Nights.

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  In the school  

 四時間目が終わった瞬間の喧噪と言えば、誰にでも記憶にあるはずだ。
 チャイムが鳴って数秒、授業の終わりの宣言を受けて学校は目を覚ましたように活気づく。
 それはここ、二年三組でも変わりないことだった。
「メシ! メシだ! 金がない! 貸してくれ!」
「全力で融資お断りだよ」
「殺生な?!」
「それより今年の初めに貸した酒代と八月の海の時の飲み代とこないだの服代を早く返してほしいな」
「だが金がない!」
「働け」
「ごめんなさいすみません今度返すから手ェー離して神さま仏さま字坂ちゃんさま」
「ちぎるよー」
「あだだだだだ、もげる、もげるもげるやめてやめてピアスやめて」
 視界の片隅でアホ二匹が漫才を繰り広げていた。いつものことなのでさらりと流しながら、康哉は座り慣れた席から立ち上がる。
「あれ、康哉? 昼ごはんは?」
 大谷の耳をひっつまんだまま、字坂が声を上げた。康哉は肩を竦めて「準備室」とだけ答えた。
「あらあら奥さん聞きました? またあの先生のところですよこの子は」
 有閑マダムを真似たような調子で、大谷が身をくねらせて言った。
「まあまあ、年上好みとは知らなかったけどいいコトでしょ、異性に興味を持つのは」
 したり顔で頷く字坂。瞬時に話題が自分のことに移ったのを悟り、康哉は肩を竦めて口を開く。
「……そんなんじゃねーよ、つっても聞かねえんだろうな、おまえら」
「「もちろん」」
 声を揃える悪友二人に、彼は今日も痒くもない頭を掻きむしるのであった。

 化学準備室のドアは立て付けが悪い。鍵もずいぶん前にぶっ壊れてそれきりらしい。この際、鍵ついでにドアごと直してしまえと、康哉はよく思っていた。
 ノックもそこそこに、ドアノブを捻って、半ば突き飛ばすようにドアを開ける。
 ドリルと参考書とプリントが、そこら中に雑然と積まれてうずたかい。棚では試料とビーカーとフラスコがガラスの森を作っている。綺麗好きが見れば顔をしかめるような状態であり、格別その気がない康哉でさえも一瞬息を詰めてしまうような有様であった。
「……まだ授業から帰ってきてないのか」
 ごちゃごちゃのデスクに頬杖をついているはずの影はなく、なんとなく不安感を覚える。それは、たとえばジグソーパズルのピースが一つ足りなかったときのような。
「ま、早かったしな。仕方ないか」
 弁当の包みをぶらぶらさせながら呟いた刹那、
「なにが仕方ないんです?」
「うおあっ!」
 後ろから声が聞こえて、康哉は飛び上がらんばかりに驚いた。反射的に背筋を伸ばしながら振り返ると、そこには閉め忘れのドアを潜ってきたらしい、白衣の女性の姿があった。腕に、洗ったばかりらしいビーカーをずらずらと入れたカゴを抱えている。
「こんにちは、厚木くん。今日もここでごはんにします?」
「……うっす。今日は、ちょっと話したいこともあったんで。いいっすか?」
 問う言葉に、彼女の眼鏡の向こう側で、ライトブラウンの眼が優しく弧を描く。
 芝崎光莉はやわらかな笑みを浮かべたまま、彼の申し出を快諾した。
 
 康哉の通う公立巳河みかわ東高等学校には、化学の教師が少なかった。他科目の教師を動員して化学をカバーしなくては、授業のシフトが立ちゆかなくなるほどに。
 彼らとて、化学を専門に教えているわけではない。普段は物理や生物を教えている教師陣が普段使わないテキストをひっくり返し、授業の準備に追われるというのは非効率だ。
 そのため専門の化学教師が欲しい、との要望が出ていたのだが、十月に入る少し前のある日、遂にその要望がかなえられた。新しく来たその教師は極めて穏和な性格で、周りとの不和を起こすこともなく、半月と経たないうちに学校に馴染んだのだった。
 ……康哉の前でコロッケパンをもぐもぐと咀嚼している彼女こそ、臨時でこの学校にやってきた非常勤講師こと芝崎光莉なのであった。最初に教壇に立った彼女を見たとき、康哉はそれはもう壮絶に驚いた。後に字坂に「写真に撮っておけばよかった」と言わしめるほどであった。
 問いつめるまでもなく黒の差し金であったのだが、本当に人が悪いと康哉は思う。
 ――きっとおれが驚くことも、承知の上だったんだ。
 ああ見えて、黒は意外と茶目っ気のある男なのだと、ここ一月で康哉は学習していた。
「茶ァ、淹れます」
「あ、嬉しいです。……ポットはいつもの所ですから」
 無邪気に笑う光莉に、つられて康哉も頬を緩ませた。
 こうしているとたまに、向こうが年上だというのを忘れそうになる。二十四歳という実年齢に反して、彼女は時折壊滅的にドジだったり、心配になるほど無防備だったりするのだ。
 ――夜はもっとなんつーか、凛々しいんだけどな。
 てきぱきと湯を沸かしながら、内心で呟く。昼の光莉には、常にどことは知れぬ場所を見ているような危なっかしさがある。ふと目を離したら転んでいそうな、そんな具合だ。
 本人に聞こえないのをいいことに内心で色々と失礼なことを考えていると、不意にパンの袋に手を掛けた光莉と目が合う。眼を瞬いて小首をかしげる彼女から、康哉はなるべく自然に見えるように目を逸らした。
 手早く用意したのは一山幾らのティーパックを使った安い紅茶だったが、熱ければそれなりに飲めるものだ。夜に黒のところで飲むものにはやはり劣るが、それも仕方がない。彼が手ずから淹れる紅茶とインスタントを比べるのが、そもそも間違っている。
 そんなことを考えながら、カップを持ち上げ、運んで手渡した。
「ありがとうございます」
 静かな準備室に響く、光莉の礼の言葉。それに若干のくすぐったさを覚えながら、康哉は頷いた。席に戻って腰掛ける。
 光莉はカップを持ち上げ、褐色の水面を波立てるように吹き、熱を冷まして一口すすると、長い息をついた。眼鏡が湯気に曇る。それに困ったように笑いながら、やがてこう切り出した。
「……厚木くん、今日はただのお喋りではないんですよね? 前置きするなんて、珍しいもの」
 まったく自然に話しやすいような空気を作るのは、気遣いのなせる業か。どうやら昼でも、彼女は惚けているわけではないようだった。話を切り出すタイミングを見いだせなかった康哉は、それに甘えて口を開いた。
「あー……その、ですね。仕事の話なんすけど。『向こう』の」
 若干ぼかしながら言うと、光莉はその真意を汲み取ったように眼を細めた。準備室の入り口にちらりと目をやるようにしてから、康哉に向き直る。康哉も、一度ドアを振り向いた。立て付けの悪いドアは、来客を拒むように閉まっていた。
「構いませんよ、どうぞ」
 ――喩え一般の生徒に聞かれても、彼らには理解の及ばない話だ。そして理解してもらう必要もない。
 光莉の眼は、そう言っているかのようだった。そして言葉も、相談を拒否するものではない。康哉は安堵から長い息を吐いて、紅茶を一口飲んで唇を湿らせてから、ゆっくりと話し出した。
「黒さんと、今後の仕事の話をしたんすよ。雑魚ばかりじゃなくて、そろそろネームドを狩れって」
 光莉は言葉を聞いて、やや驚いたように目を見張った。しかしすぐに表情を整え、眼鏡のフレームに手を添える。
「続けてください」
「……いや、まあ、それだけっちゃあそれだけなんすけど。まだ早いと思うって、一応反論はしたんすけどね。明日までには決めておけ、なんて言われたのが昨日の夜っす。ネームドくらい相手に出来なきゃ、芝崎さん達にはついてけないなんて脅されちまいました」
「……」
 康哉が言葉を結んだあと、光莉はしばらくの間紅茶を飲むこともなく黙考した。静寂が訪れてから、時計の秒針が半周ばかりした頃に、ようやく口を開く。
「……私たちに無理して追いつこう、ということは、この際考えなくていいと思います。少なくとも私は」
 帰ってきた意外な返事に、康哉は紅茶を啜るのを中断した。
 失せかけた蒸気を探すように紅茶のカップを窓に向けてかざしながら、光莉は言葉を継ぐ。
「ジークや黒くんは、自分にも他人にも厳しい人です。それに素質もあって、厳しい環境の中に身を置くことに慣れています。……彼らが厚木くんの素質を認めたことは、確かに喜ぶべき事ですけれど……それと、厚木くんがどうするべきか、と言うことの間には、関係はないんじゃないでしょうか? ……なにも、二人に認められるためにあの仕事をしている訳じゃないでしょう?」
 違いますか? と光莉は小首をかしげる。康哉は、顎を引くようにして小さく頷いた。冷めかけた紅茶の香りが、鼻腔をくすぐる。頷いたことに満足したように、光莉は笑みを深めた。
「私から厚木くんに言えることは、決して多くはありませんけど……一つだけ。どうしてナイツの一員として戦おうと思えたのか、その理由をもう一度反芻はんすうしてみるといいと思います。……それから、自分の意志で選ぶべき選択肢を吟味するのが、いいんじゃないでしょうか」
「おれが、戦う理由……」
 呟くと、康哉は黙り込んだ。……なぜ戦おうと思えたのか。
 二ヶ月前、運命の夜、昏闇に喰われる直前の彼女を助けるために走ったとき、自分はなにを考えていただろう。
 ――そんなもの、単純だ。
 ただ、目の前で、手を伸ばせば落とさずに済むかも知れない命を救いたかっただけ。
「どんな結論を出すにしても、考えるのはあなたです。自分を裏切らない判断をしてくださいね。……自分を騙すのは、私たちがもっともしてはいけないことですから」
 康哉の心に浮かんだ理由を見透かしたかのように、笑みを絶やさぬまま光莉は言った。
 それは、ナイツに属する者が、ということだろう。言われずとも、康哉には解った。彼は決して賢明と言えるほど頭がいいわけではないが、さりとて愚鈍と呼ばれるほど思考の巡りが悪いわけでもなかった。
「……うす。もうちょい、考えてみます」
 ――その言葉に光莉が頷いたときに、重い会話は終わった。昼休みはまだ半ばを回った頃。康哉は、止まっていた箸をまた動かしながら、ふっと窓の外を見る。太陽が眩しく、孤独にぎらぎらと光り輝いていた。
 それを見て、ふと思う。……誰も判断を強制してはくれない。つまり今、自分はある意味で孤独なのだ。
 ナイツにいる人間が他人が何かを決めることに対しての口出しをよしとしないのは、夜の世界に身を置いた、その覚悟に対しての責任を果たさせるためなのだろう。自発的な決断でなくては、何も意味がないのだ。
 久しぶりに、誰も頼れないという小さな不安感が、康哉の胸の奥で揺れていた。
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