-Ex-
サイクロプス
一日に二度、死の危険を感じたことなんてなかった。
ザイルは、歪んだガードレールに沈みながら自分の状態を検分した。信じられないことにまだ生きているが、あちこち裂傷と打撲で、コートの中が汗だか血だかよくわからない液体でまみれているのを感じる。
致命的な負傷はない。しかし、勝敗は明らかだった。
「あれあれ、もうお終いっすか? 英雄は最後の一瞬まで諦めないもんですよー」
ゴシック・ロリータの少女が笑う。ザイルはその身体を見たが、彼女は傷のひとつさえ負っていなかった。――当たり前だ。銃弾が一発も当たらなかったのだから。
戦闘開始と同時に、ザイルはアサルトカービンの弾丸をフルオートで、しかも一発単位で照準補正を成しながら連射した。しかし、その銃弾は当たらなかった。呆れるほど簡単な現実だ。彼女はザイルが撃つ銃弾の一歩横を踊ってみせ、その全てを回避したのである。
ワンサイド・ゲームだった。
大人と子供ですらない、同じ領域にいない。ザイルが繰り出すあらゆる銃器が、銃口炎と共に吐き出される熱き死の嵐が、彼女の前ではそよ風と同じだった。アサルトカービンの銃身を叩き折られ、次に抜いた四丁の拳銃を立て続けに粉砕され、マシンガンは取り出す前に、コートの上から金槌で叩き潰された。
ふざけた話だ。
彼女は戦場にはとても似つかわしくない格好をして、マットシルバーの安っぽいきらめきを放つ一体成型の金槌を虚空から呼び出した。それがほんの数分前の話だ。ザイルはその時点では彼女を排除できると考えていた。やりようはあると。自分に比肩しうる速度を持った敵など、そうはいないと。
だがそれは間違いだった。彼女はトレーラーを大破させ、殺人鬼の武装を破壊し、そして今まさに彼自身を殺そうとしている。
ガナック=ジャードと戦った時はまだ、戦いようがあった。あの老兵は確かに強かったが、動くのが見えないわけでも、攻撃を避け切れないわけでもなかった。当たれば確かにひどいダメージを食らったが、それでも最後まで立っていたのは自分のほうだった。
しかし、こいつは違う。
百に届こうかという弾丸を放ってなお、この黒い悪魔を捉えることはできなかった。得たものは疲労感と、立ち上がるのも億劫なくらいの傷と、心に根を張った絶望感だけだ。
「……おまえは、一体、何だ」
ザイルは掠れた声で呟いた。殺人鬼と名乗り、そしてそう呼ばれてきた少年は、正体のわからない敵を畏れるように呟いた。
「だから名乗ったじゃないですか。私はただの殺戮領域。現象≠ンたいなもんです。私がここにたどり着いたということは、ここで殺戮が起きるということと同義なんっすよ。貴方はそれに巻き込まれた。しかも自分から進んで。泣き言はなしっすよ? 警告を無視したのはそっち、こうなったら私はただ殺すだけっすからね」
にこりと、殺戮領域――キリサキマイは笑った。
それは邪気のない、透き通った笑みだった。
「おにーさん、殺人鬼なんて名乗ってるらしいっすけど、生憎私、ヒトじゃないので……」
笑みに似合わぬ、重たげな金槌をくるりと手の先で弄び、雨粒を声で縫う。
「残念ですけどデッド・エンド。死ぬのはそっちの方みたいっすね」
ふざけるな。
ザイルは口の中で呟き、よろめきながら立ち上がる。腰につけた最後の拳銃、デザートイーグル・レプリカ・インファイトカスタムを引き抜いて、マイに向けて構えたとき――
口を開いたのは、ザイルでも彼女でもなかった。
「手間取っているようです。それとも、遊んでいるんですか?」
声が聞こえた。落ち着き払った敬語に、ザイルは一瞬リューグが来たのかと錯覚した。しかし、目をやってみればそこにいたのはリューグとは似つかない男だった。蒼いサングラスで目を隠し、白鞘の刀で武装した少年である。
「うーん、強いて言うなら後者っすね。もうちょっと粘るかと思ったんすけど、どうもこれ以上は叩いても何も出なさそうなんで、そろそろ殺そうかってところっす」
マイが石ころの処遇を決めるように軽い口調で言った。ザイルは自分の歯が軋む音を聞く。ふざけるな。もう一度呟き、デザートイーグルの安全装置を外した。微かな金属音が、少年と少女の意識をこちらに吸い寄せる。
「なるほど。やる気でいっぱいと言った調子ですね、お相手のほうも」
「そうなんっすよ。何丁壊されても、ああやって銃を抜くんです。諦めの悪さは一級品――」
ザイルは自分に出来る最速の速さで右の銃口を突き出し、銃声でマイの言葉を遮った。熱く焼けた.五〇口径の銃弾が嵐を引き裂き、真っ直ぐにマイへ迫る。しかしマイは、金槌一振りでその銃弾を弾いた。
ザイルは前進する。吼えながら、更に三発撃った。だがそのいずれもが、回避行動の前に無力と散る。一発が弾かれ、二発は虚空を貫いた。マイはステップして、ザイルの左に回り込む。
左に銃口を向け、照準する前にトリガーを引いた。だがその前に左手に衝撃、銃口が跳ね上げられて狙いが逸れる。マズルフラッシュが虚空を照らし上げた時、マイは既に懐にいた。
「それ、本気ですか? おにーさん」
小悪魔が笑ってハンマーを振るった瞬間、ザイルは今度こそ自分の身体がバラバラになってしまったのだと思った。身体が中央から千切れてしまったかと思うほどの衝撃が走り、後方へ吹っ飛ぶ。ガードレールを超えてビル壁に叩きつけられ、ずるずると沈んだ。
寄りかかったまま、ザイルは視線を手にやる。左手のデザートイーグルのナックルガードが、見るも無残にひしゃげていた。自分のプライドを形にしたみたいな有様だった。どうやらまだ生きているらしい。けれど、立ち上がることは今度こそ出来そうになかった。
「相変わらず凄い力ですね。プロレスラーに転向されては?」
サングラスの位置を正しながら、男が肩を竦めた。皮肉っぽい言に軽い口調でマイが言い返す。
「破天荒美少女なんでー。熊くらい持ってきてくれないと数秒も持たないっすよ?」
世間話のような調子だった。こいつらにとって、自分程度の敵はそれこそ、問題にならないレベルの障害なのだろう。
「一部を除いて同意します。――こちらは終わりました、もう一体のサイボーグの無力化はとっくに済んでいますよ」
ザイルはそれを聞いて、やはり自分の選んだ道は間違いだったと気付かされた。それを後悔するつもりはなかったが、しかし胸には苦いものが残る。奴が言っている言葉の意味を、改めて聞き返すまでもない。リューグまでもが敗けたのだ。
身体を少し動かすだけで、全身が壊れてしまいそうな痛みが走る。車に撥ねられたってこうはならない。脳味噌と手と足が繋がっていないみたいだった。
「……なんかムカつく発言を聞いた気がしますよー。ところでロッサねーさんが見えませんけど?」
「ロッサさんからは、僕が交戦したときにこちらに向かうと連絡がありました。彼女がここから一番遠いところにいましたからね……と」
男が耳元を押さえる。インカムに向かって二言三言喋りかけ、軽く頷いた。
「到着したようです。トレーラーをこれから荷解きするようですよ」
それを聞いて、ザイルは歯を砕けるほどに噛み締めた。シキが動いた気配はない。
――すぐに逃げろと言ったはずだ。
なのに彼は、この期に及んでまだ全員が助かる道でも探しているのだろうか。
「ターゲットとご対面、っすね。そこの人片付けて手伝ったほうがいいかなあ」
倒れたザイルを石ころほどにも気にせず、マイがハンドハンマーをお手玉する。ちらりと投げかけられた視線は、部屋の隅に転がる紙くずを見るようなものだった。
息を吸い込み、皮肉のひとつでも投げてやろうと思った。しかし動かない身体を無理に動かそうとしても、現実は何も変わらない。ザイルはビルの壁から背中を浮かせることも出来ず、ただ唇を噛むばかりだ。手負いの獣のような目でマイを睨むが、彼女は鼻で視線を笑い飛ばす。
全てが終わりに近づいていく。
――しかし、ザイルの諦念を壊すかのように、音は唐突に鳴り響いた。聞き覚えのある、マシンガンの爆音だった。
「君はちょっとわがままで、何かしら欠けていて、ものを大事にしない人だったよね。出会ったときからそうだった。僕が何をしても、最初は何も聞いてくれなかった。でもね、それは僕も同じだったんだ。
今だから言うけれど、初めは、君を利用するだけのつもりだった。
声をかけたのだってそのためさ。そんなサイバーウェアは見たことがなかったからね。絶対に戦力になると思った。下心が見えてたみたいに、君は一度僕を殺したけど――この因果な身体のおかげで、僕はキミの関心を誘うことに成功したんだったね。
大丈夫、大丈夫って、君を何度も励ました。その腕も、心も、僕が癒すって。利用するために、そんな嘘をついた。君がいればリューグと僕が生き残る可能性が上がる。そう信じて止まなかった。――ずっと嘘をつき続けるつもりだったよ。
でも、さ。
ちょっと難しかった。自分の心を騙すなんて、言葉にすれば簡単だけど、僕にはとても出来なかった。
君が、僕の傍でだけ笑うようになったからさ。すごく楽しそうに、綺麗な顔で。
それからは早いもんでさ。僕がつまらない冗談を言うたび、君は眠っている時からは想像できないくらい、はじけるように笑うようになった。――けど、いつもその笑顔がはかなく見えた。朽ちる事を知らないはずなのに、いつか崩れてしまう造花みたいだった。
君の身体は劣化していくばかりで、僕が幾ら手を尽くしても、崩壊を完全に止めることは出来なかった。けれど君は、シキに貰った命だよって、命を縮める戦いに飛び出していく。
傷ついた君の身体を、その度にずっと治してきた。
眠れない夜に震える君の事を抱きしめた。いつも傍にいた。君の事ばかり見るようになった。……リューグは肩身の狭い思いをしたかもしれないね。いつか機会があったら謝らないと。
君と会ってもう三年だ。初めに君にあげた糖衣にくるんだ嘘は、最初の半年で本物の甘い言葉になった。
……こんな事を話すのはね、許して欲しいからじゃないんだ。
最後かもしれないからさ。君にした最初で最後の隠し事も、ここに置いておこうと思ったんだよ。
僕はね、君に恋したときから、嘘を言わなくなった。
君がいたから、僕は僕になれた。
君や、リューグや――ザイルを、心から信じられる、そういう人間になれたと思う。
君が僕に殉じると謳ったように、僕は君に殉じよう。
行ってくるよ。
――君を愛してる、アリカ」
ロッサ=リエータはトレーラーのバックドアに手を掛けた瞬間、目の前のドアが内側から銃弾に突き破られるのを見た。
「――!」
まるで風に吹かれた暖簾のような軽さで、観音開きのドアの片割れがはじけるように吹っ飛ぶ。ロッサは弾丸を潜るように身を屈めながら爆発的なスピードで後退し、壊れたドアの奥に光る青い単眼を認めた。
「……ショウ、積荷を解くより前にガーディアンを倒さなきゃいけないらしいわ。まるで遺跡の宝箱よ」
ロッサは目を細めてインカムへと呟く。
『鬼でも出ましたか』
「ええ。鋼鉄製の一つ目鬼が」
軽い調子でインカムに向けて答える。その間に、壊れて用を成さなくなったドアのもう片方を銃身で押しのけ、巨躯がゆっくりと車内から這い出た。全高四メートルの威容は、背中に装着されたバックウェポン――大口径の火器の砲身と相俟って、剣呑さを隠すこともない。直線的な装甲が重なり合って生まれた、とげとげしいフォルム。装甲に覆われたマッシヴなフォルムが、それが兵器である事を強調している。巨人が地面に降り立ち、トレーラーが微かに身悶えた。
――装甲機人だ。
ソリッドボウル・インダストリー製、型式番号TT-4036。
「ソリッドボウルの製品と戦うことになるとは思わなかったわ。どこで手に入れたの?」
ロッサは細めた目もそのままに、巨体に向けて問いかけた。
返事より先にマシンガン――否、ガトリングガンの砲口が上がる。弾帯が横合いから伸び、腰部側面にあるタンクに繋がっていた。三連銃身を高速回転させて弾丸を乱射するタイプの火器――セレーネ・アライアンスジュノー¥\二・七ミリガトリングだ。流通しているアーマノイド用火器の中でも高価な部類に属する。あんなものをつけたアーマノイドを所持していれば、スラムでさぞ大きな顔を出来ることだろう。
『答える義務はない』
鋭い声が返ってきた。割れた硝子のような、冷たくて尖っていて脆い声だ。切なくなるほど悲壮な声音で、なのに殺意に満ちている。
『警告する。僕らの進路をこれ以上塞ぐな。去るならよし、そうでないなら』
「そうでないなら?」
『――撃滅する』
敵がスピーカー越しに呟いた瞬間、ロッサは自分の両横に気配が降り立つのを感じた。
「はろろーん、ロッサねーさん。手貸しましょうか?」
「大物相手です。独りでは少しばかり手間がかかるのでは?」
マイとショウが立っている。アーマノイドのモノアイが僅かに角度を変え、ショウとマイを視認したかに見えた。
「必要ないわ」
ロッサは一言呟くと、右手を伸ばす。その先端に燐光と共に現れるのは、彼女の武器、鞭であった。全長三メートルほどの、黒く光沢を放つ凶器である。具合を確かめるようにしならせ、一振り。音の壁が裂けてクラッカーのような破裂音が鳴る。
「このところ訓練ばかりだったもの。勘を取り戻すには、ちょうどいい運動よ」
「……わぉ。ロッサねーさん、スイッチ入ってるぅ」
「避難したほうがいいかもしれませんね。――ロッサさん、周囲の損壊は最低限でお願いします。処理班の仕事を増やすのは可哀相ですし」
ショウとマイが口々に言うのを聞いて、ロッサは左手でブロンドを掻き上げ、嫣然と笑った。
「善処するわね。それとマイの言ったように、なるべく離れていて頂戴。うっかり鞭の先が当たっても、責任は持てないわ?」
眼前には四メートル弱の巨体。相対するブロンドの女は、それをいささかも恐れていないかのように鞭を弄ぶ。
「ロッサ」
『……?』
「ロッサ=リエータ……私の名前よ。よく刻みなさい、貴方を打ちのめす者の名前を」
頭上で鞭を軽く勢いをつけて回す。いかなる原理か、破裂音が立て続けに響いて渦を捲いた。空気を引き裂く鞭を地面に叩きつけたその瞬間、アスファルトが衝撃に耐えかねたようにまくれ上がった。冗談のように、固いはずの地面に三メートルの亀裂が生まれる。
「――さあ、愉しみましょう?」
『そんな暇はない。……僕の前から、いなくなれ!!』
少年の叫びと同時に、ロッサが身構え、ショウとマイが後方へと離脱する。
戦闘が始まった。
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