Nights.

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  Bad evening  

 五時間目までに起きた変わったことといえば、そう数は多くない。

 一つ目。三時間目前の休み時間。
 大谷が他のクラスのカラーひよこみたいな頭をした連中に呼び出されて、五分ほどで何食わぬ顔をして帰ってきた。曰く、
「ムエタイはいいよな。ジョー東とか」
 空手を使え。
 
 二つ目、四時間目。
 授業の途中で保健室に行った字坂が、それきり放課後まで帰ってこなかった。曰く、
「ごちそうさまでした」
 刺されろ。
 
 以上二つ、カウントストップ。片手の指さえ使い終わってないのに。いつもならせめて三つ目、おれの分が残っててもいいと思うんだが、今日はそう考えることを止めた。朝の不運がまだ続いてるなら、このまま何かが起こるにしても、ろくでもないことに決まってる。
 別に退屈が悪いことだと断罪するつもりはないのだが、刺激溢れる人生がすばらしいと思うのは同世代の人間の大体の共通見解だ。
 まあ、それはともかく。
 学校が終わった後、おれは繁華街のハンバーガーショップで時間を潰し、のんびりと、でも絶対に遅刻しないペースで練習に向かった。このときおれは、師範もそうそういつもおればかり鍛えやしないだろうってタカをくくってた。いくらなんでも限界くらいは把握してるはずだ、毎日こってり練習してるんだから少しくらいセーブしてくれるはずだ、そう思ってたんだ。
 ――撤回しよう。
 師範は、どうやらおれが考えていた以上のサディストだったらしい。

「……甘かった」
 やはりおれは無理をしてでも、字坂と大谷やつらを引っ張って連れて行くべきだったのである。
 いまだかつてないほどハードに練習させられた気がする。あれは稽古の形式をとったイジメに違いない。師範の前じゃ言えないけど。
 ……時刻は午後十時を少し回っている。ちなみに、稽古から開放されたのは今から十五分ほど前の話だ。
 しかし、思い出すのもきつい練習だった。
 みっちりとした準備体操に始まり、拳立て伏せ三十本を五セット、腹筋背筋三十本を六セット。息の上がったところで基本から始まり、いつもの倍の数をやらされる。その場で繰り出す突き、蹴り、それに受け。加えて移動しながらの攻撃と防御。三分の休憩を挟んでミットに打ち込み、最後に面を被って乱捕り。
 正直、身体はガタガタだ。疲れた。三時間の間で止まっていたのは三分間の休憩だけである。高校生がおれ一人しか来ていないということに対する譴責けんせきがオートでおれに襲い掛かってきているとしか思えない。おれは真面目に練習に出ているだけなのに。
「ちくしょう、やっぱり今日はろくでもない日だ」
 朝にあれだけ酷い目に会ったのだから夜くらいは見逃してくれてもいいと思っていたのに。現実とは過酷である。
 道場を出る前に念入りにストレッチとマッサージをしてきたが、身体の軋みは抜け切らない。
 普段だって週四で道場に行ってるんだから運動不足って事はない――はず。だけど流石にああまで練習させられると、荷が勝ちすぎたらしい。
 突っ張った太腿をほぐしながら、家路を歩く。街の光が薄れ、徐々に郊外に差し掛かっていた。街の中心から離れた場所に家を買ったのは親父の趣味や年収や色々な条件が合致してしまったからであり、間違ってもおれや佳奈の希望ではない。
 どうせ住むならもうちょっと街の中心に近いところに住みたいもんだ、いつもそう愚痴を零すが、なにぶん事情には金の話も絡んでくるのだ。扶養されてる身分で多くは言えない。
 内心で愚痴を呟くのもそろそろ虚しくなったので、少し冷たい秋風の吹く中を早足で進む。路地を抜けながら近道をしていると、不意に――
 風の中に、押し殺した悲鳴が混じった。
 瞬間、足を止めて左右を見回す。空耳かと思って耳を凝らすと、僅かな物音と低音の呻くような声がおれの耳朶を打った。
 風の呻きではない。口を押さえられた人間が助けを呼ぶような、か細い音声に聞こえた。
 喉が引き攣ったような声。塞いだ手の隙間からこぼれ落ちるような音声。
 思い出すのは、通り魔が流行ってるっていう朝の話だった。
 おれは別に聖人君子じゃない。
 けど、手の届く位の範囲で人が困っているかもしれないって言われれば探すだろうし、見つければ手も伸ばす。
 無償で命を賭けるなんてバカな事は出来ないしやる気もない。けど、目の前で起きた悪事を放っておくほど冷血漢でもないのだ。
 おれは路地を駆け出した。もしも物音の主がこんなところでデートしてるカップルだったとしたら、その趣味を笑って逃げてやるだけだ。
 その線を外せば、どの道ロクでもないことに決まってる。
「……痴漢か、通り魔だ」
 吐き捨てるように呟いたときには、か細い声は、今やはっきりと俺の耳まで届くまでになっていた。
 曲がり角を突き当たって左、その先は袋小路。獲物を追い詰めるには、確かに格好の場所だと、何となく思った。
 曲がり角でこれ見よがしに靴底で地面を引っかいて止まる。
 向き直った袋小路の先では――おれの学校のとは違う制服を着た少女と、怪しい格好をした男が、揃って驚きの表情でこちらを見ていた。
 女の子の方は、五メートルちょっとの距離を置いても判るくらいにガタガタと震えている眼鏡にお下げの、今どき珍しいくらい飾り気のない子だった。
 そして男のほうはといえばもう、これ以上ないってくらいダイレクトに不審者。身長はおれより少し下かそのくらいだから、一七〇センチメートルあたり。花粉症のやつがつけるようなでかいマスクに目深に被った帽子。表情が伺えない。とどめと言わんばかりに、サバイバルナイフを一振り持っている。
 ――これこそ、「よりによって」だ。
 神様が気の利かせ方を間違えてるに違いない。今日は多分間違いなく、これまでの人生で一番ついてない日だ。だって、これからどうするよ? 携帯から警察でも呼ぶか? 間に合わねっつーの。ああちくしょう、貧乏くじ引きっぱなしだ、涙が出る。
 回れ右したい気分に駆られながらも、おれは大きく息を吸った。こんなときは無駄に視力のある自分の目を恨む。おれの目は、確かに、天の助けを見るような目で視線をよこす女の子を映し出していたから。
 ああ、そうさ、おれは神様の気まぐれで出演させられた急ごしらえのヒーローだ。冗談じゃねえけどシャレにはなってる。
 万年ブルペンのピッチャーがマウンドに上がるときみたいな気分を味わいながらも、おれは軽く首を回した。
 鍛錬を重ねた身体は意地を裏切らない。気がつけばおれは肩幅に脚を開いて、左足を前に出し、軽く重心を前に寄せている。もう、反射的ですらあった。
 口を開く。刺々しく修飾した声でタンカを切る。
「随分楽しそうなデートだな、おっさん」
 回れ右してバイバイするって選択肢がなかったわけじゃない。……まあ、それでも選んでしまったのはこっちの道だった。
 覚悟を決める。心で負ければ喧嘩は負ける。
 さらに一歩踏み出した。道場で暖めた身体はまだ冷め切っていない。動くのに問題はないと思う。
「女の子相手にナイフ持ち出して脅迫かよ、ずいぶん器の小さえ野郎だな、え? 思慮と道徳をどこに忘れてきたんだ?」
 右拳を小指から順番に握りこむ。とりあえずおれは女の子から視線を外して、ナイフを持った男――正確にはその右手に視線を注いだ。
 武器を持った人間は必然的に武器に頼る。だから、その動きだけ見ていれば多少の心得があればどうにかなる。いつもの練習みたいに上手く行くかどうかは知らないが、おれが空手をやってるのは、こういうことがあった時のためのはずだ。
 ――ナイフの銀の輝きが目に入る。刺されたら痛いだろうなと思ってしまったが最後、リアルな恐怖が膝を笑わせにかかる。
 でも、それを意地で押さえ込んだ。多分あの女の子はもっと怖かったろう。それで、おれが意地を張る理由は十分なはずなのだ。
 もう一歩。男は女の子から手を離して後退する。名前も知らない少女は、壁に背を預けてずるずるとへたり込んだ。
「残念だけど、そっち側は行き止まりだぜ。自分で追い詰めたんだ、覚えてるだろ?」
 言ってやると、ぴたりと男の動きが止まった。不気味な静けさでおれの方に向けてナイフの切っ先を止める。
 そのナイフの鋭そうな刃を見ると、道を譲って『どうぞお帰りください』って言わせていただきたい心情にもなるのだが、乗りかかった船は乗りかかった船だ。中途下船は許されない。たとえそれが泥船でも。
「おれはあんたみたいなのが一番嫌いだ。力で他人を押さえつけようとする。そのくせ、対等な力を持つ連中には挑まない。弱いものイジメしかできない、そういう卑怯者が大ッ嫌いなんだよ」
 また一歩。
 睨みつけるようにして、相手の体を視界に納める。動き始めるその瞬間と武器の挙動が見えれば、あのナイフの切っ先がおれに刺さることはない。
「何とか言ったらどうだよ、この野郎」
 言って、おれが四歩目を踏み出した瞬間――
「んかに……」
 ぼそりと、若干高く癖のある男の声が響いた。
「……お前なんかに俺の何が判るんだっ!!」
 濁った発音でそう叫ぶと、男は素人そのままの足取りでこっちに突っ込んでくる。ナイフは――振り翳していた。
 助走に乗って、男はおれにナイフを大上段から振り下ろした。と言っても、ナイフの長さは手の延長程度。
 その刃が頭を割る前に、屈みがちに一歩踏み込む。前屈でもぐりこむように男の懐に入りながら、左の外膝で男の内腿を押し退けるようにして相手のバランスを狂わせる。
 慌てたのか、男は構えも何もない体勢から、くぐもった声を上げてナイフを順手に持ったまま振り下ろした。
 崩れた体勢から無理に振り下ろされたために勢いなどない。――おれは刃に当たる前に、相手の右手首を左の上段受けで強かに叩いた。
 外腕刀で打ち据えた事で、ナイフを持った男の手が止まる。食い止めたナイフを外側に押しのけるように腕を開く。一瞬の隙を逃さず、屈みこんだ体勢から伸び上がるようにして、そのまま相手の下顎に頭突きを入れた。
 ごぐん、と音。確かな手ごたえ。おれの視界にも閃光が散るが、相手はそれ以上だったらしい。男はがくん、とその一撃で膝を付いた。
 力の抜けた手からナイフを奪い取り、身体を横たえさせる。額に手をやって「いてぇ」なんて反射的に漏らしてしまった。……そういえば、朝ぶつけたところで頭突きを決めた気がする。不運のオールスターゲームだ。
 ほんの少し後悔しながらナイフを手の上で弄ぶ。後ろのほうに銀の刃を放り投げながら、へたり込んだ少女を振り向いた。
「ケガとか、ないっすか?」
 軽く問うと、少女はわななくように震えた後、ぶんぶんと首を横に振った。とりあえずは安心のようだ。
「ならよかった。……あーと、一つ頼んでいいっすか」
 左右を見ても標識が見当たらなかったので、仕方なしに男の手を後ろ手に回させて押さえつけながら彼女に言う。
「な、何を……ですか?」
 足が震えている様子を見ると少し悪いかな、とも思うのだが致し方ない。
「携帯は持ってますよね。その辺の目ぼしい標識探して、その場所を一一〇番に教えてください。すぐ警察が来ると思うんで。おれは暫く、こっち押さえてますから」
 平衡感覚が戻っても起き上がれないように男の背中に乗りながら、おれは彼女に告げた。
 普通の一般高校生よりはこの手の対応には少しだけ慣れてる。そういつも首を突っ込むわけじゃないけど、時たまこういうことが起きるのも本当なのだ。
 ……それでも刃物を持った相手と殴りあうなんて捕り物はそうはない。
 ああ、それを考えると今日はやっぱり厄日なんだろうな、くそったれ。
 女の子はゼンマイ仕掛けの玩具みたいに何度も首を縦に振ると、どうにか立ち上がっておぼつかない足取りで走り出した。
 その後姿を眺め、とりあえずは一段落とホッとしたとき、おれの下で男が暴れだした。
「離せ、殺してやる、離せ!!」
「冗談言うな。おれはあと九十年は生きるよ」
 軽口で押し返すが、殺してやる、という言葉がヤスリみたいに耳の奥を撫でていく。
 押さえた感じでようやく判るが、運動をしない中年にありがちな体型だった。何がこいつをこんな真似に駆り立てたのかは知らないが、同情する余地もないと結論付ける。
「殺してやる、このクソガキ、絶対に殺してやるからな、畜生が!」
 怒りに染んだ声がおれの下から沸き続ける。まるで地獄から聞こえてくる怨嗟のようだ。
 辟易として頭を掻く。冗談じゃねえよ……
「うるせえな、あんた。きちんと警察の人がおれが悪いかあんたが悪いか判断してくれるよ……おれが悪いって判決が出たら、それからおおっぴらに殺すって言ってくれ。それまでは、んなこと言ったってただの逆恨みだぜ」
 何が悲しくてこんないい年こいたおっさんの恨み言を聞かなけりゃいけないのか。
 おれの言葉を無視して、今だにおっさんは恨みつらみを煮詰めて言葉の型に流し込み、垂れ流し続けている。
 こうまで恨まれたんじゃあ、自分が正しいことをしたのかそうでないのかの境界すら曖昧になってきそうだ。
 ――殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる……
 呪詛じみたその声を聞きながら、おれは警察のサイレンが聞こえてくるのを切に待った。
 闇しかない路地で、耳を塞いで、ただ待っていた。
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