【仮面ライダーになりたかった戦闘員】

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  -第十五話-  

生きていく意味を失くした時
自分の価値を忘れた時










 今この世界は、今までのいつよりも暗い。

 壁を見れば、モノトーンに見える。……いや、モノトーンに見えるというのなら全てがそうだ。テレビでくだらないトークをしているお笑い芸人も、観葉植物の緑の葉も、ソファーも床も、何もかもが単調すぎた。ひどく空虚だった。
 テレビのトークに有線放送の音楽が入り混じる。俺の耳は、もうそれを雑音としてしか捕らえないようだった。聞く意味がない。聞く価値がない。そんなことばかりを思う。
 いつもの休憩室、いつものソファー、いつもの時間。なのにこの世界にはもう、妹はいない。
 ――だからそれが悲しくて、何もかもが灰色に見えるのだ。
 真っ白なシーツにくるまれて、天使ですら流せないようなきらきらとした涙をこぼした。そんな妹の姿が瞼の裏側から離れない。何を聞いても、耳にはあいつの言葉だけがリフレインする。
 
『もう、良いよ』

 掠れた声で紡がれたあの言葉を、すぐに忘れることが出来るわけがなかった。

 もう、何日も経つ。
 なのにあの日から何度も心の中で、妹は俺にそう叫ぶ。
 ひどく遠いパステルカラーに身を染めて、ぼんやりとした輪郭のままで叫ぶ。踵を返すこともなく、ずっと俺にそうやって訴え続けるんだ。何度も、何度も、何度も。
 遠い場所から。 俺の手の届かない場所から。
 何が、一体何がもういいって言うんだろう?
 聞こうとしたって届かない。夢の中で聞き返したこともあった。だけど、妹は困ったような顔をするだけで、答えを教えてはくれない。いつだって俺に残るのは、目が覚めた後の疑問ばかり。
 何がもう良いんだ? 心の中で悲鳴を上げる。誰も教えてはくれないから、ただ自問するしかない。自分も答えを知るわけではないから、こうして悩み続けるしかない。思考の輪廻が続いて、ずっとずっと同じところを回り続けている。疲れてしまうほどに。
 
 ああ、なあ、もうこんな仕事をしなくていいってことなのか?
 もう、人を殺さなくて良いのか――もう……死んでも良いのか?

 閉じた円環みたいな思考が、薄暗い色を持って凝り固まっていく。生きている意味は、もう失ってしまった。
 そんなことを、考えていたときだった。

「はい」
「……え?」

 思考の泥沼に沈みかけていた俺の耳に、綿菓子みたいに軽くて甘い声が届いた。我に返る。目の前に見えたのは、こんがりとした狐色のコロッケだった。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
 差し出されたものの正体がわかった後、ゆっくりと視線を上げてみた。
 ――いつもと同じ笑顔で、赤毛の彼女が立っていた。
「カレーコロッケ、お待ちー」
 なんだか得意げに胸を張ってコロッケの袋を小脇に抱えている。
 その様子に一瞬言葉が出ない。胸に、なんともいえない暖かい感覚が広がっていく。冬の寒い夜に、暖炉を灯したときの安心感とでも言えばいいのか。
 俺が言葉を吐き出せずにいると、彼女は不安げに視線を左右にさまよわせた。
 自分が場違いなことを言ったか疑うみたいに落ち着かなげに身を揺らすと、恐る恐るといった風に切り出す。
「……覚えてない?」
 ――覚えている。
 忘れることなんて、きっとなかった。
 そんな小さな約束を積み重ねて、俺は生きて帰ってくるための糧にしているんだから。
「……あ、いや。ええと……覚えてる。いただきます」
 少しだけ早口になりながら、俺はコロッケを受け取った。温もりが伝わってくる。察したとおり、揚げたてのようだった。
 彼女は安心したような表情を浮かべて、俺の隣に腰を下ろす。
「……」「……」
 ざくり。
 かじり付く小気味のいい音と、衣の歯応え。しばらく咀嚼して、ただ出たのは「美味い」の一言だった。
 そんな俺の反応に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 たったそれだけ。
 彼女は俺の横に、少しだけ間を開けて座って、もぐもぐとコロッケを咀嚼する俺を眺めてる。
 そんな、ちいさな、大切にしたい――いつか護りたかったものに似た、日常の風景。

 胸の奥、俺の中で、妹が叫んだ気がした。
 もういいよ。
 もういいよ……。

 ――もう、自分の為に生きて良いよ。

 聞こえなかったボケた部分が、そうであるように、響いた気がした。
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