-Ex-

| | index

  悪魔と人間  

 リューグは、感じた事のない不安感に身を凍らせた。暗がりの中で崖を歩くような、薄氷の湖を爪先で歩くような。感覚の正体をつかめないままに更に三合、空中のままで攻撃を受けた。敵の攻撃の速さに目が慣れてこない。いつもの自分のペースが作れず、飲みこまれるように敵の乱打を受け続けるしかなかった。――地面が近づく。着地の事を考えた一瞬、突き出された鞘を受け流しそこねた。
「がッ!!」
 自分の喉から迸った呻きを、リューグはどこか遠い意識で聞いた。チタン製の胸骨が軋む。一瞬、全ての景色が白く染まったような気がした。ホワイトアウトしそうな意識を繋ぎとめて、懸命に姿勢を制御する。
 吹っ飛ばされながらも、寸でのところで足から着地し、転がって受身をとった。地面を叩いた左手も、着地した踵も、曲げた膝も、何もかもが痛い。確かに地面に叩きつけられることだけは免れた。だが、状態は最悪だ。打たれた胸の中央に炎の塊があるようだった。呼吸がまともに出来ず、全身から脂汗が吹き出る。
 膝をつくリューグから、直線距離で十メートル。アイザワショウはゆっくりとビル壁を歩き降りて、やがて本当の地面に足を下ろした。まるで彼に合わせて重力の作用方向が切り替わったかのように、自然に。
「頑丈なんだね。民間で改造を受けたにしては、すごくタフだ」
 男は冷静な声で言った。右手に刀、左手に鞘、あの戦闘スタイルは自分と同じだ。全く同じはずなのに、彼の速度に追いつけない。リューグは刀を握り締めた。しかし、刀から伝わってくるはずの振動が、今はない。
 目をやるとヴァイブロブレードが動きを止めていた。それが電装系の異常からなのか、はたまた歪んだ刀身が振動を妨げているのか、機構そのものが破損しているのか、リューグには判断がつかなかった。ただひとつ明らかなのは、これ以上戦闘を続けても、恐らく自分は目の前の男に勝てないであろうということだけだった。
 理性が撤退を叫ぶ。しかし、今後ろに退けば、アリカとシキを見殺しにすることになる。それに――リューグには聞こえていた。銃声だ。アサルトカービンの甲高い咆哮が、逆巻く風を引き裂いて、こちらまで届いていた。
 ザイルが戦っている。たかだか数週間前に知り合っただけの男が今、自分の友を守るために戦っている。立ち上がらずして何が刀か。リューグは、ソニック・シフトも出来なくなった刀を杖に、ゆっくりと立ち上がった。
 ショウが驚いたように立ち止まり、肩を竦める。
「……驚いた。実力差、わかったと思ったんだけど。まだ退く気にならない?」
「言ったはずです。現実を教えて差し上げましょう、と」
 リューグは微笑の仮面をかぶり、身体が負ったあらゆるダメージを意識の外に追い出した。敵の首に刃が届くまででいい、この身体が百パーセントの力で動いてくれる事を願う。掠れる呼吸音を押し殺し、運動に必要なだけの酸素を身体に取り入れる。
 リューグは刀を敵に向けた。刃毀れだらけで今にも折れそうな刀を、ただ真っ直ぐに。
「まったく、無鉄砲だなあ。もう少し冷静に計算が出来るタイプかと思ったけど、見込み違いか」
 ショウが緊張感も薄く、鞘を持った左手で頬を掻く。そうしてからひとつ嘆息し、諦めたようにゆっくりと構えを取った。刀を右の順手に、鞘を左の逆手に。足は肩幅に取り、左を前足にしてやや前傾する。刀と鞘は緩く交差するような位置をとっている。肩の力が抜けた自然な構えだ。
「……もう少しだけ遊んであげよう。君の諦めがつくまでね」
 敵の刀の切っ先が招くように揺れる。
 それを合図にしたように、リューグは声もなく飛び込んだ。
 七メートルの距離が、視界の中で集中線を描いて後方へ吹き飛ぶ。一メートル弱の距離、刀の間合いに入った瞬間に一刀を繰り出した。袈裟切りの一撃が鞘に流される。すかさず反撃の上段一閃が来た。リューグは流された刀の勢いに逆らわず刀身を逸らし、反転させた柄尻で敵の一撃を滑らせる。僅かに狂った刀の軌道、生きるための間隙に身を滑り込ませながら、刀を再び胴薙ぎに繰り出す。敵は鞘をくるりと回し、その一撃を受け止める。
 刹那の間、視線が絡んだ。それは小数点以下の世界で生きるサイボーグたちの、どうしようもない相互確認だった。
 地に落ちる雨の音に追いつけとばかり、剣戟が加速する。上段、逆袈裟、逆胴、胴薙ぎ、下段と小手と喉への突き、ありとあらゆる業を用いてリューグは打ちかかる。ショウはそれを、鞘と刀のいびつな二刀流で華麗に防ぎ、そして時たま思い出したように反撃を混ぜてくる。
 ――もっと速く。
 心が叫びを上げる。自分の牙を奴に突きたてろと本能がわめく。
 ほとんど一瞬の剣戟は、合わせて三十五合に達する。その全ての打ち込みを防いだ男が、七度目の反撃を繰り出した瞬間に、リューグはほんの僅かに身を沈めた。喉狙いの突きを米粒ひとつほどの隙間を空けて回避する。微かな動揺が空気を伝わってきた。リューグの回避行動は、それほどまでに完璧だった。
 千切れた前髪が落下軌道に入るよりも早く、低く構えた刃を身体の捻りと完全に同期させて敵の胴へと振りぬく。
 ショウが鞘を上げる。火花と共に、リューグの剣はそのガードを弾き飛ばした。ショウの体が揺らぐ。
 自分の体力が、刀の刃毀れが、軋みを上げる骨と筋肉が、この瞬間が最後の好機だと叫んでいる。リューグは炭素繊維製の筋肉が千切れる音を聞きながら、全力で刀を突き出した。顎から入って脳天へ抜けるコースを辿る右の片手突きである。恐らくは今まで生きてきた中で、最も鋭く疾い一撃だった。

 しかし、砕けた。
「――な」
 砕けていた。

 リューグが持つ刀が、百の砕片となって嵐の夜闇に溶ける。その手に持って突き出したはずの刀は、半ばから欠損していた。柄から果物ナイフほどの長さだけ、刃が残っている。
 目の前の男は生きていた。リューグが殺したと確信したにもかかわらず、彼は刀を振り切った姿勢で、砕けた刃を見下ろしていた。その右手には、僅かも綻びをも見せない業物がある。
「……惜しいな。うちの会社が君を先に見つけたら、きっと君の方を放っておかなかっただろうに」
 呟くと同時、ショウは刀の刃を返すと、峰をリューグに見せ付けるように振るった。そのまま瞬撃三閃、刃を砕かれた驚愕に凍るリューグの胴と手を打ちのめす。
 声にならない声がこぼれる。続けざまに白塗りの鞘が繰り出された。鳩尾をしたたかに打ち抜かれ、リューグは後方へ吹っ飛ぶ。雨の中を無様に転がり、臥した姿勢で止まる。
 何が起きたのか、理解できなかった。
 ただ確かなのは、最初とはまるで構図が逆になったことだけだ。
 倒れたままではいけないと思う心だけで、リューグはアスファルトを掻き毟る。酸素を求めているのに息が吸えない。涙が滲むたびに雨に押し流されていく。左手で地面を押し、片膝を立て、ひどく緩慢に顔を上げた。
 七メートルの距離を挟み、ショウは刀を肩に担って静止していた。リューグは自分の手が微かに震えているのに気がついた。立ち上がる事を拒むように、足もまた震える。全身を席巻する苦痛と、刀をまともに握れないほどに震える手が、リューグに戦うのをやめろと叫んでいた。
 この薄汚れたスラムで生きるようになってから、殺し合いで負けたことがなかった。今の今まで生きてこれたというのは突き詰めればそういうことだ。対峙したものは全て殺し、糧となるものを奪い去る。かつて荒野にあったような弱肉強食の原則が、この息苦しいコンクリートの街でも通用するのだ。
 父と母に捨てられ、一人でこの街を生き抜くことになってから、自分は本当に何でもやった。小さなパンを奪い合って、自分と同じ年頃の少年を殺したのが初の殺人だったように思う。あのとき、鉄の味のするパンを飲み込んだあの瞬間から、自分はどこかのネジを落として、何をも恐れなくなったのだと思い込んでいた。
 だが、この震えは何だ。
 規格外の存在を相手にしているような、途方もない圧力が目の前にある。あの男は、速度でも力でも武器の性能でさえも、何もかもこちらの上を行っている。
 敵の蒼いサングラスが街灯を照り返して光る。水音ひとつ、雨を踏み、ショウはゆるりと歩きだした。
 その姿に、隙を見出すことが出来ない。
「僕の任務には、君の抹消というのは含まれていない。だから、そのまま動かないなら僕は君を看過するつもりだ。ご大層な仇名を頂いているけど、殺しはあんまり好きじゃなくてね」
 ――ショウが一歩、また一歩と近づく。あるいは、リューグの横を通り抜けようとしているのか。リューグは歯を食いしばり、立ち上がろうとした。しかしそれよりも先にショウが立ち止まり、刀の切っ先をリューグに向ける。
「ただ、これだけは言っておくよ」
 距離四メートル、刃の長さでは届かぬ間合いだ。なのに、リューグにはその刀が、自分の首筋にあるもののように感じられた。届くわけのない距離にある刃は、しかし現実感のある『死』として、リアルにリューグに迫ってくる。
 ショウが、声のトーンを落とした。
「向かってくる敵には、僕は容赦はしない。神であろうと悪魔だろうと、全てを等しく斬殺する。そうすることが味方を生かすと知っているからね。だから」
 その瞬間、男の顔から一切の感情が抜け落ちる。
 黒い刀が、雨霧を弾いて街灯に光った。氷のような声で、殺人凶は宣告する。
「もう動くな。斬るぞ」
 笑みも慈悲も怒りも、何もない。ただ、ショウは目の前に現れた障害の状態を検分するエンジニアの目をしていた。リューグ=ムーンフリークという瑣末なエラーを、どのくらいの時間で排除デバッグできるかということしか考えていないような眼を、していた。蒼いサングラスの向こう側で、男の目がぼんやりと赤く光っているように見える。その不気味な光景は、容易に化生を連想させた。
 バケモノだ。自分は悪魔などではなかった。
 悪魔とは、きっと目の前にいる、こういう男の事をいうのだ。
 ソニック・シフトもしていないのに、砕けた刀が振動してカチャカチャと音を立てる。それが自分の震えによるものだと感じた瞬間、リューグは自分が人生で始めて敗北したのだと悟った。雨が降り注ぐ中、音も無く、横を気配が通り過ぎていく。顔を上げられなかった。
 ――これの、
 これの何処が刀か。
 武器を砕かれ、敵に屈し、砕けた武器を見下ろしながら、自分を負かした敵を睨むこともできず、ただ雨の飛沫を浴びている。合戦場に突き立つ壊れた武器のほうがまだ潔い。
 冷たい雨に濡れる地面に、手をつく。今にも燃え上がりそうな熱を持った身体が嵐に冷まされていくのを感じながら、リューグは声のない慟哭をあげた。
 吹き荒れる嵐の中。
 銃声が、聞こえない。
| | index
Copyright (c) 2008 TAKA All rights reserved.