【仮面ライダーになりたかった戦闘員】

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  第二十一話  

 

彼女の部屋は、いつもより甘いにおいがした。
 それが錯覚だったのか本当にそうなのか、今の俺には判断がつかない。
 空気に呑まれたみたいに手が震えて、普段なら出来ることが上手く出来なくなる。手が汗ばんで、プラスチックのちっぽけなボタンを摘んだ指先が滑った。何度も、何度も。
「……」
 彼女は何も言わない。連なるのは息遣いと衣擦れの音だけで、その中途半端な静寂にひたって、二人きりでベッドの上にいるということを強く実感する。
「……」
 俺も何も言えない。ときどき視線が絡み合って、悪戯っぽく笑う彼女の視線から逃げるみたいに、手元を通り越してシーツの皺まで視線を落とす。口の中がしきりに乾くのに、唾を嚥下するように喉ばかりが動いた。
「……」

 吐息が、抜け駆けして擦れ合う。
 彼女の肌は、シーツと比べたっていいくらいに白くて、それだけでどうにかなってしまいそうだった。
 
「――」
 ……静かな夜だった。
 これから、朝になっていくだけの時間帯。深まりきった、夜の一番奥。
 世界中に二人だけみたいだ、って、どこかの歌みたいなことを思った。
 まるで雪の夜を思わせる。音のない世界。
 ふと、俺が最後のボタンを摘んだ時、彼女の手が優しく俺の右手をくるんだ。しっとりとして吸い付くみたいな柔らかい手。俺よりも、少しだけ冷たい手。
 驚いて視線を上げると、彼女は眼に茶目っ気を滲ませて、赤い頬を笑みに緩めた。
「……ね、一生懸命人のボタン外してるとこ悪いんだけど」
「な、何?」
 反射的に問い返す。何かまずいことをしただろうか。そう思った矢先に、彼女は手を離し、指先で俺の額を小突いた。カツン、と硬質な音がして、いまさらのように思いだす。考えてみれば、間抜けな話だった。
「自分のメットは外さないの?」
「……あ……わ、忘れてた……」
 改めて彼女に言われて、メットの下で熱い頬にまた血が集まるような感覚を覚えた。
 全身の血が顔に集中しているような感じ。言葉を失いながらも慌ててメットを取っ払う俺に、彼女は無邪気な微笑を見せてくれた。
「あはは、かわいー」

 ――ああ、その一言には勝てる気がしない。



【強がりの裏の嘘も 放った ぶちまけた】




 何かを引き裂くような感触を覚えながら、彼女の奥に沈んでいく。
「―――ッぅ……っ」
 こらえるような彼女の声。強く引き結ばれて綻ぶ唇の端。目の端に滲む涙――抱き締めた俺の腕の中で零れていく、切ないくらいに綺麗な雫。
 どうしたら優しいキスになるのかも分からないから、ただ夢中になって唇をあわせて、ついばむ。潤んだ瞳を閉じて彼女が応じてくれるのが、ひどく愛しい。
「……痛い?」
「っん…い、た……い、けど……」
 涙を拭うこともなく、行き場をなくしていた彼女の手が俺の頬に伸びる。
 ひんやりとした小さな手の感覚。
 桜色の小さな唇がわななく。掠れた言葉が零れ落ちていく。
「だい、じょぶ……」
「……無理、しないでも……ッ」
 呼吸が乱れる。息を呑む。包み込まれる感触に背筋が震えた。彼女の痛みと引き換えにこの悦楽を得ている気がして、どうしようもない気持ちになる。
 そんな俺に、彼女は痛みに眼を瞬かせながら、身体を震わせながら、それでも気丈に、言葉をくれた。

「だっ、て、……いつも君はもっと痛くて、怖い目に……あってるでしょ? それにくらべたら……全然、なんでもない、よっ……」

 痛みに震えながら途切れ途切れる言葉。言葉を出すのも億劫なほど、痛いはずなのに、それでも俺に言葉をくれる。
 愛しかった。それ以外の言葉で、どうやって表せばいいんだろう。分からない。だから、もう一度、離さない様に抱き締めた。見える肌全てにキスを落とした。そうしながら、耳元で何度だって囁こう。

「――愛してる」
「っ ……あ、たしも……」

 ――互いが溶けて混ざって、境目が分からなくなるくらいまで。



【そう 誰か傷つけても 君の笑顔だけは譲れない】




 かさり、と、布の触れる感覚。僅かにシーツが動いて、浅い眠りから覚めた。ぼやける視界を、数度瞬いて正す。
 気だるい全身の感覚が、夢でなかったと知るための材料だった。今更実感が湧いてくる。
 身体を起こそうと僅かに身じろぐと、声が横から聞こえた。
「……あ、ごめん。起こしちゃった?」
 聞きなれた優しい声。彼女は起きていたようだった。鼻に掛かる声を出して否定を示し、身を起こすのをやめて彼女の側に寝返りを打つ。
「いや、大丈夫。さっき起きたとこ」
 そっか、と彼女は笑った。ならよかったー、なんて安心する表情。その一つ一つが、夜に沈んでなお輝いて見えた。
「……あのね。夢、見たんだ」
「夢?」
 唐突な彼女の言葉に問い返すと、彼女は幽かに頷いて、僅かに俺に擦り寄る。すぐ傍から見つめてくる視線。一線を越えた今も、どこか気恥ずかしい。
「そう……夢。あたし達と、子供がいる夢。キミの子供」
 届かない理想を口にするような声で彼女は言う。
「……でもね、ドクターさんが言ってたの、戦闘員は全身を改造してるって。 無理、なのかな?」
 訴えるような視線。
 縋るような目に、少しでもいい回答をあげたくて、俺は暫く考え込んだ。
 俺みたいな人間が戦闘員に生まれ変わる時、身体は戦闘に都合のいいように――交換に耐えうるように改良される。
 この組織に入った時は無我夢中…というより自暴自棄だったから気にしなかったけれど――確か。その、改良する前に、
「確か……戦闘員は精子を保管してるんじゃなかったかな」
 長いこと前の記憶を掘り返しながら、言葉を紡ぐ。
 確かその筈だ。確証はないけれど、絶望的ではないと思う。
「……ホント?」
 問い返す彼女の眼差しに、ぎこちないながらも頷いて見せた。
「……今度ドクターに聞いてみるよ」
 言えば、彼女の笑みが花開く。
「うん。……ホントなら嬉しいな――……あたし、キミの子供が欲しい」

 夏の終わりの朝。
 ――扉の外には活気が宿り始めていた。
 窓から差し込む光が彼女の横顔を照らしていく。
 間近で絡む視線。数瞬すれば、どちらからとも無く閉じる。

 ……そうして、最後に、もう一度だけキスをした。
 この幸せを護ろうと、心の底からそう思いながら。

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