-Ex-

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  Now, here.  

「──とまあ、そこでめでたしめでたしと行けば話は単純で、丸く収まって万々歳なんだがなあ」
 ザイルは頬に張り付いた打撲痕を撫でながらぼやいた。
「あれはあなたが悪いんですよ、ザイル。僕が一度釘を差したのをお忘れですか」
「そうだてめえこの野郎思い出したぞ、あの肘の分一発殴らせろ」
「御免被ります」
「やめなよ、二人とも。もう説教する人もいないんだ、終わったことなんだからさ、いいじゃないか」
 シキがたしなめるように笑って割り込んでくる。
 ザイルに割り当てられた部屋だった。メルトマテリアル本社ビル、高層は十六階の角部屋である。ザイルはベッドの上で胡坐を掻き、未だに腫れの引かない右頬を摩る。
「……騒動の張本人がそれを言うかね」
「いや、それは悪かったと思ってるけど」
 ザイルの皮肉っぽい口調に、シキはアームチェアから背中を浮かせて軽く頭を掻いた。
「いいではありませんか、ザイル。喧嘩の原因がシキだと言っても、火のついた彼のそのまた更に小さな火種を見れば、それは我々なのですから」
 リューグは壁に背を預けたまま、腹の辺りで緩く腕を組みなおした。
 その腰に今、刀はない。あの折れた刀の行方は想像がついた。このビルに入るとき、ありとあらゆる凶器の類は取り上げられた。デザートイーグルもスタームルガーも、今ザイルの手元にはない。廃棄されたとは思いたくないが、行方がわからないのではどちらでも同じだった。
「んなこたァ判ってる。今更言われなくてもな。ただ、この頬っぺたが痛えのは誰にも変えられない事実で、その痛みが俺の脳みそを怨みでもあるみたいに揺さぶるんだよ。このイライラを斟酌してくれても罰は当たらねえと思うんだがね」
 ザイルは事の経緯を思い出して、ひょいと肩を竦めた。
 シキが手を出した――と言っても、コップの水をぶっ掛ける程度だったが――のは、自分達の落ちに落ちた風評が、ジェノとかいうヘビー・サイボーグの耳に入ったからだ。遠回り過ぎるかもしれないが、自分達が不甲斐なくなければ、シキが彼らに水を被せることはなかっただろう。
「二時間の厳重注意に費やした時間と精神力を返せ、と言うならまだ判りますが、ササハラ嬢からキレのいい右フックを頂戴したのは完全に貴方の責任ですよ、ザイル。そのことでシキを責めるのはお門違いもいいところです」
「うるせえな、二回目だぞ。判ってるよ……」
 ザイルはぼすん、と音を立ててベッドに寝転がった。
 レンに連れて行かれた先に待っていたのは、苦笑を浮かべるセレイアと天井を仰いで笑うロンの二人。部屋に引きずり込まれて座らされ、振り向いたレンの顔を見た瞬間、ザイルは悪鬼羅刹の類と遭遇したのかと肝を冷やしたものだった。
 長く長く続く説教の間、ザイルは時たま皮肉めかせた返しをしていたのだが、注意が始まって三十分後、彼が放ったその一言がレンの逆鱗に触れたのであった。
「あの発言がなければもう少し説教は短かったかもしれません」
「やめなよ、リューグ。ザイルは痛い思いをしたんだからさ」
 シキがなだめるように割って入る。しかしリューグは首を何度か横に振り、手のひらを天井に向けて肩を竦めた。
「年頃の女性に向けて身体的特徴を揶揄するのは命知らずの所業としか思えませんよ、シキ。こればかりは少々、反省するべきだと僕は思います。その痛みをしっかり噛み締めてね」
 そういうリューグは聴取に素直に応じていた。きっとあのときの奴の背中には、何十匹も猫が覆いかぶさっていたに違いない。
 ザイルは思いながら、寝転がったまま煙草を咥えて火をつけ、ゆらりと起き上がった。
「そんなに大げさに話すようなことか。つうか、こんな一発を頂戴するような話だったか?」
「我々はスラムの住人、そして彼女は都心部ソサエティの人間です。そのあたりのギャップを認識すべきですね」
「……まあ、確かに『胸が小さいから心が狭いわけだな』はないよね」
 リューグに応じるように、シキが髪を指でこそこそと捻り、掻きまわしながら言う。
「違う。『心が狭いから胸も小さくなるんだ』だ」
「余計に悪い」
 フォローどころか悪化している訂正を聞き、リューグは嘆息した。手首のスナップでミネラルウォーターのボトルを投げる。
 回って飛んだボトルのキャップ側が、ザイルの頭に当たっていい音を立てた。ザイルが痛みに僅か顎を引いたとき、唇の先の煙草から灰が微かにこぼれる。
「……何しやがる」
「ツッコミが欲しいのかと思いまして」
「殴るぞ」
「殴り返しますよ」
 売り言葉に買い言葉とばかり、互いをにらみ合う二人の間に、手を叩く音が割り込んだ。
「もー、やめなってば二人とも! 次は身内の争いであの娘に引きずられていくつもりかい? 流石に僕でもそこまではついていきたくないよ?」
 手を打ちながらのシキの一声に、ザイルは大きくため息をつき、ベッドに落ちたペットボトルを拾って部屋の片隅のダストボックスへと放り投げた。
 がさり、とポリエチレンの袋を揺らす音。過たずゴミ箱へ飛び込んだペットボトルに、リューグが気のない拍手を向ける。
 ザイルは煙草を灰皿に捻じ込んで、微かな余韻の煙を上げる吸殻から手を離した。
「先が思いやられるぜ……」
「そうでもないさ」
 呻くように言いながら背中を再びベッドに沈めるザイルに、声が降る。シキが立ち上がって、彼を見下ろしていた。
「ここにいる」
 軽く、手のひらで自らの胸を叩く。
「ここにいるんだ。ザイル。僕も、リューグも、君も。アリカは、もうここにはいないけれど……それでも、僕らの心の中にちゃんといる」
 胸に手を当てて話すシキの口調は噛み締めるようで、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
 屈み込み、ベッドに肘をついて、彼は笑う。
 一日と少しだけの時間しか経っていない。そしてまだ力が手に入ると決まったわけでもない。
 それでも彼がそうして、アリカの名前を口にできることを、ザイルは眩しく思った。
「立ち上がって走り続けるのに、僕らにそれ以外が必要かな?」
 彼には決意があった。
 リューグが軽く、壁から背を浮かせる。彼が、シキの刀であると明言する理由がなんとなくわかる気がする。
 ――こいつは、仲間と認めたらきっととことんまで無防備で、無条件の信頼を相手に贈るんだろう。
 内心で思う。この少年がここまで、騙されることなく、裏切られることなく歩んできたのは、リューグから同様の信頼を勝ち得て、アリカと思いを繋げたからに違いない。
 その彼が、また歩き出そうとしている。
 闇の中へと続くかもしれない道を、微かに差し込む光を頼りに歩いていこうとしている。
「……クサいんだよ、おまえの台詞は」
 ザイルはシーツの中に言葉を埋めて、ゆっくりと起き上がるとベッドを立った。
 カーテンを開き、夜景を見上げる。
「でも……まあ、嫌いじゃあねえと言っておいてやる」
 凍京の夜空は、下から照らし上げられて漆黒に見える。しかし、目を凝らせば、晴れた空には幾つもの星が見えた。
「ありがとう、ザイル」
 ベッドを身軽に乗り越えて、横にシキが並ぶ。緋色の眼が自分を映しているのを見て、ザイルは小さく笑った。
「礼を言われるようなことじゃねえ。くすぐったいから止めろ、馬鹿」
「それは少し違います。これは、礼を言うべきことなのですよ。僕とシキにとっては」
 ふわり、空気が動く。窓枠に長い指を置いて、リューグは続けた。
「貴方は、僕らといることを選んでくれた」
 ひたり、とリューグの手が耐圧ガラスに当たる。
「狭い門です。そして、強くなれるのは三名だけと聴きます。シキと僕がそこに滑り込むとするのなら、最後の一人は貴方がいい、、、、、
 リューグが漏らす言葉に、シキが頷く。
「僕もそう思ってるよ、ザイル。これから、よろしく」
 屈託ない笑いと崩れない微笑に挟まれて、ザイルは僅かな息を吐く。

 仲間という存在は幻想の中にしかないと思っていた。
『お前がいると、取り分が減るだろ。だからお前殺して山分けにしようと思ったんだ』
 背中を狙われることにも、慣れていた。
『あの人を返してよ、この殺人鬼!』
 孤独に生きることが、何より正しい処世術だと思っていた。
『ザイル=コルブラントだな』
『目障りだ、死んでもらおう』
『貴様が生きていると、不都合な人間が山といる』
『この街に、お前の居場所はない』
『お前の生きる場所は、どこにもない』
『死ね。死んで償え』
『殺した人間に、詫びながら死んでいけ』

 ――あるさ。俺を受け入れてくれる世界が。
 胸の内側で、あの日とは違う言葉を呟く。
 確かに、自分は認められざるもの、望まれざるものだ。人の憎悪を食い物にして、標的に災厄を振りまく告死鳥カラスだ。黒いコートつばさは身を護るためにあり、二挺の銃は人を殺すためにある。理解されず、疎まれ、いつかは路地裏の闇に消えていくだけの存在。それが自分だ。
 だけど、それでも、今ここにいる。
 あの日、奇妙な縁に導かれるように、野良犬と、狐と、気難しいライオンの傍に、カラスは確かに降り立ったのだ。歯車が合わさるように、しっかりと。そして、この機構セカイを空転させるのはきっと寂しいと、カラスは確かに思ったのだ。
 ザイルは顎を上げるように空を見上げて、新しい煙草を一本咥えた。
「言葉は正しく使えよ、シキ」
 火をつける。煙草の煙を微かに孕ませた声で、呟いた。
「これから『も』、だ。間違えるな」
 ガラスに映るシキが、虚を突かれたような風に目を丸くした。反対を見れば、リューグが頷いて知った風に笑っている。シキが「へへ」と子供のような笑いを浮かべれば、男三人がニヤつく気持ちの悪い映像が窓に映った。
 でもそれも、悪くはないと思う。
 自分を受け入れたこの奇妙な二人組と、凍京の濡れた地面の上で果てたあのフィジカライザーを、死んでも忘れないだろう。そう、思った。
「――あ」
 不意に、空を見上げたシキが声を上げる。
 ザイルは鏡のように姿を映す、暗いガラスの奥へ視線を移した。
 満天の星空と言うには、少し暗すぎる凍京の空。夜闇の奥で、目を凝らさなければ判らないような瞬きが、空から零れ落ちた。
「……願いを掛けますか?」
「そりゃいいね。何を願おう?」
「考えてる間にどんどん落ちてるぞ。俺はもう済ませた」
「うわ早ッ!」
「存外、ロマンチストなのですね」
「うるせえ」
 夏の夜空に、花火のような星の雨が降る。
 流星群が来る予定などはなかったから、きっとあれは壊れた衛星か何かの一群が落ちてきているだけなのだろう。けれども、それを珍しい偶然の一言で片付けたくはなかった。
 手を伸ばす。その手が空まで届く訳がない。ガラスに手のひらが当たり、当然のように止まる。しかし、その手を握り締め、ザイルは見える星を掴むようにして言った。
「祈るくらいは、人でなしおれたちにだってゆるされるはずだ。……そうだろ?」
 シキも、リューグも、その言葉には答えなかった。
 けれど空を見上げる彼らの目は、その言葉を肯定しているように見える。
 ザイルには、ただそれだけで十分だった。

 言葉はない。
 深夜、流星は来た。
 夜空を見上げた。……三人で。
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