Nights.

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  Daily life  

 色々ドジを重ねた結果、急ぐのもバカらしくなって開き直って歩いた。結果、一限どころか、二限の半ばまでが犠牲になったと時計の針が教えてくれる。ありがとうよ、ちくしょうめ。
 校門を潜る。右手にカバンはあるし、急ごしらえの靴紐が千切れる気配も今のところはない。
 人のいない校庭を抜ける。静まり返った玄関をパスして校内に入った。一種別世界のような印象すら受ける。人のいない、凍ったような学校。いつもは見る事のない風景。
 少しだけ薄寒いものを感じながら靴を改めて廊下を歩き、中央階段を登った。教室は二階、二年三組がおれのクラスだ。
 教室に着くと二限も既に佳境だった。いつもと同じ仏頂面の教師に言い訳もなく寝過ごしましたと言ってのける。
 これまたいつものことだが、相手は事なかれ主義の老教師だ。しわがれた低い声で短い小言を並べ、後は授業に戻る。
 最後まで小言を聞くふりをして聞き流してから身を翻した。この狭い教室の窓側、それも最後列がおれの席だ。
 途中で悪友の二人と目が合う。説明を求めるような視線にあとでな、と手を振って返す。
 席に付いて、テキストと筆記用具、それにノートを引っ張り出した。板書にはさして重要な部分は多くない。赤いチョークで囲われた部分が少なかったからだ。あの教師は、わかりやすいほど実直に赤チョークで囲んだところをテストに出す。
 とりあえず、書いてある分は覚えておいた。必要ならメモもとる。
 勉強するときに必要なのは、勉強の事以外を考えない脳味噌だ。意識を逸らさなければ人間の脳は案外優秀なので、勝手に知識を吸収してくれる。
 もともと半ばまで授業をボイコットしてしまったせいもあって、その授業はいつもよりはるかに短く感じた。終業のチャイムが鳴ると、教室はにわかに活気付く。
 その活気に押されるように教師は荷物を纏め、教室を出て行った。何とはなしにその後姿を眺めていると、首にがっつ、と腕が回る。
「よう、厚木ィ」
 振り向くと、馴染みの顔が笑っていた。唇にピアスが光る。くっきりした眉、二重の目、長身痩躯と揃った、細面の優男。髪はその反社会性を誇示するみたいなキャラメルカラー。大谷大地オオタニ・ダイチというのがこのわかりやすいアウトローの名前である。
「遅かったじゃないか。初日から休むかと思っちゃったよ」
 大谷の少し後ろで控えているのもいつもと同じ顔。こちらは格好いいというよりは愛嬌のある、小柄な少年だった。さぞ年上受けするであろう保護欲を誘う顔つきと、きっちりと着こなした制服がトレードマーク。字坂信二アザサカ・シンジという。
 重いから離れろ、と身じろぎ、大谷の腕を解いて立ち上がった。振り返る。
「あー、二度寝できるもんならしたかったけどな。でもおれの行動は逐一監視されてるんだ、アメリカのエージェントから」
「エネミー・オブ・アメリカ?」
 わかんねえ、と大谷が頭を抱える横で字坂が肩を竦めた。
「また微妙な映画だなあ。親御さんが怖いって素直に言えば?」
「おれは親父とお袋が怖いわけじゃなくて、小遣いが消えるのが怖いんだ」
 軽く睨みを利かせると、はいはい、と鼻で笑って流された。可愛げのないというかムカつくというか。……これでいて字坂は猫を被るのは病的に巧い。上級生に何人か彼女がいるって話も嘘じゃないんだろう。
 おれ達と接するときは大抵が毒舌マシーンなのだが。世の中、何が正しいか時々判らない。
「で? 監視されてんだったら遅刻もあんまよろしくねぇんじゃねえのか? 何があったんよ」
「……朝起きたら八時前で急いで着替えて出ようとしたら靴紐が切れてて走れないんで予備探して、見つかんないから代用品でどうにかしてダッシュかけたところでカバン忘れたのに気付いて家に戻って取ってきた」
 ワンブレスで答えてやると大谷は爆笑し、字坂は苦笑した。
「厚木、おめー、もしかしてバカだろ」
「おまえにだけは言われたくねぇ、この万年色情狂」
 おれが言った皮肉を違いない、と受け止めて尚も爆笑する大谷。ある意味大人物になるんじゃなかろうか。
「靴紐が切れるなんてまた縁起が悪いよね。黒猫でも見てればパーフェクトだけど?」
「ご生憎様、見てねえよ。そこまで揃っちゃギャグマンガにもならねぇ」
 笑顔でちぇー、とか朗らかに漏らす字坂を軽く引っぱたいてやりたい衝動に駆られつつも、軽く二人に問う。
「おまえら、今日は道場行くのか?」
 軽い問いに二人が揃ってこっちを向く。大谷が大きい欠伸を挟んで口を開いた。
「わりィ、今日は西高のコたちとカラオケ」
「僕も……ちょっと今日は姉貴の手伝いがあるから。ゴメン、康哉。師範に言付けといてよ」
 続いて字坂も手を合わせ、おれを拝むみたいにして欠席の返事。
「……じゃあ今日はおれ一人か。師範がキレる前におまえら顔出せよ? いっつも落とし前がおれに回ってきやがるんだからな」
 へーい、とかういー、とか気のない返事が返ってくる。やれやれ、だ。まあ仕方ない、と割り切る。
 おれと字坂と大谷は、高校に入る前から空手つながりでの腐れ縁だった。こいつらは小学生の頃から、おれは中学校に入ったときから空手をしている。
 今も変わらず、その時からの縁を引きずって学校でもよく喋るのだが――こいつらはおれより上手いくせに練習に出ない。二人の共通見解をして曰く、「初段取ったし満足」なのだそうだ。
 おかげで、師範は頼みもしないのにおれを特に可愛がってくれる。練習に出るたび一番痛めつけられてると思う。出席率が一番いいおれが叩かれるとか、世の中なんか間違ってる。絶対。
「ああ、そういえば」
 ふと字坂が口を開く。おれと大谷の視線が向くのを待って、言葉を継ぎ始めた。
「最近流行ってるっていうじゃない、通り魔。大地も康哉も夜出歩くなら気をつけてよ?」
 通り魔、なんて聞きなれない響きの単語を聞いたから、一瞬首を捻るが、直ぐに思い出した。
 近頃、男女の別どころか動物まで対象にした無差別連続殺傷事件が起きている。普段は退屈なニュースばかり流すマスコミが連日、噛み付くようにこの事件の報道を繰り返していた。嫌でも記憶や耳に染み付くというものだ。
「ノープロブレム!通り魔なんざ張り倒して蹴って踏んで警察に突き出してやんよ!」
 無闇にアッパーテンションな大谷の言葉が響き、考え事から引き戻される。
「頼もしいね。明日の朝刊に載らないように祈ってるよ」
 字坂が冷静に冷たいツッコミを入れた。顔はニコニコしてる辺り、こいつは天性のサディストだろうと何となく思ったりする。
「……まあ、遅くなるっつっても九時かそこらさ。道を選んで帰ればなんて事ないだろ」
 結論付けるようにおれが言ったところで、気の抜けた予鈴が響き渡った。
「次なんだっけ」
「数学だな」
 何気ない問いには大谷が答えてくれた。こいつはこんなナリをしてるが、これでも案外勉強は出来るのだ。何をさせてもソツがないのである。
 おれは軽く手を挙げ、自分の席に座った。それを最後に、字坂と大谷もめいめいの席へと戻っていった。
 がらりと扉を開け、入ってくる数学教師の顔もやはり見慣れたいつものもの。
 何もかも退屈なほどに慣れた世界は、それでも時計の針と一緒に回っていく。
 ほんの少しそれを苦行のようだ、と思ってから、おれはテキストをカバンから出した。
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