厄除け稼業とルビーの瞳

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 ――場末の酒場の前に、二人の男女が立っていた。男はしつこく女を誘い、女は満更でもないような素振りを見せながらも焦らすように渋る。
「な、ちょっとそこまでドライブに行こうぜ。埠頭の方までさ」
「えー、でもー……戻らないと、みんな心配するしー……」
「だぁいじょうぶだって! みんな解ってくれるさ、察しの悪いヤツらじゃないんだし」
 男は扇情的な笑顔を浮かべる裏で、餌をたらす釣り人のように――あるいは、獲物を待ち受ける狼のように、透徹に思考を巡らせていた。彼としてはここが正念場であった。彼は仲間と一つの賭けをしていたのである。女を落とせるか否か、という道徳的によろしくない賭けであったが、成功すれば実入りは大きい。試して失敗しても失うのは自分のタネ銭とプライド程度だ。
 男はプライドも金で買えると思っていた。だからそんなにも容易に、つまらない賭けをする。
「寒いだろ? 車は暖めてあるんだ、早く行こうぜ。それとも……こういう誘いは嫌いかい?」
 女の目が僅かな興味に濡れて揺れる。男は自分が決して醜男ではないと自負していたし、自分の笑みがどういう効果をもたらすかもまた、熟知していた。
「……強引なのね。けど、悪くは――」
 女の言葉が止まる。
 悪くは「ない」と続いたであろう言葉が止まったのに男は軽い驚きを覚えた。それに遅れること一瞬、女の目が自分ではなく、自分の後ろを見ているのに気付く。
「俺よりも興味深いものでも見えたかい?」
 逸れた女の意識を自分に引き戻すように、気取った仕草で髪を掻き上げながら背後を振り向く。
 そこには、交通量の少ない道路と――
 駐車場から走り出す、金色の『ソリッド・ボウル』社製の高速水素車(ハイスピード・ハイドライダー)があった。
 見直すまでもなく、目をこするまでもなく、『暖めてある』自分の車だった。
「え?」
 間抜けな声が口から漏れた瞬間、交通法規無視でホイルスピン、百八十度方向を変える水素車。スチーム・ポットの上げる蒸気のごとくタイヤ周りから白煙を散らし、滑るように発進。そしてぴたりと、男から二メートルほどの距離を置いて、右側のドアを晒すように止まった。
 ウィンドウが開く。眼光だけで人を射殺せそうな目をした青年が、いつもなら自分の座るはずのシートに当然のように居座っていた。
「あんた、この車のオーナーか?」
 見た目と同じく鋭い、叱責するような声が飛んでくる。男は身を竦めながら、反射的に頷いていた。やましい事など何もしていないはずなのに、思わず萎縮してしまう。そんな力が、青年の声にはあった。
「オーケイ。いい車だ。……あー、ところで今、急ぎでね。ビジネスにしてもデートにしても時間は大切だ。解るだろ?」
 聞こえてくる言葉。青年の真意を測りかねると共に、そもそも話を聞く以前に怒鳴りつけるべき状況を把握し初め、男が口を開いた――瞬間、その顔面に何かが横殴りに叩きつけられた。予測外の衝撃に体がぐらつき、バランスを保てず尻餅をつく。
「なっ……?!」
「悪いけど、借りていく。面倒だろうが埠頭まで取りに来てくれ」
 何かがぶつかって視界に火花が散っている間に、無愛想な声が無責任に告げた。間髪置かずホイルスピンとエンジンの猛る音が響き渡る。
 男が顔を振って立ち上がったときには、車のテールランプは人間の足では到底追えない位置まで遠ざかっていた。
 男が、背後から女が消えているのと、顔にぶつかったものの正体に気付いたのはその数秒後であった。
 一束の福沢諭吉だけが、男の狼狽を見上げていた。


 さる人物の『快い協力』によって足を手に入れて数分。アクセルを踏みっぱなしにして、公道を走り抜けていく。
 車の制御機構とこめかみの端子を接続し、路面情報を確認しつつ最速で飛ばす。知り尽くした道を、時にショートカットを織り交ぜながら走って行く。
 左手でステアリングを持ち、カーブを最短距離でスイッチしていく。それでも、バックミラーには数台の車が見えた。路肩のゴミ箱を蹴散らして、通行人を脅かし、まれに跳ね飛ばしながら追いかけてくる黒塗りの車。
「……無茶苦茶しやがるな。市外部から遠いとは言え……やり過ぎればいくら鈍いセントラルポリスでも動き出すぞ」
 携帯端末を開きながらぼやく。横からわななくような息が聞こえた。カスミが紡ぐ言葉は、喉が落ち着かないのか、唇が震えているのか、一定のトーンで響かずに、かすかに揺れて聞こえる。
「……お金の分、必死みたい。すごく大きな取引だったんだと思う」
「だろうよ。アタッシュケース一杯の札束なんて、娯楽番組(シムセンス)でしか見たことねえからな」
 軽く返しながら、携帯端末でシャークをコールする。同時にハンドルを左に切り、対向車を掠めながら左折。クラクションと土製が、窓越しに聞こえた。
 三回ほどのコール音の後、電話が繋がる。
「……ふぁいもしもしぃ。この電話番号は今夜は使われておりません。朝になったら掛け直してくだふぁい」
「俺が緊急の依頼をしても同じことを言えるんだな、お前は?」
 半ば怒鳴りつけるように言った瞬間、銃声と共にリア・ガラスに銃創が生まれた。さらに二発、ミラーを覗く前に銃弾を食らったガラスが賽の目になって砕けて落ちる。でかい破片が道路に落ちて、ばらばらになった。咄嗟にハンドルを切り、順路ではなく対向車線に突っ込んだ。少ないながらも確実に走ってくる対向車を避けることだけに専念しながら、照準を避ける。
 応答が帰ってくるまでの一コンマ何秒かが、途方もなく長い。
「……はぁ? 何でボクがシンのわがままに付き合わなくちゃなんないのさ。依頼料をケチってばっかりの君に出す助け舟なんてないね」
「俺が死んだら客が一人いなくなるぜ。昼したような大喧嘩も、お前が地獄に俺を追いかけてくるまでお預けになる」
 一歩間違えば正面衝突、それでなくても銃口がこっちを狙っている。地上五十メートルに張られたロープの上を綱渡りする、死と隣合わせどころか周り全てを死に取り巻かれているような状態。
「ハッ。喧嘩相手がいなくなってせいせいするね。それにボクは天国に行くよ、君と違って清い生活をつつましく送ってるからね! 大体人に物を頼むならもっと礼儀ってものがあるだろう? お願いしますの一言でも付けてみればいいじゃないか!」
 騒がしく電話の向こうで騒ぎ立てる、甲高い少年の声。ツッコミどころは山のようにあるのだが、それに口を挟むよりも先に言うべきことを言ってしまわねばならない。片手で運転するのにも限界がある。ランデブーする予定座標から残距離を逆算して、俺は唇を軽く舐めて湿らせた。
「いいか、シャーク。俺と依頼人は埠頭の[211.89]に向かう。前々回の仕事のときと同じだ。モーターボートで岸に付けてくれ。俺達が蜂の巣になって海の藻屑になるかどうかは全部お前に掛かってる。こいつは、俺からお前への依頼だ」
 考えうる限り最速で合流できる座標を含めて依頼を押し付けると、火がついたように電話の向こうでシャークが騒いた。
「だっから、なんだって君はいつもボクの話聞かないかなー!? 言ってるだろ、頼むならもうちょっと態度が――」
 シャークの言葉が出終わる前に、ボンネットで火花が連続的に爆ぜた。跳弾がフロントガラスを食い破り、流れ込む空気が風になって顔を叩く。歯を食いしばり、トランスミッションをやられる前に車体を横にスライドさせて火線を避ける。横に掛かるGと弾ける火花に煽られて、カスミが横で息を呑むような悲鳴を上げた。思わず舌打ちが出る。
「お前にはこのガンファイアーがおもちゃの音に聞こえるらしいな! もういっぺん言うぞ、金なら払うから[211.89]にとっとと迎えに来い!!」
「な……ちょっと、そんなマジな非常時なワケ?」
「これがマジでなくて何がマジだ、馬鹿野郎。これ以上付き合ってる暇はないんだ、急いでくれ!」
 声がかすれる。考え込むような沈黙を一瞬挟み、電話の向こうで息を吸う音がした。
「[211.89]なら……十二分で着く。ぴったり十二分後だ、生きて埠頭までくればしっかり運んでやるから、死ぬんじゃないよ、シン」
 時刻、二時四十七分五十八秒、五十九秒――カチリ。
 合流は、午前三時。頭に刻み込む。
「当たり前だ、相棒(バディ)。そっちこそデートに遅れるんじゃねえぞ」
 言い捨てた刹那、一般者を巻き添えにしても構わないとでも言いたげに、またもやヤクザのマシンガンが反対車線から火を噴く。一発が割れたフロンドガラスの隙間から唸り、俺の手の携帯端末を弾き飛ばした。冷や汗を浮かべながら前から向かってくる対向車を避けるため、スピンさせないレベルでハンドルを両手で切り、順車線に戻った。
「大丈夫か、カスミ!」
「う、うん、平気……どこも、痛くないよ」
 カスミに銃弾は当たっていない。それに安堵しながら、車から破損状況のデータをロードする。リアガラスが大破、ボディに銃創が幾つか。フロントガラスは全壊寸前、トランスミッションは辛うじて無事。まだ走れる。
 アクセルを踏み込み、撃ってきた車との距離を詰めて、左手で銃を抜く。安全装置を親指で弾き上げ、リア・サイトの谷と、フロント・サイトの山を一直線に並べ、それを相手の車のタイヤに合わせる。叩きつける風が目に痛い。排気ガス交じりの凍った風が、俺の目玉を痛めつける。
「随分と風通しを良くしてくれやがって……釣りだ、取っておきな」
 相手の射手がまた窓から身を乗り出す瞬間、俺はアクセルを緩め、僅かに減速した。同時に――合わせた照準に従いトリガーを二度、反動を逃がしながら絞る。
 怖気の振るうような鋭い銃声と共に、悪魔の舌のような、赤い銃火が迸った。高速で射出された.二二口径の高速弾が、砕かれたフロントガラスの隙間を縫って飛翔する。刹那の間すら置かず、前を走るヤクザの車が傾いだ。左後ろのタイヤがバーストし、黒塗りの車がスピンして標識に突っ込む。
 それを横目に再びアクセルを開けて走り抜けた。バックミラーを覗きこむと、潰れた一台に目もくれず、もう二台ほどが後ろに張り付いてきていた。嘆息する。
「大人気だな、お前」
「わたしじゃなくて、これが、よ」
 抱きしめるようにして、カスミはケースを示す。声はどうしようもなく儚い。
「やれやれ、女より金か。そうはなりたくないもんだな」
 ぼやきながらスピードを上げ、適度に道幅のあるコースを選んで走る。車に搭載されたGPSが目的地到達までの残時間を絶えず計算し、それに従ってコースを変更していく。出来れば、シャークが着くのにぴったり合わせて到着したいところだ。
 後ろからエンジン唸らせて突っ込んでくる黒塗りの車を左にドッジして、開けた窓から一発威嚇射撃をする。この銃特有の突き抜ける甲高い銃声と激しいマズル・フラッシュは、心理的な恐怖を抱かせるのにうってつけだった。
 相手が一瞬ひるんだ隙にスピードを上げ、信号を無視して次の道を直進しようと決める。ギアを一杯に入れ、さらにエンジンを唸らせる。バックミラーに目をやり、後ろの状況を確認した瞬間、隣でカスミが半ば悲鳴じみた叫びを上げた。
「ちょっ……シン、前!!」
 前の角から白煙を上げ、黒塗りの車がドリフトしながら飛び出してくる。
「……回り込んでやがったかッ!」
 舌打ちをする暇もなく、ギアを落としてハンドブレーキを利かせハンドルを切る。一瞬で車の進行角度を左に三十度ほど変え、即座にブレーキを解除してアクセルを全開。襲い掛かってくる車の運転手と、刹那の間目が合った。瞳には恐怖と命令を受けた責任感が、綯い交ぜになって映し出されていた。
「ち……っくしょ!!」
 容赦なくぶつけに来る相手を擦れ違うように、ギリギリで抜く。ただし、読んで字の如くだ。『すれちがう』ではなく『こすれちがう』の方がよほど近い。車体に衝撃が走り、金属の軋む音が車内を席巻する。バックミラーが吹っ飛び、目に見えるだけの火花が散った。
 ハンドルを切り、停車だけは避ける。ふと見れば、すでに先ほどまで追ってきていた車が前方に回りこんでいた。止まったら的になるしかない。左右を確認して逃げ道を探し――気が進まないのは山々だが、すぐに決断した。
「しっかり掴まってろよ!」
「え、あ、ひゃ、――!?」
 進路を横道にずらし、本来のコースから外れ、左の路地に突っ込む。道幅が狭く、命がいくつあっても足りないような道だが、黒服どもに突撃するよりはマシだ。ゴミ箱を吹き飛ばし、いろいろなものに引っかかりながら突っ走る。暫くして、バキリ、と音。見れば左のバックミラーまで吹き飛んでいた。……はたから見れば多分廃車だろう、既に。
 流石に連中も追いあぐねているようで、すぐには後ろからエンジン音が聞こえることはない。
 だが――予想外のコース変更は裏目に出そうだった。裏道は埠頭により早く着くための近道になってしまう。GPSが算出した到達までの残時間は九分と少し。しかも狭い道が多く、車で通れない道が点在し、回り道を取っての時間稼ぎが出来ない。
「さて、と」
 参ったね、と付け加えようとした矢先に横からの視線に気付いて軽く目をやると、カスミが不安げな目でこちらを見ていた。
「な……何か、あったの?」
 度重なる曲芸走行や銃声などを見たせいか、その目は涙で潤んでいた。揺れる赤い瞳は、きっと本物のルビーよりも綺麗で、酷く儚い。
 気丈な声を保とうとして失敗したような、そんな震え交じりの声を聞いて、俺は言葉を引っ込めた。代わりに不敵な笑いを唇の端に引っ掛けて、ハンドルから片手を離して頭を軽く、ぽんぽん、とタッチしてやる。
「大丈夫さ、信じてろよ」
 ピンチのときほど不敵に笑うのが、クールな男の条件だ。……そして、クールなヤツのところにはツキが舞い込む。俺は、そう思ってる。
「……ん」
 唇を引き結んで涙を拭いながら、カスミは僅かに頷いた。


 埠頭のフェンスを突き破る。港湾地区、座標[211.89]。海抜高度一.五メートル。海に落ちるギリギリ手前で、急ブレーキをかける。ドリフト気味に百八十度ほど回転しながら、海にテールを向ける格好で停車した。
 約束の時間まで、あと一八九秒。波の音が聞こえる。
「ちょっとばかり早く着いちまったな。これがデートなら、このくらいで丁度良いんだが」
 乾いた唇を舐めて湿らせようとするが、あいにく口の中も乾ききっていた。少しの間目を閉じて、心を落ち着かせる。
「これからどうするの?」
 助手席からか細く響く問いに、髪を軽く撫で付けながら答える。カーチェイスの最中に吹っ飛ばされた端末を拾い上げてみたら、見事に液晶が吹っ飛んでいた。壊れた端末使い道なし、後部座席に放り投げる。
「さっき運び屋に連絡をつけた。あと三分でここに着く。本当ならギリギリまで回り道をして、ぴったりな時間に着くはずだったんだが。お前、連絡用の端末なんか持ってるか?」
「直通で家に繋がるのなら持ってるわ」
「さいで」
 この状況でヤクザのボスにコールしようもんなら、逃げる前に体中の穴と言う穴の数が三倍になること請け合いだ。もちろん、鉛弾で。
 アナログの時計が針を少しずつ動かしていく。やがて、遠くからエンジンの音が聞こえ始めた。……ただし海の上を渡るためのものではなく、陸を走るためのエンジン音だった。ハイドライダー特有の、水を生み出しながら発生する甲高いエンジン音。
「……ツいてないな。ま、何事もなしにうまく行くなんてハナッから思っちゃいなかったが」
 複数のエンジン音。音が近づくにつれて、カスミの表情から色が抜け落ちていく。ライトのハイビームが倉庫の壁やら地面やらを這いまわり、やがて俺たちを睨むまでに近づいてくるのが見えた。
「やれやれ、お出ましか。……降りるぞ、カスミ」
 ドアのロックを解除しながら、傍らの女に声をかける。横目にした細い肩がびくん、と驚いたように上がる。不安そうな目をこちらに向ける女に、俺はポケットを探りながら笑って見せた。
「そんな泣きそうな顔、するな。俺はお前の依頼を受けた。厄除け屋は依頼人の信頼を裏切らない。後の仕事に響くからな。――ケースをこっちに貸してくれ」
 低い声で告げる。涙に潤む紅い瞳を幾度か瞬せた後、カスミは涙の雫が溢れる前にケースを差し出した。取っ手をしっかりと握って受け取る。ナンバーロックがかかったままのケースを暫く眺めて、ポケットから出した手で蝶番を軽く叩いた。
 不安なのは、俺も同じだ。連中相手にどれだけ時間を稼げるかはわからない。
 残り一五〇秒。
 ハイビームのついたままの四台の高級車から、ぞろぞろと武装した人間が降りてくるのが見えた。カメラアイの光度を調節し、逆光の中で相手方を見ながら、銃弾でゆがんだドアを蹴り開けた。
 連中に良く見えるように、自分の前にケースをぶらつかせながら、カスミの側に回り、ドアを開ける。
 おずおずと降りたカスミは、逆光に眩しそうに目を細めて、手のひらで顔の前にひさしを作った。
 視線の先の一団の中から、中年太りの男が進み出た。恰幅の良い体を、気持ちの悪いほどに気合の入ったスーツで包んだ初老の男だった。左頬には大きな傷が縦断するように走っている。表情は、本人は柔和に笑ってるつもりなんだろうが、傷で引きつった笑いは却って顔の凄みを増す結果に終わっていた。カスミが、俺の右腕にしがみつく。
「初にお目にかかるね。厄除け屋の……相原君か、君が」
 名前もとっくにお耳に入ってるか。頭痛がするな。
「慇懃に確認するまでもないんじゃないか、旦那。――察しの通りの安っぽい厄除け屋さ。こいつの依頼を受けてここにいる。とんだ貧乏クジだぜ、全くな」
 皮肉っぽい口調で言って、カスミに寄り添いながら半歩だけ前に出る。
 お付きの連中がマシンガンのいかつい銃口を上げるのを、ボスらしいその初老の男が手で制した。
「貧乏クジと判っていて、まだその娘に味方するかね? 今なら何もなかったことにしても構わんよ、そのケースと娘さえ引き渡せば。君のオフィスのリフォーム代と、この件を忘れるための酒代程度ならば支払うが?」
 つらつらと紡がれるボスの言葉。肩を竦めて、鼻先で笑ってやった。
「そいつが現金なり電子紙幣(クレッド)なりで支払われるならまたとない条件だろうけどな、後ろから拳銃弾で支払ってくれるってオチがありそうなんでね、遠慮しておくよ。あのデスクはそれなりに高級品なんだ。九ミリ弾が何発で等価値になるか、想像もつかない」
 頬に傷持つ男は、また傷を引きつらせて笑った。
「用心深いのだね。厄除け屋は皆そうなのかな?」
「先人の教訓ってヤツさ」
 脳裏には、いつも飄々とした笑いを絶やさなかった、師匠(オヤジ)の姿が浮かぶ。一度事が起きれば、蛇のように狡猾で、悪魔のように容赦なく、猟人のように冷静な男だった。俺はあの姿に憧れて、今もこの凍京の闇に身を浸している。
「ふむ……どうやら交渉には応じてもらえないようだ。では仕方がないな、丁度海も近いし、沈んでもらうことにしようか。――カスミ、よく見ておきなさい。君のわがままで人が死ぬところをね」
 カスミの身体が跳ねる。振動が腕を伝って俺の身を震わせる。男の声を起点にしたように、サブマシンガンの銃口が上がる。海辺に追い詰められて、扇状に包囲された状態だ。逃げ道は海にしかなく、そこに飛び込めば上からマシンガンで蜂の巣だ。判りきった結末のデッドエンドに飛び込む気には、到底なれない。
 ――大体、こういうろくでなしはみんな言うことが同じだ。誰かから大切なものを奪い去って満足して、それでは飽き足らずにそいつを蹂躙する。
 こいつらが、カスミの父親を殺すところが容易に想像できた。死体の肉を抉り、骨に直接錘を括りつけて、海へと沈める。もしかしたら俺の背後のずうっと下には、今もカスミの父親が眠っているのかもしれない。
 ふざけた話だ。
 カスミは、こいつらに全てを奪われた。父親も、自由も、渡したくない大切なものは全て、こいつらに奪われたのだ。
 ポケットから右手を出して、俺はアタッシュケースに触れた(、、、)。そうしてから、やんわりと切り出す。
「いきり立つなよ。あんたらが欲しいのはこれだろ?」
 アタッシュケースを見せてやると、初老の男は片眉を跳ね上げた。
「おや、銃口の説得力に頼ってみるものだな。おとなしくそれを渡す気になったのかね?」
「命あっての物種って言うだろ? 金で命が買えるなら、この世の大多数の人間が結構な額を払うと思うね」
 言いながら、アタッシュケースを地面に置いて蹴った。ガラガラと音を立てて、アタッシュケースが俺たちと敵勢力のちょうど真ん中辺りまで滑る。横でカスミが真意を汲み取りかねるような顔をしていた。それに軽いウィンクを返し、敵へ向き直る。
「その通りだ、相原君。金があれば命でさえも買える。素直ついでに、彼女もこちらに寄越してくれんかね? 私は彼女がいないと、随分と寂しい夜を迎える羽目になるんだ。――それに彼女を匿ってもいい事は無いぞ? 君は私たちに付け狙われ、その影に怯えながら暮らすことになる。君にしてみれば突然厄介事を持ち込んだ女だ。手放しても痛痒はあるまい?」
 カスミを嘲弄するように連なる言葉の群れは、手前勝手な理屈のオンパレードだった。それは一側面から見た事実ではある。俺の事務所は潰れたし、この女が厄ネタを持ち込んできたのも本当だ。弁護しようがない。
 カスミが俺の腕に爪を立てる。悲壮な顔をして、見捨てられた犬のような目で、俺を見つめている。
「――そうかもな」
 俺はやや目を伏せて、呟いた。男が笑うのが判る。カスミの指に入っていた力が、抜け落ちるのも感じる。
「確かに散々さ。いきなり事務所をぶっ壊されて、ヤバいくらいに金が詰まったアタッシュケースを持った女に連れられて、銃弾の嵐の中を逃避行と来た。ところが行き着いた果ては背後に海のどん詰まりで、報酬になるはずだったアタッシュケースも、今は俺の手の届かない位置にある。この状態に追い込まれた俺に、お前らはこの女を渡せと言う。渡したら命は保障してやるし、オフィスのリフォーム代もくれるってな」
 この散々な夜をまとめて、長台詞を吐き出すと、初老の男はパンパンと手を叩いた。
「その通りだよ。聡明だね、君は。いい条件だろう? 納得したなら、カスミをこちらへ寄越すといい。――そうだ、追加のゲームをしよう。今からカウントを始める。君が彼女を引き渡すのが早ければ早いほど、迷惑料を高くするということでどうだね?」
 でっぷりと肥えた腹をゆすりながら、気取った仕草で男が指を立てる。一、二、三――カウントが進み始める。俺はゆっくりと意識を集中した。
「シン――」
 カスミの呼ぶ声。
 俺はそれを振り払うように、口を開く。
「決めたぜ」
 カスミの腕を振りほどく。悲壮さに暗く淀むルビーの瞳が、俺から離れるのを見た。
 ――決めたんだ。
 結論なんて最初から出ているようなものだった。
 俺の前にいきなり現れて、もしかしたらこれからの俺の生き方を左右するかもしれないくらいの大博打を突きつけた女。会ったばかりの男の前で、グースカ寝息立てて、見張りをするこっちの苦労なんざお構いなしって顔をしてたこの女。
 ルビーの瞳をした女を、俺は一度解いた右腕で抱き寄せた。
「――!」
「……どういうつもりだね?」
 俺の行動の意味を図りかねた初老の男に、歯を見せて笑いかけてやった。
「こういうつもりだよ。金が大事なら、しばらくそこで紙吹雪と乳繰り合ってろ。――本当のお宝は、俺が頂いていくからよ!!」
 ポケットに戻した左手で、スイッチ(、、、、)を押下した。
 その瞬間、盛大な花火が地面で爆ぜた。思った以上の威力に、一番驚いたのは俺だったのだが――効果はあったらしい。
 貼り付けておいたライター型爆弾(、、、、、、、)が、アタッシュケースを吹っ飛ばして、中身を天まで届けと巻き上げたのである。
 爆風があらゆる物をなぎ倒さんばかりに吹き荒れる。煤煙で視界が埋まり、めくらめっぽうに引き金を引いたのか、サブマシンガンの銃声があたりで次々に巻き起こった。
「う、撃つな、馬鹿者ども!! うろたえるなっ!!」
 一度火のついたような騒ぎになれば、トリガーを引いていなければ正気を保てないのが素人だ。俺はにやりと笑った。師匠(オヤジ)みたいに決まっていたら最高だと思いながら。
「え……え?!」
 煤煙にまみれた一万円札が、天高く舞い上げられて降り注ぐ。あたりは狂乱の渦だ。マシンガンの銃声、金を集めろと叫ぶ声、煙の中に互いを探す声。
 そんな中、慌てたように爆炎と俺の顔を見比べるカスミを、一呼吸で姫抱きにした。踵を返して一直線に海へ走る。
「え、ちょっと、あれ、何、待ってよ、シン!!」
「舌噛むぞ。口閉じてろ!!」
 俺は海へと跳んだ。カスミがこの世の終わりみたいな顔をしているのを見ながら。
 でも、俺は不安を感じちゃいなかった。あいつが間に合わせると言ったら、そいつは絶対なのである。
 ばん、と音がしてサーチライトが俺達を照らした。突如として横合いから姿を見せたモーターボートの船体が水の上を横滑りしてくる。刹那の間だけ停止した船体の後部甲板に、俺はアメフト・ヒーローさながらのタッチダウンを決めた。
「あ、う」
 目を回しているのか、それとも何から喋っていいかわからないのか、お姫様が妙な声を出す。彼女を床に下ろし、軽くウィンクを飛ばした。
『言いたいことが山のようにあるんだけど聞いてくれるかなあ、シン!!』
 船載スピーカーからあふれ出す声に、俺は歯を見せて笑う。
「後でな! さあ、退場だぜ、リトル・シャーク! 派手な楽器を一丁頼む!」
『弾代も全部君持ちだぞ!!』
 がなり立てるスピーカーの声と同時に、デッキの床が開いて銃座が迫り上がった。銃座に設えられているのは、七・六二ミリメートルの弾丸を乱射するガトリングガンだった。トリガーカバーを跳ね上げ、赤いボタン・トリガーに親指を乗せる。
 そうしてから、カスミを一度だけ振り返った。
「――映画みたいってのはこういうのを言うんだぜ、カスミ。よく見ときな」
 銃座の照準装置を覗くこともなく、ガトリングガンを煤煙の向こうから飛び出してきた連中に向けた。シャークが船を前進させ始める。高まるエンジン音と、遠ざかり始めるコンクリート製の海岸、その海岸で咲き始める銃火が眩しい。甲板の手すりに銃弾がはじけて火花が出る。
「お前を閉じ込める檻が、粉々に砕けちまうところをさ」
 最後の一言にカスミが息を呑む。それ同時に、俺は秒間五十発の銃弾を、岸に向かってぶちまけた。
 M134A=\―ミニ・ガンの、巨大な羽音に似た銃声が、何もかもを綺麗さっぱり終わらせてくれる事を願って。


 ――潮風が冷たい。
 あの後、操縦席に下りた俺を待っていたのは顔面狙いのクリームパイだった。よけようにも後ろにはカスミがいるわけで、俺は頭からそれをかぶるしかなかった。顔ついでに頭も真っ白になったところに、シャークの威圧的な声が飛んできた。
「……依頼人は女の人だからしょうがないね。じゃあシン、デッキに戻るといいよ」
「そいつは幾らなんでもタフな仕打ちだとは思わねえか、シャーク」
「ボクの貴重な睡眠時間を奪った君に釈明は許されないよ。いいからとっとと出てけ」
「……」
 不安げにおろおろとカスミが俺とシャークの顔を見比べる。俺は軽くカスミの肩を叩いた。
「いつものことだよ。座ってな」
 カスミに言葉を投げてから、近くにかかっていたタオルを奪い取って、初冬の海を走る船の上にのっそりと出た。
 ――そいつが既に二時間前の話になる。さすがの俺もそろそろ凍えて死にそうだった。顔面クリームパイは、今にして思えば幸いだったのかもしれない。あれがなかったら顔中ひび割れだらけになりそうだ、そう思わせるほどに体感気温が低かった。コートの襟を掻き寄せ、半ば本気で生命の危機なんぞを感じてみたりもする。真面目に寒い。
「足の遅い船だな……どこに向かってるんだよ」
 潮風に溶けてしまいそうな声でぼやくと、返事をするようなタイミングでハッチが開いた。
 目をやると、防寒具で体を固めたカスミが顔を出していた。魔法瓶とプラスチックのカップを重たげに甲板に出すと、彼女は意外と身軽に梯子を上り、甲板に出てきた。
「大丈夫? シン」
「これが大丈夫に見えるなら、俺はお前の目が義眼か本物か聞かなきゃならなくなる」
「あはは、ごめんっ」
 カスミは本物だよ、と呟いて荷物を持ち上げ、俺の横に腰を下ろした。
「シャークちゃんって意外と優しいんだね。……あの子、シンのことばっかり話すんだよ。好かれてるんだね」
「冗談だろ。あれが俺を好いてるなんて冗談じゃない、アイツは男で俺も男だ。俺は至極真っ当な性癖を持っているただの男だよ。……それとお前、シャークちゃんとか呼ぶな。デッキからまとめて振り落とされるぞ?」
 俺が長台詞でカスミの言を止めようとした矢先、カスミは心底不思議そうな顔をした。
「あれ? シャークちゃんって女の子でしょ?」
「は?」
 何をバカな。
 仕事でもう二・三年の付き合いになるこの俺が奴の性別を間違っているはずがない。しかしカスミがあんまり真剣そうな顔をしているので、俺の口は否定の言葉を吐き出す前に根拠を問うていた。
「……なんでそう思う?」
「触ったの、胸」
「いつ」
「冗談で『女の子みたいー』ってじゃれついたときに、ふにっと」
「今、アイツは?」
「操舵室の隅っこで涙目であたしのこと睨んでたから、退散してきたのよ」
 とすると今船はたぶん自動操船(オートクルーズ)なのか。なるほど、道理で若干スピードが出ていないし、操船にあいつなりのポリシーが感じられないわけだ。
「……シン?」
「なんだよ」
「もしかして、シャークちゃんが女の子だって知らなかった?」
「初耳だった。今もこれは夢じゃないかって疑ってる」
「そっか。……そっかぁ」
 へへ、とカスミが笑った。魔法瓶の蓋を開け、カップへとココアを注ぎ、俺に差し出してくる。
「何でそんな嬉しそうなんだよ、お前」
「んー、ライバルに一歩差をつけられたかもって思うとね」
「?」
「わかんないなら気にしなくていいよ」
 カスミが軽く舌を出す。俺は釈然としないまま、差し出されたココアで指先を暖め、一口飲んだ。腹の底にじんわりとぬくもりが染み透る。
「表に行くんならココアを持ってけってね、シャークちゃんが出してくれたんだよ、これ」
「……なるほど」
 甘くて美味い。あいつは飲み物の好みには五月蝿いから、それも頷ける話だ。
 冷たい風に当たりながら、俺はポケットから煙草を取り出した。唇に咥え、空を見上げる。火をつけようとすると、横合いからターボライターの火が差し出された。慣れた手つきで、火を手で守りながらカスミが笑っている。
「悪いな」
「いーえ」
 火に煙草の先端を近づけ、軽く焙って離す。
 空は曇っていて、今にも泣き出しそうだった。煙草を咥えて煙を吐く。少しの間だけ会話が途切れて、船が水を切り裂く音だけが沈黙を埋める。
 しばしの沈黙の後、切り出したのはカスミが先だった。
「よかったの?」
「何がだよ」
「……お金、なくなっちゃったよ」
 カスミは、複雑そうな顔をして俺を見た。これからの展望に怯えるような、命のあることに喜ぶような、ボランティアを強いられた俺の顔色を伺うような……一口には言えないような顔だ。砕けた波頭が飛沫を散らし、彼女の頬をかすかに濡らす。
「確かに金は天高く吹っ飛んで不意になったさ。派手なビックリ箱だったな。トータルで見りゃあ、収入ゼロの支出マイナス二万ドルってとこか。ああ、ただ働きでしかも出るものは出て行きやがる、ひでえ話さ」
 自分で喋っていて口の中が苦くなるような感じがした。シャークは額面を負けてはくれないだろう。調子に乗ってぶっ放したミニガンの弾代は、最も考えたくない問題のひとつでもある。目の前の新しい問題に隠れてるが、思い返してみれば俺の事務所も半壊状態だ。デスクは蜂の巣だし、椅子も座れないぐらい歪んでいることは予測がついた。
 考えれば考えるほど憂鬱になる。
「……」
「だ、大丈夫?」
「……ああ。取り落としたものを悔やんでもしょうがねえしな」
 煙草の灰を払い落とす。
 そう、失ったものを悔いてそれが戻ってきた試しはない。今すぐ首が回らなくなるってんならともかく、銭感情で損した分を考えるよりも、拾った成果を喜んだほうがいい。今は喜ぶべきときだと、俺は思う。
「金で買えないものはないって言いたそうなツラだったろう、あの親玉は。けど、俺の生きてる世界には、金じゃ買えないものがある。信用だよ」
 煙草の煙を吸い込んで、言葉を吐き出しながら浮かべた。
「鉄砲とハッタリと機転と、未来ってテーブルに向けて、自分をダイスにして投げ込むのに必要なスプーン一杯の勇気。そいつらを後生大事に抱え込んで駆けずり回り、依頼人の願いを果たす。それが俺達、厄除け屋(トラブルシューター)の本懐だ。――そりゃ、いつもキレイゴトばっかりは言ってられねえさ。俺だって生きてかなきゃならねえからな。けどよ、今回はもういいんだ。俺はお前を助けた。お前は自由になった。そいつが全部(ザッツ・オール)で、世は事もなしさ」
 ココアを一口飲む。思案げな数秒の沈黙の後、カスミが口を開いた。
「よかったのかな、これで」
 視線をやると、紅の瞳が物問いたげに俺を見つめていた。ひっきりなしに変わる風向きが、彼女の髪を嬲っていく。絹糸のように流れる髪先に目をやってから、俺は海に視線を落とした。
「悪夢もそろそろ醒め時だ。お前はもう何かに怯えなくていいし、どこへだって好きなところへいける。――そりゃあ金には困るかもしれないが、そいつは、元からだ。この町の連中は、治安維持区(ソサエティ)にいる連中を除けば、どいつもこいつも同じように足掻きながら生きてる。俺も含めて」
 短くなった煙草を弾くと、煙草は風に乗ってフラフラと海の中へ消えていった。
 ――もうすぐきっと、雨が降るだろう。
 俺は昨日の眠りの中で見た、シニカルに笑う男の顔を思い出した。
「生きろよ、カスミ。――そんで、どこへでも行っちまえ。俺が拾ってやった人生、無駄にすんな」
 唇からすべり出た言葉は、かつて言われたのと同じ言葉だ。あの日から俺は必死に生きてきた。きつい時だってあの言葉を思い出せば、死ぬ気なんてすぐに失せた。
 願掛けみたいなものだ。目の前の女がどうか幸せに生きていけますようにという、神を信じない俺からのつたない祈りだ。
「……あたしは、自由なんだね」
 噛み締めるような呟きに、俺は新しい煙草を取り出して、頷く。
「ああ。いたいところに自由に行って、いたいだけいればいい。何をしようと、誰もお前を止めない。それが、自分の害になる行動じゃなければ」
 自由とは、自分の行動に責任を持つことだ。
 カスミが新天地で何をするかはわからないが、それはきっと悪いことではないと思う。痛みを刻まれた人間は、他人を傷つけるのを厭うか、他人を傷つけるようになるかのどちらかだが――彼女は後者には見えないから。
「そっか」
 カスミは防寒着の襟元に唇を隠して、俯いた。
 俺は空を見上げる。視線のやり場がそこぐらいしかなかった。
 ちらりと、視界を何かが横切る。頬に落ちて、冷たい感触が残る。

 雨か?

「それじゃあさ」
 カスミの声が耳元で響いた。反射的に彼女のほうを向いたとき、俺の視界の六割が、弧を描くルビーの瞳で埋まる。
 唇に柔らかな感触が落ちて、俺は豆鉄砲で額を跳ね上げられた鳩みたいな顔をするハメになる。
 息のかかる距離で、カスミの腕が俺に絡んだ。
「――こういう回答はどう? あたし、バカだし、行くところもないし、この街の事、何にも知らない。今のあたしがわかってるのはひとつきり、ちょっと危険な匂いのするトラブルバスターが、あたしを檻から引っ張り出してくれたってことだけ。……だから、シン」
 カスミは、冬に咲いたひまわりみたいに笑った。少しだけ憔悴していたけれど、それは俺にとって、千金に値する報酬だった。
「次の依頼をしたいの。報酬は、時間をかけて払うわ。――あたしの手を握っててよ」
 さて、こいつは厄介な依頼が入ったもんだ。
 今日一日でどれだけのことがあっただろう。事務所の半壊、初めての無茶苦茶な依頼、ヤクザの吹かせる銃弾の雨の中を手に手を取って走り回り、盗んだ車で走り出した先で、道楽で作った爆弾で札束を吹っ飛ばし、滅多に撃てないガトリングガンでハイになって、くたくたになって座り込み、寒風に吹かれながらまた依頼。
 今日ほど忙しかった日は、ついぞ覚えがない。多分これからもしばらく、更新されないことだろう。
 俺は逃げるように空を見上げた。
 行く先を暗示しているような曇り空だ。
 何かを嘆いているような薄明かりの曇天から、舞い降りてくるものがある。
 ちらちら、ちらちらと、白い軌跡が降りてくる。
 ――雨は、降らなかった。
「ここでカッコいい言葉で返してくれたら、最高の初雪になるよ、シン?」
 わかったよ。
 でももう少し。あと少しだけ待ってくれ。
 
 ――今なら、師匠(オヤジ)よりいい台詞が言えそうな気がするから。
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