Nights.

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  PARABELLUM  

 空手の練習を終えて帰宅する。晩飯を佳奈と二人でがっついた後、食器洗いの当番をこなす。
 食器洗いが終わる頃には佳奈が掃除して湯を張った風呂が出来ている。ここ最近乱れがちだったサイクルが、今日は珍しくまともに機能していた。
 先に湯を使わせてもらう。考え事で頭の中をもやもやとさせながら風呂に浸かった。体の疲れは取れるのだろうけど、色々と考え込んでるもんだから頭は茹りっぱなしだった。
 風呂から上がったことを佳奈に伝えると、冷蔵庫からコーラを引っ張り出して自室に引き篭もる。
 ベッドの上に放置してあるカバンと、雑然とした部屋の風景。何一つとして違和感のない自分の部屋の中。昼のことは夢だったんじゃないかと僅かな期待をしながらカバンを開けて中を手で探ると、その期待を打ち破るように、小さな封筒が手に触れた。僅かな溜息を付く。そっと摘んで、カバンから引っ張り出した。白く無垢な、昼受け取ったときと変わりない姿が蛍光灯の光に晒される。
 結局学校では目を通すことが出来なかった手紙である。宛名としてなのかおれのフルネームだけが裏に書かれていた。中身は、まだどんなものなのかわからない。
 暫く封筒と睨めっこする。当然のことながら封筒は何の言葉も発しはしない。ただ静謐な空気を湛えて、おれの手の内側に収まっているだけだ。睨みあっても根負けするのはおれである。
 溜息が無意識に口の端から零れ落ちる。ベッドから離れ、机に向かった。栓も開けていないコーラを机の上に置き、手紙と向かい合う。気合を入れるところでもないと解ってはいるのだが、息をひとつ吸って覚悟を決めねばまともに読めない気もした。何せ、こんな手紙を貰うのは生まれて初めてなのだ。自分の置かれた状況はともかくとして、緊張くらいはやはりする。
 暫くの沈黙の後で、おもむろに封を切る。
 中から出てきたのはやはり白い便箋だった。刻まれた文字は流麗で、女性特有の僅かな丸みを湛えている。綺麗な字だな、と内心で感嘆しながら、手紙の内容に目を通していく。

『厚木康哉さまへ
 この間は、本当にありがとうございました。
 あの後、お礼の言葉の一つも言えなかったことを心苦しく思っています。
 お礼とお話をさせて頂きたいと思うのですが、もしよろしければ九月九日、金曜日の夕方にあの路地近くの公園にいらして頂けませんでしょうか。七時に、お待ちしております。時間の指定までしてしまって勝手の極みではあるのですが……もし宜しければ、お会いいただけると嬉しいです。こちらの都合ばかり押し付けてしまって、本当にごめんなさい。
 急なお手紙で申し訳ありませんでした。
 でも、助けて頂いたときの気持ちを形にしておきたかったのです。
 浅薄を形にしたようなつたない文章をここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
 それでは、また相見えることを祈って。
                              蜷川愛』
 一読して、おれは机に突っ伏した。
 九月九日の金曜日。それはつまり、明後日の夜だ。
 先週の金曜日に、おれは芝崎さん(と、あのいけ好かないジークとかいう男)に助けられている。つまりは、約束の上に約束が塗り重ねられてしまったのだ。
 タイミングが悪いことが重なりすぎている、と思いながら手紙に目を落とす。間の悪さは今に始まったことじゃないが、よりによってこんなときにまで発揮されなくてもいい気がした。
「ちくしょう、おれの身体は一個しかないんだぞ……ったく」
 ぼやきながらも頭の中で思索を巡らせる。
 指定された時間は七時。芝崎さんは夜のうちなら、多分いつだっておれのところに来られるんだろうと思う。
 七時に蜷川……さんと会って、少し話をした後で人気のないところに行けば、多分間に合うはずだ。この間芝崎さんが消えたのは十時を少し回った頃だったから。
 想像もしていなかったハードスケジュールに頭を抱えながら、おれは椅子の背もたれに身体を預けた。
 手紙をなんともなしに眺める。
 書かれた字からは切実な感情がひしひしと伝わってくる。……勝手な想像だが、習い事やなんかに押されながら暮らしているんじゃないだろうか、この子は。そうでもなければ平日の、しかも夜に時間を指定するなんてことはないと思う。
 芝崎さんのことはあるけど、その前に丁寧に応対するべきだ、と本音からそう思った。最後まで恐怖に身を震わせていた同い年の少女の姿を思い出そうとしてみる。ぼんやりとしか浮かばなかったが、それでもそのシルエットからは、誠実な態度をしなければならないと思わせる何かが滲み出ていた。
 昼に香坂から釘を刺されたせいもあるが、ここで非誠実に対応するのは正直人としてどうなんだろうかと思わせる、そんな力が手紙にはあった。
 向こうが何を求めているのかは判らない。礼を言いたいって一念だけなんだとは思うけど、昼に香坂が思わせぶりなことを言ったせいで別の可能性が頭に湧き上がって仕方ない。
 ――とにもかくにも、そういう話全てをひっくるめて、明後日の夜になれば判ることだ。
 達観してる自分が少しばかり嫌になる。こんな時でなければ少しは年相応に動揺もしてみせるってものなのだが、場合が場合なので素直に喜んでもいられない。 
「……難儀だよな、くそ」
 机から離れ、ベッドに身を投げ出した。
 目を閉じると、一日の疲れが心地よくおれの意識を暗い場所へ引き摺り下ろしていく。現実逃避は好きじゃないが、とりあえず今この瞬間くらいは逃げさせてほしい。おれの考え事には一つだって決着付かず、お題は増える一方で、パンク寸前の頭はとにかく寝ようって怒鳴りたてているのだから。
 だから、今くらい寝させてくれよ、ちくしょう。


 時計の歪んだ針が、一時を指している――
 六牟黒は、磨き終わったグラスを棚に戻すと、一息つかんと手近な椅子に腰を下ろした。わずかにため息を付く。わずかな間の休息を楽しもうとした矢先、仮眠室に繋がるドアが無遠慮な音を立てて開いた。
 出てきたのは、眠そうな顔をした蒼い瞳の男だった。寝癖でばさばさの黒髪を無理やりに撫で付け、乱雑に後ろ手でドアを閉める。蝶番の軋む音と、叩きつけられたドアの悲鳴が同時に響いた。
 それを咎めることもなく、黒は腕組みをしたままその男に声をかける。
「……起きたかね」
「寝てるように見えるか」
 不機嫌そのものといった態度で返すその男――ジーク=スクラッドは、カウンターを挟んで黒と対面するような姿勢をとった。
 黒は皮肉に笑いながら、ジークの表情を揶揄する。
「ああ。そんな糸のような細い目を見せられてはな」
「判ってんならコーヒーのひとつくらい淹れろ」
 挟まれた皮肉が気に食わなかったのか、ジークは顔をしかめながら言葉を吐き出した。
「年長者に対する口の聞き方がなっていないな、ジーク。まあ、無理からぬことか。君は昔からそうだからな。いくら注意しても直らない」
 長く付き合った友人に接する態度で、黒は軽く肩を竦めた。
 対するジークに悪びれた様子はなく、それこそいつものこととばかりにそ知らぬ顔で受け流す。
「判ってんなら諦めろ。昔からの性分でね、オレの軽口は死んでも直らないのさ」
 そんなやり取りが日常であるから、この二人の間には鋭い言葉が飛び交おうとも険悪な雰囲気が漂うことは滅多にない。
 黒は僅かに溜息を吐くと、コーヒーを淹れるために立ち上がった。自らが作成し、管理している異空間たるこの部屋にいる上では、休養が必ずしも必要というわけではない。前線に立って昏闇を始末するよりはずいぶんと楽な仕事をしているという自覚もあった。多くの昏闇を掃討し、それを鼻にかけることもない目の前の男のためなら、多少の休憩など返上してやるというものだ。
 ミルに向かい豆を挽きながら、黒はふと思い出したことを口にする。
「……ああ、それはそうと、まもなく一週間になるな」
 振り返り出し抜けに言うと、ジークはきょとんとした表情で黒を見つめ返した。
「何の話だ」
 皮肉も何も差し挟まずに忘れているといった表情に、長い付き合いながらも――いや、長い付き合いだからこそか。あまりの友人の無頓着さに、黒は額に人差し指を当てて苦悩を示した。
「……君はチームリーダーだろう。メンバーが負っている予定くらいは把握しておくべきではないのかね」
 訴えるように口にすると、ジークはさも面倒くさいとばかりに髪を梳いて、カウンターに突っ伏した。
「放っておいてもお前がやるだろ、そんなの。いいからコーヒーくれ。……いやその前に水をくれ。喉が渇いた」
 思い出す気もさらさら無いといったジークの所作に、黒は頭痛を通り越して胃痛まで感じそうになった。
 ジーク=スクラッドは、当代のナイツの中でもっとも銃の扱いに長けたハンターだ。その闇の掃討数は歴代の名ハンターたちに並ぶまでに至っている。二挺拳銃を意のままに操り、強い心によって具現する高い身体能力で魔具の攻撃力の低さを補っている。
 その魔具は「輪廻の十字エターナル」。名の通り「永遠」を極めて狭い範囲で実現する魔具である。ジークは戦闘に使い辛いこの力を、銃の弾倉内に適用することで無限に銃弾を吐き出させる『銃撃回廊インフィニティ』として用いるなど、非凡な才覚を有している。
 応用力があり、適応力も十分。いつでも己を信じ抜く強い心を持ち、戦闘になれば鬼神のごとき活躍を見せる。まさに狩人としては極上の資質を持っている男なのだが――
 しかし、天は二物を与えず。六牟黒に諦念を強いるほど、ジーク=スクラッドという男は極めて面倒臭がりでものぐさな男なのである。
 芝崎光莉と六牟黒を含めた六人の小班のリーダーでありながら、この男は戦場でしかリーダーとして行動しない。ひとたび帰ってくればこの通り、前日の酔いを翌日に引っ張ってついでに黒の足まで引っ張るというダメ人間ぶりを発揮する。お陰で、黒は室長兼リーダーという扱いになってしまっている。黒にとっては、それが常々から不本意であった。
 嘆息しながらもグラスに水を注ぎ、ジークの目の前に置く。
「いつまでも俺に頼りっぱなしというのも勘弁してもらいたいのだがな。お守りをまかせるのは新入りたちの分だけに留めてくれ。いくら俺とて、手が何本もあるわけではない。多忙が過ぎれば、その内取りこぼす物もあるだろう」
 知らずくどくどと長くなる言葉を聞いたのか、ジークはうるさそうに手を振った。グラスを掴んで水を一気に飲み干し、音高くカウンターに置く。
「判ってるよ、いつにも増して説教臭いな――ああ、思い出した。ミツリの話か」
 ようやく目が覚めてきたのか、ジークの蒼い目には輝きが戻り始めていた。紡いだ言葉も正解に近い。とりあえずは及第点である回答に補足するべく、黒は豆を挽きすぎないうちに取り出し、ドリッパーにセットした。
「正確には、彼女が説明を行った少年の件だ。明日の夜に結果が出ることになっている」
 それだ、とさほど興味もなさそうな顔でジークは頷く。大きな欠伸を一つすると、グラスの端を指で弾いた。澄んだ音が消え切らないうちに口を開いた。
「バーンドチェインのガキの話だろ? まだケツの青い坊主のこった、最後まで決められないでウジウジ悩んでるもんだと思うが」
 辛辣なジークの言葉に、黒は片眉を跳ね上げた。
「手厳しいな」
「オレは迷わなかった。だから言うのさ。……ま、褒められた出だしじゃあなかったけどな」
 コーヒーがドリップされるのを眺めながら、黒は背中にジークの声を受ける。ジークに顔を向けないまま、僅かに黒は苦笑を漏らした。しばらく答えず、黒い液体が充分に溜まるのを待つ。
 香りよいコーヒーが満ちたのを確認すると、黒は容器を持ち上げ、カップに注いだ。二人分用意すると、片方を自分で持ち、もう片方をジークの前に置く。そして、コーヒーと同じく溜めていた自分の言葉を穏やかに紡ぎ始めた。
「皆が皆、君やリリーナのようになることは出来んよ。君たちのような覚悟を持つにはひとつ。昏闇に対して、何らかのしがらみを持つほかにない。……そして、そんなものは出来ればないに越したことはないのだ。他人の不幸を喜ぶわけでもあるまい?」
 諭すように言うと、ジークは僅かに目を伏せた。黒い水面を眺めるように視線を落とし、彼はやがてグラスを持ち上げる。一口啜って、小さく嘆息した。
「……まあな。あんたの言う通りだ。それに、そんな妄念にしがみつかなくても上手くやってる連中はいる」
 あっさりと認めるジークの言葉は、事実をしっかりと認識している証だ。黒はこの青年のそういう部分に好感を持っている。日常的に怠惰であろうとも皮肉屋であろうとも、彼は真実を認めることを倦厭するわけではない。
 黒は鷹揚に頷き、口を開いた。
「その通りだ。……そして俺には、あの少年はもしかしたら……君の言うような、上手くやっている連中になれるかもしれないと、そう思えるのだよ」
 希望を込めた言葉に、ジークが頬杖を付きながら、「ふうん」と気の無い息を吐く。それから僅かに目を細め、彼は黒を見返した。
「珍しいな、クロ。あんたが憶測でものを言うなんて」
 問いかけるような目線をかわすように黒はコーヒーを啜り、カップを傍らに置いた。
「まるですべて憶測、というわけではないさ。それなりに根拠があってのことだ。……歴史は繰り返すものだ、ジーク。君の父親がここにいた時代があり、そして君がここにいる時代がある。ナイツはそうして続いてきた。長く生きると、少しずつ……時代を手繰る糸が見えてくる。その糸の手ごたえが、そろそろ新しい風が入ってくる頃なのだと教えてくれるのだよ」
 論議が抽象的な話に移行したのを嫌ってか、ジークは椅子の背もたれに身を預け、尊大な仕草で腕を組んだ。
「やれやれ。あんたは本当に、雲の上から物を見てるようなことを言うな。いつものことって言えばいつものことだけどよ。……歴史は繰り返す、か」
 そして僅かに瞑目し、少しして開く。
「クロ」
 口から紡がれる呼びかけの声。黒はやんわりと「何かね」と問い返す。いつもと変わらない声に安心したように、僅かだけジークは表情を和らげ――そして、引き締めた。
「バーンドチェインのガキの話だけどな、おれは立ち会わない。別の場所で昏闇を狩ってる。……あんたに任せるよ」
 一見投げやりな言葉だが、その裏に確かな信頼を感じて、黒は僅かに頷いた。
「善処しよう。……どちらに転ぶかは判らないがね」
 言葉にああ、と頷くと、ジークはまだ熱も冷めやらぬコーヒーを一気に飲み干し、席を立った。
「警邏に出る。反応はあるか?」
 その問いの意味するところは、無論昏闇が表立って活動しているか、といった事である。黒は目を閉じ、瞼の裏に浮かんだ町の状況を総括して答えた。
「今のところは表立って活動しているものは無いな。発生次第、追って連絡する」
「わかった。それじゃあまた後でな」
「ああ」
 そっけない挨拶を交わし、ジークはテーブルから立ち、ゆっくりと三歩歩き――四歩目を踏み出したところで、蜃気楼のごとく消え失せた。黒はそれを見ながら、ゆっくりと空になったカップを持ち上げる。
「――さて。本当にどちらに転ぶものかな」
 その呟きを聞くものは、一人としていない。
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