Nights.

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  He hates you  

 その男――草島礼二の経歴は、決して悪いものではない。良家の子息として生まれて以来、少年時代から学業にて頭角を現す。有名私立高校に入学し、さらにそこを踏み台に有名大学へ進学、きわめて優秀な成績で修了した後、親のコネを伝って企業の幹部となる。
 すべてにおいて模範的だったといってもいい。経歴だけを見るならば、真面目な人物なのだと誰もが評するだろう。
 だが――外面が全てを表すかといえば、必ずしもそうではない。人間というものはその皮の下にさまざまな汚点と捩れた悪意を抱えている。誰しも、そうだ。裏と表はどこにでも存在する。人間とてそれは例外ではない。
 草島は、思い通りにならないものが嫌いだった。昔からゲームが思い通りに行かなければ癇癪を起こしたし、身内で諍いを起こすことも珍しくなかった。高いプライドが歪んだ形になって現れていたのである。容姿は小男といった風情、前述の通り気立てがいいわけでもなかったために、周りから疎まれるのに時間はかからなかった。孤立し人が寄り付かなくなったとき、余った時間を勉学に費やすことで、彼は自分を防衛する。知識的優位によって、自分を優れた人間だと思い込み、周りと関わることは害悪と決め付けた。
 そのような性格のまま大学に進学した草島に、ひとつの転機が訪れる。
 周りの評判にも拘らず、進んで話しかけてきた女がいた。最初はかたくなだった彼も、やがては心をほだされ、交際を始める。彼にとっては何よりも幸せな日々だった。全てが明るく見えていた。その女のそばでなら、自分は変われると夢を見た。
 だがそれも長くは続かなかった。ちょっとした女の油断から、真実が露見する。草島は、その女が別の男と腕を組んで夜の街に消えるのを見た。相手は草島を体のいい金づるとしか考えていなかったのである。
 思い通りにならない人間。従属しないもの。裏切った女という生き物を彼は敵視するようになる。容姿的なコンプレックスからか、同性でも器量のいいものは憎悪の対象となった。
 ――それからというもの、彼は仕事の傍ら、後ろ暗い技術を学んだ。現場に証拠を残さない方法、足音を立てない歩き方、騒がせずに脅しつける方法。三年の準備時間を置き、草島は自分を裏切った女と、その相手の男にナイフで報復を遂げる。それがこの一連の通り魔事件の、最初の事件であった。
 そして今日。
 暗い部屋の中で、草島は膝を抱える。時々身が震うのは、下される処分を恐れる為ではなかった。……恐怖というよりは、それは怒り。今日まで尻尾を出さずうまくやっていたのに、ほんの少しの偶然から彼はこの部屋に押し込まれた。
 ――ああ、あのガキのせいで。
 草島は思い出す。茶髪の、ふざけた態度をした子供。ナイフを前にして微塵も揺らがない自信。宣言どおり、草島を牢獄へ叩き込んだその手管。
 すべてが気に入らなかった。こんなにも激しい殺意を抱いたのは、裏切った女に対して以来だ。
 ここを出ることは出来ない。入口を警官が固めている。そして手には戒めがある。仮にこの戒めがなくても、この扉を蹴破ることは出来ないだろう。厳重に鍵のかけられた扉は、草島が外に出ることを頑なに拒む。
 だからこそ草島は、ただ呪い続けることしか出来ない。
 朝が来てもここから出ることは恐らく適わず、そして自分が犯した数々の傷害事件が明るみに出て、地位と名誉のすべてを失い、最下層へと落ち果てる――
 そこから先の未来は、暗すぎて見えない。職もなくなる、罪を贖うには気の遠くなる時間がかかるだろう。裁判も待っているだろうし、破滅といって差し支えない。何人に傷をつけたか、その内何人が死んでいたのか。彼はすでにそれすらも数えていなかった。何時だって、ルールは守るより破るほうが楽しく簡単で、その埋め合わせには何十倍もの手間がかかる。塔を築くよりも崩すほうが簡単なように。
 草島は呪う。ただ壁の向こう側へ、殺意よ届けと呪い続ける。
 狂気的な憎悪が膨れ上がる。彼自身すら気付かぬうちに、草島の憎悪は部屋の空気を凝らせていた。憎悪はとどまることを知らない。
 空想の中で名も知らぬあの少年を何十回も殺す。刺殺し、絞殺し、圧殺し、斬殺し、銃殺する。絞首刑に処し、ガス室に入れ、四方へ走る牛に四肢を結び八つ裂きに、油をかけて燃やし、口内に爆薬を入れて頭部を吹き飛ばす。
 かつて行われた猟奇殺人や伝統的な死刑、そして虐殺法。そのすべてのケースに憎しみの先にある少年を当てはめる。偏執的な殺意。
 草島に資質があったとするならば、それは間違いなく呪術の才能であろう。その一念は、やがて部屋の闇に確かな形を持たせていく。
 何十度、何百度、殺してやると心の中で唱えたのか。
 ――不意に、草島は脱力感と開放感に覆われた。
 それは、まるで、何か大きな活力を伴ったものが、体の中から抜け出ていってしまったような――そんな感覚。
 由来のわからない満足感に包まれ、草島は牢獄の壁に背を預けたまま意識を失った。
 

 ――夢を見ないほどよく寝たのは、いつ振りの話だろうか。
 朝、ふと起きるととっくの昔に十時を回っていた。カーテンを開けて窓の外を見れば、太陽はもういつもより高い位置にあった。
 清々しいほどの寝坊。もはや急ぐ気すら起きない。
 まあ、考えてみれば昨夜床に就いたのは結局二時だ。夜更かしには慣れていないし、当然といえば当然の話だった。早起きが生来苦手な上にあんなことがあった翌日じゃあこれもしょうがない話だと思う。
 寝ぼけ眼をこすりながら、とりあえず階下に降りた。
 家の中は静まり返っていて、人の気配がない。佳奈は学校に行ったようだった。
 居間に下りると、テーブルの上に夕飯のあまりで作った簡単な朝食と、綺麗な字で書かれた手紙が目に入る。メモ紙に書かれた短いメッセージだった。
『兄貴へ。
 疲れてると思うから、今日はゆっくり休んでください。
 学校には欠席届を出しておきます。               佳奈より』
 随分と寛大な処置だ、なんて思う。普段のあいつならおれを叩き起こして焚きつけるくらいのことはするのに。
 昨日の夜、多分おれはよほど酷い顔をあいつに見せたんだろう。一応空元気を張って帰ったつもりだったけど、嘘は簡単にばれたらしい。たぶんこの先も、おれはあいつには頭が上がらないんだろうなとなんとなく思った。
 ――さて。
 欠席届が出ているのに学校に行くなんてのは間抜けだろう。今日は久しぶりに自堕落に過ごして、英気を養うことにする。
 さし当たってはまず二度寝。それからぶらつく先を決めて外に出ればいい。降って沸いた休日の過ごし方を思案する間は、昨日の夜のことは忘れていられる。
 あのざらついた声も、ぎらついた目も、記憶の中から少しだけ薄れている。記憶なんて曖昧なものだ。……いつも通りに遊んでいれば、すぐに忘れてしまえるだろう。
 行き先は決まってないけど、学校が終わる時間になったらあいつらに声をかければいい。字坂と大谷なら予定がなければ付き合ってくれるはずだ。
 男三人でカラオケだのゲーセンだのってのも、きっとたまには悪くない。
 気力を奮い立たせると、とりあえず時間を潰すために二階への階段を上る。楽しいことだけ考えてもう少し眠ろう。
 きっと、悪夢も見ないはずだ。
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