Nights.

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  Crosspoint  

 狭苦しいアパートメントの一室で、男――ジーク=スクラッドは目を覚ました。
 眼を開けてすぐに身を起こす。部屋は暗く、同居人――妹がいる気配はない。彼女は、今は遠くに出かけている。
 時計を見る。午後六時。今朝は朝方まで仕事をしていたが、それにしたって眠りすぎだと内心で思う。頭を掻きながら、ベッドから起き上がる。枕元には飲み散らかしたビールの缶と、吸殻が山になった灰皿。反射的に、確かめるように胸元に手をやる。首のチェーンに下げられた小さなロザリオに手が触れて、それが変わらずに胸にあったことに安堵した。
 ぐらぐらと、二日酔い一歩手前の状態で揺れる脳髄を覚醒させるために、バスルームへ向かった。鏡に映る、上半身裸のけだるげな自分の姿。自分の格好に自分で呆れて、服を乱雑に脱ぎ捨ててドアを押し開ける。後ろ手にドアを閉めながら、シャワーの蛇口をひねった。ざあ、と浴びせかけられる冷水が意識をはっきりとさせる。徐々に温度を上げて、肌がひりつくような熱さにすると、滝に打たれる修行者のように、しばらくそのまま動かなかった。
 シャンプーで髪を大雑把にかき回し、その泡が熱い雫に溶けて失せるころに、ジークはようやく蛇口をひねり、シャワーを止めた。
 浴室の鏡には、先ほどよりはいくらかはっきりした、ガン・ブルーの瞳を煌かせた自分の姿が映っていた。
「……行くか」
 一言、自分の声帯を確かめるように呟く。問題はない。
 そうして彼は、浴室を出る。止まったシャワーから落ちた雫が、ぴちゃりと小さな音を立てた。

 黒いジーンズに適当なシャツを合わせ、ジャケットを羽織る。ラッキー・ストライクのカートンからひとつ、新しいソフトケースを取り出して、ポケットに突っ込んだ。おそらく今日一日、これから寝るまでの間に吸い尽くすだろう。最早、これもやめられない悪癖のひとつだ。酒と並んで。
 髪を雑に撫で付けると、寝るためだけにある家を後にした。
 夜気は冷たく、シャワーを浴びたばかりの火照った肌を冷まして吹き抜けていく。うらぶれた町並みには、早い時間だというのに人が少ない。男はいつものごとく、家を出てまっすぐ東、三番目の路地裏に身を滑り込ませた。
 ――ナイツが、何故世界中に散らばる昏闇を殺せるのかという問いに対する回答が、ここにある。
 昏闇は夜の闇を渡り、神出鬼没に移動する。同じ昏闇が、日本からブラジルへ渡ることすら稀ではなかった。彼らは夜の世界に出来る「ゆがみディストース」を感知し、それをくぐって移動する能力を持っている。現実における距離は、問題ではない。
 蛇の道は蛇。ナイツはそれにヒントを得て、空間のゆがみを広げる手法を得るに至った。――それが、「空間法術リープ・フレクス」である。ディストースを介した人員の招来・移送、ディストースを通った昏闇の感知、高度なものになれば、領域を「製作」することさえ可能であった。
 大小合わせて二百を数えるナイツの各部隊チームには、領域製作を可能とするレベルの術者が確実に一人はいた。そうでなくては、分室を作ること自体が不可能であるからだ。
 ジークは迷うことなく、月の光さえ拒む路地裏の中に入り込む。独特の臭気を帯びた空気が頬を撫でる。さらに二歩。「ゆがみ」に鼻先が触れた瞬間――路地裏の空気は、紅茶の香りに取って代わられた。
 ディストースを潜り抜けるのは、ほんの一瞬だ。テレビのチャンネルを切り替えるように、一瞬で情景が変わる。
「……おや、早いな」
 聞きなれた声が耳朶を打つ。暗い路地裏は、もうどこにもない。目の前に広がるのは、磨きこまれた樫の木で組まれたそれなりに広い一室。カウンターの向こうに、針金のように細い身体をした、赤銅色の髪の男が立っている。
「気が向いてな。起き抜けで鈍いが、暫くして覚めたら仕事に出る」
 事も無げに返すと、赤銅の髪の男――六牟黒は呆れたように肩をそびやかした。
「なんだ、今起きたのか。……感心して損をしたぞ、ジーク」
「早く来たことに変わりはないだろ。そのまま感心しておけばいいんだよ」
 適当な理屈をこねながらジークは滑るようにカウンターのいつもの席へと腰を下ろす。言葉を聞いてか、黒は頭痛を抑えるように額に人差し指を当てていた。難しい顔をしている。
「その堕落癖を直せば、言うことはないのだがな……リリーナに早く帰ってきてほしいものだ」
「……おまえはオレに死ねって言うのか? あいつが帰ってきたら、あの狭ッ苦しいアパートから追い出されちまう。タバコは嫌い、酒はやらない、おまけに言うなら綺麗好き、極め付けにはオレが嫌い。そういう女なんだぞ、あいつは」
 冗談交じりに言うと、コーヒーをドリップしながら黒は鼻で笑った。
「その位のほうがいい薬になろう。君はどうにも、自分がしたことの後始末が嫌いなようだからな。それにひとつ、訂正を加えるなら……彼女は君が嫌いなのではなく、『後始末をしない君』が嫌いなのだよ。言わなくても分かっていることだろうが」
「……ハ。言ってくれるよまったく、冗談じゃねえ。あいつがそんな可愛いタマかよ。枕元に積んだビールの空き缶の山にコンバットナイフをブチ込まれてみろ。二度と同じ口が叩けなくなるぜ」
 皮肉に返る言葉を意にも介さぬように取り澄ました顔のまま、黒は洗練された所作でソーサーに乗せたカップをジークの前に差し出した。ジークは肩をそびやかし、湯気を上げるカップを受け取る。
 かちゃり、と鳴る陶器の音に重ね、黒はいさめるように切り出した。
「それは君が悪いのだろう? 前提が間違っているぞ、ジーク。君が片付けをきちんとしていれば、ナイフも手斧もアパートの中で飛んだりはしない。……いささか彼女が過激なのは認めるが、君のズボラさはそれだけ突き抜けているということだ」
 ジークは大げさに頭を抱え、うなり声を上げた。
 ――なんでこうも、世の中ってのは女に甘いんだ。それでいて、オレには厳しい。オレはただ酒を飲んで寝ッ転がっていたいだけなのに。
「その理想の姿のことを『堕落している』と呼ぶのだよ、世間ではな。いつの世も正論の前に暴論は引っ込むものだ。無理と道理の関係とは違ってな」
 口に出ていたらしい。
 黒が透徹に『正論』を並べるのを聞いて、ぐったりとカウンターに肘を預けた。続く言葉から逃げるように、話題の矛先をそらす。
「オレの事はどうでもいいんだよ。いちいち疲れさせてくれるな。……今日、何か特別な予定とかは?」
「もっと疲れさせてやりたいところだがな。仕事に差し支えてもつまらん、ここまでにしておこう」
 言うと黒は、落ち着きをなくすような幾何学模様が描かれたカレンダーの中の日付をのぞいて黙考し、きっかり五秒後にまた口を開いた。
「ああ、笹原が帰ってくるな。それに合わせて、厚木にはネームドと戦うかどうか決めておけ、とも言ってある」
 黒の言葉に、かちゃりかちゃりとコーヒーをかき混ぜていた手を止め、一口すする。きつ過ぎない苦味と酸味が、芳香と共に喉を潜っていった。
「……相変わらず性格悪いな、お前は。コウヤが答えを出してなかったら、シジマの事だ、あのガキに強く当たるに決まってるぜ」
 ――笹原志縞ササハラ・シジマ
 康哉の次に新しい、この第十三分室ネームレスのメンバーの一人で、生真面目かつ融通の効かない性格をした青年だ。少し前から、第二分室へとヘルパーとして出向していた筈だった。彼が戻ってくると知って、長く息を吐く。
 黒はそれを気にした風もなく、グラスを取り上げて布で磨き始めた。
「それは当人同士の問題だ。俺の知った事ではない。もとより強制力のない仕事だ。厚木もその程度で嫌になるようなら、早々にやめてもらった方がいい。覚悟の甘い人間から死んでいくのは、この世界の常だからな」
「やれやれ……もっともらしいことを言いやがる。そうでなくたってコウヤはミツリのお気に入りなんだぞ。それを知ったらシジマのヤツ、尚更コウヤを――」
「……どうするってんです、ジークさん」
 不意に言葉を遮られ、ジークは僅かに肩をそびやかした。背後に、自分を見下ろしているような気配を感じる。何でもう帰ってきてるって教えなかった、という意味をこめて黒をじろりと見ると、それこそ俺の知った事ではない、とでもいう風に肩をすくめられた。ため息をついて、観念したように振り返る。
「……ああ、いびるだろうなあ小姑のように、って続けようとしたんだよ。久しぶりだな、シジマ」
「ご挨拶ですね。やりませんよ、そんな事。それに、光莉さんとは別に何もないですから」
 背後にはそびえるように、アッシュグレイのオールバックをした男が立っていた。長身である。適正な筋肉が乗った、格闘家然とした体つき。目にどこか冷たい光をたたえている。スーツ姿で身を固めていた。手に嵌めた古臭い革の指ぬきグローブが異彩を放っている。
 ――『空撃エア・ボマ』の二つ名を持つ、稀代の爆撃術士。笹原志縞である。彼の姿を見て、ジークは皮肉げな笑いを浮かべた。
「よく言うぜ。むっつりしてると、取られちまうぞ。お前のいないうちに新入りがきてな。放っておけないような、危なっかしいガキなんだ。ミツリはそいつを、えらく気にしてる」
「さっきから言ってる、その『コウヤ』とかいう奴の話ですか、それは」
 言いながら、広い肩を揺すって志縞はスツールに腰掛けた。音もない。所作には、ことごとく隙がなかった。
「ああ。なかなか見所のある少年だ。今日、ネームドと戦うかどうかを聞く事になっている。こちらを知ってから二ヶ月足らず……最短記録だ。君の二ヶ月半をさらに下回る早さだよ」
 黒は言いながら、何を淹れるか考えあぐねているようだった。それを見て取ったか、志縞はぼそり、「緑茶を」と呟き、黒の言葉を反芻するように、顎元に曲げた指を当てる。やがて口を開くと、
「素質だけで上手くいくほど、この世界は甘くないと思っています。そいつについても、同じ事でしょう」
 そう、繋げた。
「だろうな。だが、努力だけで立ち行かない事があるのだって、同じ事だぜ。素質がなきゃどうにもならない事もある。別に、誰の事を言うわけでもねえけどな」
 ジークが挟む横槍を、志縞は何を考えているのか読み取りづらい無表情で受けた。
 ――素質はあるに越した事はない。
 ジークの持論だ。無論、その素質にかまけて慢心する人間には目を覚ますための張り手をくれてやる必要があるが。
「……やる気があるなら、オレは何も言いませんけどね。別に」
 興味のないような顔をして、志縞は黒から緑茶を受け取り、まだ相当熱いであろう湯のみを平気な顔で持って、一口すする。
 それを聞いてか、カウンターの向こうで急須の後始末をしながら、黒が涼やかな笑みを浮かべた。
「すぐに分かることだ。……ジーク、一つニュースがあるぞ」
 黒が楽しげに笑うのを見て、ジークは少なからず嫌な予感を覚えながら、ラッキーストライクを抜き出した。チェーンスモーカーである彼に灰皿を差し出すのはいつも黒の役割である。安っぽいステンレス製の灰皿を取り出してジークへと差し出しながら、黒は笑みを含めて、口を開いた。
「『軋骨クロスボーン』の跳躍開始ジャンプインを確認した。推定目的地は――巳河市。厚木の街だ」
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