-Ex-

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  静かな朝、緋色の髪  

 シキに話の全てを聞かせて、彼がもう一度眠るまでそばにいてから、ザイルは明け方のビルの中を歩いていた。
 目は冴えていた。眠っても整理がつかないほど色々なことがあった日だ。眠りに逃げてその間だけ全てを忘れてしまおうと、そう考えることもできない。
 忘れられないことが増えすぎた。負けるのが初めてだったというわけではないが、これだけ完膚なきまでに叩きのめされたのは人生初だった。連戦に継ぐ連戦、無残なまでの敗北、それに加えて、忘れようにも忘れられない鮮烈な出会い。畳み掛けるようなこの夜を、克明に文章として諳んじることができるとさえ思える。
 外はもう、明るくなりつつあった。新鮮な空気が吸いたいと思い、エレベータまで歩いてボタンを叩く。上のランプが点灯し、エレベータが呼び出されたことを告げた。表示を見て、ザイルは目を瞬く。明るくなった階層表示は二十八階。ザイルがいるのは二十六階で、呼び出してから暫くの間、エレベータは二十八階にとどまっていた。
 誰かが降りたのか。それとも誰かが今乗り込んで、このエレベータで降りてくるのか。ザイルは手近に時計を探した。すぐに目に留まる。秒単位の時間までは教えてくれない掛け時計が、午前五時二十三分を告げていた。
 宵っ張りなんて段階は既に通り越している。今から帰るとしたら、半端じゃない重労働だ。ザイルは半ば呆れながら、このフロアへエレベータが降りてくるのを待った。
 電光表示が、エレベータが動き出したことを告げる。殆ど間をおかず、エレベータは二十六階にたどり着き、気の抜けた電子音とともに開いた。
 ザイルは中にいるヤツに呆れた目線をくれてやろうとして、失敗した。
 エレベータの中で、釣り目をきょとんと開いた赤髪の女と目が合ったのだ。――レンである。着替えたのか、あのワインレッドのスカートスーツではなく、ブラックのパンツスーツを身に纏っていた。
 目を合わせて一秒、ザイルの思考が言葉を捜して前頭葉のあたりを彷徨い始めたあたりで、先に向こうが我に返ったらしい。彼女は空色の瞳をまたきつめに絞り、頭の回転の遅さを嘲るような口調で言った。
「乗らないの? 閉めるわよ」
「……乗らないのにボタンを押す馬鹿がいるかよ」
 ザイルは毒づくように言って、エレベータの内側に身体を滑り込ませる。扉が閉まり、エレベータが滑るように下へと向かい始めた。下に下りるにつれてかすかな気圧の変化を感じる。
 内壁の角に寄りかかり、ザイルは腕を組んだまま、対角にいる少女の姿をぼんやりと眺める。蛍光灯の下で見る彼女は、まだ自分と同じくらいの子供だった。最初にネル=エイレースという仮面を被って自分たちの前に姿を現したときとはまったく別の人間のようにさえ見える。ルージュを落としたらしい淡いピンクの唇と、白い肌に、空色の瞳。人を誉めそやす趣味はないが、笹原憐は確かに美しい少女だった。
 不意にレンが顔を上げ、ザイルを横目でにらむ。
「なによ。私の顔に何かついてる? それとも人の顔をじろじろ眺めるのが趣味なの?」
「何でもねえよ。それと、覗きの趣味もない」
 これである。
 彼女は確かに見目麗しい――セレイアほどではないにせよ――少女だったが、気性が荒い。というよりは、部外者に対する猜疑心が強いのかもしれない。過度に攻撃的で、口を開けばこちらを挑発するか嘲笑うかの二択。応接室でセレイアから話を聞いていたときには反駁する気力が残っていたが、疲れ果てた今となっては、成立しない不毛な会話に神経をすり減らせるのは御免だった。
 肩の力を抜く。ザイルは舌から毒を抜き、ゆっくりとした口調で言葉を発する。
「ただ、本当に俺と同じくらいの年なんだなって思っただけさ。ルージュを引いてたときは、もっと年上に見えたのに」
「……あれは演技。女は何人も違う自分を持っているのよ。セレイアさんもそう言うわ」
 レンの唇からセレイアの名前がこぼれる。その名を呼ぶとき、目の端にかすかな笑みをはらませているのをザイルは見逃さなかった。少女はザイルの視線を避けるように、エレベータの電光表示を見上げた。一階はすぐそこだった。ザイルがもう一度口を挟む前に、軽い電子音がして扉が開く。
 レンがエレベータのボタンを押して、顎をしゃくる。先に出ろということだろう。ザイルは肩を竦めてフロアに進み出た。夏の早朝、胸元をボタン二つ分開けていたザイルの襟首に、冷房の風が絡む。
 首をすくめて振り向くと、横を真っ赤な髪が行き過ぎた。レンはザイルに目もくれないという調子で歩いていく。足はエントランスに向いていた。恐らくは外に出るのだろう。
 なんとなく、ザイルは彼女の足取りをたどった。数歩後ろを、同じようなペースで歩く。エントランスの警備係がレンに会釈をするのを後ろから見て、ザイルはそれに続いて外への門をくぐろうとする。しかし、
「おっと、坊主、お前さんは駄目だよ、外に出ちゃあ」
 警備員が道を塞いだ。身の丈は容易に二メートルを超えていて、長身のはずのザイルでさえ見上げなくては目を合わせられない。レンは背後を一顧だにせず、するりとエントランスを抜けてビルの外へ歩み去っていった。
 横目にその光景を認めたあとで、ザイルは軽く顎を突き出すようにして相手を見上げる。
「……その辺をぶらついてくるだけだよ。すぐに戻る」
「いやあ、万一逃げ出されたりすると事でね。毎度のことなんだよ。何かしら、行き場をなくしちまった連中をミズ・アイオーンだとかドクター≠セとかが引っ張ってくると、大概その連中は機密事項に触れるんさね。だぁから、適切な処置が終わるかこの企業に属するか決めるまでは、このビルの外には放さないようにしてるんだよ」
 やや訛りの残る妙に間延びした口調で、ガードマンの男はまくし立てた。帽子を取って頭を掻く姿には愛嬌があったが、言葉には有無を言わせない強さがある。ドクター=c…ありふれた響きの言葉が妙に頭に引っかかった。セレイアの名前と並べて称される立場の誰か。興味はあったが、問い質しても返事が返ってくるとは思えない。
 ザイルは軽く肩を竦めて、言葉を紡いだ。
「……外の空気が吸いてえだけなんだ。頼むよ。何ならあんたがついてきたっていい」
「俺ぁただの守衛さね、そこまでの判断をする権限は持ってない。それに坊主ぁ、相当な腕っこきなんだろう? お前さんにその気がなくてもね、俺たちゃあ万が一を想定するのが仕事なんさ。暴れだされて取り逃がしました、情報が外に漏れました、なんてことになったが最後、首を切られるだけじゃあ済まないのよ。……それにそもそも俺がここから離れるようなことをしたら、誰が入り口を守るってんだい」
 柔らかい物腰に見えて、職務には忠実なかたくなさを見せる。ザイルは男の身体を眺めた。帽子をはずした下にあるのはサイドだけが残った禿頭で、仕草だけを見ればのんびりとした熊さながらといったところだったが、ザイルには彼の実力がすぐにわかった。こんなところで警備服に身を包んでいるよりは、プロレスラーでもやっていた方がずっと似合いの体躯だ。天下のメルトマテリアルの守衛だ、まさか身体に強化処置を施していないわけもない。サイボーグは見た目よりもずっと俊敏で、見た目の何倍もの怪力を叩き出す。この男が本気になったときのことなど、想像もつかなかった。
 出し抜く方法を考えるが、銃も何も身につけていない今ではこの男の守りを抜けることは不可能に近い。結論は動かざるものだったが、しかし出るなといわれれば出たくなるのは人のサガだ。ザイルは難しい顔をして目の前の男を見るが、彼は首を振るばかりである。
「おっかねえ。その値踏みをしてる目、殺し方を考えてるようにしか見えんよ。よっぽどろくでもないドブの中を歩いてきたんだろうよ。昔鏡を見たときのことを思い出さぁな、俺も」
 中年の守衛はポケットを右手で探り、何かを出そうとして――気付いたように引っ込めた。ザイルはそれに目敏く気付き、彼が何を求めているのかを悟る。
「五分でいいんだよ。あんたも煙草が吸いたいだろ?」
 誘うような口調で言うと、男は目を丸くしたあと、からからと朗らかに笑った。
「言うなぁ坊主。お前さん、面白いガキだ。俺があの嬢ちゃんくらいの権限がありゃあ、すぐにでも外に引っ張っていって煙草を吸わせてやるところだ。残念だなあ。……坊主、俺も言いたくて言うんじゃあないんだ、こんなこたぁ。俺にも仕事ってもんがあって――」
「……いいわ。私が付きます」
 声は前方から聞こえた。
 守衛が驚いたように振り返る。ザイルはひょいと守衛の影から顔を出し、壁のような体の向こう側を伺った。呆れたような顔をして、右足に体重を預け、ゆるく腰に手を当てて、レンが立っている。カメラがあったら、豪奢なエントランスと合わせてぴたりと決まった一枚が撮れたことだろう。
「いいんですかい、ミズ・ササハラ。上からは虫一匹通すなってお達しが来てますぜ」
「私はその上の代理人ですよ、三竹ミタケさん。それとも休日オフの時みたいに、タケさんって呼んだほうが気軽でいいかしら?」
 唇に笑みをはらませて、ウィンクを一つ。ザイルは彼女を振り向いた禿頭の頭越しに、彼の鼻の下がバンジージャンプのゴム並に伸びるのを見た気がした。
 二つの事実と一つの疑問を確認する。
 ――事実からいこう。
「やあ、そいつはご勘弁を、ミズ・ササハラ。ついついレン嬢ちゃんって呼び返しちまいそうになるもんで、この口さがねえ俺っちときたら。……まあ、大丈夫なんでしょうな、貴女がそう言うんであれば。お任せしてもよろしいんで?」
 ――ひとつ。可愛い女に男は弱い。
「私は別に構いませんけど。来た当時からよくしてくださってるもの、今更他人行儀になられても困るってよく警備長には言うんですけれどね……ええ、大丈夫です。私と彼じゃ、万一も起こりえないから」
 ――ふたつ。笑顔の効果をわきまえた女は、極めて危険。
「外、行きたいんでしょう? 少しの間だけよ」
 守衛の巨体が横にどき、レンが言葉を紡いだ時、ザイルは首を傾げて疑問を口にした。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「出たくないなら別にいいけれど? 私も用事が減って助かるわ、それじゃ」
「待て待て待て待て待て」
 踵を返そうとするレンと、再び出口と自分の間に割り込もうとする巨体。双方に向けてザイルは棒読みで制止の声をかけた。
「出る。出るよ。頼むから出してくれ!」
 頼み込むようなザイルの声に、肩越しに振り向いたレンが、くすりと笑った。
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