-Ex-

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  暗い夢、転拍子の現実  

 ――夢を見た。

 随分昔の夢だった。柄になく昔の話をしたせいだったのかもしれない。
 夢の中で、彼は拳銃を握っている自分を俯瞰していた。時たま、こんな夢を見ることがある。自分が今、夢の中にいると自覚できる夢だ。まるで銀幕に映りこんだ映像を見ているかのような感覚である。
 何人もの人間に追われ、夢の中の自分――ザイルは脇腹から血を垂れ流して走っていた。顔面蒼白で、今にも倒れこんでしまいそうなのに、彼は足を止めず、握った拳銃も手放さなかった。スターム・ルガーMkU、小口径の細すぎる牙。
 それ以外の銃が扱えないわけではなかった。
 ただ、人を殺すにはそれで十分すぎただけで。
 路地裏の行き止まりに追い詰められ、ザイルは足を止めて振り向く。振り向いた先には、四人ほどの仲間が立っていた。――否、その時にはすでに元仲間、と言ったほうが正しかったのか。
 記憶はあいまいだったが、向けられた銃口の暗さだけは到底忘れられない。
「そいつを返せ。お前ひとりに勝手をやられちゃあ、困るんだよ」
 言い募るのは、顔に傷のある少年だった。上手に目を避け、ジグザグに這う太刀傷である。そればかりが印象的で、顔の輪郭がぼけてしまっても、その傷痕ばかりは鮮明に見える。
 ザイルは、防弾コートの上から懐に手を当てた。そこには、最後に自分がこなした依頼の報酬が丸々収まったクレッド・スティックがあった。この、重さ百グラム足らずのちっぽけな機械の中に、自分が命を懸けて走り続けた時間の対価が入っているのだ。
「御免だ。おまえらも、俺にたかっていないでそろそろ手前で稼ぐようにしろよ。俺は足抜けするぜ。上前をはねられ続けて二年だ。我慢にも限度がある」
 ザイルは傷の重さを感じさせない口調で呟いた。覚えている。それは虚勢だった。本当は今にも膝から崩れ落ちてしまいそうなのに、あの時自分は不敵に笑ったのだ。
 自分と同年代の少年たちに傷を負わされ、路地裏に追い詰められ、銃口で睨まれながら、ザイルは自分の命を弄ぶように二挺拳銃の銃口を持ち上げた。
 たじろぐ四人の少年と、ザイルにただ一つ違いがあったとするのならば、それは自分の命がどこにあるのかを知っているか否かだけだったろう。
 命は心臓にあるのでも、脳にあるのでもない。吹けば飛ぶように軽く、風に吹かれ続ければ消えてしまう、惰弱であいまいな生命という概念。それがどこにあるのかと問われれば、今も昔もザイル=コルブラントはこう答えるのだ。
 ――銃口の上オン・ザ・マズルと。
「俺に銃を向けたなら、俺を殺してみせろ。それが出来ないなら、ここで死ね」
 怯えた敵がトリガーに触れた指先をかすかに動かしたその瞬間、ザイルはそれこそ、銃身の中を駆ける銃弾のような速さで踏み込んだ。放たれる銃弾の熱い衝撃波が耳元を擦過し、耳鳴りを残して遥か後方に消えていく。
 ザイルは銃を持ち上げた。いつしか、俯瞰視点はなくなって、風を切って走り、迫る敵に向けて照準を絞ることが意識の全てとなる。トリガーを引いた瞬間に、悪魔の舌のような長い銃火が迸った。鋭いリコイルを手のひらで殺すのと同時、敵の一人がぐらりと身体を傾がせて仰向けに倒れていく。
 人を殺す夢を見た人間が苦しむシーンは、今までに何度もフィクションの世界で見てきたが、ザイルはその度にそれをせせら笑っていた。壊れてしまえば、人を殺すことは苦悩も何もない、ただの作業になる。
 ザイルは撃った。手のひらを叩く、鞭のようなリコイルだけが彼の生存を保障している。何発も、何発も。
 敵が倒れ伏していく。悲鳴を上げながら、血を流しながら、恨み言を叫び、銃のトリガーを引いている。
 いつも夢はそこで終わるのだ。
 だから、次にザイルがトリガーを引いた時には、その先には何もなく――
 ただ、薄暗い部屋の中で、天井だけが見えたのだった。

「――」
 こわばった指先と、天に向けて突き上げた右腕。
 目を覚ましたザイルが最初に自覚したのは、自分の右手が虚空を銃の形に握っていることだった。その先には、顔に傷持つ男ではなく、ただのっぺりとした天井がある。
 ぱたりと右腕をシーツの上に落とすと、鈍い痛みが走った。当然の話だ。肉体の細胞置換を行わなければならないほどの傷ではなかったから、湿布とテーピング程度の処置しか受けていない。一度眠って脳内麻薬が切れた後だと、身体の痛みは直に脳に響いてくる。
「……ってえ……」
 ぼやくように言って身体を起こすと、全身がヒビだらけになっているんじゃないか、という激痛が襲ってくる。ザイルはとりあえず起き上がるのを諦め、枕に頭を戻した。目覚めたばかりで働いていない脳が怠けているせいで、痛みばかりが鮮明に伝わってくる。立ち上がるには少し時間が要りそうだった。
 ベッドサイドに目をやり、現在時刻を確認して、ザイルは思わず顔に手を当てた。時計の針は綺麗な逆L字で、それはつまり彼が一日の半分以上を寝て過ごしたということを意味している。
「……マジかよ」
 呟いても時計の針は戻らず、それどころか一分進んだ。ザイルは身体に負担をかけないよう、細心の注意を払って起き上がると、ベッドサイドに置いてある真新しい煙草のパッケージを手に取った。別れ際に、あのロンという男に頼んでいたものだ。
 ラッキー・ストライクの箱から一本抜き出して、添えてあったライターで火をつける。薄暗い部屋の闇が削られ、やがて煙草に灯が点ると同時に闇が戻ってきた。自分の吸う煙草の明かりが部屋の唯一の光源となり、おぼろげに手元を照らす。煙を吸い込み、軽くむせた。張り付いたようになった喉が痛む。
 ベッドサイドの冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターがあったので拝借し、半分ほどを一息に飲み干した。もう一度煙草を口にする。今度はむせずに、静かに煙を吐き出すことが出来た。
 冷たいボトルを頬に押し当てて目を閉じる。ホテル顔負けのこの一室は防音性も高いのか、雑音もなく静けさを保っている。まるで世界に一人取り残されてしまったような錯覚を覚えるほどだ。
 一人きり、という現状を認識した瞬間、鈍い頭が低速回転でようやく回り始める。
「……あいつら、どうしてるんだ?」
 ザイルが呟いたその瞬間、こんこん、と控えめなノックの音が響いた。
 同時に、サイドテーブルのマルチフォンから電子音が響く。ホロ・ビジョン搭載型の機種だ。ザイルは億劫そうに右手を伸ばし、通話のボタンを押す。ホロ・ビジョンが起動し、虚空に立体映像が映し出される。穏やかに微笑む男の顔が、若干の陰りを含んで浮かび上がった。
『起きていますか、ザイル』
 リューグ=ムーンフリークである。眠る前よりは幾分か、鋭い気配も消え、普段の柔和な微笑が戻ってきているようだった。寄らば斬る、といった気配も薄れているように思える。ザイルは煙草をふかしながら、軽い声で応答を返した。
「今はな。さっきまでは寝てた」
『起こしてしまいましたか?』
「いいや。……起こす気があったならもう少し早く来てほしかったんだが。もう夜じゃねえか」
『よく眠っているだろうから、とミズ・エイレース……いえ、ササハラ嬢に言われましてね。聞けば、日がたっぷり高くなるころまで話し込んでいたとか』
「そこまで大層なもんでもねえよ。……で、何だ? 話があるならドアを開けるぜ」
『ああ、いえ――もういい時間でしたからね。示し合わせて夕食を摂ろうかと。二十二階に食堂があるそうです。シキとは九時三十分に待ち合わせになっていますが、一緒にいかがです?』
「そうだな……」
 ザイルは軽く腹をさすった。打撲の鈍い痛みは残るものの、体が栄養を欲しがって呻いているのを感じる。自覚すると早いもので、すぐに脳裏にはシキの作る夕食が浮かんでくる。軽く十人で宴会を出来る量のあるあの食事が恋しくなった。
「シキが作る飯よりは味気ないだろうが、確かに腹は減ってる。二十二階だったな?」
『ええ』
「十五分で行く。食堂の入り口で待ってろ」
『承知しました』
 リューグが常と同じ微笑を浮かべるのを見送って、ザイルは通話を切った。灰の崩れそうな煙草を灰皿に押し込み、乱れた髪を手で梳きまわしながら立ち上がる。衣服を乱雑に脱ぎ捨て、棚のバスタオルとハンドタオルを引っ張り出し、バスルームへ向かう。
 熱を持った頭と身体を冷ますなら、冷水を浴びるのが手っ取り早い。冷たい水を身体に受ければ、少しは思考も冴えるだろうと思った。

 冷水を浴びて髪を整え、用意されていた肌着の類とカッターシャツにスラックスを纏うころには、身体の痛みも薄らいできていた。打撲の疼くような痛みもかなり抑えられているように思える。ザイルは部屋を出て、エレベーターへ向かった。十六階の並びはその全てが仮眠室と銘打たれていたが、実際にここで生活が出来るだけの設備が揃っている。この企業の考えることはよく判らない、と思った。何故、ここまで設備の整った仮眠室が一フロアに、ホテル顔負けの数だけ取り揃えられているのか――
 内心で首をひねっていると、エレベーターが到着する音がかすかに聞こえた。日頃の癖で反射的に耳を澄ます。扉の開く音と同時に、年若い少年少女の、年相応に野卑な笑い声が耳に届く。ザイルは少しだけ目を細め、足を止めることなくエレベーターへ向かった。
 エレベーターに至る前に、角を曲がってきた一団と鉢合わせた。全員がザイルと同じ年頃の少年少女である。どこにでもいそうなカジュアルな服装の少年たちに、ザイルはそれでも同類の匂いを嗅ぎ取った。
 六人ほどの一団が談笑の声を潜め、静かにザイルの横を通り過ぎていく。ザイルは横目に彼ら一人ひとりの挙措を盗み見ながら、言葉もなく彼らと擦れ違った。
 足音が後ろに消えていく。徐々に大きくなる後ろからの談笑の声を聞きながら、ザイルはこのフロアが存在する意味を理解した。
「籠か、檻か」
 呟く。
 通り過ぎた一団は恐らく全員が何らかの強化措置を受けた人間であった。論理的にその根拠を説明せよと迫られれば明言は出来ないが、通常の人間よりも高い敏捷性に反応性、過剰筋力に強化骨格を持つがゆえの外見的・動作的な違和感と、時折目のふちを過ぎる暗い影が、彼らが闇の中に生きていた者たちだと語っている。
 セレイアが語った、選抜試験=\―トライアルについて軽く回想しながら、ザイルはエレベーターのパネルを叩いた。思索に沈む間もなく、上へ行くエレベーターがやってくる。中には誰も乗っていない。一人で乗るにはだだっ広い箱に滑り込み、二十二階のボタンを押すと、内壁に寄りかかる。
 十六階には、恐らくトライアルに合格した連中が押し込まれているのだろう。名目どおりの仮眠室として使われている部屋はそう多くないと見える。メルトマテリアルもソリッドボウルと同じく、水面下での暗躍が噂される企業だ。今回のような非合法な求人活動≠フ時に、こういったフロアがあれば便利なのだろうと想像はついた。あくまで推測だったが、そう突飛な結論でもないはずだ。
 思索を交えているうちに、すぐに二十二階に到着する。エレベーターの扉が電子音と同時に開き、ざわめきが空気を伝わってこちらまで届いてきた。
 人の気配が濃い方へ足を進めると、その先に食堂の入り口がある。洒落たレストランのようなスライドドアを潜り、中をぐるりと見回した。
 広い食堂だ。社員食堂というには若干豪奢すぎる気がする。和洋中とあらゆるメニューがそろっていそうな広い厨房の中では、数人の調理師が忙しそうに立ち回っている。そこかしこに観葉植物が置かれ、整った木目の天板を乗せたテーブルが居並ぶ。テーブルについて談笑しているのは、少年や少女が主で、ここを本来利用するはずのホワイトカラーの姿が見えない。
 まるでハイスクールの学生食堂だ、と思いながらザイルは知った顔を探して人混みの中に目を走らせた。
「ザイル」
 数秒見回したところで背後から声がかかる。振り向くと、視線の先に微笑が見えた。微笑みが服を着て歩いているとはシキの弁だが、なるほど彼の笑みはもはや仮面じみていた。それも余程のことがなければ、破れたり外れたりしない類の。
 彼が手に持った二つのトレイから湯気が立ち上っている。なかなかのボリュームがあるミックスフライの皿から、香ばしい香りがした。
 ザイルは舌なめずりをしてから、軽く右手を挙げた。
「おう。悪いな、待たせた」
「おや、殊勝ですね。あなたの口から謝罪の言葉を聞くとは」
 冗談めいた口調で皮肉を言い、リューグ=ムーンフリークは笑った。かすかに息をもらすような、彼独特の溜息に似た笑い。
「その悪態はもう二回目だ。ボキャブラリーが枯渇した奴ほど早くジジイになるぜ」
 肩をすくめて皮肉を返すと、ザイルは手を突きだした。
リューグは半分焦げた肉を噛んだときのような苦い笑いをこぼすと、トレイに乗ったグラスの水面を揺らさないまま、ザイルにトレイを差し出す。
 受け取ったトレイはずしりと重く、なかなか食いでがありそうだなと率直な感想を抱いた。
「まだおまえ一人か?」
「ええ。シキの姿はまだ見えませんね。先程から入り口そばで待っていましたが……そろそろ約束の時間になると思ったので、とりあえず自分と頼まれていたあなたの分を確保しておこうと思ったわけです」
「で、そこにちょうど俺が来たと」
「絶好のタイミングでね。……そうですね、立ち話もなんですし、席を取って待つとしましょう。通行の邪魔にもなりますし」
 そう言うと、リューグは手近な席の空きに滑り込み、トレイを置いた。
 ザイルもまたそれに続き、ミックスフライの乗ったトレイをテーブルの上に滑らせる。テーブルを挟んで互いに向き合い、数秒の沈黙。
「さて」
 短い一句を置き、リューグは息を吸って続ける。
「お呼び立てした理由ですが──」
「これからのことだろ。判ってる」
 ザイルは目を閉じ、手に持ったフォークをくるくると回して弄ぶと、片目を眇めてフォークをフライに突き刺した。
「おまえにはExになるための理由がある。シキの恨みを返してやるためって理由が。そして当のシキにも、アリカをやられた分の借りを連中に返す為に力が必要だって動機がある。──そこに、俺だ」
 ザイルはフィッシュフライを口の中に放り込み、グラスの水で喉の奥に流し込んだ。味気ないな、と何となく思う。
 リューグは頷くと、テーブルに肘を付き、両手を組んで口元を隠した。
「僕やシキと違って、貴方には強い理由がありません。言葉は悪いですが知り合って時間も浅いですしね。今度のことは犬に噛まれたとでも思って、文字通りすべて忘れて生きていくことだってできるはずです」
「もっともだな」
 その通り、とでも言いたげな顔を作って見せ、ザイルは肩をすくめた。フライの油の匂いが、口の中にまとわりついて離れない。
「──個人的な感情はともかくとして、今度ばかりは僕たちからは何も言えません。路地裏で交わすような気軽な協定とは訳が違う。文字通り、この先の命運を左右しかねない話ですから」
 リューグはいつになく真剣な顔をしてザイルの顔を見つめた。ザイルは口の中に続けざまにフライを放り込み、その真剣な瞳から目を逸らす。
「わかってるさ」
 黙っていれば誰かが道を教え諭してくれるなんていうのは、ありがたい聖典と物語の中だけの話だ。現実はいつも過酷で、自分の行く手に立ちふさがるものも山のようにある。障害に挑むのも逃げるのも自由だ。ただそのかわり、自分の選択はそのまま自分に結果として跳ね返ってくる。
 そんな世の中で、誰が他人の選択を肩代わりして、その責任まで負ってやれるというのだろう。
「……わかってる」
 繰り返すようにつぶやくと、ザイルは顔を上げ、リューグの眼を見つめ返した。
「少しは悩んでみるとするさ。結論を出すまでにはまだ少しだが時間がある。そうだろ?」
「ええ。話によれば、タイムリミットまでは後三日だそうです」
 リューグは、フォークの先に転がしていたフライを捕らえ、ゆっくりと咀嚼して飲み込む。普段よりもずっと箸の進みが遅い。
 ザイルもまた応じるように、味気ないフライを口の中に詰め込みながら言葉を発した。
「三日もあればさすがに踏ん切りが付くだろう。どっちに行くにしてもな。……しかし、今何時だ?」
 未だに姿を見せないシキを思い出し、ザイルは時計を探して首を巡らせる。
 その刹那のことだ。九時二十分です──とリューグが告げる声に被さり、入り口の方からにわかに罵声が聞こえる。派手に物がぶちまけられるような音が副音声でついてきた。
「……なんだ、喧嘩か?」
 ザイルがうんざりしたような口調で言いながら、入り口付近に目を向けた。いつのまにやら人垣が築かれ、事の子細までは見て取ることができない。
 向かいから澄まし声が返ってくる。
「それ以外には聞こえないですね。さすがに銃声は聞こえないようですが、ナイフくらいならすでに抜かれていてもおかしくなさそうです」
 言いつつ、リューグはゆっくりと席を立った。
「どうした?」
 問いかけると、リューグは軽く入り口の方を指さし、さらりと答える。
「様子を見てきます。シキが遅いですしね。この騒ぎで足止めを食っているわけではないと思いたいのですが──」
 言いながらリューグが踵を返したその瞬間、人垣が割れた。同時に転げるように人影が一つ飛び出し、観葉植物をなぎ倒して止まる。
 殴られでもしたのだろうか。ザイルはなんとなしに倒れた人影の顔を注視して、天を仰ぎそうになった。
「……冗談だろ」
 この世の中は、常に最低の結果を想定していても、たぶん生きていきづらい場所なのだとザイルは思う。
 口の端から血を流しながらよろよろと立ち上がったのは、他ならぬ長谷川四季だったからだ。
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