-Ex-

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  それぞれの道  

『よく考えて答えを決めたまえ』
 ロン=シュヴァルツハルトは言ったものだ。
『契約は果たされる。これは絶対だ。しかしそれは君たちにも言えること。引き返す道は最初の瞬間にしかない。門をくぐった後に奈落に落ちるか天に飛び立つかは、全て君たちの実力にかかってくる』
 ザイルは上に向けて煙草の煙を吐いた。紫煙が天井のファンの奥へ吸い込まれていく。メルトマテリアル本社ビル、地上二十六階の高みは、凍京の夜景を見渡すに十分な高度だ。時刻、まもなく夜の明ける午前四時である。時計の針が進むにつれ、夜と朝の境界があいまいになっていく。歓楽街は寝静まり、オフィス街が目を覚ます。気の早い勤め人が――或いはねぐらに帰る企業人かが、動きもしない交通機関をよそに道を歩いていくのがちらほらと見えた。通行人の手に傘はない。雨はもう止んでいる。――ザイルの視力をもってすれば、この高度からであろうと人の特徴を大まかに捉えることができた。
 医療設備が、規則的な音を立てている。地下八階までを含めて三十六階層あるこの砦じみた高層ビルの各階に一つ用意されているメディカルルームは、今は一人のための個室だった。ベッドに目をやれば、そこには身じろぎ一つしないシキの姿がある。
 容態の安定したシキをこの高みに連れてきたのはザイルの一存である。取れる限りで一番高い部屋をと、彼は言ったのだった。理由などない。あるとすればそれは下らない、ごく個人的な感傷だった。
 自分がたどり着ける中で、一番高い場所を、空に近い場所を、彼は選んだのである。
 ――あの後、セレイアはザイルたちに声をかけた理由をこう語った。
『戦闘能力もそうだし、その場の機転も同じ。今こうして話しているうちに視て、、いるけれど、少なくとも貴方とリューグ君にはフィジカル・ハックの適性があるわ。……スラムに生きる人たちにはね、時折そういった変異体が現れるの。単純な武装の強さ、戦闘技術、それだけでは測れないもの……生きるための強靭な意志と、自分のエゴを貫き通す決意を秘めた人間が。
 ……あとは、そうね。トライアル≠フ評価基準から見ればマイナスだけれど……仲間を助けるために、終わりかけた仕事を放り出して一直線に身を翻すその判断の早さが私は好きよ。甘すぎるのは駄目だけれど、目先の利益ではなく仲間を選んだところを評価するわ。一人の人と結束を深められる人間は、同じ境遇に置かれた人間と強い同属意識を持つものよ。……願わくば、それが私たちにも向けられるようになると信じたいものね』
 話は濁流のように続いた。ザイルの脳は職務を忠実に果たしていた。セレイアが語った言葉の一つ一つを、精細に覚えている。
 彼女は言った。
『シキ君とも話をしてみたいわね。もし彼がこの話に乗るようなら、貴方から伝えてあげて頂戴。もちろん、楽な道にはならないと思うけれど。何せ私たちはトライアルで、貴方たちと同レベルか、或いはそれ以上の実力者を揃えているから。……それでも可能性は提示したわ。それをどう使うかは、貴方たち次第よ』
 イクス。メルトマテリアルが作り出した、プラスに対抗するための次世代型サイボーグ。詳細な作動原理および武装についてはメルトマテリアル社内S級機密に分類されている。イクスに関する情報を口外することはまかりならず、この名と正体を知るものは、メルトマテリアル内でもごく僅かである。
……もし挑戦を放棄するなら、貴方たちの記憶を消去する準備もあるわ。私たちのことも、もし良ければつらいこの夜のことも、何もかも忘れさせてあげられる
 イクスに関する情報を得た今、自分とリューグ、そしてこれから話を聞くであろうシキには、二つの道しか残されていない。
 一つは全てを忘れて、今までと同じようにあのゴミ溜めで過ごすこと。
 もう一つは、全てを得るため――或いは落としてきたプライドを拾い集めるために、もう一度だけなけなしの力を振り絞ること。
『本格的な選抜試験に入れば、手心は加えられないわ』
 笑みの消えたセレイアの顔を思い出す。
 あれは、その気になれば、手も触れずに人を殺すことが出来ると確信している目だった。
 アーマノイドのモノアイがこちらを向いてぎらついても、あそこまでの戦慄を覚えることはあるまい。
『死人が出てもこの試験は続くの。残念ながらね。シミュレーター試験、戦闘技術実技、情報処理、侵食閾値ブレイクゾーンの精査。……過酷な試験になるのは前もって教えておきます。途中で逃げ出すようなことをすれば、記憶を消す手間も省いて単純に排除するだけ。私たちが見たいのは、貴方たちが必死になったとき、何が残るかなのよ』
 ――あの時、ザイルは四本目の煙草を灰にしながら、横を見た。
 そこには、底冷えのする目でセレイアをにらみ返すリューグ=ムーンフリークがいた。餓狼と呼ぶことさえ躊躇われる。人の形をした獣がそこにいた。ぎらつく目は力を渇望し、可能性をちらつかせる目の前の女から、それを奪い取ろうとしているかのようだった。
 数分前まで死んだような目をしていた男とは、到底思えない眼光の鋭さ。それを見てセレイアは、本当に嬉しそうに笑ったのだ。
『……逃げ出すような真似をしなければ、過程が終了したときには、合格しなかった人間も念入りな記憶消去つきで解放するわ。イクスの残りは三席。貴方たちなら、もしかしたら奪い取れるかもしれない。三人揃って、ね。考える時間は十分に用意するから、三人で話し合うなりして返事を聞かせて頂戴――』
 ザイルは脳裏に張り付いたあのシーンの残像を払うように首を振った。煙草を携帯灰皿に捻じ込み、ベッドサイドの簡素な椅子に座った。シキはうなされる風もなく、ただ沈黙を守っている。胸のかすかな動きがなければ、精緻な人形であると言われても信じたかもしれない。
 背もたれに軽く身体を預け、目を閉じて手を軽く組む。
 瞼の裏側に、リューグの顔が浮かんだ。
 あの後、リューグは結局一度も口を利かないまま、応接室を出た。しかし、スカウトの話が出た後の彼の沈黙は、前半を埋めていた無気力なものではなく、目の前に吊り下げられたチャンスを今から狙い澄ましているかのような鋭いものだった。張り詰める空気に、ロンでさえもがやや表情を硬くしていたほどだ。表情を変えなかったのはセレイアだけだった。
 ザイルはあの時、廊下を歩きながら声をかけた。
『おまえは――もうイクスになることを決めてるようなツラをしてるが、シキが首を横に振ったらどうするんだ』
 リューグは足を止めると、ザイルをあの刃物に似た目で見つめて、言った。
『僕はシキの刀です』
 断言するような一言の後で、彼はこう続けたのである。
『しかし彼の手元を離れることも、こうなってはやぶさかではありません。伝承に聞くに、妖刀は主なきままに人を斬ると言います。彼が否と言えども、僕は妖刀となり、彼が憎んだものを必ず斬るでしょう。彼自身の安全のためにもね』
 それを言われて不意に思い出した。敵の標的はアリカだけではなかったのだ。いや――それどころか、今やザイル自身がソリッドボウルに狙われる身となっていてもまったく不思議ではない。
 凍京を離れれば或いはと思うが、メルトマテリアルから解放された後、周到に用意して逃げ出すだけの時間があるのだろうか。記憶はどの程度残るのか。懸念は山のようにある。
 表情を氷のように固くしたザイルに、リューグは眉を落とした。幾分か平静を取り戻したのか、弱い笑いを浮かべる。
『僕はこうなることを止められなかった自分が憎いんです、ザイル。あの圧倒的な存在を前にして、刀をへし折られ、信じていた力を根こそぎ否定されて。……アリカの死体が運ばれるところを僕も見たんですよ。それを追いかけることさえ出来なかった。曇天に垂れ込める鉛色の雲のような諦念を、このまま受け止め切れはしない。これを晴らせるなら』
 彼はゆっくりと視線をはずして歩き出した。足を止めたままのザイルを置いて。
『僕は、悪魔にでも魂を売り渡しましょう』
 ザイルは目を開けた。回想をやめれば、目の前には白く無機質な病室と、清潔なベッドに寝かされたシキの姿だけがある。
 リューグは本気だった。彼のあんな目を見たことがない。どれだけ殺し合いをしても涼やかな微笑を手放さなかった男が、進退窮まった獣のような目をしていた。
 これに縋らなければ、今度こそ自分は存在意義を失ってしまう。あの背中はそう語っていた気がする。
 刀は敵を斬れて初めて役に立つ。シキがいくらそれを否定しても、リューグ自身がその甘えを許さない。
 ――不器用な野郎だ。
 ザイルは自分のことを棚にあげて内心で一人ごち、ロンから貰った残り三分の一程度の煙草の箱を開けた。
 煙草を口に咥え、借り物のジッポライターのホイールを擦る。火花は出るが、火が出ない。点きの悪いライターだ。何度も繰り返し、ようやく小さな炎が点ったところで、ザイルはその向こう側にシキの瞳を見た。
「――」
 一瞬だけ、動きを止める。しかしザイルはすぐに火で煙草の先をあぶり、ライターの蓋を閉じた。
 シキは空ろな瞳を何度か瞬くと、唇をゆっくりと動かした。
「……ここは?」
「天国か地獄に見えるか?」
 天国と言うには殺風景で、地獄と言うには白すぎる部屋だ。ザイルがつむいだ言葉の意味を確かめるように、シキは目を閉じて、それからゆっくりと身体を起こした。
「……ッぐ」
 噛み締めた歯の隙間から、うめき声がこぼれ出る。
 ザイルは煙を吸い込み、唇の端から一直線に吐き出すと、椅子に座ったまま言った。
「どこに行く気だよ」
「判ってるはずだ。ザイル。君なら」
 シキは血を吐くような声で言うと、ベッドを降りるために身体を動かし、腕から点滴のチューブをむしりとった。
「君が生きてる。そして僕も生きてる。……それなら、」
「アリカなら、どこにもいないぜ」
 ザイルはロングサイズのキャビンを咥えたまま、冷淡に呟いた。正確には、冷淡を装って唇を動かした。端的な事実を告げることしか彼には出来ない。人の慰め方なんて知らないし、優しい嘘のつき方も専門外だ。
「……どういう、ことかな」
「言ったままだ。俺も、リューグも、おまえも、本当に紙一重のところで生き残った。けどアリカがいたのは、俺たちより紙一枚分下のところだった。……それだけだ」
 シキはベッドから降りて、ザイルに詰め寄った。腕が伸び、ザイルの襟首を掴む。細い腕と、簡単に振り払ってしまえそうな強さの手が、ザイルのシャツに皺を作った。
「嘘だ、アリカが死ぬわけないじゃないか、僕は約束したんだよ? ずっとそばにいるって、君を守るって……いいかげんなことを言わないでよ、ザイル。アリカはどこだい? いるんだろう、……ここに?」
 シキの声は問い詰めるというよりは、縋るような響きを持っていた。ザイルはシキに当たらないようにゆっくりと煙を宙に浮かべる。
「いないんだ。……シキ。いないんだよ。あいつはもうどこにもいないんだ。おまえは、もう判ってるはずだろ。俺よりずっと程度のいい脳味噌を積んでるおまえなら、あのアーマノイドをめちゃくちゃにやられたときにもう判ってたはずだ。俺たちはヤツらを止められなかったんだ」
 ザイルの台詞に、シキの瞳が揺れる。緋色の瞳が支えを失ったように彷徨い、視線が床に落ちた。ザイルの首元を掴んでいた手が滑り落ち、シキは膝を落とす。
「そんな」
 ザイルは唇を動かさなかった。ただ、咥えた煙草の灰を灰皿へ落とし、天井へ向けてまた煙を散らす。
「……僕は……」
 シキは落とした手で地面を掻き、拳を作った。握り締められた拳は、行き場をなくして震えている。
「僕は、アリカを守れなかった……?」
 呟きを沈黙で肯定し、ザイルは椅子を立った。煙草を携帯灰皿に捻じ込み、また新しいものを一本口に咥えて、窓際に歩く。シキに手を貸すことはなかった。自分が手を伸ばして、彼の慰めになるとは思えなかった。シキからあふれる諦念と諦観が、病室の空気を薄靄うすもやのように重くする。
 シキの唇から、言葉が零れ落ちていく。それはアリカの癖や、彼女が口にした言葉、交わした約束といった、聞いている方が腹一杯になってしまうような思い出の群れだった。これで彼の隣にアリカがいたなら、ザイルは早晩この部屋を後にしていたことだろう。一生二人で乳繰り合ってろと捨て台詞を残して、さっさと自分の部屋へ引き上げていただろう。
 シキの声が涙に揺れる。

 そう。
 アリカは死んだ。もういない。

 ザイルは背後の少年が、アリカを守っていたのと同時に、守られていたのだと今更のように実感していた。あの気難しいメスライオンみたいな女が、彼の前でだけ甘える仔猫になるように――彼にもまた、彼女にしか見せなかった一面があったに違いないのだ。
 訥々と続くシキの声を聞きながら、ザイルは煙草を指で挟み、灰を手の内側の小さな器に叩き落した。フィルターまであと少しの焦げ臭い煙草をもう一度だけ咥えてから、灰皿の中へ押し込む。
 携帯灰皿を閉める安っぽい金属音が、病室の空気を締め付ける。シキの言葉はもう、名前と嗚咽の繰り返しになっていた。意味のないループは壊れたミュージックプレイヤーに似ている。
 やがてシキが名前を呼ぶことさえままならなくなるころ、ザイルはジャケットの中の煙草の箱を掴んだ。開けたキャビンの箱の中、れてくたびれた最後の一本が、彼に手挟まれるのを待っている。最後の一本をつまみ出し、唇を舐めてから口に咥えた。点きの悪いライターを何度かスクラッチ。生まれた炎は、吹けば消えてしまうほど小さい。
 填め殺しの窓に、炎と、照らされた自分の顔が映る。
「――済んじまったことは、変えられない。おまえが喚いても、そこで泣いても。何も変わりゃしないんだ。俺たちが負けたことも、アリカがここにいないのも」
 顔を上げるシキに、ザイルは殊更ゆっくりと振り向いた。口元の煙草の煙が千切れてしまわないくらいの速度で。
「おまえは多くを失った。ここから立ち上がれってのは正直、酷な話だろう。けど、今、おまえが立ち上がるためのロープが垂れ下がってるんだ。至近距離、手を伸ばさなくても掴めるくらいの位置に。手繰った先が天国か地獄かは、俺も知らないけど」
「……ロープ?」
「そうさ。俺たちを助けて、ここに連れてきた連中がいる。奴らは言う。君たちにはチャンスがある、ってな。奴らが悪魔かそれとも天使か――いや、違うな。いい悪魔、、、、悪い悪魔、、、、かは判らない。でも、奴らは俺たちを試そうとしてる。眼鏡にかなえば、ヤツらと……あの『プラス』どもと、肩を並べる存在になれるかもしれない」
 ザイルはそこまで語って、三メートルの距離を挟み、シキの瞳の中を覗き込んだ。
 シキの瞳は涙で濡れていた。顔は涙で腫れてくしゃくしゃで、噛み締めた唇から血の赤が滲む。緋色に揺れる瞳と、よく似た色彩だった。彼はただザイルを見つめている。爛々と光るその瞳には、確かに意思ウィルが残っている。叩きつけられた不条理と理不尽を、捻じ曲げて打ち砕こうとする意思が。
「――話を」
 シキは言った。
「聞かせてほしい」
 ザイルは深く頷いた。煙草の火を絶やさないうちに話してしまおう。
 唇のそばに明かりがないと、あの天使みたいな女を思い出すのが怖かったから。
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