Nights.

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  ILL  

 呪詛じみた男の声に、どれほどのあいだ付き合ってたかはわからない。
 計ってたわけじゃなし、正確な時間は知りようがなかった。でも、主観的に言うとすれば、おれにとっては気が滅入るほど長い時間だった。
 隙さえあれば抜け出そうとする男を長い間拘束しながら、その呪詛を一身に受けてたわけだから、疲れるのも当たり前だとは思う。 今になってもなお、肩が重い。
 別に、褒められたくてやったことじゃなかった。普通の男なら、女の悲鳴が聞こえれば、下心込みでそっちに助けに走るもんじゃないだろうか。多かれ少なかれそういうもんだと思う。
 あれから、しばらくしてやってきた警察に無事に男はしょっぴかれた。彼女はきちんとおれの言った事を手早くこなしてくれたらしい。
 野次馬が集まってくる前に帰りたかったけど、こっそりいなくなろうとしてる所を警官に捕まった。事情聴取は避けて通れない道らしい。
 おれは両脇を抱えられるような感じでパトカーに乗せられた。してもいない犯行を咎められる気分だった。横の女の子がずっと下を向いたままだったのが印象に残っている。
 警察署につくと、狭い部屋に押し込められた。女の子と並んで簡単な事情聴取を受ける。ことが済んだ後で緊張の糸が切れたのか、彼女は視線をはばからず涙を流していた。時折しゃくりあげる声がおれを責めているように聞こえた。被害妄想なんだろうけどさ。
 新聞に名前を出さないように圧力をかけてくれと取調室で念を押したりもしながら、時計を気にしつつ取調べを受けた。
 帰宅許可を貰えた瞬間に席を立った。部屋から出る。彼女はもう暫くここにいるそうだ。親が迎えに来るのを待つのだという。
 時計を見ると十二時手前。普段ならとっくに風呂に入って布団の前にいる時間だ。自然と欠伸がこぼれ落ちる。
 部屋を出ると、待機していた職員が入り口まで送ると言って横に付いてくれた。
 護られているというよりはどちらかと言えば監視されている気分になりながら、出口へと送られる。
 最後に職員は、寄り道せずに真っ直ぐ帰宅するように、とありがたい言葉をくれた。言われなくても事に巻き込まれる前からそうするつもりだったんだと内心で皮肉を言いながら、おれは警察署を後にした。


 ――それで、やっとのことで帰路について今に至る。
 警察署前の見慣れない道から、徐々におれがいつも使う道へとシフトしていく。近道に使う路地が口を開けていたが、暗いその道を歩く気にはならなかった。不運は、もうこりごりだ。
 刃物を相手にしたという気疲れが肩に圧し掛かってきていたし、今更気分が重くなってくる。警察署に入った所為もあるんだろうけど、この疲れは、身体だけのものじゃない。

 ――殺してやる

 ……ざりり、とラジオの雑音が耳の奥で鳴っている。耳鳴り、まるでガラスの鼓膜をやすりで削るような。悲鳴じみた高音のノイズに紛れて、殺意でギラギラと光る声が浮かぶ。

 ――ころしてやる

 あの男は今、どこで何をしているのか。
 取調べは終わっただろう。状況証拠と彼女の証言、それにおれの言葉は、あの男が塗り重ねるあらゆる嘘より重い。
 ならば今頃、あいつはもう取調室にはいまい。

 ――コロシテヤル

 顔もよく知らない男。
 恐らくは、おれがその場にいた故に、本来持っていた社会的な地位や保身の為のあらゆる手立てを失った男。

 ――殺してやる

 幻視する。
 暗い部屋。四方を壁に囲まれたどこか。口から放たれ続ける呪詛、おれを呪い続けるその声。
 目を閉じなくても、おれの目に映った暗闇の中にその光景がある。気分が、悪い。

 ――殺してやる

 闇の中で、人間とも思えないような目をして、そいつはおれを睨んでいる。その憎しみがどれだけ濃いのか判らない。
 あの男は叫んだ。お前なんかに俺の何が判るのか、と叫んでいた。
 何も知らない。
 年齢も顔も髪の色も身長も体重も生い立ちも住居も仕事も人間関係も名前も何も知らない。
 ……暗闇の中から、一対の光る瞳がおれを睨む。
 全てを壊してしまったらしいおれに、逆恨みの限りをぶつけて、あの夜の向こうからおれを睨んでくる。――真っ赤な口を開き、

 ――殺してやる!!

「……うるっせえよ、ちくしょう!!」
 転がっていた空き缶を力いっぱい蹴り飛ばす。
 空き缶は空中でくるくると回って、耳障りな音を立てながら地面で踊った。
 ――呪いって言ってもいい。最後に車に乗り込むその瞬間まで通り魔の男は徹底語尾フードを被ったままだった。けど、それでも判るほどに強く、ヤツは他の誰でもなくおれを睨みつけていた。
 唇は音を刻まず、殺してやるという形に歪み続ける。その一念だけで、おれをこうして苛立たせるくらいには、ヤツの殺意は強いものだった。
 ――……いや。
 苛立たせる、ってのは、違うのかもしれない。
 近くの塀に寄りかかって、顔を右手で覆う。気付かないうちに手のひらはじっとりと汗ばんでいた。落ち着いてみれば、服の下にも冷たい汗がある。
 ……これは、苛々しているんじゃない。
 濃密すぎる、いっそ狂気と呼び捨ててもいいほどの殺気。おれ一人に向けられたその意思に当てられたんだ。
 冗談半分で口から飛び出す物騒な台詞だとか、普通の肩当てから始まるような街中でのストリートファイトで使われる脅しの言葉だとかのレベルじゃない。
 本気で殺すと、その決意表明を偏執的に繰り返すあの男が……正直、おれは怖かったんだ。
「……ちくしょう、らしくねえ……怖いもの知らずがウリなんじゃないのかよ」
 ナイフだって出された瞬間には警戒だってするしそりゃ危険だって感じる。確かに怖いとも思う。だけど、それは尻をまくって逃げ出すほどじゃなかった。
 でも、今胸の中で渦巻いてるあの男の押し殺したような声は、銀色の刃物よりもずっと怖い。刃物はどこまで行ってもただの刃物だ。人の意思が乗らなければ誰かを殺すこともない。
 ……だとするならば。
 本当に怖いのは刃物なんかじゃなくて、心の奥に抱えたどす黒い殺意なんじゃないのか。
 しばらくそのまま、呼吸を落ち着けようとして肩を上下させていると、カバンが微弱に振動を伝えてきた。
 それが一種日常の背景じみて忘れられかけた携帯のバイブだって気付いたとき、ようやく手が震えないでいつも通りに動き出す。携帯を取り出して開くと、着信は途切れた。
 履歴を確認すると、不在着信が七件、立て続けに入っている。全部、妹からの着信だった。
 いつもなら少し煩わしく思うその通信の痕を、少し違った感慨を抱きながら眺めた。
 ……初秋の夜風が、おれの感傷的な部分に吹きつけたみたいに、不意に涙が出そうになる。
 携帯を操作して、妹をコールした。コール音を聞いた回数だけ、耳の中の雑音とあの男の声が遠ざかっていく気がする。
 四コール目の半ばで、携帯が僅かに振動して、電波が繋がったのを教えてくれた。
「……もしもし」
 自分でもどうかなってくらい平坦な声が出る。それを、電話の向こうでやかましくやり返す聞き慣れた声。
「もしもしじゃないよ、バカ兄貴!何時だと思ってんのさ!? 遅れるなら遅れるで連絡くらいくれなきゃ、先にご飯食べちゃっていいのかどうかだってわかんないじゃんか!」
 一繋がりの佳奈の声が、おれの鼓膜をキンキンと揺らす。でも、今はそれすら心地いい。
 日常の象徴みたいな声を受けて、おれの中から黒い男の影が少しずつ失せていく。
「悪い、ちょっと外せない用があったんだ。……ホント悪かった。すぐ帰る。寝てていいから。メシは、適当に暖め直して食うし」
 自分でも驚くくらい素直な謝罪の言葉が滑り出る。瞬間、電話の向こう側が静まり返った。
 数秒の間を置いて、恐る恐るといった風に、電話を通した声が言う。
「……あ、兄貴だよね? えーと、悪いもんでも食べた? 生水とか飲んだ? ヤバいキノコとか?」
 随分な言われっぷりだが、逆に今はこれが心地よかった。塀から背中を浮かせる。嫌な汗も、いつしか失せていく。目眩も、もうしない。
「大丈夫、何もないから気にすんな。……悪かったな、心配かけてさ」
「べ、別に心配してたわけじゃ……ないわけじゃないんだけど、うえぇ、兄貴が素直だ……」
 内情複雑げな声を上げ、妹が受話器の向こう側で苦悩する。たまにこうやってからかって遊んでやるのも面白いかもしれない、とかすかに思った。
「素直にもなるさ。……それじゃあ切るぞ、また後でな」
 言い捨てて、返事を待たずに通話を切る。
 妹からの言葉が、非日常の側に引き込まれそうになったおれを連れ戻してくれたような気がした。
 耳鳴りはもうしない。
 フラッシュバックする声もない。
 悪意に満ちていたはずの路地裏の闇は、いつもと同じ静謐さで、ただ道を翳らせていた。
 おれを取り巻く世界に、異常はない。
 何度か確かめるように目を開き、閉じる。それから最後に一度深呼吸して、おれは再び家路を辿り始めた。
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