Nights.

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  Invitation  

 ナイツ。
 騎士団と英語で発音するときの声で、彼女はその名を告げた。
 言葉が上手く出てこない。次に何を言うべきなのかを見失う。彼女はおれに答えを求めているわけではないから、余計におれは次の言葉に迷う。
 艱難かんなんとしながらひり出すべき言葉を探していると、目の前で、芝崎さんは穏やかに表情を緩め、首を横に振った。
「無理に言葉を捜さなくても、大丈夫ですよ。信じられないような話をこの短期間で聞けば、何を言っていいか判らなくなるのも無理のないことです。……私も、一番初めにはそうでしたから」
 その言葉を聞いて、はたと思い当たる。
 芝崎さんも、生まれたときからこんなことをしていたわけじゃないのは当たり前のことだ。
 言葉を詰めるおれに、芝崎さんはやや表情を引き締め、言葉を紡ぐ。
「……厚木くんが見たものは全て真実です。それは私が保証しましょう。けれど、信じるかどうかはあなたの意思で決めて下さい。その選択に私は口を出しません。……もし望むなら、昏闇に襲われたことも、こうして私たちを見たことも、魔具を持っていたと言う事実も、一夜に見た悪夢として忘れ去ることが出来ます」
 歌うように続く言葉は、ひどく魅力的な響きを孕んでいた。
 全て忘れてしまえるなら、何もなかったことにできると言うのなら。それ以上はないのではないかと、ほんの一瞬だけ思う。けれど、その間にも言葉は続いていた。
「ですが、そうすれば厚木くんは二度とこの世の闇を知ることは出来ません。魔具を偶然に手に入れる機会は遮断され絶無になり、どこかにいる昏闇に気付くことなく生きていくでしょう」
 淡々と淀みなく、言葉は続く。彼女の顔に笑みはなく、それが不安を煽り立てた。どちらの選択肢を取るのか、どちらの道を歩くのか。彼女の平坦な言葉はどちらを推奨してもいない。
 どこにも味方がいなくなったような気がして、急に心細くなる。胸の内側が、冬の風に晒されたように冷えた。
「……おれ、どうすりゃいいんすかね」
 救いを求めるように、女に改めて視線を向ける。芝崎さんは少しだけ目を閉じ、開いた。それとほぼ同時に切り出してくる。
「選択肢は二つ。少し長くなりますが、いいですか」
 許可を求めると言うよりは確認の意味合いが強いその問いに、おれは黙ってひとつ頷いた。
 それでは、と眼鏡の位置を正しながら彼女は話し始める。
「まずは一つ。その魔具を私たちに渡し、全てを忘れて日常へ戻ること。記憶を一部、私たちの手で奪わせてもらいます。この場合、厚木くんは何一つ変わりなく今までと同じ暮らしを送ることが出来ます。……これに対するリスクは、初めにも言った通り。二度と昏闇を知ることは叶わなくなる、ということです」
 頷く。それはさっきも聞いた。
 こっちが頷いたのを見ると、芝崎さんはそれに続けて――ひどく冷静な顔のまま。
「もう一つは、その魔具とともに――ナイツに所属するということ」
 とんでもない発言を、おれに差し向けた。
「……は?」
 思わず口がぽかんと開く。
 驚きで息が止まる前に、あまりの突拍子のなさに一瞬思考が付いていかない。こっちの様子をまるで見ていないみたいに彼女は続ける。
「落ち着いて、と言うのは無理かもしれませんが……少しだけ聞いてください。私たちは魔具を探しています。ですが、魔具は独りでには戦いません。ナイツが昏闇に対して対抗できるのは、魔具を使用する猟人ハンターを擁しているからです。――魔具を持ちさえすれば、猟人になるのに資格は要りません。誰にでも意思と信念はあります。魔具は、それを形にするものですから」
 いやになるほど落ち着いた芝崎さんの声が流れていく。言葉の意味を解釈し始めて数秒して、おれは口を開けっ放しだったことに気付いて慌てて閉めた。いや、そのぐらい動転してる。――だってそうだろ? 助けられたと思ったら、正義の味方――かどうかは微妙だけど、そんな感じの連中にスカウトされてるってんだから。
「ですが」
 彼女は一旦切った言葉を、そう前置いて再開する。
「優れた猟人になるには、魔具との相性が問われます。そして誰がどの魔具とどれだけ結びつくことが出来るのかは、実際に使ってもらうまで見えてこないものです。そして――」
 おれの足元を指差し。
「厚木くんが、何も知らないまま繰り出したあの一撃は、平均的な相性の水準を遥かに越えているように、私には見えたんです」
 そこまで言って彼女は言葉を切る。一撃ってのは、あの前蹴りのことだろう。あの時はおれが一番驚いた。自分の足を砲弾と見間違うなんて、後にも先にも一度きりだろう。
 だから、おれを誘うって言うんだろうか。迷うように眼を向けると、芝崎さんは期待と不安を混ぜこぜにしたような目で、けれど酷く真摯におれに視線を注いでいた。
 ――確かにどこででも聞く話。少しでも多く腕のいい奴と素質のある奴が欲しいのは万国共通、企業だってスポーツチームだって同じことだ。ナイツだって、団体である以上少しでも個人の水準を上げたいのだろう。
 そう、理屈では判っている。けれどこんな話を聞いてそれをそのまま「はいそうですね」なんて受け入れることが出来る奴がいたなら、そいつは気が触れているか話の筋を全部見通してるかのどっちかだ。生憎、おれはその両方から遥かに遠い場所にいる。
「……だからって、そんな」
 がしがしと頭を掻いて言葉を濁した。零か一、二者択一、あまりにも極端な選択肢。そんなもの、すぐに答えを出せるわけがない。彼女の言ったこと全てを信じるとしても、提示されたどちらかを選んでどちらかを切り捨てるには全てが早すぎると思うのだ。
「無茶を言っているのは承知です」
 いささか申し訳なさそうに芝崎さんが目を伏せる。
「判っているんです。理不尽だって……そう思われているでしょう?」
「……ええ、そりゃ、まあ」
 自分でも自覚できるくらいに冴えない返事を返すと、彼女は少し俯いた。前髪が揺れて眼鏡の上に被り、表情を覆い隠す。
「あなたがもし一般人だったなら、私たちはあなたを助けた後、記憶を少しだけ削って、それきりだったでしょう。けれど、厚木くんは魔具を持っていた。ナイツも昏闇も、何ひとつ知らないままで。――いつか、私が、同じように……昏闇に出会ったときみたいに」
 過去に思いを馳せ、懐かしむような悲しむような、複雑な響きを持った言葉。
 彼女がそこに至るまでどういう経路を辿ったのかは、聞くことは憚られた。きっと一言二言では語りつくせないことだろうから。
 おれが言葉を探しているうちに、すっと視界の端で白いコートが揺れた。
 芝崎さんは音もなく立ち上がり、街灯の下に進む。彼女は優美にターンし、影を揺らしながらこちらを向いた。儚げな表情。眼鏡の向こう側で、栗色の瞳が揺れる。
 その様を、素直に綺麗だと思った。現実感のない姿は喩えるなら妖精のよう。それはまるで、夏の終わりに降り立った、季節外れの冬の精。ほんの僅かだけ、その姿に御伽噺おとぎばなしの挿絵を重ねた。
「……一週間後、私はもう一度あなたの前に来ます。私のときにも、同じ期間が与えられましたから、前例に倣うということで」
 ふと、細い足に纏いつくホワイトコートの裾が定位置に戻るか戻らないかのうちに、優しいアルトの声が響く。慌てておれはぼんやりとした思考を引き戻した。
 彼女はさらに続ける。
「ナイツに属する猟人は、昏闇が活性化する夜の間だけ、拘束を強いられます。それ以外では、ナイツは個々人の日常に関与しません」
 説明じみた台詞。おれが口を挟む間もない。
「どちらを取るのも、厚木くんの判断です。悔いのない選択をしてください。――それが、私から言える最後の言葉です」
 白いコートの裾をまるでドレスのようにふわりとはためかせ、彼女は夜道へと向き直る。
 そのまま何も言わなければ、彼女はそのまま闇の中に消えてしまうのだろう。なんとなく予想は付いた。彼女が一歩を踏み出すごとに、白い背中は一歩ずつ当然のように遠ざかっていく。
 どういうわけか――
 酷く、引き止めなければいけない気がした。
「芝崎さん」
 声は、自分の喉から出たものとは思えないくらいに掠れていた。けれどどうにか聞こえたらしくて、彼女は肩越しに振り返るだけではなく、わざわざ身体までこちらに向けなおしてくれた。
「なんでしょう」
 小首を傾げながら尋ねる相手に、呼び止めるほどの用は本当はなかった。もう一度振り返って欲しいと、ただ漠然とそう思っただけだったから。
 けれど口は、まるで他人のもののように勝手に動いて、気付けば質問を紡ぎだしていた。恐らくは最後になるであろう問いを。
「芝崎さんの選択は、後悔しないようなもんでしたか?」
 真っ直ぐに向けた問い。
 虚を突かれたように芝崎さんは目を丸くする。でもそれは本当に一瞬のこと、すぐに口元には微笑が戻った。細い人差し指を淡いピンクの唇に触れさせる。
「あなたが私を憶えていてくれるなら、いつかお話することもあると思いますよ」
 少しだけぎこちないウィンクをして彼女は身を翻した。
 おれの問いをはぐらかしたまま、街灯の光から逃げるように軽い足取りで夜の中へ歩く。
 そしてそのまま並木の狭間で、白いコートは闇の色に変わって失せた。まるで種も仕掛けもない手品のように。
 暫くの沈黙。
 夏の終わりの温い風は、変わらずおれの頬を撫でていく。
 証拠は何も残っていない。夢だと思い込もうとすれば出来たと思う。けれどそうするには、額の傷は熱かったし、彼女のコートは眩しすぎた。
「『私を憶えていてくれるなら』――」
 つまりそれは、おれがナイツとかいう団体に入ったら、ということなんだろう。
 この選択肢は全か零オール・オア・ナッシング。おれは拒否した瞬間に芝崎さんを忘れることになるのだ。
「……あー……」
 頭が、ごちゃごちゃだ。
 昨日とはまた違う思考の絡まり方。恐怖ではなくて不安、それに新しい世界が見えたときの胸の高鳴りが綯い交ぜになって、複雑に入り乱れていた。
「昏闇。ナイツ。魔具。バーンドチェイン。――芝崎光莉」
 口の中で呟けば呟くほど、目の前に見えた夜の世界への扉がきしむ。開け、開くな、と内なる自分が論争している。主張を声高に叫びあって、ずっと。
 その状態に終止符を打つために、おれはとりあえず日常に戻ってみることにした。
 携帯電話のスイッチを入れ、少しだけ待ってみよう。そうすれば――


 三分後。
 佳奈の五割り増しの怒鳴り声が、おれの耳を劈いた。
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