-Ex-

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  邂逅  

 車の中に乗り込んだ後の二十分間は、極北の凪ぎの日に勝る沈黙で埋まった。リューグは折れた刀の柄を握り締めたまま、座席に立てた右膝と左ドアの間に顔を沈めているし、助手席の金髪の男――ロン=シュバルツハルトと名乗った――は時折こちらをミラーで伺うだけで声を掛けてこようとはしなかった。運転手のサングラスをかけたSPらしき男は、私語とは無縁の存在に見える。
 加えてレンとかいう、ツンとした澄まし顔の赤髪の女は、意識を取り戻さないシキとともに別の車両に乗り込んでいった。だからこの車内にはしゃべる人間がいない。ザイルは気が乗れば饒舌なほうではあったが、その時の気分は言うまでもなく最低だった。口を開いたが最後、糞にも劣る罵りしか出てきそうになかったので、硬く食いしばった歯の奥に罵声を閉じ込めたまま、沈黙に耐えた。
 ……どん底だ。
 自分たちは弁解のしようのない敗北を蒙った。救いがあるとすれば、シキとリューグの命だけでも拾えたことだろう。あの後、レンはものの数秒でアーマノイドの廃部ハッチを溶断し、中からシキを救い出した。呼吸を確かめた後に、たいした感慨もなくあの女は言ったものだ。『運がいいわね』と。
 確かに、自分を含めた三人はまだ生きている。あの女の言うとおり、運がよかったのかもしれない。だが、あの戦いでアリカは死んだ。胸を刺し貫かれ、その肢体がくずおれるところを、ザイルははっきりとその目で見ていたのだ。
 人生の三割方を人を効率よく殺すことを考えて生きてきた殺人鬼には、あれが弁解しようのない死であることがよくわかる。たとえ貫かれた時点で生きていたとしても、生命活動は早晩停止するだろう。ショック、出血、血流停止、酸素欠乏、死につながる要素なら山ほどある。
 ――死因はよりどりみどり。どれが一番最初に来るかお楽しみ、ってところだ。
 ザイルは口を開かないまま、胸中で一人ごちた。出てくる皮肉も、聖職者の説法も真っ青のお寒さで、口を開かなくて正解だと改めて思う。
 シートに体を沈めて、少しだけ目を閉じた。殺人鬼と殺人狂と殺人姫が雁首揃えてぶちのめされ、たいした損害も与えられなかった。これは本当に現実だろうかと疑うたびに、体中の打撲と擦過傷が鈍く熱く痛覚を打つ。言い訳は出来なかった。
 窓の外を流れる凍京の町並みは、退廃的な闇に満ちている。濡れて染まった路面の黒々とした光がひどく陰鬱に見えた。目をそらすように車内に視線を戻せば、姿勢を変えないリューグの姿が目の端に映りこむ。背中を丸め、一言も口をきかず、ただ沈黙に身を浸している。いつもの飄々とした慇懃な物腰も、あの惨状に置き忘れてきてしまったようだった。
 ――堪えてるだろう。
 ザイルは脳裏で呟き、いまだ顔を上げない仲間へ目を向けた。はっきりと視線を送っても、彼がこちら向くことはない。ザイルが視線を向けているのになんて、見るまでもなく気付いているはずなのだ。
 なのに、彼はうつむいたまま何も言おうとしない。
 一目でわかる。リューグは、今も握り締めている柄だけの刀のように、へし折れた後だった。
 人間、誰にでも支えはある。殺人鬼や殺人狂だって例外じゃない。それが道徳的にすばらしいか、ろくでもないかの違いがあるだけだ。
 リューグにとっての支えは、その刀一本を武器に危ない橋を渡ってきたという矜持だろう。ザイルにも確かにプライドはあったが、リューグのそれと比べればその堅固さは及ぶべくもない。
 リューグにとってのプライドとは、刀に身を預ける自身に対する無鉄砲なまでの信頼と陶酔、そしてシキを庇護する一人であるという事実認識から成るものだとザイルは見ていた。こと刀を持ったときに、彼が何かに屈するところを見たことがない。
 何につけても柳のように、襲いくる風を受け流し、ぶつかってきたものを柔らかくいなすような物腰をしているのに、一度刀を持てばすべての理屈が彼の前から消え去る。目の前に立つ敵すべてを、すぐに斬れるか少しかかるかのどちらかでしか判断しなくなる。自分が斬れない敵など存在しないとリューグは固く信じていただろう。
 今までがそうだったから、これからもそうだと信じていた矢先に、この悪夢のような夜。リューグは自信と矜持を支えるものを、まとめて叩き壊されて沈黙した。言葉にすればただそれだけだが、単純なゆえに重過ぎる事実というものが、この世には往々にしてあるものだ。
 自分はどうだろうかと考えて、ザイルはふと手元に目を落とす。そこには握り締めたままだったボロボロの銃――捨てきれずに雨中拾い上げたデザートイーグル・レプリカ・インファイトカスタムがある。
 ……ナックルガードは砕け、銃身を固定するテイクダウン・ラッチがカタカタと微動する。グリップを持って振るたびに銃身もかすかに揺れるのは、きっとフレーム自体がわずかに歪んでいるせいだ。それは本当に些細に見えるけれど、取り返しのつかないひずみだった。
 銃は壊された。じゃあ、俺はいったいどうだろう。
 確かにリューグほど底の深い絶望には落ちていないが、ザイルもまた悔しさと無力感を覚えていた。鍛え上げて、命を縮める覚悟で神経を加速し、体のところどころを人工物に置換してまで手に入れた力――それさえもが、奴らの前では玩具のナイフと同じだった。嘲るそぶりもない、明るい殺戮領域マイの笑顔が胸のうちに浮かぶ。悪意がない分だけ、それは純粋な否定だったように思えた。
 あの目が、焼きついて離れない。
 無邪気に虫を殺す子供の目によく似ている。いまさら膝が笑っているのに気がついて、ザイルは目を閉じた。暗闇に視界を閉じ込める。その闇が暗澹とした心の暗がりそのものに感じられた。
 憎悪と、怒りと、無力感と、恐怖。その全てを煮詰めたら、きっとこんな淀んだ闇になるのだろう。ザイルはその闇に自問を浮かべた。
 ――俺は影に引きこもって、奴らの目に付かない程度に暴れて稼ぎながら、『上には上がいるものさ』と悟りきって生きていくことが出来るのだろうか。
 悟りきったフリをして、情けない顔で大言を吐き、脅威の影におびえながら過ごす自分を想像すれば、答えはすぐに出る。否だった。
 解りきった回答だ。全てを割り切れるほど達観してはいなかったし、奪われたものを奪われたままにしておかなかったから、自分はここでこうして生きている。決まりきった答えはしかし、暗澹とした心の水面に沈んでいく。
 自分がここでいくら、連中に膝を折らないと決めたところで、奴らは歯牙にもかけるまい。
 いまさら何を出来るというのだ。例えば今すぐ武器庫に取って返して、リューグにもっと大型の刀剣――高周波剣ソニックブレード灼断剣ヒートソードみたいなものを押し付けて、自分は戦車を相手にするような対物銃アンチ・マテリアル・ライフルを引っつかみ、並んでソリッドボウルの基地にカミカゼアタックをかけたとしよう。
 それが何になるというのだ?
 ザイルは見た。歩兵では絶対に扱えないような大口径のマシンガンと砲で武装した最新鋭のアーマノイドから、明らかにオーバーキルの攻撃を受けてそれでもなお立ち上がったブロンドの女を。それを見て、マイもあの青眼鏡の男も何も言わなかった。あの程度なら当然、、、、、、、、ということに他ならない。
 剣がもう一度へし折られるところが、銃がもう一度叩き潰されるところが、克明にイメージとして浮かぶだけだ。
 あの存在には届かないという絶望感だけがむなしく残る。泥沼のような諦念のぬかるみに足を取られ、憎悪だけがむなしく空回りする。
 思考が沼へ沈み込んでいくようだった。どんどん光が失せていって、最初に点した怒りの炎さえやがては掻き消える。ザイルが瞳を閉じたそのとき、車に緩やかな制動がかかった。エンジンが止まり、ライトがが消えて、照り返しの消えた車内の闇が濃くなる。
「到着だ。中で話をしよう。君たちの身体も冷えているだろうしね」
 振り返った金髪の男が言う。ザイルはのろのろと外に視線をやった。屋根つきのロータリーの下だ。まず目に入るのは豪奢なエントランス、そしてその横合いに鎮座しているロゴマークの刻まれた石碑。そのロゴには見覚えがあった。ソリッドボウルとこの東京を二分する大企業のひとつ。車の中からでは――否、このロータリーの中からでは、このビルの正確な高さを知ることは出来なかったが、きっと天を突くような高さだろうと思えた。
「ようこそ、メルトマテリアル本社ビルへ。歓迎しよう」
 男はにこやかに笑うと、車のドアを開けた。


 タオルと着替えを受け取ってシャワーを浴びる。近頃の企業というのは、思いのほか社員に優しいらしく、リラクゼーションのための設備が端々まで整っていた。シャワーなんぞは序の口、遊戯室や仮眠室に豪華な食堂などもあるようだった。利用するかと聞かれて否と答えたため、それらを見ることはなかったが。
 昨日まで自分たちが身につけていた服より大分ましな布地のシャツとスラックス――着替えをまとって人心地ついたところで、SPに案内されて応接室に向かった。リューグはやはり一切喋らず沈黙を守っている。シキはまだ医療室で処置を受けているらしい。
「こちらです」
 無駄な言葉を一切喋らないSPが、ドアを開けて室内へザイルたちをいざなう。導かれるままに室内に足を踏み入れると、瀟洒な内装が目に飛び込んできた。赤い絨毯に、一対の革張りのソファー、それに挟まれた樫の木のテーブル。重々しい光沢を放つ木造りのブックラックと執務机――それらが悪趣味にならずに、高級感もそのままにしっくりと収まっている。
 中には、三つの人影があった。ソファーの傍にたたずむ赤い髪を高い位置で結ったポニーテールの少女――レンと、先ほども案内のために手を尽くしてくれたくすんだ金髪の男――ソファーに座って足を組んでいる――ロン、そして見慣れない女がもう一人いた。窓際に佇んでいた女が、ゆっくりと振り返る。
 背の開いた簡素なドレスに身を包んだ、妙齢の美女だ。瞳は自ら光を放っているのかと思わせる鮮やかな翠緑、長く垂れる髪はプラチナブロンドの彩を見せる。絹糸のような光沢を放つ髪は、櫛を当ててもおそらく引っかからずに下まで難なく通せるだろう。柔和な笑みを口元にたたえ、彼女は口を開いた。
「こんばんは。レンたちから話は聞いているわ、ザイル=コルブラント君、リューグ=ムーンフリーク君」
「あんたは?」
 無反応なリューグに代わり、間髪いれずに応対する。ぞんざいな物言いにレンが露骨に表情を硬くするが、女はそれを手で制してソファーのほうへと歩み寄った。ロンがちらりと女に視線を投げてから、席をずれる。
 空いたスペースにゆっくりと、余裕を持った所作で座りながら、彼女は答えた。
「私はセレイア=アイオーン。セレイアと呼び捨ててくれて結構よ。この二人とほか数名の直近の上司をしているわ。――そして、貴方たちをここに呼ぶように言ったのも私。大筋は聞いているかしら?」
 リューグは相変わらず反応を示そうとしない。聞き役になるには自分はミスキャストだと思ったが、他の誰も話を進めてくれそうになかった。
 ザイルは目を細めて、ゆっくりと問い返す。
「話が見えてこねえ。こっちはたった今あんたと取り巻きの名前を聞いただけで、その他のことはなに一つだって知らされちゃいないんだぜ」
「……ロン? 道中での説明は?」
 レンが眦を吊り上げ、ロンに対して問いかける。若干刺々しいものの混ざる言葉に、しかし男は金髪を櫛で整えながらこともなげに答えた。
「あの車中でまとまった説明をしろというのは若干酷だよ。君もその場にいればわかってくれると思うがね。それに、今セレイアがきちんとした説明をするだろう。私はその補佐をすればいいと考えただけのことさ」
「悪びれずによくも……」
「レン」
 反省の見えないロンの態度に、レンがなおも言い募ろうとしたそのとき、プラチナブロンドを揺らしてセレイアが割り込んだ。ただ一言名を呼ばれただけなのに、レンの体が面白いように停止する。
 しぶしぶと黙り込んだレンに「あまり責めては駄目よ」と含み笑い混じりで告げると、セレイアは対面のソファを指差し、切り出した。
「とりあえずお座りなさいな。事の起こりから教えてあげるわ。ロン、自分で言ったのだから、きちんと私の話にフォローを頂戴ね」
「無論のことだよ」
 余裕ぶった笑みを浮かべる金髪の男と、裏で何を考えているか読めない微笑を浮かべた美女。異色の取り合わせを前に、ザイルはリューグを引きずるように歩いて、ソファーに腰掛けて足を組んだ。
「話の前に灰皿と煙草をくれ。あそこでドンパチやったきりお預けなんだ」
 精一杯ふてぶてしく見えるように言ったつもりだったが、目の前の二人の代わらぬ笑顔を見ている限り、それがうまくいっていたかどうかは疑問だった。ただ一人、レンだけは未だにソファーに座らないまま顰め面で視線を投げてきていたのだけれど。
「煙草を吸う年齢には見えないのだけれど。ロン? 持ち合わせがあるかしら?」
「メモリアル・パックのキャビンが一箱。吸えるかね?」
「銘柄にはこだわらない。惰性でラッキー・ストライクを吸ってるけどな」
「また古い銘柄を」
 ロンがテーブルの上にライターと煙草の箱を滑らせると、その横に添えるように灰皿が置かれた。華奢な手が引っ込んでいく先を見ると、レンが仏頂面でこちらを見下ろしている。
「……悪いな」
 一応、礼まがいの言葉をかけると、空色の瞳を細めてレンは口を開いた。
「ありがとうくらい素直に言えないの? ……それと、格好つけてるけど煙草、ちっとも似合ってない。無理して背伸びしたって、いいことないわよ」
 正面から叩きつけられる、罵声に等しい辛辣な言葉。助けてもらったとはいえ、いささか頭に血が上るのを抑えられない。
 ザイルが言い返そうとした矢先、柔らかなアルトが空気を揺らした。
「ごめんなさいね、ザイル君。レンは気にかけた人には大体冷たい態度をとるのよ。許してあげて頂戴」
「……ッ気にかけてなんていません! 適当なことを言わないでください、セレイアさん!」
 キッとセレイアのほうを向いてレンが口を開くのだが、その声にはザイルに向けた攻撃的な響きは欠片もない。
 ――レンを扱うんなら、この女を通したほうが楽だってことか。
 ザイルはつまらない人間観察の結果をもう一度反芻すると、一度深呼吸して煙草を一本つまみ出した。
「……別に気にしてねえ。それより、話を始めようぜ。いつもならリューグこいつが聞き役をやってくれるんだが、まだ彼岸のお花畑の向こうから帰ってきてないみたいなんでね。俺が代理で話を聞く。シキにも俺から言うよ。同じ話を繰り返すのは面倒だろ?」
 親指で、うつむいたリューグを示しながら言うと、セレイアはかすかに目を細めた。レンが横で罰の悪そうな顔をして立っているのを、その手を引いて自分の傍らに座らせながら、ゆっくりと切り出す。
「わかりました。それでは始めましょう。――そもそも、なぜ私たちが貴方たちをここに招き入れたのか、その背景から」
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