Nights.

| | index

  Conflict  

 ――そして闇ははらわれ、一陣の風が吹いた。志縞は最後に骨棍棒が転がった辺りを見て、さしたる感慨もなさそうな表情を見せる。そうしてから、アイスブルーのコートの裾を揺らすことすらなく、携帯電話を取り出した。
 彼が通話を始めるのを見て、康哉はようやく我に返る。
「志縞です。片付きました。現座標から半径十五メートル、空間の修復を要請します」
 端的に報告すべきことを呟き、志縞は通話を終えた。その瞬間から、周囲の逆行が始まった。砕けた塀の破片が巻き戻るように組み合わさり、飛び散ったアスファルトの欠片があるべき場所へと音もなく戻っていく。逆再生のビデオを見るように周囲が修復され始める。
 それを確認してから、志縞は型遅れの携帯電話のアンテナをもったいぶった所作で縮め、コートのポケットに押し込んだ。そしてゆっくり康哉へと振り返る。興味のなさそうな黒い瞳に、明らかな侮蔑を浮かべていた。
「――で、オマエは何をしにここに来たんだ、アツギ?」
 この上なく馬鹿にしたような声が届く。
 単刀直入に役に立たないと言われるよりも、それはずっと腹立たしかった。事実ではあっても、認めたくないことというのは世の中に溢れている。これも、その一つだ。
 康哉は、視線を鋭く尖らせて、穿つように志縞を睨みつける。
「……ケンカ売ってんのか、コラ」
 ナイフそのもののような冷たさを含ませて、挑むように放った言葉を、しかし志縞は涼しげに肩を竦めることで受け流す。鼻でせせら笑う声。
「喧嘩? 救いようのない馬鹿だな。喧嘩というのは少なくとも、同レベルの存在に対して売るものだろう。オマエではオレの相手には不足すぎる。今のは単なる確認だ、少しは分を弁えたかどうか、のな。理解したか、アツギ?」
 神経を逆撫でるような響きを持った志縞の言葉に、康哉の中で怒りが膨れ上がっていく。
「黙れよ。大体、あんたが来なくてもおれが片付けた。まだ動けたところに水を差したんだろ、あんたが」
「華を持たせてやろうと暫く見ていたが、手の出し所を間違えたか? あそこから逆転劇の予定があったんだとしたら謝るが、見苦しい嘘はレベルの低さ加減を晒すだけだぞ?」
 怒りを交えて返す言葉は、苦しげな嘘の形にしかならず、それを志縞が放っておくはずもなかった。
 言葉は喉につっかえ、吐き出せない分が怒りとして心の内側に沈殿していく。
「……ッ」
 視線に力があれば射殺せる、と確信できるほどに康哉は志縞を睨みつけた。だが、志縞はそれを意に介した素振りもない。それどころか、大仰に肩を竦めて嘲笑する。殺意に近い怒りを受けていると言うのに、その余裕。
「自分すら騙せないような嘘を言うとはな。もう少しは頭の回るガキかと思えば、この低能ぶりか。ほとほと呆れる。命が大切なら早急に魔具を捨てることを勧めるぞ、ルーキー」
 確かに、康哉は未熟である。
 しかしそれは経験の薄さ、鍛錬量の少なさが原因であり、決して悲観すべきレベルにはない――はずだと、少なくとも康哉自身は信じていたし、黒は言葉で、ジークは態度でなんだかんだと評価してくれている……そう思えていた。なのに、それをすべて志縞は挑発的な態度で否定する。
 頭に来た、どころの話ではなかった。怒りが煮詰まって、爆発寸前の液体火薬のように沸き立っているのを感じる。
 助力を受けたのは事実だが、その礼を言う気などとうの昔に失せていた。
 霊体となって戦うにせよ、一度の失敗が即、再起不能に――悪くすれば死につながるなどということは、すでに康哉もよく判っている。
 それでも、その一度をあげつらうこの不遜な男が、どうしても許せなかった。
「……おい、黙れっつってんだろ。おれは気が長いほうじゃないんだ。そろそろ堪忍袋の緒が限界にキてるところなんだよ」
 怒り心頭、といった康哉の様子に、もう一度鼻から息を漏らすように志縞は笑った。
「それで? オレがオマエを怒らせて、何か支障があるのか? オマエのそのオモチャのストーブみたいな脚で、オレをどうにか出来るとでも? 冗談なら傑作だが、本気なら救いようがないぞ、雑魚」
 嘲り笑うように言うなり、踵を返す。
 瞬間、康哉の自制心は限界を迎えた。
 仲間だとか、曲がりなりにも助けてもらっただとか、その類の事実よりももっと手前。気に食わないヤツという認識から、確かな『敵』として認識が切り替わる。
 厚木康哉は、売られた喧嘩をそのままにしておいたことはない。
「おい……今なんつった、コラ」
 最後通牒のつもりで問い返した声は、怒りに震えて、割れたガラスのように尖っていた。
 視線の先で志縞が足を止める。彼はゆっくりと首を巡らせ、形のいい唇を嘲弄に歪ませたまま、まったく変わらない調子で、丁寧に言葉を繰り返した。
「雑魚、と言ったんだ。聞こえなかったなら何度でも言うぞ。それとも、『虫ケラ』とでも呼ばれたほうが好みか?」

「てめェッ!!!」

 それが禁忌であると解っていても、もう限界だった。
 康哉は銃身を飛び出した弾頭のように、少し先を歩く志縞の後姿へと飛び掛かる。
 脚が紅く紅く燃え上がる。ノーヴァコロナが発動し、炎が揺らめいた瞬間、康哉は音に限りなく近いスピードで駆けた。
 鼻を鳴らしながら志縞が振り返る。半身を康哉へ向けた姿勢まで体をひねると、その右手がポケットから出た。親指が僅かに霞む、
 瞬間、康哉は弾かれたように仰け反っていた。
「……?!」
 耳が痺れたように音が一瞬わからなくなる。きいん、という耳鳴り。顔面に拳を食らったときのよう。生理的に溢れる涙が視界を曇らせる。
 クロスボーンがたたらを踏んだあの姿を想起して、康哉はわけもわからないまま弾けるように右に飛んだ。バットの素振りのような音がして、一瞬前までいた場所を何かがすり抜けていく。
 歯噛みしながら康哉は脚をより強く燃え上がらせ、地面を踏みしめた。――爆裂。反動で加速する独特の歩法、インパクト・ブースト。
 志縞の口から鋭い舌打ちが飛び出した。どうやら、高速で動けば狙いが付けにくいらしい。一瞬でそこまでを看破すると、康哉は反動を殺さないまま、地面ぎりぎりを伏せるような低体勢で走り、志縞の左へと回り込んで左足で地面に杭を打った。軸足を固定した瞬間、伸び上がるように右足をハイキックの軌道で振り上げる。
 対する志縞も黙ってはおらず、左腕をガードに出して右腕を振りかぶり、交錯の瞬間を待つ。
 ――上等だ、腕一本で受けようとしたのを後悔させてやる……!!
 康哉は一際強く脚の炎を燃やし、まっすぐに志縞を睨みつけ――そこで、志縞の驚いたような表情と直面した。
 同時に、ぬう、と横から黒い腕が突き出て、康哉の渾身の右脚をいとも容易く受け止める。
 上体をやや後ろに傾がせ、右脚を振り上げたままの康哉。掴まれた右脚。
 右拳を引いた体勢で凍ったように止まった志縞。彼の額に押し付けられているのは、フロント・スパイクつき、〇.四五インチ口径の銃口。
 はためいた漆黒のコートの裾が、僅かに煙草の匂いをはらませる。燃え上がる康哉の蹴りをゴムボールを受け止めるかのように止め、熱がる気配もないままに志縞に銃を突きつけたその男は、不味い紫煙を吐き出すときのような息を吐いた。
 蒼い瞳が、心底けだるそうに康哉と志縞を往復する。
「……あのな、今さっき、クロに紅茶を頼んだところだったんだ。ソーサーの上に湯気の立つカップが置かれたところだった。だがな、取っ手に指を絡ませたところで、クロが呆れたような顔をした。何かって訊く前に、クロはこの乱痴気騒ぎを丁寧にオレの耳に届けてくれたわけだ。クロはオレになんて言ったと思う、『リーダーだろう、君は』だと。そうして椅子から立ったオレが、今一番欲しい言葉がわかるか、お前ら」
 ――ジーク=スクラッドが、立っていた。
 眉間には皺が寄り、苛立たしげに口調は早口。
 右すねをわしづかみにしたジークの右手がメリメリと信じられないような握力で絞られ、康哉は上げそうになった呻きを噛み殺した。だが、より悲惨なのは志縞のほうだ。額に押し当てられた剣呑な銃口のプレッシャーは、ただの握力の比ではあるまい。証拠に、あの鉄面皮がやや色を失っている。
「オレがヘラヘラしながら『ケンカはよくない』なんてガキのお遊戯じみた事を言うと思ったら大間違いだぞ、バカ野郎ども。遊びでこの稼業やってんじゃねえんだ。オレはな、今、最高に頭に来てる。いつ撃鉄ハンマーが落ちるか判らねぇぞ。耳元でガンファイアを聞きたかないだろう、なあ、シジマ? コウヤ?」
 静かなくせに、言葉は恐ろしいほど冷たく、有無を言わさぬ調子で並べ立てられる。
 一瞬の逡巡。康哉が向けた視線が、ちょうど志縞のそれと絡む。
 奇しくも二人は、同時に口を開いた。
「「でも、コイツが――」」
 そして、同じ場所で声が止まる。
 康哉は自分の骨が軋む、めしり、という音を聞いた。ジークの握力が増したのだ。言葉尻を飲み込み、悲鳴を押し殺す。見れば、志縞の額の銃口は、押し付けられたまま時計回りに九十度回転していた。以前見せてもらった、あの銃の近距離制圧用のフロント・スパイクは、鋭い肉叩きのような形をしていた。押し付けられて捻くられれば、言葉を失うのも道理。
「同罪だ。オレは何も、お互いにゴメンナサイしろっつってんじゃない。こんな下らねえことでオレをわざわざ立たせた事を反省して、オレに謝れ、、、、、、って言ってるんだぜ。意味がわかるか? 判ったなら言ってみろ。今すぐ復唱しろ。『ごめんなさい、二度とやりません』だ。今から十秒やる。十一秒目のカウントを聞けると思うなよ。数える前にお前ら二人の脳天を、後腐れないように吹っ飛ばしてやるからな」
 まさに凍えるように冷たい声で言うと、ジークはゆっくりとカウントを始めた。一から始まり、死刑台の階段を上っていくようなテンカウント。
 増えて行くカウントを前にして、康哉は暫し下唇をかみ締め、六秒目に早口に謝罪の言葉を紡いだ。志縞は引きつった顔を無理に無表情に繕おうとしたのか、顔の筋肉を奇妙にゆがめながら、八秒目に淡々と口を開いた。
 ジークが十秒目を数えることはなく、幸いなことに銃声が響くこともまた、なかった。
 両者の声にいまいち気がないのに嘆息しながらも、ジークは眇めつ両者を見比べる。
「……ま、いいだろ。だが、次があると思うなよ。お前らから魔具をかっ剥いで、別の連中をスカウトしてきてもいい。それで苦労が減るなら、オレはいつでもそうする覚悟がある。判ったら、つまらねえ小競り合いはこれっきりにしろ。オレの平穏と、お前らの精神衛生のためにな」
 ジークは康哉の足を軽く下に弾き下ろすと、志縞の額から銃口を引き、華麗にスピンさせながら銃をダブル・ショルダーホルスターに押し込んだ。ブラックのタイトコートの両脇に、黒い革製のホルスターが二振り、街灯の光を受けて艶かしく光っていた。
 不意に訪れる静寂。康哉の足からは炎が失せ、志縞もまた構えを解く。
 ジークの一言を最後に暫く三者ともが口を開かなかったが、その膠着を最初に破ったのは、志縞だった。
「……戻ります。お手数をお掛けしました」
「全くだ。後輩を可愛がるなら、もう少しやり方を選べ」
 ジークが皮肉っぽい口調で返すのを一瞥すると、志縞はそれきり言葉を紡がず、踵を返した。手近なゆがみに向けて歩き、触れると同時に、志縞はその場から退逸ログオフするように消え失せた。
 康哉はそれを、何も言わずに見つめていた。怒りはすっかりと萎えている。頭をがりがりと掻いて、ため息を付く。
「少しは頭が冷えたか、コウヤ」
 ジークはポケットから煙草を取り出し、ソフトケースから一本振り出して咥えた。ジッポライターのホイールを擦る音と、ふわりと広がる紙巻き煙草の安い煙。
「……ああ。……悪かったよ、ジーク……もう、やらねェよ」
「そうしてくれ。ケンカの仲裁ほど面倒くさい話もねえ。どうせやるなら、クロに言って訓練扱いでスペースを用意してもらうんだな。仕事中にギャーギャーと騒がれたんじゃ、士気とオレのやる気に関わる」
 言いながら、ジークはうまそうに煙草をふかす。立ち上る紫煙は風にさらわれてすぐに消えていった。
「……けどさ、あいつだって悪いと思うんだよ。言い訳するわけじゃねェけど」
 康哉は不満をあらわにして呟いた。あれだけ悪口を並べられれば、自分じゃなくても怒ると思う。――幾ら失敗したと言っても、だ。皮肉の一つや二つならまだ我慢が効いたものを。
「まあ、な。途中から聞いてたが、あそこまで言われりゃ頭に来るさ。だが、お前がしくじったのをシジマがフォローしたのも事実だ。トラウマを負って、それっきりこの仕事から身を引く羽目にはなりたかなかったろ? 感謝しろとまでは言わねえ。けどな、ありゃお前の我慢のしどころだ、コウヤ」
 たっぷりと肺に溜めた煙を味わうように吐き出しながら、ジークは言葉を紡いだ。
「シジマに非がないとは言わねえが、この場合は挑発に乗ったお前を重点的に叱るべきだろ。……それを両成敗って形にしたんだ。とりあえず、これで矛を収めとけ。何も、なかよしこよしでいろってんじゃねえんだからよ」
 三分の一程度の葉を残して、ジークは火の付いた煙草を親指で弾き飛ばした。赤い軌跡を描いて地面に落ち、吸殻が火の粉を散らして、ゆっくりと転がって排水溝に落ちる。
 康哉は返す言葉もなく、弱々しい頷きを返した。紫煙の向こうから、覗くようにジークの蒼い目が光る。僅かに笑みをはらませて。
「まあ、シジマにもオレから言い聞かせておくさ。……いっぺん現実で殴り合ってみたほうが早いかもな?」
 冗談のような声を残して、先に戻る、とジークは踵を返した。すぐに街灯の光の届かぬ範囲へと進み、ふわりと黒コートの背中は消え失せる。
 その背中を見送って、康哉は僅かな溜息を吐いた。
 相変わらず、一つの問題が解決すると、次の問題が待ち受けている。一難去ってまた一難とはこのことだ。
 先の展望に不安を覚えるのにも、もう慣れてしまった。あのいけ好かない男とうまくやっていけるかどうかなんて、心配するのもバカらしくなって、伸びをする。
 ――ああ、いいさ。仕事の上では息を合わせてやる、クソったれめ。だけどそうでないところでいつまでも大人しい顔をしてると思うなよ。
 ジークの言う通り、殴り合ってみるのも悪くないと思いながら、康哉は『ゆがみ』へ向け、一歩を踏み出すのだった。
| | index
Copyright (c) 2007 TAKA All rights reserved.