Nights.

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  They are......  

 生温い風が吹き抜けていく。
 夜、すっかり人通りも少なくなった頃。公園の水道を使って、額の傷口から血を流し去り、乱暴にハンカチを当てて止血した。
 あれから数分。おれ達は公園にいる。
 少し離れたベンチの上には、時期外れのオフホワイトのコートを着た女――芝崎さんが座っている。色素の薄いショートボブの髪。長い前髪を目に掛からないよう流して止めていた。出会ったときとは違い、今は眼鏡を掛けている。たぶん伊達眼鏡だと思う。見えない目じゃ銃は撃てないはずだ。
 おれがベンチまで歩いていくと、彼女は白い手のひらで、ぽんぽんと隣のスペースを叩く。
「少し長くなるかもしれませんから、座ってください」
 邪気の無い顔で言う彼女。断わる理由も無いので、まあ多少の遠慮を見せて少しスペースを空け、隣に座る。で、彼女の指示通り、懐から携帯電話を取り出し――不在着信がやっぱり入っている――電源を切って、耳に押し当てた。
 こちらの様子を見て、彼女は僅かに微笑んだように見えた。
「まず、質問があればそちらからどうぞ。答えられる限りは、答えます」
 正直言って訊きたい事だらけで逆に困る。それでも、最初に問う質問だけは決まっていた。
「さっきの、黒いの……何なんすか、あれ」
 陰影の無い影。シルエットに変動を起こして、ケモノのような形へと変化した黒い何か。
 鋭い爪を思い出して、殺されるところだったという事実が胸の中を過ぎる。ぶちまけられた赤い色を想像して吐き気がした。
「あれは、昏闇クラヤミといいます」
「暗闇?」
 問い返すと、眉を僅かに下げながら芝崎さんはベンチに細い指を走らせた。
「昏睡の昏、夜に訪れる闇。この二文字で、昏闇です」
 言うと、彼女は表情を引き締める。華奢な手を持ち上げ、眼鏡のフレームの位置を直してから、静かに語り始めた。
「彼らは人間の負の感情から生まれる概念的存在です。現象と言っても差し支えありません。彼らは、自分の肉体では晴らせない恨みを全うしようと、不定形のままこの世に現れます。……世間では幽霊、悪霊、悪魔、魔物だとかと呼ばれます」
 聞いた字面だけ見れば、笑っちまうくらい荒唐無稽な話だ。けれど、事実襲われたおれには、その小難しい説明を笑い飛ばすことなんて出来なかった。未だに体中の傷が痛んでいるのだから。
 おれが口を開くかどうか確かめながら――恐らくおれが口を開けば、話を聞いてくれるのだろう――彼女は話を続ける。
「彼らを突き動かすのは、人間の妄執や狂信、殺意や復讐心などです。元になった悪意が大きければ大きいほど、昏闇の能力は向上します。幽霊や悪霊と呼ばれるとおり、一般人には彼らの姿をはっきりと見る事は出来ません。ましてや、通常の方法では触れる事は不可能です。……ですが厄介な事に、昏闇は人間に対して実体的に触れる事が出来ます。先程、厚木くんが体験したように」
 跳ね飛ばされたときの骨のきしむ音が、未だに忘れられない。まるで乗用車に撥ねられたような感覚と、打撲の痛み。おれが身を震わせるのを見たのか見ないのか、彼女は目を伏せた。
「昏闇はどんな姿をもとります。攻撃に適した形態を取る事が多いですね。目的はたった一つ……何らかの手段によって獲物となる人間をいたぶり、または殺し――怨嗟の篭った血を啜り、絶望を宿した肉を食らうこと」
 芝崎さんの声には遣る瀬無い空気と、沈痛な響きだけがあった。怒りよりも、哀しみの強い顔だった。
「――そうして、人を殺し、飲み干し貪り尽くした分だけ、彼らは強くなるんです」
 言い切ると、少しの間の沈黙。ややあって、伏せていた目をようやくおれのほうへと戻し、申し訳なさげな顔をしたまま口を開いた。
「以上が、昏闇についての説明です。……恨まれるような事に、心当たりは?」
 そんなのは言うまでもない。昏闇が人の悪意から生まれるっていうなら、それがあの男の悪意でなくて何だというのだろう。答える前置きに溜息を置いて、口を開いた。
「……ええ、一つだけ。あー、追加で質問、いいっすか?」
 芝崎さんは緩く頷いた。これ幸いと質問を浴びせる。
「そのクラヤミってのは、人間の悪意が元になって出来るって話なんすけど……さっきみたいにクラヤミを殺すと、元になった人間はなんか、傷ついたりとか……するんですかね?」
 思い浮かぶのは、あの通り魔の姿だ。幾らナイフで襲われたって言っても、どうなっちまってもいいなんて到底思えない。
 その質問にきょとんとしたような顔をしてから、芝崎さんは微笑んだ。おれの問いの真意を汲んでくれたのかどうなのか、そのまま柔らかい声音で答えてくれる。優しいアルトの声。
「……いいえ。悪意が晴れるだけです。分離した昏闇を消滅させるというのは、蟠っていた悪意を取り除くのと同じ事ですから」
 優しいんですね、と呟くように付け加えてくる。
「……別に、後味悪いのが嫌いなだけっす」
 またも目線を逸らすおれ。どうも調子が出ない。頭を掻きながら次の質問を矢継ぎ早に繰り出す。
 照れ隠しっぽく見えるかと、一瞬だけ心配した。
「昏闇については大体判ったんすけど、それじゃあ次……普通の人間はあいつらに触れないって言いましたよね。なのに、おれはあれを蹴れた。しかも」
 視線を落とす。今はどうともなっちゃいないおれの脚。でも、あの時は確かに。
「脚が、燃えて」
 おれの言葉に、芝崎さんは僅かに顎を引いて考えるようにしてから、切り出した。
「そう、ですね。それはつまり、あなたに普通の人間とは確実に違う一点があったということです」
 勿体ぶった言い方に聞こえる。おれは悪いけど普通の人間だ。五メートルの高さを飛び上がったり、壁を走ったりなんて事は不可能だ。銃から光を出したりなんてもちろん出来ないし、ましてや撃って当てる事さえきっとままならないだろう。
「なんすか、それ。おれは悪いけど普通の人間っすよ。今だってその一言でがたがたに混乱してる」
 口をへの字に曲げて相手を見る。彼女はこちらを一瞥してから、咳払いをした。
「厚木くんが自分をどう思おうと、普通の人間の足は燃えませんし、闇を蹴る事も出来ません。今言ったように、あなたを含めた私たちと一般人の間には確実に違う点がある。……それは、魔具を持っているか否か、の差です」
「……マグ?」
 また耳慣れない言葉が出てきた。促すように芝崎さんを見ると、彼女はひとつ頷いて、続きを語り始める。
「私たちの意志を特定の属性に変換して、昏闇が存在するチャンネルに自分の物理状態を移行させる……つまりは人が昏闇を視認し、触れ、殲滅することを可能とするもの。それが魔具です。手っ取り早く言ってしまえば、私たちが昏闇を倒そうと思う意思をエネルギーに変えて、私たちを保護・強化してくれるもの……ですね」
 僅かにインターバルを挟んで言葉は続く。
「信仰の元に形成された聖遺物。作られてから長い時を経て、力を持った武具。初めから昏闇を殺すという意思の元に作られた道具。主な魔具といえば大体このうちのどれかです」
 これでも精一杯簡略化したんですが、とすまなさげに芝崎さんは眉を下げる。……いや、まあ、なんかすごいもんなんだって言うことはよく判ったけど。それなら尚更のこと、覚えがない。
「粗方は判ったっすけど、でもやっぱりおれ、そんなもんに心当たりなんてないっすよ?」
 大体、一介の高校生がそんな大層なものを持ってるわけがない。平時なら一笑に付しているところだ。今は場合が場合だから、そんなことは出来ないけれど。
 すると、芝崎さんは僅かに視線を落とした。
「繰り返しますが、持っているから蹴ることが出来たんですよ、厚木くん。何の備えもなしに闇に触れられる人間は、今の時代にはいません」
 そのまま、おれの足元を指差す。
「その靴紐が、あなたの魔具……恐らくは遺失番号ロストナンバーの五十九番、『灼けた鎖バーンドチェイン』です」
「……は?」
 唐突過ぎる一言に思考停止。
 今この人は何を言ったんだろう。
 三度ばかり、芝崎さんの顔と自分の足元を見比べる。十数秒の沈黙。
 いい加減居心地が悪くなったあたりで、恐る恐る訊いてみた。
「……新手のギャグっすか?」
「冗談に聞こえますか?」
 脊髄反射的な速度で返された。やや憮然としているが、彼女の真摯な表情は変わらない。この顔で冗談を飛ばせる奴がいたなら、今すぐ俳優になれるってものだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。魔具ってもっとこう、ちゃんとした武器とか、由緒あるなんかとかじゃないんすか?!」
 そりゃあ慌てもする。思い起こす昨日の朝、ケチの付き始めは切れた靴紐だった。あのかび臭い倉庫の中で適当に見繕った紐。それが、そんな価値のあるものだとどうして思うのか。
「つーかこれ家の倉庫で拾ったんすけど、それもハサミでちょん切っちまって靴に通して――」
「落ち着いてください」
 ぴ、と指を立て、芝崎さんはたしなめるように言う。その落ち着いた声に、ぐっと言葉を飲み込む。信じられないだとかありえないだとか、その手の言葉を引っ込めた。
 彼女は渋い顔をしながら続ける。
「……正直、さすがに私も認めるのには抵抗がありますが、事実のようです。ジーク……さっきの黒コートの人ですけど、彼も気付いていたようですから」
 ……あいつがおれの足元に目を止めたのは、そういう理由だったのか。
「私たちは、昏闇を倒せという命令と同時に、魔具を探すという使命をも帯びています。……ですから、遺失した魔具の中で記録の残っているものの特徴は一通り頭に入れているんです。……覚えている限りではそれは、バーンドチェインと呼ばれる、意思を炎に変換する魔具です」
 ……信じられない。ていうか、とんでもない。そりゃあの黒コートだってあんな顔するわけだ。
 自分のした所業を思い出して頭を抱える。呻きだって出ようもの。
 そんなご大層な魔具を、そうとは知らずとは言えどハサミでど真ん中からざっくり両断、断面をセロハンテープでまとめて靴紐代わりに使いつつ、ちゃんとした靴紐が見つかるまでのつなぎ扱い。もしまともな靴紐が見つかればその時点でゴミ箱行き確定とか考えて――頭が痛くなってきた。
 ごめんなさいこんなですけどお返しします帰っていいですか、とワンブレスで言いたい欲求が沸いてくるが、そう、まだ聞きたいことは残っている。
 昏闇とかいうものの正体は判った。悪意から生まれるお化けみたいなものらしい。普通の人間には触れない。おれがあれを蹴ることが出来たのは、魔具だとかいうありがたい道具のおかげで、どうやらこの靴紐はその魔具だってことらしい。
 そこまではいい。けど、気になることはそれだけじゃない。彼女は――芝崎さんは自分を幽霊と似たようなものと称した。加えて、さっきの言葉の中には『私たち』という複数形がある。あの黒コートもその中の一人なのだろう。
 だとするなら――昏闇を倒し、魔具を集めて、闇に解けるように消え失せる、彼女らは何者なのだろうか。
 その答えを聞くために、おれは帰宅宣言をする前に切り出した。
「……いや、魔具を真っ二つにしちまったことについては謝って足りるかどうかもわかんないんですけど……それは、ちょっと置いといて。聞きたいこと、まだもう一つあるんすよ。いいっすか?」
「ええ、勿論。肝心な質問が残っていますものね」
 幽かな微笑みは、質問を予見していたかのようだった。それなら遠慮なくと口を開く。
「どうも。そんじゃ率直に聞きますけど。芝崎さん達って、なんなんですか?」
 随分回り道をしたが、やっとこさこの質問に辿りつけた。
 最初に黒コートの男にはぐらかされてからもう大分経っている。ぶつけた問いに芝崎さんは目を閉じ、ややあって口を開いた。
「かつて、どれほど昔かはわかりませんが――恐らくは人が栄え始めた頃から、昏闇は存在していたのでしょう。感情の軋轢のあるところならばどこででも昏闇は発生しますから」
 まるで思い出すような調子で、彼女は声を連ねる。
「今でこそ魔法や秘儀は迷信としてファンタジーの中の存在に昇華していますが、その頃にはそれらは本当に信仰を収めていました。現実に対する認識レベルの差異ですね。今でこそ一般人には昏闇は見えないと言われていますが、昔……魔法と神が本当の意味で信仰されていた時代には、昏闇を視認できる人間がいたとされています。そして、その暴虐を止めようと立ち上がった者達がいたとも」
 そこまで言うと、ライトブラウンの髪を僅かに揺らして、芝崎さんは目を開いた。
 一拍置いて、おれを見据える。
聖堂騎士団テンプルナイツ――」
 呟くような声。テンプルナイツ――十二世紀初めごろだかにエルサレムの守護を目的にして結成された騎士団だったっけ。世界史の教科書の端っこに乗ってた覚えがある。……でも、それは非現実的だ。第一ここは日本で、ヨーロッパじゃない。
 口を挟もうとしたその時、続けるように彼女の声が響く。
「西方教会。陰陽寮。道教団。イアトロ派の錬金術師アルケミスト。数あまたの秘密結社イルミナティ――源流は挙げればキリがありません。それらの組織の中の本当に一部。暗闇の中に潜む昏闇に気付き、戦った人間たち」
 あまりにも真摯な目で、彼女は荒唐無稽なことを言う。信じられる訳のないような与太話。
 だけど、それでも。その言葉に疑いを持つことが出来ない。
「彼らは最初は少数でしたが、勢力を広げる昏闇に対抗するため、あらゆる術を用いて勢力を拡大し、そして団結しました。主義主張、教義の違い、そういったあらゆるしがらみを忘れ、昏闇を滅ぼすという一つの目的の元に」
 おれは疑うことをやめた。
 いよいよ頭のどこかがイカレたのかも知れない。でも、彼女の真摯さを信じないで耳を塞ぐのは、今は何よりやってはいけないことだとそう思えた。
「時代が変わった今も彼らは――いえ、私たち、、、は変わらず、世界のどこかで昏闇を殺しています。昏闇に対するべく、魔具によって己の心を具現化し、夜の闇の中を渡るんです。――そして、己の全てを尽くして昏闇を否定します。丁度、つい先程のように」
 想起するのは最後の一撃、光線のような領域。夜を引き裂き、昏闇を滅ぼした一条の光。それを放ったのは、紛れもなく目の前の彼女だということを今この瞬間に思い知らされる。
 眼鏡の下に見えるのは、決然としたものを感じさせる明茶の瞳。あの昏闇を討ったときの目に相違ない。オフホワイトのコートの裾を僅かに揺らして、純白の射手は厳かに言った。

「――そう。私たちは、『夜を往くものナイツ』。そう呼ばれています」
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