Nights.

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  Trouble-Trouble  

 臨機応変、という言葉が嫌いだ。最初からそうできるなら苦労しないのである。
 おれは昔から、予測できないことに対して対応するのが苦手だった。それでも、自分の腕っ節でどうにかなることなら何とかやってきたんだ。別に体はでかいほうじゃなかったけど、鍛えるのは苦じゃなかったから。
 でも、今度という今度はおれの腕の届く範囲じゃなかった。だから右往左往もするってものなのである。
 昏闇、ナイツ、バーンドチェイン。猟人。どこからどう聞いても覚えのない単語の羅列を吹き込まれたあの夜から、早くも五日が経とうとしていた。
 言われて一日目は、聞いたことはなんだったか、考えるべきことは何かって、そう整理するので精一杯だった。佳奈の説教がまるで耳に入らなくて、結局寝る寸前まで怒鳴られっぱなしだったのを覚えている。
 二日目に入ると、学校に向かって歩いてる時間だとか、授業中だとか、必然的に考えことの出来る時間が増えて、少しは頭の整理がついた。それと同時に夢オチの可能性を主張したかったが、それを考えるたびに肋骨だとか額だとかが疼くように痛んだ。あの夜にあったことは本当なのだ、と主張するみたいに。
 三日目。重い腰を上げて問題と現実的に向き合い始める。選択肢はたった二つだけなんだけど、これが何よりめんどくさい二者択一なのだ。
 おれは普通の男子高校生だ。それなりに現実を過ごしながら、それなりに生活に不満を持って、それなりに馬鹿をやりながらそれなりに退屈してる。そういう鬱屈を晴らす手段にケンカを使ったりはするけど、それだってやんちゃの範囲内だ。多分。
 そういう、普通の領域にいるからこそ――垣間見えた夜の世界には、目の眩むような興味を覚える。
 自分が過ごしていた世界にないものがあった。一飛びで五メートルを飛翔する男、映画でしか見ないような二挺拳銃、光を放つ銃を持った女。そして、炎を上げる自分の脚。
 普通の生活が悪いとは言わない。けれど、感じたことのないような刺激を目の前にして走り出さずにいられるほど、おれは老いぼれちゃいなかった。そういう意味でもおれは健全で普通の男子高校生なのだ。
 しかし――しかし、である。
 向こうにあるのは、希望だけではない。それもまたよく判っていることなのだ。
 暗闇と親和しない昏闇。闇の中にあって、闇とは明確に違うもの。何よりも混沌として昏く、おれ達の常識に逆らって変異して、ヒトに襲い掛かる悪霊のような存在。
 思い出すだけで、震えが来る。
 一歩間違えればおれはあの赤い口の中に飲み込まれて、死んでいたかもしれないのだ。
 芝崎さんは言った。ナイツとは、昏闇を殺すためにいる猟人の集まりなのだと。
 おれは、あの恐怖そのものと向かい合うことが出来るのだろうか。戦っていくことが出来るのだろうか。おれがナイツに誘われたってことは、戦力として期待されている、って受け取って間違いないだろう。……だとすれば尚更だ。
 好奇心だけで向かっていっていい世界ではないのは、理屈よりも体で理解している。……ぐ、と締め付けられるように、肋骨が痛んだ。
「――ぎぃー」
 五日経った今も、結論は出てこない。視線を下ろせば、あいも変わらず靴紐は赤かった。
 九月七日、秋口の風は温くも冷たくもない。空は青く――雲は白い。白い、と言えば翻るあのオフホワイトのコートを思い出してしまう。儚げな笑みと、毅然とした表情。芝崎さんの顔が頭の中に再生される。重症かも知れん。首を振る。
「――あーつーぎぃー」
 気を取り直して空を見上げた。揺れもしないで佇む雲の中に、ひとつだけ丸くて白い雲がある。僅かに目を眇めて、眩しい太陽に向かって手を翳した。
 時間は止まらない。気づけば明日は背中に迫っていて、立ち止まったおれを追い越していく。まだどっちを選ぶかの目処さえ立ってないって言うのに。
 指の隙間から、ふと空を覗く。おれの内心も知らないで、嫌味なくらい青い。流れる雲は穏やかで、白球のような雲もまただんだんと大きく――
 大きく?
「おーい、行ったって、康哉ー」
 暢気な声にふっと我に返った瞬間、打ち下ろしのジャブをもらったような感覚が手から額を突き抜けた。翳した手ごと額を打ち付ける衝撃。地球の重力と打ち上げられた白球とのコラボレーションがおれのデコで今まさに誕生した。頼むからよそでやってくれ。
 ああ、忘れてた。そういえばそう、ベースボールの授業中でした。
「〜〜〜〜……!!!」
 デコが!デコが燃える!脚じゃなくてデコが燃えてしまう!
 ああそりゃ膝も折るさ。しゃがみ込むさ苦しむさ。人間が何されて一番痛いかって、無防備なところに飛んでくる攻撃に決まってる。それはそう、言葉もしかり打撃もしかり!
「ウワー。直撃だろ今の。おーい厚木、生きてるかー」
「悶絶できるうちは元気なもんでしょー。余裕余裕」
 それなりに心配してそうな大谷はいいとして、けらけらと笑う字坂の声もはっきり聞こえた。後でツラ貸せこの野郎。死なす。
「……い……っってええぇええぇえぇぇぇぇ……」
 地の底から響くような声が出た。痛みに全身を強張らせてる時は、こういう呻き声しか出ないんだとしたくもないのに再確認。
「お、生きてる生きてる。ゲーム続行大丈夫オッケー再開再開ー」
 決定だ大谷。お前も死なす。
「て、てめえら……もう少し心配しろよちくしょう、野球ボールだぞ!? しかも硬式!」
 寸前で手に当たったおかげで、頭に深刻な影響とかはなさそうだけど。
 しかし帰ってくるのは冷たい返事であった。
「ボーっとしてるのが悪い。勝負事では気を抜くなっていつも言うのはおめーだろ」
 言い捨てると、大谷はピッチャー交代だイェー、とか奇声をあげながらマウンドに走っていく。いや……まあ、そこを突かれると弱いんだけどさ。
 いや待てしかし、それでも普通心配くらいはするもんじゃないだろうか。
「確かに言うけどよ……それにしたってもう少しくらい労われってんだ」
 ぶつくさと文句をこぼすと、字坂が肩を竦めて振り返った。
「斉藤君の異例のランニングホームランの点を返したら心配してあげなくもないよ」
 ドライな言葉に眉を潜めながらホームベースの辺りを見たら、斉藤君が恰幅のいい体格を右に左に揺らしながらホームインしてた。
 ……不覚である。
 がっくり肩を落として、足元に転がる白球を拾い上げてピッチャーに返した。


 そんなこんなで、一事が万事その調子なのであった。
 最初の三日くらいは字坂や大谷も変な顔をしていたが、五日も経てば慣れたもの。それとなくフォローを入れつつ距離を置いてくれている。こういう時ばっかりはありがたく思うのと同時に、どうやったらあいつらみたいにうまく空気を読めるようになるのかが知りたくなる。
 四時間目の古文教師の退屈な授業が済むと、おれは机に突っ伏した。まだデコが痛い。
「あれ、康哉? 昼食べに行かないの?」
 不思議そうに問いかけてくる字坂に軽く手を振った。
「ああ、気分じゃない。食いに行っててくれ。大谷はもうダッシュしてるみたいだけどな」
「ふーん……そっか。それじゃ、食べてくるよ。そっちも体に悪くないように少しでも食べなよ? 菓子パンかなんかでもいいしさ」
「心配どうも。それじゃまた後でな」
 ひらひら手を振ると、字坂はいつもと同じ掴み所のない笑いを浮かべて歩いていった。
 その背中が雑踏に紛れるのを見送った後で、大きく溜息をつく。
 すべてのケチの付き始めはどこだっただろう。そもそも根性なしのヘタレ靴紐が真っ二つにぶち切れやがったところからなのか、不吉極まる赤い紐をその代用にしちまったあたりからか、あんな夜中によりにもよって通り魔の現場に出くわしちまったところからなのか。
 あの夜に出くわした真実とやらが一概に悪いことばかりだったとは思わない。だからこそ迷うわけなんだが、この迷う時間そのものが責め苦なんではなかろうか。事実、目の前の勝負事にすら目が行かなくなってたりするし。体育の授業で考えることなんて、どこにどうパスを出すかとかどのタイミングで跳ぶかとか、そういう体に出す指令ばっかりだったはずなのに。
「……だからよ、おれに頭を使わせんな……」
 頭が風邪でも引いたように回らない。全く、どうにかなりそうだ。
 字坂がなんか食えと言い残してはいったのだが、肝心の食欲がさっぱり沸いてこない。上の空で食う飯も美味くないし、昼飯は抜こう。
 そう決めると、机に突っ伏して投げ出していた両腕を組み、額をその上に乗せて痛くない角度を模索した。いくらかの試行錯誤の後にベストポジションを探し当て、目を閉じる。
 考え事を無理に止めて、完璧に思考停止。眠りに付くにはさほど時間は要らないはずだった。
「あの――すみませーん」
 ざわざわと賑やかな昼休みの空気の中にドアの開く音と、
「厚木君、呼んでもらえます?」
 おれを呼ぶ声が響かなかったならば。
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