Nights.

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  Sometime, Somewhere  

 慣れた転移の感覚を抜けて、ふわりと地面に降り立つ。目覚めの後のような倦怠感を振り払うように、芝崎光莉はゆっくりと目を開き、周囲を見渡した。
 ほの明るい古ぼけたランプの光が光莉の身体を優しく照らし上げる。涼しい夜気の代わりに、暖かい空気が彼女を包み込んだ。古ぼけた酒場のような部屋である。床も柱も木製で、まるで映画の中からセットを切り取ってきたような風景。いくつも四・五人用の円卓があり、カウンターは上等なマホガニー材で出来ている。ぽつんと部屋の右隅に据えられたドアの先には、仮眠室まで用意されていた。
 この部屋は、ナイツ第十三番分室『無銘ネームレス』の待機場所、「ねじれの位置スパイラルタイム」。
 光莉やジークら、十三番分室に所属する猟人は、狩りをする前とした後には必ずこの場所に集う。しかし、ジークの影は見当たらない。恐らくはもう、自らのねぐらに帰ったのだろう。光莉は嘆息を隠しもしなかった。慣れているものの、年齢に不相応な彼の奔放ぶりは時折目に余る。
 溜息が部屋の空気に溶けて馴染むころ、カウンターの向こうから一人の男が顔を出した。バーテンダーにはとても見えない、とってつけたようなエプロンを掛けた男である。左手にグラス、右手には布。
 外見年齢は二十半ばほど。光莉が思うに、同い年か相手が年上かのどちらかだ。風貌は、喩えるなら針金。細長いと言う形容がよく似合う男である。身長は百八十センチメートルを有に回るが、それに見合った筋肉が皆無と言っていいほど見られない。風に吹かれればそのまま飛んでいってしまいそうだ。日本人らしい黒の瞳をグラスに落としたままでいる。しかし髪の色は全く日本人らしからぬ、鉄錆色とでも言えばいいのか、そんな赤茶けた色。それだけでも十分異様なのに、伸ばし放題にしたその髪をまるで侍のように一括りにしているものだから、退廃的に見えることこの上ない。だが、本人は気にしてもいないようである。昨日も一昨日も一週間前も、ずっと同じだった。そもそも出会ったときから変わっていない。
 軽く回想しながら光莉が一歩踏み出すと、男は微笑を滲ませてグラスを棚に置いた。
「戻ったか、芝崎」
 声はその髪の毛の自己主張に見合った尊大なものだった。けれど光莉にとっては何より聞き慣れた声で、戻ってきたのだと言う実感の沸く声である。ひとつ息を吸って吐いてから、彼女もまた挨拶を返す。
「ただいま帰りました、クロくん」
 偉そうな青年――六牟黒ロクム・クロという――は満足げに頷いて不敵に笑うと、ポットを用意しながら手をこまねく。そして、気軽に問う声。
「うむ、無事なようで何よりだ。茶を淹れよう、希望はあるか」
 手招きに従って光莉はカウンターへと歩き、スツールを引いて腰掛けた。カウンターの向こうでミネラルウォーターのボトルを持ち上げる黒の様子が良く見える。
「嬉しいですね。それじゃあ、いつものを。砂糖は要りませんから」
 光莉もまた軽い調子で返した。気心の知れた仲ゆえに、余分な会話は必要なかった。
 いつも飲むアップルティーを黒は飛び切り上等に淹れてくれる。仕事が終わった後に黒が淹れた茶を飲むのは、もはや習慣じみていた。
 思えば、ここに来てもう六年になるのだ。
 芝崎光莉は二十四歳。十八歳の頃にこの世界に足を踏み入れて以来、表と裏を切り替えるように、一般人としての生活とナイツの一員としての生活を両立している。六年と言う時間は長いようで短いと思う。いやそれとも、この六年が特別に短すぎただけなのだろうか。
 過去に思考を飛ばしてどれほどが立っていたのか。ことん、という音を聞いて光莉は現実に回帰した。気付けば目の前には湯気を立てるアップルティーのカップがある。視線を上げると、鉄錆色の髪を揺らし、黒が傍らに立っていた。カップで指先を暖めるように触れながら、光莉は呟くように礼の言葉を浮かべた。
「ありがとうございます」
「何、いつものことだ。冷める前に飲むといい」
 気にするな、とでもいう風に軽く手を振る黒。言うが早いか琥珀色の液体を湛えたカップを持ち、カウンターの向こうから戻ってくる。そのまま、静かに光莉の二つ隣に腰掛けた。
 踏み込み過ぎない心地よい距離感に、光莉は顔を綻ばせた。もちろん黒が淹れるアップルティーはいつもと同じいい香りだったので、そのせいもあるのかも知れないなと僅かに思う。
 暫し、茶を啜る音だけが響いた。
 言葉を発さない僅かな沈黙。切り出し辛くなってしまう前に、光莉は口を開く。
「……魔具を持った少年を見つけました」
 黒はぴくりとも表情を動かさないまま頷く。カップから一口茶を啜り、カウンターに頬杖を着いた。尊大な態度は、いつでも変わることがない。
「そのようだな。途中までは見ていた。君とあの子供が二人になるあたりまでは」
 しれっとした口調に、光莉は呆れたように笑った。六牟黒は昏闇を直接狩るための戦闘要員ではなく、司令塔として、猟人が集う場――つまりはここ、『ねじれの場所』を管理するため、後方より動かない室長と呼ばれる立場にあった。この場にいながらにしての情報収集など、彼にとっては息をするのと同じほどに容易なことなのだろう。
遠見とおみですか。覗きは嫌われますよ」
 光莉の言葉に黒は肩を竦め、鼻で笑う。悪びれないいたずら小僧のようだな、と光莉はふと思った。
「その程度にいちいち頓着していたのでは室長は勤まらんよ。……それで?」
 黒の促すような声音に、光莉は僅かに息を吸い込み、背筋を伸ばしてカップを置いた。揺れるアップルティーの水面に視線を落としながら口を開く。
「ええ。……彼は本当にナイツを知りませんでしたよ。昏闇のことさえも」
 事実をそのまま伝えると、そこで初めて黒の表情が動いた。感心したように片眉を跳ね上げ、彼もまたカップを置く。
「ほう。戦闘経験があったわけでもない新参者か。それにしてはあの蹴りは上等だったな。挙動といい、出力といい――」
 含みを持たせた言い終わり。黒も薄々は気付いているのだろう。彼は光莉よりも古株だ。この状況は、光莉が来た時のそれと酷似している。
 なんとなく言動を予測されているような気分になりながら、光莉は報告のために用意しておいた言葉を吐き出した。
「はい。その点を鑑みて、魔具の回収は先送りに。一週間の猶予を持たせることにしました」
 続けた言葉に黒は愉快そうに笑った。昔を懐かしむように目を細め、やがて目をつぶる。
「それで、"忘れるか・入るか"という訳か。どこかで聞いた話だ、六年前を思い出す。道理でバーンドチェインの気配がしない訳だ」
 黒は開目し、再びカップを取り上げて口をつける。彼は光莉が下した判断について、進んで是非を下すことはない。それが彼のスタンスなのだ。長い付き合いになるが、それは今もって変わらない。
「ええ。――けれど……」
 光莉は言いかけて、言葉を止めた。ためらいは言葉の滑りにまで影響を与える。
「けれど?」
 促され、僅かに言葉を詰めながらも、光莉は内心を吐露した。
「……少しだけ、迷ったんです。ねえ、黒くん、私は正しいことをしたんでしょうか?」
 考えてみれば、この選択肢は、限りなく無意味な選択肢なのではないか。身を投じなければ忘れるしかないなど、実際には在って無いような二者択一ではないのか。戦うことを選ばなければ、問いがあったことすら忘れてしまうのだから。
 これは強制に近い問答だ。そう気付くがゆえに、光莉の口から言葉があふれる。
「なぜ、その台詞が出てくるのかね?」
 黒は静かな声で問い返した。彼の言葉は、光莉の中から文字列を引きずり出す。促す言葉には、そんな魔力めいた響きがある。光莉は黒の声を受けて、僅かに息を吸った。
「……あの場であなたに頼みさえすれば、彼の中から記憶を消して、全てを忘れさせてあげることが出来ました。魔具を回収して、彼をこちらの世界から押し戻してあげることが出来たはずです。――何も知らないほうが幸福なことも、あると思いますから」
 彼とは、厚木康哉という名の少年だ。澄んだいい目をしていて、バーンドチェインとかなりの精度でシンクロした。それも、何の訓練もなしに、だ。
 だが、それ故に……彼が訓練を受けていない一般人であり、しかも年若い少年であるという現実がある故に、光莉は迷うのだ。
 知らないほうがいいこともある。知らないほうが幸せになれる世界もある。多くの人間にとって、このナイツを知ることが幸せになれる道だとは、光莉には思えなかった。
 ――彼女が、この道を取って後悔していないのだとしても。
 長い光莉の言葉に整理をつけるように、黒は数度噛み締めるように頷き、アップルティーを一口啜って、細く息を吐いた。そして出し抜けに切り出す。
「それが正しいと思うのか、芝崎。君が先程採った道よりも」
「……」
 即答を返すことを躊躇う。
 もとより彼女は、その問いにすぐに頷けないが故に迷いを口にしたのだ。
 つまり返答は沈黙。生まれた静寂に黒が言葉をねじり込む。
「それは確かに簡単だ。君に頼まれれば俺は拒否せず彼の記憶を消しただろう。俺個人の意思とは関係なく、君の判断を尊重して。そして、それが一番事態を手早く円滑に収める方法だったとも認めよう。途中までは……君たちがあの場を移動するまでは俺も見ていたからな、灼けた鎖バーンドチェインがどの程度傷ついていたかは把握している。あのレベルならば、修理部に回せば二日と掛からんで修復が出来るだろう。これから時間をかければ、あの少年以上にバーンドチェインを使いこなすものも見つけられるかもしれない」
 淡々と述べる黒の言葉には抑揚が無い。だが、彼と長く付き合えば判る。六牟黒は本来、感情的な人間だ。語調が強くなりそうなときほどその感情を押さえ込み、言葉は抑揚を無くす。
 光莉には、それがよく判っていた。光莉の意見を肯定するような響きを持ったこの言葉の群れの後に、彼の真の考えが切り出されることも知っている。だからこそ、彼女も迷いを吐露するのをやめようとはしない。
 猟人にとって、抱え込んだ疑念は火種のようなもの。放っておけば他に飛び火して、いつかは己の信念をぐらつかせる。心の力で戦う彼らにとって、それは致命的なことだ。
 緩く肘を抱くように腕を組んで、静寂を埋めるように喉を震わせる。
「……はい。だからこそ、彼から魔具を奪って、記憶を入れ替えさえすれば、無駄に悩ませることもなかったのではないかと……今更、思うんです」
 光莉が言葉を終えると、黒はまたしても沈黙した。言葉を選ぶように暫し押し黙り、十数秒の沈黙を挟んで、託宣を告げるように口を開く。
「いいかね、芝崎。無知の上に成り立つ幸福は多いが、知ることでしか辿りつけない場所もある。全ては理解でき、理解するべきなのだよ。……確かにそれは幸せとは別の問題なのかもしれないが、あの少年が何を得ようとし、何を失おうとするのかは最後まで彼自身の自由であり、彼にしか選べない未来だ。それを奪う権利こそ、何者にもない」
 黒の言葉は光莉を糾弾するわけではない。彼女の取った処置に対して、その正統性を語る。
 揺ぎ無い響きを持って、声は続いていく。
「君が手酷い傷を負っても――誰も、ナイツを辞めるように勧めはしないだろう? それと同じことだ。未来は究極的に、他の誰でもない本人に委ねられる。そして……君は君の意思でここに残っている。立ち止まることも逃げ出すことも出来るのに」
 手酷い傷。それは、過去の記憶。芝崎光莉の暗部そのものだ。突きつけられた言葉が冷たく染みる。
 光莉は、歪みそうになる表情を抑えた。肘に爪を立て、まるで現実にしがみつこうとするように己を掻き抱く。そう、思いだしたくない記憶も少なくはない。むしろ、多いと言ってしまってよかった。――仔細を回想する必要はない。冷たい記憶の海から這い出るように、震える喉を固定して、言葉を吐き出す。
「逃げませんよ。……後悔なんてしていませんから。ただ時々少し、泣きたくなるだけで」
 開けば嗚咽してしまうような記憶を持っている。けれど複雑なことに、芝崎光莉はこの道を選んだことを悔いてはいなかった。
 悲しいことも辛いこともあった。死にかけたことも幾度かある。死んだほうがマシだと思ったこともある。痛む全身を引きずり、昏闇を求めて行軍し、狂ったように銃を撃った夜をも強く覚えている。事あるごとに、苦痛を絵に描いたような記憶を胸裏に刻み続けてきた。
 そんな数多の夜を平穏だったとは言えないし、幸福だったなどとは口が裂けても言えまい。
 彼女の半生の詳細を余人が聞いたならば、彼女を叱り哀れむに違いない。思い出すことすら憚られるような記憶を胸に抱いて、それを後悔せずなんとするのかと、そう糾弾さえしただろう。

 ――けれど、私は。

 胸に手を当てれば、鼓動する記憶がある。傷だらけの心の中に、幽かに息衝くものがある。
 芝崎光莉は、ここでかつて大切なひとに、得がたいものに、確かに出会ったのだ。
 それがもう、ひどく遠い存在であっても。手の届かないものであっても……
 痛む記憶を凌駕して、彼女の中に、まだ優しく光っている。

 ――私は何よりも、ただ強くあの光を憶えている。
 光に触れた高揚を、希望を、忘れられないでいるのだ。

「それならば、もう言うな」
 ふと光莉が我に返ったとき、黒が置いたカップには紅茶が入っていなかった。いつの間に飲み干したのか、忘我している間だったのか。少しだけ戸惑う。
 光莉の思考を打ち切るように、黒は滅多に見せない困ったような微笑を浮かべ、言った。
「もし君がまだ迷うのなら、最初の問いに俺なりに答えよう。――君は間違っていなかったよ、芝崎。上に対する報告書は俺が出しておく。今日はもう休め、明日も早いのだろう」
 気がつけばアップルティーは温くなっていた。言葉を受けて、冷めた液体を喉に流し込む。
 そうして、光莉は立ち上がった。押し付けない気遣いが心に染みた。
「……はい。どうもありがとうございます、黒くん」
「助けになるために居るのだからな。迷いが消えたならば、俺にとっても喜ばしい」
 何のことも無いような調子で口にすると、黒は手を差し出した。差し出された手に空のカップを渡し、光莉は一つ、折り目正しく礼をする。
 飾らない黒の優しさが、いつもと同じようにじわりと心を暖めていた。
「それじゃあ……また、明日」
「ああ。よい夢を」
 グラス磨きに戻る黒へ最後に手を振って、光莉は踵を返す。
 酒場に似た部屋から、自分の家へと帰るために、銀色のドアノブへ手を伸ばし、回す――、

 ぎい、ばたん。
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