Nights.

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 九月九日、午後七時――五分前。
 夏の名残のせいで、まだ夜がやってくるには早い時間だった。
 誰も使わないようなブランコの支柱に背中をもたれさせて、おれは人を待っている。
「……しかし、これでドッキリでしたー! とかって誰かが出てきたらおれは屋上から飛び降りるね」
 そのくらい恥ずかしい。なんだこの甘酸っぱい青春グラフィティ。夜の待ち合わせなんざテレビでしか見たことないっつの。
 もしこれがドッキリで仕掛け人が大谷あたりだったらもれなく必殺の上段回し蹴りを後頭部にねじ込んでやるのだが、などと益体もないことを考えていると、それらを杞憂というかのように軽い足音が響いた。
 足音のほうに顔を向けると、公園の入り口に、飾り気のない少女の姿が見えた。楽器ケースと紙袋をまとめて片手に持って、こっちに向かって走ってくる。眼鏡とお下げと制服は、おれが助けたときと変わりない。
 少女――蜷川さんはおれの姿を認めると、いっそう急いだ風に足を速めた。そんなに急がせると、逆にこっちが悪いことをしたような気分になってしまう。時計を見れば七時二分前。遅刻じゃないんだからそんなに急ぐこともないのに。生真面目だな、なんて感想を抱きながら、支柱から背中を浮かせた。
「こんばんは。時間、合ってるよね?」
 小走りに近づいてきた蜷川さんに軽く手をあげて、確認の意味も込めながら問うと、彼女は上がった息を整えながら、ただ首を上下に振り動かした。よほど急いで来たのか、頬は上気して、街灯の光にうっすらと汗が光って見える。……ハンカチあったっけ、とポケットを探るが、残念ながら見当たらなかった。そんなことをしてる間に、彼女は自分のハンカチで額を軽くぬぐっていた。……気の付かない男といわれても仕方ないかもしれない。かっこ悪いぞ、おれ。
「お、……お待たせ、しまし……」
「待ってない待ってない。おれだって今来たところなんだから、ほら、呼吸整えて。落ち着いて」
 今来たところ、なんて台詞をよもやおれが使う日がこようとは。使うにしたってだいぶ先だろうと踏んでいたのに、人生ってやっぱりわからないもんだと思う。
 蜷川さんは何度も頷き、すーはー、と大きく呼吸を繰り返した。なんとなく小動物的。何をするでもなく呼吸が落ち着くのを待つ。それほど経たずに、頬に赤みを残したまま蜷川さんは口を開いた。
「ごめんなさい、落ち着きました。……こ、こんばんは、厚木……」
 苗字を呼んだ後で一瞬固まる蜷川さん。反射的な勢いで、おれの口は動いた。
「えーと、さんとか要らないんで、普通に厚木で。康哉、でもいいしさ。気が咎めるっていうなら、君付けでよろしく」
 尊称についての悩みかと気を回してべらべらとしゃべった後、これで勘違いだったらただの偉そうなヤな男じゃん、とか人並みに意識したりした。つってももう遅いわけなんだが。
 だがそんな心配を打ち消すように、蜷川さんはぴょこんと肩を跳ねさせた。小さく息をもらすようにしてから、こくり、と頷く。
「わ、わかりました。……それじゃ、こんばんはです、厚木君。ご足労願ってすみません」
 折り目正しく礼をする彼女に、少しだけ頭を掻く。
 丁寧なのは苦手だ。腰を低くするのもされるのも柄じゃない。そのうち礼儀なんて身に着けなきゃならないんだろうなと思うと頭が痛くなる口だ。
「かしこまんなくていいよ、そういうの苦手だしさ。で……呼ばれて来てみたけど、用件どうぞ?」
 出来る限り口調を荒くしないようにしながら問い掛けると、彼女はもう一度深呼吸して、小さい声でしゃべり始めた。
「あ……えと、努力します。お呼び立てしたのは他でもなくて、この間のお礼のことと……ほんのちょっと、言いたいことがあったからなんです」
 言うと、彼女は紙袋からラッピングされた幅広の箱を出して、こっちに差し出してきた。
「大したものでは、ないんですが」
 ラッピングは派手というわけではないが品のいい感じで、とっさに貰うには気が引けるくらいだった。
「うぇ……? いや、ほら、おれは別に大したことしたわけじゃないし、こんなの貰えるほど大変だったわけでもないし」
「いいんです……そ、その、すごく……うれしかったですから、これはその、気持ちみたいなもので」
 区切り区切り、確かめるようにしながら言葉を紡ぐ彼女は、包みを引っ込めようとはしなかった。
 暫くは今の調子で押し問答を続けていたのだが、断り続けるのも彼女の気持ちをむげに扱うようだったので、結局は根負けして、おれは包みを両手で受け取った。
「いや……なんか、却って悪いね。気ィ使わせちゃってさ」
「えっと……当然のことだと思いますから」
 笑顔を浮かべるとえくぼが出来る。年相応よりか少し下に見られそうな、彼女の笑い。綺麗ってよりは可愛いほうなんだろうな、多分。審美眼に自信があるわけじゃないけど。
「帰ったら開けてみてください。私のお気に入りなんです」
 顔をほころばせて言いながら、紙袋を差し出してくるのを受け取る。
 包みは重くはなかった。軽い菓子とか、その類だと思う。紙袋に貰ったばかりの包みを滑り込ませて、おれは向き直る。
「ん、サンキュ。いや……なんつーかさ。忙しそうな中でわざわざ悪いね。礼なんていいのにさ」
 楽器ケースを指しながら冗談めかして礼を言うと、蜷川さんはバネ仕掛けの人形みたいに首を横に振った。
「い、いえ! こちらこそ、時間指定までしてしまって済みませんでした……! 普段、習い事やお稽古で時間が埋まってしまっていて……あの時、助けてもらった後にも満足にお礼できませんでしたし、謝るのはこっちのほうでっ……」
 見てるこっちがいたたまれなくなるほどの慌てように、まあ落ち着けと手をかざす。
「いーよ、なんとなくそうだと思ってた。……感謝してくれるってなら、素直に受け取っておくよ。……ンとに大したことしてねえんだけどなあ……」
 ちょっと罰が悪くなって頭を掻く。すると、蜷川さんがやおら顔を上げて、またも首を横に振った。
「大したことしてないなんて、そんな、そんなことないですっ! 私、本当に……あの時、本当に安心したんです、嘘じゃないですよ!? 本当っ、素敵で――」
 慌てたような口調でそこまで言うと、彼女は口を押さえて俯いてしまった。
 ……つーか、面と向かって素敵って褒められるとはおれも思いもよらない。あの夜、署に向かう車中、緊張させないようにと親身になって横にいてくれた若い警察官のほうが三十倍くらい素敵かつナイスガイだと思うのだがどうか。
 いや、その、照れる。普通に。言ったほうも照れてるのか、なんだか俯いてるし。顔赤いし。
 返す言葉を頭の中の東西南北から捜してみるが、言語野を津々浦々さらってみても言うべき言葉は出てこなかった。どっかのチープなドラマではここで抱きしめるとかそういう選択肢があるんだろうが、ヘタレのおれにそんなもん期待すんな。トレンディドラマなら大谷か字坂に任せた。おれじゃ通行人Aが関の山だ。
 あれこれうだうだと頭の中で理屈をこね回していると、ふと俯いたままの蜷川さんが口を開いた。
「私……よく、わからないんです。小さい頃から、男の人とお話しすることって、あんまりなくて。高校も、女子高ですし……だから、あの、なんていったらいいか……難しいんですけど」
 言葉を選ぶように時折沈黙を挟みながら、胸に手を当てて、蜷川さんは言葉を続ける。真摯で、ただひたすらに純粋な言葉だった。
「あの時、本当に厚木君が素敵だって、私……思ったんです。また会いたいって、そう思ったんです……。ですから、その……えっと」
 また素敵言われて、しばらく思考が別の方向に飛びかけるのを抑えながら、彼女の言葉を聞こうと耳を傾ける。
「不躾だってわかってるんですけど……私と、その、お付き合いしてもらえませんか?」
 まあ、その一言で努力空しくおれは固まったわけなんだけどな。
「……ほ?」
 なんか変な声が口っつーよりむしろ鼻とかから出た。
 とりあえず最初の三秒ぐらいはもう一回言ってくれないかって聞き返すのをこらえるのに必死で、次の三秒間はドッキリじゃねえだろうなこれって疑うのに必死で、その次の二秒で蜷川さんの目が潤み始めたのに気付いて、やべえ泣かれる前になんか返事しなかきゃマズいだろおれ!!
「あ、いや、その、えーと……あー」
 蜷川さんの口調が移ったような感じになりながらも、おれは固まりかけた口を動かした。うわ、顔あちィ。
 もう、焦る焦る。暫く思考が止まっていたのをどうにか必死に揺り動かす。深呼吸をして、心臓の鼓動を落ち着けようと努力した。無駄。
……まあ、こう言われたときにどんな風に切り返すかってのは、おれも考えてこなかったわけじゃない。自意識過剰って言われてもしゃーないけどさ、結果的に役立ちそうだってんだから、いいさ。
 深呼吸して、つばをこくんと飲み下す。
「あー……と。蜷川さん」
 呼ぶと、彼女はぴくんと身を震えさせて、俯いた視線を持ち上げた。目が合う。街灯から降ってくる白い光が、彼女の赤い頬を穏やかに照らしている。
「なんつーかさ、ほらその……んーと、おれはさ、蜷川さんのこと、よく知らないんだよな。別に素性が怪しいとか、そういうことじゃなくて……どこ住んでんのかとかさ、ガッコどこなのかとかさ。何が好きで何が嫌いなのかとか……わかんないだろ? んで、そっちもそうだと思う。おれが好きな食い物とか、友達の数とか、性格とか、掴めてないわけじゃんか」
 いったん言葉を切って、長く息を吐いた。それから、ゆっくりと吸って。
「嬉しいんだけど、ちょっと早いと思う。付き合ってから幻滅させるのって、嫌だしさ。だから……もうちょい、時間置いてみない? おれがどういう人間かって見る時間も、要ると思う。別に先送りにしたいから言うんじゃなくて、おれの希望みたいな感じ……かな。どうだろ」
 言ってる自分で痒くなってきたよおい。胡散くせーなあ、おれ。まあ、いくら胡散臭くてもここで即答で頷いて後からえらい目に遭うよりか、こう言っておいたほうが絶対お互いのためだと思う。
 言い終えると、蜷川さんは視線を少しだけ下に向けて考えるような仕草を見せた。沈黙が重苦しい。
 十数秒、おれの言葉を噛み締めるようにしていた彼女は、やがて視線を上げた。
「……そう……ですよね。ちょっと急ぎ足過ぎたかも……知れないです」
 言うと、彼女は少しの間目を閉じ、ポケットから手帳を取り出した。さらさらとペンを走らせると、ページをちぎり、それをこっちに差し出す。
 受け取った紙片は、ともすれば風に飛ばされてしまいそうなほど小さかった。
「連絡を……皐月ちゃん任せにするのも、あまり良くないですし。私のメールアドレスです。……気が向いたら、何でもいいですから、メールをください」
 少し無理をした微笑に、なんとも言えない気分になりながらも、おれもどうにか笑顔を繕った。
「オッケー。ま……そのうち、下んないこと書いてお邪魔すると思うから、待っててくれよ」
 はい、と彼女はそれでも嬉しそうに頷き、時刻を見て、そろそろ行かないと、と口にした。
「家の門限が、厳しいんです」
 だろうな。育ちがよさそうに見えるし。
「ん。じゃあ……今日はこれで」
 重苦しくないように、軽く手を振る。
「はい……本当、急に色々なこと言ってしまって、ごめんなさい。それじゃ……失礼しますね」
 ぺこり、と音をつけたらよく似合うだろうお辞儀をして、彼女は身を翻し、来たときと同じくらいの慌しさで駆けていった。それを暫く見送ってから、おれは一週間前の約束を交わしたベンチに、なんとなしに向き直ったんだ。
 ――その、直後だった。
 重低音が聞こえたのは。


「――反応二体、オーガー邪像ガーゴイル
「場所は?」
「座標を特定する。少し待て――……うむ、拙いな」
「?」
「例の公園。よりにもよって彼の目と鼻の先だ」
「――!!」
「バーンドチェインの反応がある、間違いな――……おい、芝崎!? 先走るな!」
「なんて迂闊……! これが急がずにいられる話ですか!? 先に行きます!!」
「だから待てというのに! 落ち着け、くっ……肉体労働は専門では無いと言っても……ああ、無駄か、糞ッ」
「無事でいて……厚木くん!」


 ずん、と重い音。そして悲鳴。
 絹を裂くような叫び、というのはこのことを言うのだろうか。上がった甲高い叫声は、蜷川さんのものだった。
「……な、んだ?!」
 その声のトーンは尋常じゃない事態をそのまま現していると、脳で考える前に耳で理解する。一度は離れた少女を、おれは全速力で追いかけた。
 十秒かからず彼女の後姿を視界に入れる。声をかけようと口を開いた矢先――喉が凍りついたように動かなくなった。思わず足を止める。蜷川さんの目の前の地面が、ハンマーにでも砕かれたように陥没していた。
 ……そして更に、それより少し奥。自然の闇の中、それと親和しない黒色が、彼女の前に仁王立ちしている。おれは、その存在を見るのは二度目になる。だが見間違いようが無かった。……ぱさり、と軽い音を立てて、手から紙袋が滑り落ちた。
 あれは――昏闇!
 背筋を悪寒が駆け上る。見える昏闇の大きさはざっと二メートルと少し、巨漢のレスラーと同等の体躯に、額から細長い角が一本アンバランスに伸びた人型。おれを襲ったのとはまったく別のタイプだったが、それでも共通点は確かに存在する。
 薄っぺらい、立体感を感じられない影絵のような存在感。触れられる気がしない、禍々しい空気。それらは確かに一度感じたことのあるものだった。
<人間……喰う>
 人の頭くらいならすっぽりと覆ってしまえそうな巨大な手のひらを握ったり開いたりさせながら、昏闇は牙のこすれる音をさせながら、口に当たる部分を開いた。
「あ、あ……あああ、」
 声は聞こえているのか。蜷川さんは尻餅をついたまま、あの通り魔に襲われたときと同じくらいに震えていた。靴で地面を引っかくようにしてずりずりと後ろに逃げる。
 それは抵抗と言うには微弱すぎた。あの昏闇にとっては、蜷川さんが退いた間合いなど一歩にも満たない微小なものだろう。
 昏闇が手を伸ばす。
<……喰う……全部喰う>
 足が震える。
 おれの目の前で繰り広げられようとしているのは食人の現場だ。見れば向こう一生忘れられないようなものになるのは違いないし、多分それに伴って後悔もするだろう。
 こういうときに、確かヒーローはぎりぎりのタイミングでやってくる。この間、おれを助けたあの黒コートみたいに、ぎりぎりで凛とした横顔を見せに来る。……なあ、そうなんだろ、違うのか。早く来いってのに――
 昏闇が伸ばした片手が、蜷川さんの細い腰をまるでクレーンのようにして掴み、いとも容易く持ち上げる。それすら彼女の目には見えていないのだろう。もはや理解を超えた現象に悲鳴を上げることも出来なくなったのか、悲鳴は聞こえなくなっていた。
<喰う>
 地の底を震わすような声で、暴食の昏闇が口を開く。影絵が冗談のように歪んで、口であるはずの場所が蜷川さんを一飲みに出来るほどに広がった。
 ……おい、やべえよ、まだ来ねえのかよ? 食われちまうって、あのままじゃ。おい、おれの心に一生消えないトラウマを残してく気かよ?
「あ、……や、なに、これ」
 もはやうわ言のようにすら聞こえる、恐怖を通り越して弛緩してしまった蜷川さんの声だけが空しく響く。無数の銃弾も、白い光条も、助けに来てはくれない。
<いただき……ます>
 また響く、怨嗟にも似た言葉。持ち上げられた蜷川さんが、ゆっくりと黒い闇のわだかまりの口に運ばれていく。
 おれは立って、ただ棒立ちのままで、それを見ているしかない――
 
 見ているしか、ない?

 時間が一瞬、凍ったように止まる。
 外側からの助けが来ない。昏闇には、普通の人間が対抗することは出来ない。――だが、魔具を持った人間ならば、昏闇に傷を負わせることが出来る。その筈だ。
 おい、厚木康哉。お前の靴紐は、なんて名前だ?
 あいまいな形ではあったけど、あの子はおれに好きだと言ってくれた。そんな彼女が食われかかっている現実を前にして、突っ立って、何もしないままで終わるのか?
 ……これは遅いかもしれないし馬鹿な選択かもしれない。
 けど、一瞬でもその問いにノーだと答えられたのなら、おれは――行かなきゃ絶対に後悔する。ここで縮こまった事に縛られて、一生あの子が死んだことに縛られて生きていく。
 ……やりもしないで後悔して、出た結果に縛られる? おれが一度でも、そんな結末を望んだ事があっただろうか? いつも行き当たりばったりで、出たとこ勝負で、やれることなら何でもやってきた。
 それなら、取るべき行動はたった一つきりだ。
「……動けッ!!」
 昏闇を前にした恐怖が手足を固めているのを、それを上回る怒りで無理やりに動かす。

 魔具はおれの心をそのまま形にするという。
 ――ああ、それなら、信じてやる。

 距離は十二メートルと少し。赤い口が閉まるその前に、あの上顎の牙を軒並み全部引っこ抜く。噛み砕かれそうになった恐怖は忘れよう。殺されそうになった絶望は忘れよう。おれは届く。届かせる。それを現実にするためだけに、がむしゃらに走ってやる。
 そう、強く思った瞬間に――世界が塗り変わった。
 イメージは最初のページから開かれた辞典。パラパラとめくられて行くページから文字列がほどけて、脳の内側をテロップのように流れていく。それは、逆巻きになった知識の列。おれの魔具バーンドチェインが教えてくれるマニュアルなのだと、心のどこかが勝手に理解する。知識は心を通り、本能に刻み込まれてから脳に流れ込んでいく。――だからおれは、この魔具を既に理解しかけていた。
《バーンドチェイン、火炎属性を持つ魔具。所有者の行動に炎を付随させる能力を持つ。ただし現在は破断され、従来の形とは異なる。能力者に合わせ同期を取る》。
 わずかな光芒が宿り、足下で靴紐が輝いた。一歩目を踏み出すのと、ほぼ同時に頭の中で読み上げられるテロップ。声は聞き飽きるほどに聞いた自分の声だった。
適化コンバートされたバーンドチェインの性能の調査完了、逐次報告する》。
 声の響いた瞬間、おれの体は半ば飛び込むような格好で、一歩目からトップスピードへ限りなく近く加速する。体がGに引っ張られて、思わず顔が引きつった次の瞬間に事態を把握した。二歩目を踏んで、知識を得る。おれの足の裏で爆発が起きている――?
《推力を得るために足下で小規模な爆炎を発生させる"爆裂歩法インパクトブースト"》。
 説明が終わるのすら待たず、周りの景色がまるで効果線を引かれた漫画のコマみたいにブッ飛んだ。爆裂歩法の勢いに乗り、加速する。
「うおおおあああああッ!!」
 思わず開いた口から叫びが迸った。スピードは今までおれが感じた何よりも速い。空気が壁になっておれを押し留めようとする。靴紐から不満の声が上がる。
 ――もっと早く。間に合わなくなる。
 そう言うかのように脚が疼く。おれは視線を上げた。七メートル先には捕らえられた蜷川さんと、彼女を食おうとする人食い鬼じみた昏闇。……やらせて、たまるかッ!!
 三歩目に踏み出した足がおれの意思に従って地面を強く蹴り飛ばす。空気の壁さえねじ伏せて、もっと速く。
 だが駆けつけたところで――間に合ったところで、どうする?
 おれの中で巻き起こった一瞬の葛藤に答えるように、脚が燃え上がる。爪先から発生した炎が、一瞬で大腿部までを覆い尽くした。それは見なくても理解できた。バーンドチェインがそうしたのを感じ取ったのだ。
《攻撃力の向上及び下肢の保護を行う"禍炎装甲ノーヴァコロナ"》。
 焦りは、インパクトブーストで加速した二歩目までだった。これは「当然のこと」なのだ。水に入れば浮力が働くように、持ち上げたリンゴから手を離せば落ちるように。そのレベルでの「当然」。
 四歩、――間合い。タイミングを取る。四歩目で調節したタイミングに従って、五歩目で地面を蹴り飛ばす。重力の束縛を逃れ、でたらめな格好で跳躍する。空力だとか美しいジャンプだとか、そんな意識は初めからない。ただ、おれの脚が昏闇に届けばそれでいい。
 位置、直上。真下に見えるのは食われる寸前の少女と赤い口。今まで溜めてきた加速が、昏闇を飛び越える方向におれの体を引っ張る。――けど、問題はない。おれは本能のタイミングに従った。つまりそれは、ここから攻撃を行う手段があると言うこと。
 意識した次の瞬間に、左踵が異常な力で押しやられる。空中ででたらめにスピンする視界。その隅に、炎を噴き出す踵が映りこんだ。体が空中でコマみたいに回転し、ここまで持ってきた運動モーメントを捻じ曲げる。真下、すなわち昏闇へ。
《脚から任意で炎を噴出し、空中での方向転換を行う"吹炎制御ヴェイルスラスター"》。勢いを殺さないまま、落下速に任せてさらに加速、上顎を横方向に蹴り飛ばすように狙い定め、右脚をバックスイングする。
 攻撃手段。ロードは終わっていた。歯を食いしばり、脚に力を注ぐ。
《着弾の瞬間に禍炎装甲の表層を発破し、衝撃と熱量で敵を焼き砕く"暴爆紅蓮プロミネンスレイジ"》。
《以上、初期モジュール数四、能力適化完了プロセスアウト。能力名――「灼熱燃靴フレアウォーカー」》……!!
 角度よし、照準よし、確認終了、右足を――振りぬくッ!!
「っらああああああああ!!」
 轟音!
 対空砲が鉄板に直撃したような音を立てて、真っ赤に燃えた脚が昏闇の左頬あたりに命中する。間髪入れずに爆発が起こり、昏闇の巨体を傾がせた。
<ぎ……ぃ?>
 予測さえしていなかったのか、その一撃で開いていた口の形がいびつに歪む。不意を付いたその一撃が、暗闇の動きを止める。その間にもおれは動きを止めない。
 落下しながら、蜷川さんを掴んだ右手を凝視する。どれだけ昏闇相手に常識が通用するのかは知らないが、それでもここまで着たからには徹底的にやるしかない。
 右脚を引き寄せる反動で左足を振り上げ、カカト落としの要領でまっすぐに昏闇の右手首を蹴り下ろす。
 二度目の破裂音。
 丸太のように太い昏闇の腕が軋み、その五指から力が抜け失せる。
「きゃ、……!!」
 カカト落としの反動でバック宙、視界に目を回しそうになりながら着地して、昏闇の手からこぼれた蜷川さんの体をスライディングキャッチの要領で受け止める。
 どさり、とおれの上に落ちる彼女の体。いくら軽いと言っても落下の加速度が付くとそれなりに効いた。
「ぐえっ」
 間抜けな声を漏らしながらも、どうにかフォローが上手くいったことに安堵する。
「あ、あああ、あ、つぎ……君?」
 腕の中でもぞもぞと動きながら蜷川さんが所在なさげに声を上げる。その肩の向こう側――巨人が腕を振り上げるのが、確かに見えた。
「口閉じろっ! 舌噛むぞ!!」
「え、わ、きゃあああ!?」
 うつ伏せになったところから、半ば無理やりに地面を擦るように蹴ってインパクトブーストを作動する。その反動で後退、背中を地面にがりがりと擦りながらも腹筋で上体を起こして着地した。間髪入れずに巨人の腕が地面を打つ。タイルが崩壊し、地面が揺らいだ。
 食らえば綺麗にミンチになれるだろう。だけど――以前ほどの怖さは感じなかった。今のおれの脚には、心臓の鼓動と直結したように脈打つ爆炎が渦巻いている。
 鈍重な動きの鬼から距離を置き、蜷川さんを地面に下ろす。
「あ、あの、厚木君……これって」
「ごめん、説明の余裕ない。おれも正直いっぱいいっぱい。何から何まで説明したいけど、時間も語彙も足りないんだ。ごめん」
「……え、あ」
「逃げてくれ、頼む……早く!!」
 彼女のほうに振り向いてあげることさえ出来ないのは少し歯痒かったけど、それでも今言えることはそれしかなかった。鬼が、右腕をぎちぎちと動かし、おれに蹴られて歪んだ場所を補修する。
 それを見て体重を爪先に乗せる。
 背後で立ち上がる気配がした瞬間、おれは地面を蹴りだしていた。
 開いた距離をインパクトブーストで埋める。靴の裏の爆発を踏み締め、一瞬でトップスピード近くにまで加速して飛び込む。昏闇が岩塊のような拳を握り固め、おれの突撃にタイミングを合わせるのが見えるが、それはぬるい。
 合わせようとするならタイミングをずらすだけの話だ。直線的な軌道をとっての前進を、途中から不規則に左右に振る。横移動を織り交ぜながらの歩法で相手に知覚を許さない。そうして拳を誘う――空手でやる組手と同じ要領だ。
 大砲じみた右拳が狙いもせずに突き出される。風を切るその拳を潜り、おれは相手の懐に潜り込んだ。即座に反応した巨体が不用意に左手を突き出すが、それも予測の範囲内。動くのが遅すぎる。――いや、おれが速くなってるのか? 動けると信じているから?
 突き出された左腕に沿って体を回転させ、攻撃を受け流す。その回転の勢いを載せておれは右足を振り上げた。体をねじる勢いを乗せた回し蹴りで、相手の土手ッ腹をぶち抜く。確かな手応え、そしてよろめく巨体。
 ――畳み掛けるっ!!
 即座に伸ばした両腕を畳んでおれを捕らえようとする昏闇の動きに対応して、おれは左足一本で踏み切り、わずかに揺れた相手の膝を足場にして、その巨体を階段に見立て駆け上る。左膝、みぞおち、左鎖骨を一瞬で蹴り飛ばし、捕まえに来る両腕を潜って空中に踊った。体制を崩しかける鬼の顔面めがけ、
「吹っ飛べぇッ!!」
 容赦の欠片も入れずにサッカーボールキックを繰り出す。一番最初にバーンドチェインがおれに応えた時のように、赤熱した砲弾のような脚が鬼の顔面にめり込み、爆裂。トラックに撥ねられたかのような勢いで、昏闇の巨体が宙を舞う。おれが地面に着地しても、昏闇はまだ空中でもがいていた。ようやく落下の軌道を描き始めたそのときには、おれは既にやつに向かって踏み込み、加速を始めている。
 着地もさせないで、そのまま潰す!
 攻撃的思考のまま突っ込む。距離を縮め、とどめの一撃を叩き込もうとした瞬間――めき、と言う音を聞いた。
「……?」
 おかしい。まだ、攻撃を食らわせてはいないはず。だというのに、おれの体は空中で一瞬止まっていた。一瞬世界から音と感覚が失せる。
<クキ……キキッ>
 嗤い声、、、が、懐から聞こえた瞬間、おれの腹に激痛が走った。
「ご……アッ、は……!?」
 何が起きたのかを把握するには、少しの時間が必要だった。視線を下ろす。そこには、成人男性より一回りほど小柄な闇が、蟠っていた。嗤い声の主は、その――昏闇。
「二、体……、いた……?」
 視界の端で、ようやく着地した鬼型の昏闇が立ち上がる。その仕草からはダメージを感じられない。効いて……ないってことなのか?
<ケキャキャキャキャッ!!>
 けたたましい声が響くと同時、もう一度腹に衝撃が走り、おれは空中に投げ出された。反射的に体を丸めて頭を守る。地面は、酷く近かった。
「……!!」
 声も上げられないほどに地面に痛めつけられる。腹が酷く、熱い。痛みという熱が内臓にとぐろを巻いて、おれに嘔吐を促した。
「ゲハッ、が、う……ぐぇ……っ」
 喉が蠕動して、胃の内容物を吐き出した。赤黒い何か。それを何と考える間もなく理解した。……血だ。
 視界が赤くなる。
 空中で、骸骨に翼が生えたような、異常なシルエットの昏闇が嗤っているのがわかった。爪の先が、ぬらりと街灯の光にぬめっている。おれは……あれに、やられたのか?
「……あ」
 途端に心臓を鷲掴みにされたようになる。最初の恐怖が戻ってくる。立ち上がることが出来ない、と一瞬考えた刹那、体は途端に重くなった。さっきまであれほど燃え上がっていた炎も、消沈したかのようにちろちろと矮小なかがり火を残すだけと縮んでしまう。
「や、べ」
 ずん、と足音。鬼が巨大な拳を握り固めておれに近づいてくる。その音がおれの恐怖心を遠慮会釈なく震わせた。……怖い。殺される、と。心が軋みを上げる。
<キキキッ>
 翼を持った骸骨が、爪をひらつかせながら、鬼が歩くより速く宙を滑り、おれに近づいてきた。
 そして、蹴り転がすようにおれを爪先で小突き、その爪をゆっくりと振り上げ――

 その爪の根元を、細腕に掴まれていた。

<キ……!?>
 おれには、何も見えなかった。一瞬の後に気付く。細腕の主は男。漆黒のインバネスを纏い赤銅色の髪を侍のごとく結っている。背格好はと言えば、針金じみた長身痩躯。渋い、といっていいくらいの声は不思議なほど重苦しさを感じさせない。
 驚きはおれだけのものではなく、骸骨もまた驚愕し、狼狽していた。振り解こうと暴れるが、細い男の腕はそれでいて万力のように動かない。
 まるでそいつは、空間から滲み出したようだった。本当にその男がどこかから「やってくる」プロセスを感じられなかったのだ。
「どうやら少しばかり遅かったようだが……少年、生きているかね」
 その少年、というのがおれを指していることに気づくまで、少しだけかかる。赤銅色の髪をした男の黒い瞳がおれを捉えている。
 どうにか首を縦に振ろうとして見ると、そいつは満足げに頷いた。骸骨の手を気安く握ったままで。
「重畳だ。遅刻をして済まなかったな。何、安心したまえ。すぐに助ける」
 言うなり、男は無駄のない動きで握ったままの手を翻し――その細い腕を、目にも留まらぬ速さで走らせた。
「形状を限定したのが仇だな。貴様らごとき低級ではそれが限界なのかも知れんが……諦めろ。憎しみは空へ還り、風に溶けるべきなのだから」
 経のように響く言葉と同時に、ごきん、と一度音が響く。次の瞬間には骸骨の腕の関節が五つばかりに増えていた。……折った、のか? あの一瞬で?
<ギギャアアアアアアアッ!?>
 苦鳴の声すら許さぬとばかり、男は肘を折り畳み、体を溜めるようにひねる。腰の回転を乗せ、コンパクトな右の掌底を打ち出した。重い音を立てて命中し、骸骨の体が遥か遠くへと吹っ飛ぶ。
「片付けろ、芝崎」
 男が言い捨てるのと同時に、公園の隅で光が上がった。
「Shift/mode, 【BLIGHT-BULLET】...... Get ready」
 よく聞き取れない英単語の羅列、翻るオフホワイトのコート、闇を睨み付ける凛とした瞳。芝崎さんが立っている。その手に持った白い銃が持ち上げられた瞬間、眩い光条が一瞬で数え切れないほど放たれた。吹っ飛ぶ途中の骸骨はもとより、鈍重な鬼もまたその無数の光弾に体を削り飛ばされ、体から淀んだ闇を撒き散らす。
 昏闇はもはや音声として表すことすらできないような奇怪な声を上げ、暫くはもがいていたが――やがて力尽きたように、酷くあっさりと動きを止めた。ガラスの割れる音。昏く淀んだ闇は、自然の闇の中で砕けて混じり、大気に還るように消滅する。
 その映画のような光景を、おれは地面に倒れたままの視界で見ていた。驚きは既に麻痺していた。おれの脳味噌はここ一週間くらいの間で、ずいぶんと衝撃に対して寛容になったらしい。
「掃討を確認した。……さて、少年。俺の声が聞こえるかね」
 男がけだるそうに首を回しながら、おれのそばにしゃがみこむ。それと同時に、慌てたように駆け寄ってくる芝崎さんが視界の隅に見えた。
「き……こ、えてる」
 声を発すると男は満足げに頷き、わずかに息を吐いた。
「なかなか骨のある少年だ。芝崎が気に入る理由もわかる」
 言うと同時に、男は何気ない仕草で懐から煙草を取り出した。味も素っ気もないジェットライターで火をつけ、深く吸い付ける。ゆっくりと煙を吐き出す仕草に腹の痛みが倍加する気がしたが、おれが文句をつける前に男は動き出した。
「では地の恵みを。思い慈しむ慈母の大地、傷を忘却させる悠久の生命。コル・ウルス・ケン・レカニ、この僅かな灯火において式を行う」
 同時に目にも留まらぬ速さで煙草がタクトのように振られた。先端の僅かな炎がちろりと揺れ、幾何学的な文様を刻む。同時に、崩れた灰が細雪のように舞い散る。刹那――身体が、一度脈打った。
「……う?」
 声が喉を通り、驚くほど自然に出て行く。腹に手を当てると、そこには何の異常もなかった。いや……異常というのなら、この状況自体が異常だった。傷口はおろか、さっきあれだけいいようにやられたはずの痛みすら、全くといっていいほど残っていないのだから。
「服まで直したのはサービスと言うことにしておこう。それで立てるようになったはずだ、厚木康哉。女性の前でいつまでも横になったままと言うのも、なかなか格好の付かない話ではないかね?」
 芝居がかった声が皮肉っぽくおれに言う。気が付けば、すぐそばにまで芝崎さんが来ていた。……まあ、確かに言葉の通りだ。ゆっくりと立ち上がり、軽く身体の具合を確かめる。とりあえず、動くのに支障はないと思う。
 芝崎さんが気遣わしげな眼差しでおれを見た。
「厚木くん……その、遅れてごめんなさい、大丈夫ですか……?」
 こんな経験をして大丈夫なんていうやつがいたらそのツラをぜひとも拝んでみたいものなのだが、あんまりにも申し訳なさそうな芝崎さんの顔を見て、責めたりするのもどうかって気にもなる。……服も腹に開いた穴も、この不思議な男が埋めてくれたし、おれは浮かんだ文句の山をぐっとせき止めた。
「結果間に合ったんですし、いいっす。怪我も……この人が治してくれたみたいですし」
 視線を横に走らせる。視線の先で赤銅色の髪を侍のように結った男が、薄い笑みを浮かべて口を開いた。
「六牟黒と言う。芝崎の――チームメイトのようなものだ。呼び捨てられるのにも慣れている、好きに呼べ」
 簡素な自己紹介をする男――黒さん。一応頭を下げて、改めて礼を言う。畏まるな、と軽く手を振るあたり、あのジークとか言うのとは違ってとっつきやすそうだな、と思う。
「礼などいい。遅れたこともある、むしろ頭を下げるべきはこちらなのだからな。――見ての通り、昏闇は頻繁に出没する。ゆっくり話をしたいのは山々だが、本題に入ってくれ、芝崎。私は……そうだな、あの少女の記憶を取り除いてこよう」
「――!」
 おれが蜷川さんを助けたことまで見通していた。彼女のことを思い出して、表情を硬くする。
「記憶を取り除くって――」
 黒さんがこっちを見て僅かに目を細める。おれの表情の変化を見てのことなのだろうか、諭すような口調で切り出してきた。
「……猟人は、能力を発現するところを人々に見られてはならない。この闘争は明るみになってはならないのだからな。故に我々は、魔具を用いて心と能力のみを遊離し、人々からの視線を避ける。見たものの記憶は――ナイツに入らない限り、消去されなくてはならない」
 そして僅かに黒さんは表情を緩めた。
「……まあ、安心したまえ。人の記憶などと言うデリケートなものを扱うのだ。可能な限り精密に精緻に行うよう心がけている。君に関する記憶をすべて消すような真似はしない。矛盾が出ぬよう努力するさ――ではな」
「あ……」
 おれが口を挟む間もなく、息を漏らしたときには既に黒さんの身体は名前どおりの漆黒に溶けていた。……一方的過ぎる宣告ではあったけれど、悪いようにはならないと、そう思える説得力があった。開けっ放しだった口から、深く溜息を吐く。
 そして、ゆっくりと向き直った。場には二人きり。
 芝崎さんは、ためらうように視線を揺らした後で、ぽつりとこぼすように口を開いた。
「……一週間、経ちました」
「そうっすね……正直、短すぎるって気もしますけど、猶予期間としちゃあ」
「……解ってはいるんですけれどね。でも、魔具を野晒しに近い状態にしておくには時間的な限界があります。それも、考えてください」
 噛み締めるような芝崎さんの言葉を受け止め、痒くもない頭を手で掻き回す。
 選択肢は増えも減りもしない。たった二つきりで、どうやってもそのうち片方しか選べない。魔具を捨ててすべてを忘れるのか、魔具を持って夜に飛び出すのか、そのどちらかだけだ。
 ――さっきのことを思い出す。
 恐ろしいほど軽く動いた身体。今冷静に思い返せば、もう一度同じことをやれと言われてもとっさには出来ないだろうと思う。これ以上なくスムースに事を運んだときの、あの全能感。そうそう味わえるものじゃないし、甘美な感覚だともわかっている。
 だが……それだけうまく動けたと言う自負があったのに、昏闇はまるで堪えずにおれに向かって立ち上がった。今ではもう確かめようのない話だが、あの巨大な鬼は、おれの攻撃など意にも介していなかったのではないだろうか。
 その直後。腹を貫かれた感覚。全身に冷たい死の手が這い回る悪寒。傷口を見ることがなかったのは幸福なことなのだろう。血を吐いたということは、少なくとも内臓の一部に損害が出ていたということだ。手ひどく貫かれた自分の腹なんて、見ていて気分のいいものじゃないしだろうから。
 そして、死にかけたおれをいともあっさりと――一週間前と同じく助けてみせた、二人の男女。
 その片割れ、芝崎さんは言う。
「私たちの仲間になるのか、それともすべてを忘れるのか」と。
 改めて、提示された選択肢の重さに気付く。強く服の裾を握った。
 どれだけ強く蹴っても滅びなかったあの昏闇を、二人はいとも簡単に、これ以上ないほど明確な暴力で滅ぼしたのをおれは見た。
 仲間になるということはつまり、その彼らに追従できるだけの実力を身につけるということに他ならないのではないだろうか。――そんなことが、おれに出来るのだろうか。
 心を暗がりが支配する。
「おれは……」
 忘れたほうが幸せなのかもしれない。ただの一般人だったおれが、この世界に入り込むのは、賢い選択とはいえないだろう。普通に生きてきたのなら、これからも普通に生きていくべきなのだ――そう、消えたはずの腹の傷口がおれに告げた気がした。
「おれは」
 芝崎さんは、じっとおれを見詰めている。
 その視線をまっすぐ見つめ返すだけの回答という根拠を固めてから、おれは口を開いた。
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