-Ex-

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  Fang  

 ──ビルの中で喧嘩をするということは、ビルの中の秩序を乱しているということであり、即ち、メルトマテリアル側にとって不利益なことをしているということだ。しかし、あの状態からそれを考えながら喧嘩が出来るほど、少年たちの自制心は優秀ではなかった。
 ジェノ=バーニスが右腕の可変電圧放散機バリアント・ボルトにスイッチを入れたその数秒後、場は再びどよめきに包まれた。リューグはジェノが振り下ろす棍棒をするりとくぐり抜け、その鼻先に掌底を叩き込んだのである。
「鈍い」
 ザイルの耳には、鼻骨が潰れる音と酷薄な声だけが残っている。果たして、鼻先に続いて鳩尾と肝臓と心臓へ叩き込まれた衝撃で、巨漢は物も言えずに地に膝を突いた。素手の格闘戦でこの男に勝とうとするほど愚かなことはない。
 ほとんどジェノと同時に踏み出していた少年──ロブと呼ばれていた──が驚愕の表情を浮かべる。そしてその動揺は、ザイルにとって十分すぎる隙だった。爪を恐れず、ザイルは地面を蹴って前に進み出る。慌てたようにロブが右手を突き出すが、遅い。繰り出されたストレートパンチの下に潜り込み、ザイルは地面を踏みならすと同時、肘を胴に向けて叩き込んだ。つい先日、リューグに叩き込まれた一撃の模倣である。小柄な身体が海老さながらに曲がって浮かび、背中から落ちた。重い音が響く。
 呆れるほどの短時間で人間が二人地に伏す。ザイルは手をぶらぶらさせながら、肩を竦めた。
「おい、終わりか? 立てよ。俺たちをチキン呼ばわりしたんなら、少しはガッツのあるところを見せやがれ」
「てッ……めえ」
 うそぶくザイルの声に、地に響くような声で答えるのはジェノだ。顔面は蒼白で脂汗にまみれている。
「四打受けて立ち上がる分、タフさはあなたより上のようですが」
「言ってろ」
 リューグの茶々に舌を出して吐き捨てると、ザイルは倒れたまま起きあがらないロブから眼を背け、ふらふらと立ち上がりつつあるジェノの方へ向き直った。
 こちらを睨む巨漢の目は、怒りと屈辱と、怯えと痛みで、攪拌されたようにゆがんで光っている。
 ザイルは自分の手に銃がないことを、ひどく惜しく感じた。
「別に謝れとは言わねえよ。ただもう少し殴らせろ。あっちのチビはもう寝込んじまったんでね」
 ザイルは静かな怒りを数えるように左手の指を折り曲げ、拳を形作る。リューグが無言でシキの方へと退いた。単独で相対する形になる。相手の巨体を真っ向から視界に納めたとき、ばぢ、と電流の爆ぜる音が聞こえた。
「殺す。テメェも、そこのニヤけた野郎も、奥に引っ込んでる腰抜けも」
 ジェノの右腕が、性懲りもなくスパークを帯びた。もはやあたりの観衆に騒ぎ立てる者はない。真実味を帯びたジェノの言葉に、あのスピーカーのように喧しかった女さえもが押し黙る。
 ひときわ高く巨漢の右手がスパークを上げたとき、彼は棍棒を低く構えて吠えた。
「ブッ殺してやるァァァァ!!」
 ジェノの絶叫じみた怨嗟の声が、食堂を端まで揺さぶった瞬間、彼は弾丸のようにザイルへ向けて突っ込んだ。
 ザイルは敵の動作を読むために前方に意識を集中し──
 そして、凍えたように動きを止めた。
 重圧を感じたのだ。それは、目の前の巨漢から発されたものではない。もっと圧倒的で、抗しがたいプレッシャーだ。
 昨日感じたものに、よく似ている。
「死ねェア!!」
 ザイルが動きを止めたその隙をもぎ取るように、ジェノが踏み込みからの一撃を降り下ろす。
 しかしザイルの目は、男の一撃など既に見てはいなかった。
点火イグニッション=v
 ただ唐突に、眼前に発生、、した黒髪の少女の背中を追うしかなかったのである。
 少女がジーンズのポケットから手を抜く。 たったそれだけの動きで、空気が裂けた。棍棒を降り下ろすような鈍い風切り音ではなく、まるでナイフを投擲したときのような細い擦過音。
 次の瞬間、風船を幾つも一斉に叩き割ったような甲高い破裂音が響く。
 その場の誰もが絶句した。何が起こったか悟ったのは、その技を一度見たことがあるザイル程度のものだったろう。
 破裂音の残響が行き過ぎ、巨漢が仰け反った。手から棍棒がこぼれ落ちていく。その時には、少女は何もしていなかったような顔をしてポケットに手を戻していた。
 ジェノは踏みとどまろうとするが、震える膝がそれを許さない。よろよろと二歩後退した後、崩れ落ちるように仰向けに倒れた。
「あんたらが喧嘩すんのは勝手だけど、せめてあたしたちの目の届かないところでやってほしいもんね。折角のご飯が冷めるでしょうが」
 少女は溜息混じりで口を開いた。
 ロングの黒髪がさらりとなびく。ポケットから出した右手をぶらぶらと振るその姿に、ザイルは見覚えがあった。
「おまえ──」
 白いバンダナを頭に巻き締め、ラフなダメージジーンズとタンクトップを纏った、健康的な色香を持つ少女だった。
 ザイルの脳裏に、一つの名前が閃く。
 確かにあの時と格好は異なる。しかし、辺り構わず自信を振りまくような勝ち気な笑みと、一撃でジェノを易々と沈めた高威力の打撃は唯一無二。見間違いようのない要素だった。
「おまえ、じゃないでしょうが。あんたはあたしの名前を知ってんだから、そっちで呼びなさいよ」
 くるりと振り向くと、目にかかる前髪を払いのけながら、彼女──春哉空ハルヤ・ソラは唇を尖らせた。
「勘がいいみたいね。突っ込まなかったのだけは誉めたげる。未だに後ろのに気付かない鈍さには泣けてくるけど」
 後ろの、と言われ、ザイルは振り向く前に、諦めたように右方に視線を投げた。
 シキは強ばった顔で、リューグは引き攣る手前の微笑で、そろってザイルの背後へと指鉄砲を差し向ける。
 ザイルは二秒の逡巡の後、ゆっくりと背後を振り返った。
 目と鼻の先に、刀の切っ先があった。
「──」
 ザイルは言葉を飲み込んで息を止める。そうでもしないと間抜けな声を上げそうだった。刀の先端から辿るように視線をずらす。
 一人の男がいた。
 岩の塊、という表現は決して行き過ぎではあるまいとザイルは思う。古代の石像が刀を持って動き出したのだと言い含められたら、誰もが信じるに違いない。
 赤銅色の髪の毛をざんばらに伸ばしていた。修験者のような輝きをたたえた同色の瞳は、鋭いまなじりに縁取られている。がっしりと太い首に、ごつい顎。街で会えば、目を合わせる者などいないと思わせる凶相である。
 背は決して高いというほどではなく、大きく見積もっても百七十センチの後半といったところだ。しかして、身につけた和風の衣服きながしの襟元から覗く胸板は厚く、精悍な顔と相俟って一つの単語を連想させる。
 ──即ち、『野武士ストリート・サムライ』。
 ザイルが振り向いたその瞬間から、滲み出るように男の気配が明確になる。本来のものであろう、息苦しくなるようなプレッシャーがザイルを飲み込んだ。
「……嶽蔵巌真タケクラ・ガンマ
 外野から声。リューグのものだ。
「左様。また会ったな、殺人狂リューグ=ムーンフリーク
 男はリューグを一瞥すると、刀を引き、古錆びた声で言った。古刀が物を言うとしたら、そのような声に相違ない。
「気付かなかったとは言え、止まったのは賢明な判断だったぞ。一歩前に出れば、首を打つつもりだったからな」
 峰でだが、と付け加える男。ザイルは肩を竦め、それでも死にそうだ、と内心で嘯いた。
「……そいつはどうも」
 今更ながらに、あの一瞬の重圧の正体を悟る。周りが奇妙な沈黙とともに見守る中、ザイルは溜息混じりに口を開いた。
「単刀直入に聞くが、喧嘩がバレるとどうなるんだ?」
 背後で刀を納める音がする。
 皮肉で飾ったザイルの声を、ソラは鼻で笑った。
「廊下に立たされるだけじゃすまないのは確かよねー」
 目を細め、形のいい顎を入り口に向けてしゃくる。その方向に目を向けて、ザイルはサバンナのど真ん中でエンジントラブルに見舞われた探検家のような顔をした。
「諦めろ。規律違反には罰が必要で、彼女はその執行者だ」
 ではな、と一言残し、背中から気配が離れていく。
「ちょっとガンマ! このノびてる連中、アタシに一人で運ばせる気?」
「この間お前が引きずったアーマノイドよりは、大分軽かろうよ」
 去る気配が足を止める気配はなく、目の前で少女がむっとした顔をしてその気配の方を睨んでいる。
 しかしザイルの意識は既に、彼らのやりとりから離れていた。
 入り口の方から、一直線に近づいてくる緋色の髪の女の姿がある。柳眉を逆立てるどころの話ではない。去った背後の気配と今の彼女、どちらを相手取ると聞かれたら、ザイルは迷わず答えるだろう。あのガンマとか言う顔の怖い男を連れてこいと。
「久々よ、レンをあんだけ尖らせる奴って。あたしは面白いから、あんたたちみたいなの好きだけどね」
 言葉の通り楽しげにソラは笑う。
「……その台詞が嘘じゃないなら、弁護を頼まれて貰いたいんだが」
「それとこれとは話が別。大抵のものは怖くないけど、怒ったときのレンだけは敵に回したくないのよね。お気の毒様ー」
 笑顔で救いのロープを断ち切るような台詞を吐く。他人事だと思いやがって、と毒づく間さえない。レンはもう、人垣の端を割り始めていた。慄いたように数人が足を引けば、瞬く間に彼女の道ができる。
「ま、殺されるわけじゃないし、観念しなよ」
 無体な台詞を吐き、ソラは地面に転がった巨漢の襟首をつかんで、軽々と持ち上げた。絶句する周囲の視線を浴びながら歩き出す。
 背丈の差で余った足を引きずってはいるものの、足取りに乱れはない。歩む途中でロブの小柄な身体を、まるで携帯電話を拾うような気軽さでつまみ上げると、そのまま左肩に背負う。異常な構図だ。
「はーい、急行説教部屋行きー」
「待って、空。もう一人いるわ」
 ふざけた口調で言いながら足取り軽く去ろうとするソラを、足取りを緩めたレンが呼び止める。
「もう一人?」
「そこの貴女、隠れても無駄よ」
 レンは鋭い目を人いきれの中に向けた。ほぼ同時に、ごみごみとした人垣の中で小さな肩が跳ねる。注視すると、先ほどまでジェノの横ではしゃいでいた甲高い声の少女が人混みに身を隠そうとしていた。
 レンの視線から逃げるように、少女の周りの人間が身を引く。取り残されたように、彼女は一人で立ち尽くした。
 声はない。元々血色の悪かった顔が、今や蒼白だ。シキを笑っていたときの余裕を、どこかで落としてきてしまったようだった。
 ──自然なことだ。
 今のレンに対して抗うくらいなら、虎と同じ檻に入れられた方がいくらかマシだと、ザイルでさえ感じる。
「トライアル十三位通過、ジェノ=バーニス、ロブ=セネル、シーバ=アンフォート。監察者権限で以上三名を連行します。素直に答えるなら事情聴取と厳重注意で済むでしょう。ただ、そうでない場合の安全保障はしかねます。部屋から五体満足に出てこられるよう、努力なさい」
 レンの言葉を聞くまま、へたり込んだ少女の顔は、蒼白を通り越して最早土気色だった。それをよそに、ソラがげんなりとした表情を浮かべる。
「レン、もしかしてあんた、またやってる、、、、、、わけ?」
 問いかけの言葉に、レンは一秒の迷いも差し挟まず答える。
「彼らの監督はセレイアさんに任された大事な仕事だから。データを頭に入れておくのは当然のこと」
「全く見上げた根性よね。あたしにゃー真似できない話だわ」
 ソラが胸焼けを起こしたような表情を見せるのをよそに、レンは涼しげな表情のまま言った。
「その分、得意な領域で活躍してもらうわよ。さあ、彼女を連れていって」
「はいはい。……ほら、聞こえてなかったわけじゃないっしょ? 立ちなよ」
 大の男二人を抱えたまま、ソラが起立を促す。少女は諦めたような表情で立ち上がり、黒髪の流れるその背中に従った。
「じゃあね、ザイル。また曲が聴けるのを楽しみにしてるよ」
 最後に肩越しに振り返り、ソラは歯を見せて笑った。まるで悪戯小僧だなと肩を竦めていると、突き刺さるような視線が横合いから注がれていることに気がついた。
 振り向きたくないながらも、振り向かざるを得ないというこの実状。
 重圧に負けたザイルがゆっくりと顔を向けた先には、底冷えのする眼をしたレンが仁王立ちしている。
 ──ああ、こいつは怒髪天だ。
 連れてこられて一日足らずで騒ぎを起こしたとあれば、この年若い少女の風紀精神が刺激されないわけがない。
「ザイル=コルブラント、リューグ=ムーンフリーク、シキ=ハセガワ。以上三名にも同等の措置をとらせてもらいます。黙って私についてきなさい」
「嫌だと言ったら?」
「首が縦に振れるようになるまで焼くだけよ」
 レンが左目をつぶる。刹那、右目がスカイブルーの光を捨て、琥珀に輝いた。瞳孔が爬虫類のそれのようにひび割れる異様は、何度見ようとも慣れるものではない。
 マイを遠距離から発火させた、あの瞳だ。
「僕らの負けのようです、ザイル。……何も私欲のために喧嘩をしたわけではないのですから、胸を張っていればいいのですよ」
 背後から平静な声が聞こえる。肩に置かれる手は、先ほどまでジェノをさんざんに叩きのめしていた手だ。
「……リューグもザイルも、僕を守っただけなんだ。僕がありのままを語れば、きっと向こうだってわかってくれる」
 シキが苦さを噛み殺すようにゆがめた唇の間から、言葉を絞った。
「従うよ、ミズ=ササハラ。だからその眼をやめてくれないか。事情なら話せる限り、きちんと話すからさ」
「そう願いたいわね、ミスタ・ハセガワ。私たちは客観的に状況を判断します。主観的な情が通じると思わない方がいいわ」
かてェ女」
 思わずザイルが挟んだ一言に、ぎろりと視線が向かう。
「誰のせいで私の休息が先延ばしになったか、よくわきまえて物を言うことね」
 年相応の少女らしい声を、どのようにしたらここまで尖らせられるのか。
 子役俳優にやり方を教えてやったらどうだと続けようとしたところで、自分の脇腹から鈍い音がした。こフッ≠ネる奇怪な呼気が口から出るのも止められず、ザイルは沈み込むように膝を突く。
「……?」
 怪訝顔のレンを前に、リューグが右肘、、を抱えるように抱きながら、にこやかに口を開いた。
「致し方ありません。連行が必定ならば、せめて早く済ませてしまうのがお互いのためと言うもの。さ、ザイル、うずくまっている場合ではありませんよ」
「……てめえ、いつか死なす」
「楽しみにしていますよ。それまで精々あなたを楽しませることに致しましょう。シキと一緒にね」
 珍しく意地の悪い笑みを浮かべて、リューグはくるりと指で円を描いた。
 ……どうでもいいことまで、しっかり聞いてやがる。
 諦め混じりのため息をつき、立ち上がろうとしたその時、目の前に出された手に気付いた。
「……」
 シキが、申し訳なさと喜びを混ぜて、戸惑いで薄めたような表情をして、手を伸ばしていた。
 素直に喜んでいいのか、悪いのか、巻き込んだのではないか、無理をさせていないか。
 呆れてしまうくらい分かりやすい思考が、緋色の瞳で渦巻いている。
 レンが振り向き、たんたん、と足を踏み鳴らした。追い立てられた気分になりながら、ザイルはこの場を上手く纏めあげ、締められるような一言を考える。前頭葉のあたりを軽口が一斉にスタート。
 走りさざめく台詞の群が我先にと脳を駆ける。その言葉のレースを俯瞰して、ザイルは一度眼を閉じた。
 どれを言えばいいだろう。
 言葉は迷うほどあった。
 目を開けば、すぐ前に、手のひら。
 視界の端で、レンが苛立たしげにこちらを睨んでいる。
 ──急かすなよな。
 口元を歪めて、息を吐くように笑う。
 ザイルは左手で頭を掻き回し、第三コーナーに差し掛かった台詞の群を払い落とした。
「……ザイル?」
 不安げな声が上から降ってきた瞬間、右手を翻した。
 ばしん──
 手の弾け合う、音。
「──あ」
「……とっとと済ませて飯にしようぜ。話はそれからだ」
 シキが呆然と見下ろしている。視線の先には手があった。
 がっしりと互いを掴んだ、手と手が。
 ザイルは見る間にほころぶシキの表情を見て、時に言葉はひどく無力なのだと感じた。
 今の自分の語彙をどれだけ尽くしたとて──
「……うん!」
 これを上回る笑顔には、出会えそうになかったのだ。
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