Nights.

| index

  Night of fire   

 ――腹に重いボディブローを貰って目が覚めた。
「うげはっ!?」
「起きた! 兄貴が起きたー!」
 おれは車椅子に乗った女の子か。
 喜びの声ってよりはどっちかというと鬨の声っぽい大声を上げながら、下段突きを入れてくれているのはいつもどおりの顔。妹の佳奈だった。
「お前、もうちょっとまともな起こし方しろ……」
「呼んでも起きないのが悪いッ! それともおはようのキスでも欲しかったー?」
「気持ち悪いこと言うな。永眠させる気ゴブァッ」
 もっぱつ、みぞおちに、こぶしが、めりこんだ。
「朝飯さっさと食え、バカ兄貴!」
 ドスドスと響く足音に続いて、ドアが叩きつけるような音を立てて閉まった。それを聞きながら暫く悶絶する。痛みが治まる頃、涙目をこすりながら身を起こした。
 いつものやり取りといえば、いつものやり取りだ。何のことない日常のやり取り。時計を見れば、時刻は午前七時三十分。少し前に比べると、大分早い起床時間だ。ま、それにもちょっとした理由があるんだけどな。
 カレンダーは、十月六日を指している。
 さっさと着替えてカバンを持ち、階下に降りて、朝のニュースに顔をしかめたり頬を緩めたりしながら飯を食う。
 レッサーパンダが立ち上がるのを横目にしながら食器をシンクに下げて、いつも通りに玄関から家を出る。
 何気なく、靴――お気に入りのバッシュを見下ろした。白い紐が通っていた。
 僅かに目を閉じて首を振る。別に、何か変わった事があったわけじゃない。

 戸締りを佳奈に任せて、先に家を出る。太陽は今日もさんさんと照っていた。けど風は少しだけ涼しくて、夏が完全に終わった事を感じさせる。今年も、いつもと同じように季節は変わっていく。秋の風を身体に受けながら、おれは少しだけ足を速めた。
 曲がり角を曲がると見える。通学路に出て最初の交差点で、二人の少女が今日も待っていた。
 片方――眼鏡とお下げの彼女がおれに気付いて、品のいい笑いを浮かべる。軽く手を上げて、それに応えた。
「うぃーっす、いい天気だな」
「うん、おはよう、厚木君」
「あら、来たの。遅かったからそろそろ行こうと思ってたところよ」
 かたや笑顔で、かたや毒舌を交え、それぞれに挨拶を返してくる二人の少女。毒舌をたしなめようと慌てて口を開く眼鏡とお下げの少女が蜷川愛、それを馬耳東風と受け流す長髪の女が香坂皐月。
 三週間とすこし前から、おれはこの二人と通学路を共にしていた。
「いんや、いいよ、蜷川。いつも待たせてるしさ」
 それに香坂の毒舌は今に始まったこっちゃない。挨拶代わりに言うようなものなのだから、慣れた。
「そうそう、ホントならこういうときは男が先に待ってなくちゃいけないんだから。甲斐性なしの男なんて置いていかれても捨てられても文句は言えないのでした」
「お前は少し黙るといいよ」
 チョップを繰り出すと、香坂はするりと俺の腕をかいくぐり、蜷川の陰に隠れて赤い舌を出してみせる。
「サメが泳がないと死ぬみたいに、あたしはしゃべらないと死ぬのー」
「死ね! もしくは永遠に一人で喋ってろ!」
 おれと香坂が交わすボケツッコミの応酬を見て、蜷川が困ったように笑う。これが、ここ三週間ちょっとの時間ですっかり当たり前になってしまった光景だった。
 蜷川の口からつきあう、という言葉が出てから何だかんだで一ヶ月弱が過ぎている。その間に香坂が気を揉んだりなんだりで、朝のこの僅かな時間に顔を合わせるようになったり、割と早くメールの交換が始まったりと、そんな小さな変化が折り重なっている。
 正直、そんなに悪い気分ではない。このくらいの友達レベルがちょうどいいと思うのだ。おれと蜷川の微妙な距離は、いつかは白黒の付く問題で、モラトリウムにいるんだって事はわかっていたけれど、だからってすぐにこの現状を進んで動かそうという気にもなれない。
「ここであたしが一人大弁論大会を開くのはやぶさかではないけど、その場合、愛はもれなく遅刻するね! あたしに付き合って!」
「わかった、わかったから歩き出せスピーカー娘。蜷川がバスに遅れるだろ」
「あは、でもこのまま行けばちゃんと間に合うから、大丈夫ですよ」
 鈴を転がしたような感じで笑う蜷川に、「あんまそいつ甘やかすなよ」と釘を刺しつつ、おれは歩き出した。
 今、おれ達はお互いの距離を手探りで模索しているのだと思う。決着が付くまでどのくらいかかるかはわからないけど。
 少しずつ日常は変わっていくのかもしれない。
 けれど平穏だった。
 ずっと穏やかで、波にも風にも触れない。
 ――きっとずっと。

「康哉、C組の香坂さんと付き合ってるって本当?」
「メシの最中に噴飯ものの噂を突きつけないように」
 反射的に否定の言葉を返すと、だろうね、と字坂は肩を竦める。
「あんだァ? つまんねーなー、近頃いっつも一緒にガッコ来てるって聞くぜ、なんか色気のある話かって期待してたんだけどよ」
「残念ながら期待してるような話は無いから。絶無だから」
 大げさな仕草で嘆く大谷に箸を突きつけるようにしながら否定。もそもそと妹が作った弁当をつつく。
「香坂さん結構狙ってる人、多いしさあ。そのうち後ろから刺されるかもね」
「笑顔で言うなバカ野郎」
 にっこりしながら言う字坂にカウンターばりに言葉の暴力を差し向けつつ、ミニハンバーグを口に運ぶ。わが妹ながら料理は達者だなあと素直に感心した。大谷が飲み終えたカフェオレのパックをつぶしながら、こっちに視線を向けてくる。
「つうかよ、何で今になって香坂なワケ? また一年のときみたくボディーガードでも頼まれたんか?」
「バカ、思い出させんなそんなの。あんな疲れた体験はもう二度とゴメンだ。ちょっとした事情があんだよ、ちょっとした事情が」
 字坂も大谷も微妙な表情をしてふーん、と息をついた。まあ、説明不足だしそりゃしょうがないか。ふと、聞き流すようにしていた字坂がコロッケパンを咀嚼し、飲み下す。
「なに、脅されてるとか? 弱み握られたとか? ムッツリなのがバレたとか?」
「脅されるほど黒い人生送ってねえってオイお前、今さりげなくすげー失礼なこと言わなかった?」
「神に誓ってそんなことないよ」
 輝かんばかりの笑顔を浮かべながら否定。
 字坂コイツは猫かぶりでは多分香坂にも負けないだろう。坂か。名前に坂って入れればいいのか。
「まあ――なんだ、いいじゃねえか。厚木が大丈夫だってなら、それで。てえかよ、それより、語り合うべき重要な議題があるんだが。超絶おめーらの意見が聞きたい」
「あ?」
 字坂を追及しようとした矢先に大谷の声。確かめるように目で問うと、大谷は僅かに表情に影を作り、無意味にキャラメルカラーの髪をかき上げた。
「清純派のコが着けるべき下着の色について」
「うるさいだまれこのエロ魔人」
「さりげなく話し始めるにはすごく無理のある話題だよね」
 おれと字坂が同時にツッコミを喰らわすと、大谷は髪をかき上げた姿勢で暫く停止してから、ニヒルっぽく何かをくわえた。ポッキーだった。
「天才はいつの世も迫害されるもんだなァ」
「いっそそのまま投獄されてしまえばいいのに」
 わいせつ物陳列罪とかで、と付け加える字坂。やっぱコイツの毒舌は大谷にのみ向けられるべきものだと思う。ちょっとおれとかはガラスのハートなのでゴメンこうむりたい。
「字坂ちゃんよー、そりゃあねーぜこの天才にー」
「何とかと天才は紙一重って言うよね。惜しかったね、大地」
「アレ? オレ今遠まわしにバカにされてる? バカにされてる?」
 コントのようなやり取りを聞きながら、日常を実感する。
 少し退屈だけど、こいつらがいるなら――気を許せる連中がいるなら、それはきっと何より幸せな事なんだろうとも、なんとなく思った。
 日常は変わらない。

 放課後は遊びに行くと騒ぐ字坂と大谷の首根っこをひっ捕まえて、道場へと引きずっていく。姉貴の手伝いがあるから勘弁してくれと騒ぐシスコンを黙殺。頼むから離せオレは死にたくないとかいうヒヨコ頭を無視。
 こうすることで、師範の溢れんばかりの愛は主にこの二人に注がれるというわけである。いつぞやの仕返しだ。
「気合入れろオオタニ。あと二百だ」
「し、師ッ範、自分もう無理ッす! 死ねます!!」
「じゃあ殺してやろう、五十追加」
「アギャー! この人容赦ねえ!!」
「師範、僕は追加なしですよね?」
「ほう、そんなに追加して欲しいなら、オオタニと同じだけ蹴れィ」
「そういう趣旨で言ったんじゃないのに!?」
「口答えすると――」
「わかりましたけりますけりますけりますけります」
「素直でいいのゥ、アザサカ。そら、もっと抱え込め! 相手の膝ァ蹴り上げて骨折りたいのかガキども!!」
 ――ああ、あの二人は大変そうだなあ。
 十分に仕返しを果たした気分になりつつ、おれは号令に合わせて百二十五本目の突きを虚空に打ち込んだ。

 空手が終わったあと、げっそりした顔つきの字坂と大谷と別れる。かなり堪えたらしい。面白いから明日も連れてこよう。
 疲れた身体を引きずって家に帰る。途中、近道の狭苦しい路地を視界の端に留めながらも、ゆっくりと大きな通りを辿って家路を行く。見慣れた景色の終わりはいつも、時代がかった自宅の門だ。
 玄関を開ければいつもと同じように、晩飯の香りが鼻をくすぐる。ひょこりとエプロン姿の佳奈が今から顔を出し、「おかえり」と言葉を投げてくる。
「ただいま。新妻みたいだな」
「どっせーい」
 からかったらすげースプリントで突っ込んできた。
 靴を脱ぎながら適当にあしらおうとしたら、飛びつき腕ひしぎ十字固めを極めてきたのでメシの前にもう一運動する羽目になった。また新技覚えやがったのかこの娘。
 嫁に出す前にこの暴力癖だけはどうにかして直す必要があるとお兄ちゃん痛感する次第だ。
 お互いの息が上がって、和平交渉を持ちかけ、それが受理されたところでようやく二人して晩飯にありつく。
 献立は鳥のから揚げとヘルシーな豆腐のサラダに大根の味噌汁だった。親が留守にしてる割にいつもいいもの食ってると自分でも思うよ。そんな訳で、家庭内における地位は妹のが圧倒的に高い。外でどうだろうが家の中では家事の出来るやつが偉いのである。
 そもそも親父とお袋がアメリカに行く前の厚木家内のヒエラルキーを考えたって、佳奈は上から二番目だ。一番目はお袋。親父がおれより下なはずはどう解釈してもありえないので、自動的におれが最下位という事になる。おかげで命令されたら逆らえない人間に育っちまった気がする。
 飯を食い終えて、茶碗をシンクに下げる。朝の分は佳奈が料理を作る前に洗うのが常なので、晩飯の茶碗くらいはおれが洗う。……まあ、最近になって始めたことなんだけど。
 洗い終えたら二言三言の益体もない会話を挟んで、カバンを持って自分の部屋に戻る。制服を脱ぎ捨てて、動きやすい服装に着替え、ベッドに身を投げ出した。
 静かな部屋の中――外を走る車の音と階下から聞こえるバラエティ番組の音声。ときどき佳奈の笑い声がそれに混じる。けど、耳障りなほどでもない。何も考えずにいるには、却っていい環境なのかもしれなかった。目を閉じて、ぼんやりと待つ。寝転がって十五分ほどで、いいタイミングで携帯が震え出した。
 差出人を見る。
 いつもの彼女だった。
 
 白い靴紐を通したお気に入りのバッシュを履く。
 佳奈に出かけてくると告げて、静かに家を出た。夜、九時半。いつもの時間だった。
 朝通る通学路をいつもと同じコースで歩く。
 車の通りも少ない。見える右曲がりの角。そこを曲がれば、朝に蜷川たちと待ち合わせる交差点が――
 
 なかった。
 
 視界が揺れるでもなく、眩暈がするでもない。ただまったく唐突に景色が切り替わる。
 今やおれが立っているのは、よく磨かれた樫の木で組まれた建物の中だった。樫の木で出来たテーブルとカウンター、そして簡素なスツールが立ち並ぶ。壁にかけられた時計の針は歪んでいて、文字盤に描かれた数字も各々が好き勝手にのたくっていた。胡散臭い調度品はその時計に始まり、机の上の不思議なオブジェ(たぶん花瓶だ、花が刺さってるから)や火がつくのかどうかさえ怪しい奇怪な形状のランプと多様だったが、それでも全体の雰囲気を言えば、どうにか喫茶店と言えないこともないような――そんな部屋。
「彼女」が振り返り、カウンターの向こうで男が顔を上げた。男は意味ありげにあごをしゃくり、女性を示す。
 
「――こんばんは、厚木くん」

 穏やかに笑う白い女性。
 ――光。穏やかな燐光を見るような優しい笑みに、おれは歯を見せて笑った。
 彼女が生み出す光を、覚えている。
 おれはあの時、確かに思ったのだ。
 夜空を落とす純白の射手を、生涯忘れはしないだろうと。
 だから、おれが足首、、の魔具を手放す事はない。
 
「お待たせ、芝崎さん」

 二人の猟人が、夜を駆ける。


ACT/1 【InCOMING DARKNESS】
FIN.
| index
Copyright (c) 2007 TAKA All rights reserved.