの電話は、その片割れからの連絡だよ。……君がここに来るよりも前から彼女らは出かけているからな、君にとっては今度が初顔合わせになるのだろうが」
 目を細めながら、黒さんは懐かしむように笑う。かなり上機嫌な様子を見て、よほど頼りになる面子なんだろうなと想像をはせた。
「どんな人たちなんすか? その二人って。彼女らってことは女の人なんでしょうけど」
「そうだな……」
 磨き終わったのか、それとも中断したのか、黒さんはグラスを磨く手を止めて、いったん布切れとグラスを調理台にことんと置いた。
「まず第一に強い。人格的にも、能力的にも。経験に裏打ちされた技量を持っていて、新人教育に遣わされることも頷ける実力の持ち主だ。……手放しに褒めるわけではないが、欲目を差し引いても二人とも一流のハンターだ」
 へえ、と感嘆の息が漏れた。
 おれは、黒さんが褒め言葉を多用しない人間だということを知っている。いや、この十三番分室の中で結構な頻度で褒め言葉を言う人間なんてのは、十三番分室の良心こと芝崎さんくらいのもんなのだが、まあそれは置いておこう。
 そんな中で黒さんが最上級と言ってもいいほどの賛辞を述べる相手というのは、一体どんな人間だというのだろうか。少なからず興味があった。
 黒さんの言葉は続く。
「そして第二に、彼女らは強い。……というのも、今度は単純な戦力としての話ではない。俗な言い方をするのなら、立場が強い、といったところか。支配される前に尻に敷くタイプだ。彼女らを従えようとできる男は、そうザラにはいるまい。表の世界はもとより、こちらの世界にも」
 そこだけは少し苦笑がちなイントネーションを加えて、黒さんは軽い調子で並べたてた。
「面白いっすね。黒さんにそこまで言わせるなんて、どんな人たちなんかな」
 呟くと、棚の点検をしながら黒さんがポツリと口を開く。
「一人は日本国籍、もう一人は外国籍。前者は長谷部神海ハセベ・コウミという。近接攻撃・雷撃系『殺界紫電』の使い手にして第七代目の『雷電』の継承者。侍のように高めで青い髪を結った、陽気な女だ。人をからかうことに人生を懸けている節がある。だが不思議と嫌味がない――といったところか。一口で説明するのならば」
 口を動かしながら黒さんが棚と、その中身の点検を手早く終える。ついでに小さめのコーヒーミルを取り出してきて、豆を用意し始めた。自分の分だろうか。
「んー、現物見ないとやっぱりピンと来ないもんすね。丁寧な説明なのはわかるんすけど」
「そんなものだろう。なに、もう少しで嫌でも逢えるさ」
「ま、そうっすね。……でも一応、二人目の説明も聞いておきたいんすけど」
 問うように言った刹那、黒さんはコーヒー豆を二人分、カップの中に掬って、悪戯っぽく笑った。
「それは俺が説明するより、彼に聞いたほうが早いだろう」
 言うなり、黒さんは二つきりしかないドアのうち、味も素っ気もない鋼鉄でできた重たげな鉄扉を見据えた。釣られるようにおれがそちらに視線をやったとき、折りよく重い音を立ててドアが開く。開ききらないうちに黒さんが声をかけた。
「ご苦労、よく帰ったな、ジーク」
「あのくらいなら、仕事をしたうちにも入らないね」
 打てば響くように帰ってくるハスキーボイス。
 いつも通りの飄々とした態度で、ジーク=スクラッドが鉄扉を押しのけて部屋へと滑り込んできた。スラックスとジャケットが嫌味なほどに似合っていて、神様が公平でないことを思い知らせてくれた。なんでこいつはこんなに足が長くて背が高いんだろうか。ちょっとした殺意が沸く。じろじろと目をやっていると、ジークが鼻を鳴らしながら、一つ空けて右隣のスツールを引いた。
「なんだ、コウヤ。親の仇でも見るような目をしやがって」
「何でもねェよ。それより黒さん、ジークに聞いたほうが早いってどういうことっすか?」
 右に座った伊達男の言葉をさらっと受け流しながら、途切れかけた会話の糸を再び手繰り寄せる。すると黒さんは意味ありげな笑いを浮かべ、コーヒーミルに豆をざらざらと入れながら口を開いた。
「ジーク、リリーナと長谷部が帰ってくるぞ」
 ゴッ。
 なんか容赦のない音がした。
 喩えるなら、教室にある机の天板で力を込めて人の頭を横殴りにしたときみたいな。
「……おい、ジーク?」
 俺がそっちを向くと、ジークは机に突っ伏していた。鼻梁の形が歪まないかと何となく場違いな心配をしてみるのだが、どうも当人は気にしていないのかそれとも気にする余裕がないのか、カウンターと抱擁を交したまま動く気配がない。
 紅茶をすすり、スコーンをもぐもぐとやりながら暫く見守っていると、やがてジークはのっそりと顔を上げた。
「本気で言ってるのか。嘘だろ。嘘なんだろ?」
「残念ながら、先ほど連絡が来たばかりだ。君がいない間にな。それと、伝言を言付かっている」
 ミルで豆を挽くがりがりという音を立てながら、黒さんはジークの様子を楽しむような調子で続けた。
「"あたしが家に帰るまでに空缶の山がなくなってなかったら――その時は判ってるわよね、ジーク。それと、家ではまた禁煙ね。ヤニの匂いが残ってたら、今度はナイフだけじゃなく――"」
「もういいわかったやめろわかったその声でそれ以上しゃべるな」
 ジークは情けなく頭を抱えたまま慌てたように黒さんの口から出た年頃の女の声をせきとめた。
 おれはといえば、置いてけぼりである。突如として黒さんの口から女の声が飛び出したことにまず驚き、恐妻家のくたびれたサラリーマンみたいな仕草をするジークにも驚いた。とりあえず、呆然としたツラにならないように顔の筋肉を引き締める。
「どっから出してンすか、その声」
 おれの呆れ交じりの驚き声に、黒さんは人差し指を口元に当てて「企業秘密だ」と笑った。
 横で、呻きを上げながらジークがぐったりとカウンターにもたれ、大儀そうに身を起こして肘をつく。
「コーヒーをくれ、飛び切り美味いヤツを。そうでなきゃ死ぬ、ああ、今すぐにでも死ぬ」
 破産勧告と逮捕状が一気にやってきたような陰鬱な表情を浮かべて、ジークは言う。その語調と表情がこの世の終わりでも見たかのようなので、そんなに酷い関係なのかと聞くのをためらってしまうほどだった。だがやはり、野次馬根性には勝てない。黒さんも止めてこないし。
「そんなひどいのかよ。あんたのそんな顔、初めて見るぜ」
「そりゃあ、今まではあいつはいなかったからな、こんな顔もしなかったさ。家では吸い放題にタバコが吸えたし、飲み放題に酒も飲めた。オレが寝る分のスペースより空き缶を置いてある面積の方がでかいぐらいでも、誰も文句なんか言いやしねえからな。ああ、天国だったとも」
「……そりゃ散らかしすぎだろ。つーか、同居してんのか? 家がどうこうってことは」
「忌々しいことに、二人のうち片方とな」
 黒さんが差し出したコーヒーをソーサーもろとも受け取って、ぼやくような調子で答えるジーク。音を立てて啜るその顔は、顔筋を総動員して「苦い」と語っていた。
「恋人かなんかかい?」
「やけに絡むじゃねえか、コウヤ。そんなに気になるか」
「興味あるね。もしマジで彼女なんだったら、からかう材料が増えるだろ?」
 軽い調子で返してやると、ジークは睨むようにおれのを方を見た後で、ふう、と溜息をついて、口を開いた。
「そんなんじゃねえさ。――妹だよ」
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