厄除け稼業とルビーの瞳

next | index
 凍ってしまった、人でなしの街がある。みんな知ってる街だ。そして、ひどく閉じた街でもある。
 国の科学技術の最先端が、常にその街を支えていた。どんどん進化する技術は、やがて通常の人間が扱える範囲を超えて肥大していく。
 そうして高度に電脳化されたインフラに適応するために、次に何ができるのか。技術レベルを下げれば今以上に便利な暮らしは出来ない。かといって、扱いきれない技術など絵に描いた餅だ。その街に住む誰もがそう納得した瞬間、人間たちはいよいよ次のステージへと進みだした。
 頭蓋骨に穴を開けて、脳に機械を埋め込んだのだ。外の連中から見れば信じられない話だろうが、中にいる人間からすればしごく真っ当な結論だった。人間に扱いきれないまでに整備された環境は、人間自体への進化をもたらした。
 人間までも電脳化して、今なお輝き続ける街。無法地帯となったダウンタウンを抱えながら、金属色の街が今日もざわめく。
 時は西暦2118年。
 昔、日本という国の首都だったそこは、今はこう呼ばれていた――
 凍京、と。



 窓の外で雨が降っていたからなのか、昔の夢を見た。
 ――ガキだった。俺が取るに足らないような、新参者だったころの話だ。映りこむ昔の夜の映像。何度も見すぎて、今となっては見ながらにしてこれが夢だと分かってしまう。
 とあるヤクザな連中の組織構成を調べる途中で、俺はものの見事にしくじった。本当なら、俺が死ぬはずだった。でも、死ななかった。親父代わりの男が、代わりに死んだ。車のドア越しに〇.五〇インチ口径の銃弾に腹をぶち抜かれて。俺が掘っちまった墓穴を流れていく血で埋め合わせて、男はシニカルに笑っていた。忘れられない、皮肉っぽい笑いで。
 男はそのまま、腹から死んでもおかしくない量の血を流しながら、郊外まで、アクセルをフルに開けて逃げ延びた。……その精神力は絶対に真似できないと、夢に見るたびそう思う。
 誰もいない郊外に停まった静かな静かな車の中で、この期に及んで「煙草が吸いてえ」――と、歌い疲れたような声で、ハードボイルドを気取るそいつの唇に、俺は震える手で一本の煙草をくわえさせた。銘柄は今でも覚えている。ラッキー・ストライク。
「湿気ってるぜ、この煙草」
 男は、目を細めながら言った。煙草が濡れていた。そこで気付く。涙が溢れていた。拭っても、止まらないくらいに。
 俺は泣いていた。
 でも、男はまるでいつもどおりに笑っていた。変色しつつある唇が痛々しい。かざしたライターの火が、濡れた煙草を乾かす。火を近づけると、男はいつも通りに煙草を吸った。そして、当然みたいに咳き込んだ。
 それは咳というよりは喀血に近くて、煙草の煙を血の霧が色づけているようにさえ見える。落ちた煙草の火が、赤黒く濡れたシートで潰えそうになった。
 ゆらめく、紅い、煙。
「……逃げろよ、シン、――そんで、どこへでも行っちまえ」
 シートに落ちる血の染み付いた煙草を指先で摘もうと手を震えさせながら、男は、まるで夢を見るように呟いた。
「オレが、拾ってやった人生……無駄に、すんな」
 指が煙草を探り当てた。……けれど、煙草が持ち上がることはなかった。
 虚ろな目と、言葉を紡がない唇が、男の停止を告げていた。
 そのあと、俺がどうしたのかはよく覚えていない。どこまでも遠く逃げて、どこまでも必死に生きることしか考えていなかった。
 けれど、一つだけ確かなことがある。
 
 呪うべきその夜にも、雨が降っていたということだ。
 ――だから俺は雨が嫌いだ。ついでに言うなら、未だにこの夢を見続ける弱い自分も。


 目覚めるための取っ掛かりは、クソやかましい事務所の端末だった。
 ジリジリと鳴り響く時代錯誤(アナクロ)な音で覚醒する。カーテンの隙間から斜陽が差し込んでいるところからして、昨日の雨は去ったらしい。――机に突っ伏して眠っていたせいか、体中が軋むように痛んでいる。身じろぐと着込んだシャツが汗で張り付いているのが自覚できた。あの夢を見た後は、いつもそうだ。追憶することに慣れても、身体がそれに追いつくことは未だにない。
 古き懐かしき黒電話の音を模した着信音をBGMに、眠る前の記憶を手繰る。視線をさまよわせると、机の上のジッポライターが目に付いた。大昔の映画に出てくる探偵が持ってるようなヤツだ。
 ――ただし、中にはライターオイルの代わりに炸薬と遠隔信管が詰めてあった。工作を施して、磁性を帯びた金属にならワンタッチで吸着するようにしてある。(都心部(ソサエティ)の模型屋に売ってる玩具からの流用だ)
 喩えを間違えたな。それこそスパイ映画の主人公が持っているような代物だ。
 本物のダイナマイトやらなんやらに比べりゃ軽い花火みたいなものだが、そこは腐っても爆薬だ。いっぺんボタンを押下すれば、派手な衝撃と爆炎を巻き起こすだろう。――ただまあ、その一発限りの花火のために一日使う価値があったかどうかは微妙なところだ。そばにあるすっかり磨り減った金工ヤスリが、窓から差し込む陽光に光っていた。
 まあ、無造作に転がるそれらを見てしまえば、思い出すまでもない。昨日の夜はこれを作るのに費やしたのだった。雨の音を聞きながら、深夜まで。我ながら暇だと思う。『スパイ七つ道具』だとか『怪盗七つ道具』だとかが現場でいかに役に立たないかよく知ってるのに造るのをやめられないあたり、俺も相当な好事家だなと笑った。
 時計に横目をやると、針は午後三時七分を示していた。俺の見ている前で長針がまた一つ時を刻む。三時八分。 
 欠伸をしながら端末に目をやる。送信者は、シャーク=ザ・ソニック=<Jーティス。腕利きの運び屋で、俺も仕事柄よく世話になる。気心の知れた仲、とまでは行かないが、ヤツは俺の常連で、俺はヤツの常連だ。勝手はわかっている。
 通話スイッチを入れて開口一番、「寝起きだ。十五分後に掛け直せ」とだけ告げて切る。こうすると、ぱたりと連絡が止むのが常だ。果たして、端末は先程までの騒ぎが嘘のように沈黙した。さらに十秒待って音沙汰がないことを確認すると、シャワールームに脚を進める。事務所に備え付けのバスは狭苦しいがとりあえず温かい湯はきちんと出るので、今日のように家に帰らないときはいつも重宝していた。
 服を脱ぎ捨てて使い古しのクリーニングマシンにぶち込む。二〇一二年製の骨董品だが、この事務所を買ったときから変わらず動いているので買い換える必要性を感じなかった。一人分の着衣なら十分で洗浄・乾燥を済ませてくれる、俺みたいなものぐさにはおあつらえ向きの機種だったからでもある。
 狭いシャワールームで熱い飛沫を浴び、ぼさぼさの髪をシャンプーで流してついでに無精髭もあたっておく。体から汗のぬめりが落ちて、意識がようやく覚醒した。エンジンをかけるには、やっぱりシャワーを浴びるに限る。
 男のシャワーなんて、それこそカラスの行水みたいなものだ。十五分掛からずに身体を流し、シャワールームを出てタオルを肩に引っ掛ける。服は、すでに乾いていた。
 ジーンズを穿き、シャツを引っ掛けながら時計を見た。二十二分を示した時計の長針が、またもカチリと音を立てて一つ時を刻む。二十三分。
 少しして、端末がやかましく騒ぎ始めた。多分秒の狂いもなく、あの電話を切ってから十五分が経ったのだろうと分かった。
 溜息が出た。


「だから何度も言ってるだろ、シン! ボクみたいな才能に溢れた若者の限られた時を二時間も余計に使ってくれたんだ、相応の対価があっていいってもんじゃないか!」
 続く押し問答にいい加減辟易しながら、俺は煙草に火をつけようと机の上を探った。
 端末の画面に映るのは、名前に似つかわしくない――と言うか名前負けしている――、可愛らしい少年だった。金髪で碧眼、ともすれば少女と見紛うかもしれない細面。年齢は聞いたことがないが、多く見積もっても精々が十六、七といったところだろう。形の整った眉につぶらな瞳、その筋の女が見れば放っておかないような顔の造形だったが、生憎こっちは男なのでさしたる感慨は抱かない。
「おぉい、聞いてんの? こうやってる時間だってタダじゃないんだぜ、この分の追加料金も上乗せしようか?」
 画面の向こうでまくし立てる美麗な少年は、シャーク=ザ・ソニック=<Jーティスという。自称『凍京最速』で、乗り物を扱う仕事ならば、報酬次第で何でも請け負うことで知られている。逃がし屋、運び屋、その他として大活躍中(これも本人談だ)だそうだ。
 その自称に違わず腕は確かなのだが、がめつさにも定評があり、仕事の進行に伴う追加料金の発生に頭を抱えた依頼人は数知れない。
 がさがさと動かしていた手が、ようやくジッポライターを探り当てる。蓋を弾いて火をつけようとして――飛び出した信管に、煙草を口から落としかけた。言うまでもなく、昨日夜を徹して作った爆弾ライターであった。蓋を閉めなおし、ポケットに突っ込む。火をつけるのは諦めた。喫煙は緩慢な自殺というが、爆弾なんぞで火をつけようとした日には緩慢どころか即座に死ねる。
「やかましいな、しつこいぞ。追加料金は払わない、そう最初に言ったはずだ」
 表情が渋くなるのが自覚できた。ガキのお守りは苦手だ。自分にもガキだった時分はあるが、そのときの愚挙が忘れがたいせいもあって、俺は子供が嫌いだった。その嫌いな子供の中でも、もっとも苦手なタイプの典型例が、ディスプレイの向こうで頬を膨らましている。
「はん、ケチ臭いヤツ。大体ね、二時間も余計に取られるとは思ってなかったよ。ボクの二時間は凡人の何日分もの価値があるんだからね、そこを分かってもらわないと困る。そこらの運び屋とボクを一緒にするなんて、仮にも一流の厄除け屋(トラブルバスター)のすることじゃない。君ならその程度のこと、分かってると思ったんだけどね。見込み違いかな?」
 俺の言い分を鼻で笑うようにしながら、シャークはなおも傲慢に言葉を続けた。こいつは口から先に生まれて来たに違いない。
「ボクのドギードッグ≠ニ"ポップキトゥン≠動員したんだ、そこだけで追加給金を貰ってもいいくらいさ。あの子達の整備は格別に手が掛かるんだ。それに掛けた時間も踏まえれば、あの仕事で使った時間は総計して十三時間にもなる。これがどれほどの価値を持つか――」
 得意げに愛機の自慢を織り交ぜながら金をたかろうとするお子様。しかし、チューニングの腕は認めるが、電子車(エレカ)やらホバーバイクやらにあの名前をつけるセンスは正直どうかと思う。
「――以上の点から鑑みて、ボクには追加報酬を要求する正当な権利が」
「シャーク」
 放っておくといつまでも流れてきそうな自己中心的演説を打ち切るべく、笑顔で口を挟む。こいつにはきつく言わないと通じないし――何より、ガキにしつけをするのは大人の仕事だ。いつになったらしつけ切れるのかは、悲しいことに予想も付かなかったが。
 火の付いていない煙草を吐き捨てて、腹から声を出し、殺し文句を並べ立てる。
「お前は、追加給金なしって条件を呑んだ上であの仕事を手伝って、無事に俺から報酬を貰った。お前の手伝いがあったおかげで俺もつつがなく仕事を追えて依頼人から報酬を貰った。これで全部が丸く収まって万々歳だ。この上でお前の私欲のために俺の帳簿をいじる理由がどこにある。これ以上ぶつくさ言うようなら首根っこひっ捕まえて中年男向けの売春宿に売り払うぞ、馬鹿野郎」
 半ば本気の言葉を笑顔のまま、ドスを効かせた声でつらつらと喋ると、モニターの向こうでシャークはぴしり、と音が聞こえてきそうなほどに硬直した。
「買い手は山ほどいるだろうな、お前くらいの綺麗どころなら。選択肢をくれてやる、ここまで言われてまだ食い下がって俺を敵に回すか、大人しく引き下がって次の仕事を待つかだ。これからのお互いの利益のために後者をお勧めするがね、どっちを選ぶのも自由だぜ」
 シャークはこの奔放な性格のせいで、仕事相手を限定してしまっている。常連なんて、飽かずに付き合ってる俺と、その他二・三人くらいのものだ。持ちつ持たれつのこの関係を崩すのは本意ではないだろう。
「く……く、今日はいつになく口が回るじゃないか、兄弟。珍しいものを見たよ。そ、それに免じて今日のところは引き下がるとするかなあ」
 引きつった笑いを浮かべながら負け惜しみを言う小さな『兄弟』に、俺はおざなりに手を振った。
「ありがとうよ。物分りが良くて助かるぜ」
 言い捨てて、通話を切る。ディスプレイが黒く沈み、音声が途切れた。十五秒しても端末は騒がない。カチリ、視界の端で時計がまた時を刻む。もうすぐ四時になると、無愛想なアナログの盤面が教えていた。シャークとの舌戦に実に三十分ほどの時間を使ったらしい。あいつも無益に三十分を使ったものだ。二時間が凡人の数日分になるとうそぶくヤツの言葉を信じるなら、この三十分は凡人にとっての一日ないし半日強の価値があったはずだというのに。
 もはや見えない碧眼に向かって、俺は撫で肩を竦めた。
「さて……」
 外はもうすぐ冬だった。
 まだ早い時間でありながら、日はつるべ落としに輝きをなくしてゆく。メールボックスを開けても、仕事の依頼は着ていなかった。この間の仕事の実入りが大きかったせいで、とりあえず過ごすには苦労していないのだが、それでもやくざな自営業――『厄除け屋』――なんてのを営んでいたりすると、『仕事がない』という危機感はやはり大きい。
 一人でネガティブなことを考えると気持ちが沈むほうに向かうのは自明だ。とりあえず現実逃避に酒でも飲むかと古めかしい冷蔵庫を開けると、空っぽのワインの瓶だけが転がっていた。つまみも何もない。それどころか酒さえない。
「……参ったな、おい」
 空っぽの瓶を持ち上げながら一人ごちる。酒を飲むには寒空の下、馴染みの酒店にまで歩かなければならないらしい。……正直言って、寒いのは嫌いだ。暑いのも嫌いだが。椅子の背に引っ掛けたコートに目をやる。防弾繊維を縫いこんだだけのフェイクレザーの安物で、温度調節機能も付いちゃいない。こんなものを着て外に出るのは、仕事でもなければごめんだ。
 溜息ばかりが出る。酒を飲むために寒い思いをするか、酒を我慢して惰眠の続きをむさぼるか、さてどちらにしよう、と考えながら空っぽの瓶を弄ぶ。ひんやりとした瓶を右手で投げ上げてキャッチして、大あくび。
 ……往生際の悪い逡巡の後、仕方がないから買いにいこう、と決意を固め、左手でコートをばさり、と持ち上げたその瞬間、俺の耳に届いたのは、ドアを蹴り破るような音で――
 目に入ったのは、深いブルーの髪とワインレッドの瞳を持った、年若い女だった。手に大振りなアタッシュケースを持っている。
「は?」
 ぽかん、と口が開く。
 俺が現状把握に勤める間に、女は全力疾走の(てい)で俺に駆け寄ってきた。
 その後ろで低い音とともに――チカリ、と何かが瞬く。それが減音器をつけた拳銃のマズルファイアだと気付いた瞬間、鼓膜に甲高い音が雪崩れ込む。右手が随分と軽くなったので目をやってみたら、瓶の下半分が吹っ飛んで行方不明になっていた。
 なるほど。
 とても分かりやすい敵対のアクションだ。
「……おい、何の冗談だ」
 問う前に女は俺の背中に回り込み、俺の左腕を抱きこんでいた。殺気は感じない。状況的には、俺と女、大振りなデスクを挟んだ向こう側にドア。そして、その向こうには今まさに不法侵入を果たそうとしている黒服が三人。
 女が、俺を盾にするようにしてから叫ぶように言った。
「トラブルバスター、アイハラシン!! 間違いない!?」
 そりゃ相原辰ってのは俺の名前だが。
「依頼よ! わたしを助けて!!」
 女の叫び声に被さって、減音された銃声が数発響く。舌打ちしながら割れた瓶を投げ捨て、女の手を引いてデスクの影にしゃがみ込む。連なるくぐもったガンファイア。合成ものの木材で出来たデスクにぶすぶすとめり込む銃弾の音。
「なんだなんだ俺に何を運んできやがったお前、もしかしてとびっきりのヤバい話なんじゃないのか? こいつは可愛い疫病神だ、今すぐ手を離して置き去りにしてやりたいんだがどうだ? 俺は無関係だと言い張るぞ」
 早口でまくし立てると、人形みたいに整ったツラで、女は雲に埋もれた晴れ間を見たときみたいな笑顔をして見せた。
「向こうはそうは思ってないみたいよ?」弾んだ息、したり顔で続けざまに、「逃げないと一緒に蜂の巣ね!」
 ジーザス、クライスト。
「タチ悪ぃぞこのクソアマ!!」
 この仕事を始めて六年になるが、受ける受けないの選択権が無い依頼なんてついぞお目にかかったことが無かった。ああ、そうさ、今この瞬間までは。
「……ああまったく畜生め、今日は厄日だ!」
 コートを投げ上げる。
 黒い布が放物線の頂点に達して、銃弾がそれにめり込むのを尻目に、脚を振り上げてデスクにつけ、力の限り蹴り飛ばした。
 その行く先を見ないまま女の腕を振り払う。軽い悲鳴。通信設備一式の載ったデスクが右二人の男めがけて空中を浮く、轟音の一瞬前。その瞬間に、椅子の足をすくい上げるように持ち上げて、腕の振りだけで左の男へ投げ飛ばす。激突音、黒服たちの怒号と悲鳴が折り重なった。
 落ちてきたコートに右袖を引っ掛け、左袖に腕を通す。ぼろぼろと銃弾が地面に零れ落ちた。呻く襲撃者たちに構わず、懐に縫い付けたポケットからシガレットケース大のスタン・グレネードを取り出す。
 ――日頃の備えってのは大切だ。いつ何が必要になるか分かったものじゃない。
「逃げるぞ」
 言い捨てて立ち上がると、女はアタッシュケースを持ち直しながら口笛を吹いた。
「渋々の割には乗り気じゃない?」
「気乗りはしないが死ぬのもイヤなんでな。付いてこい」
 黒服が起き上がらないうちに、傍らの勝手口のドアを蹴り開け、ピンを抜いたスタングレネードを転がしてすぐに閉めた。閉める。外から慌てた声が聞こえてくるが、もう遅い。もう少し早く突入しておけばよかったのにな、と心の中で同情してやった。
 薄板一枚を隔てて爆発音が響き渡る。確認して二秒後、外に飛び出した。出て三歩目で目を押さえてうずくまる男につまづきかけるが、どうにか体勢を維持して走り出す。ちらり、と後ろを確認すると、女はひらりと男を飛び越えて、すぐに俺に追いついてきた。
「あははっ! すごいすごい、本職の人って違うわね、やっぱり!」
「その分報酬も凄いんだってことを忘れるなよ。迷惑料の分もしっかり取るぜ、あのデスクは割と気に入ってたんでな」
 雨上がりの匂いを孕ませた風を頬に受け、凍京のダウンタウンを駆け抜ける。後ろで叫び声と、幾つかの銃声が響くが、振り向くよりは軽くジグザグに身体を振りながらただ逃げる。このあたりは俺の庭みたいなものだ。逃げるだけなら、絶対の自信がある。
 逃走経路を割り出していく。待ち伏せの可能性を考慮して細い路地は避け、人に紛れられるでかい通りを何本か抜ければ撒けるか――
「あー、もー、なんていうか、映画みたいっ! 気持ちいいー!」
 横にばたばたうるさいのがいる。少し黙ってほしい。
 ……ああまったく、これが銀幕の上なら気が楽なんだがな。アクション映画の主人公は死なないって約束(ダイ・ハード)だし、派手に何かが爆発すれば全部の問題が解決することになってるんだから。
 どこに逃げ込むかを必死に計算しながら、俺はすぐそばの壁で弾けた銃弾に首を竦めた。


 この街には技術の最先端が詰まっている。公共交通機関を例に取れば、地面に接地して走る車両なんて残らず淘汰されているといった具合だ。公道には辛うじてガソリンで走る二輪だとか四輪だとかがちらほらと見えるが、消え失せるのも時間の問題だろう。
 凍京に住む人間は、国家に対してではなく街に対して特別な金を払っていた。言ってみれば、日本の中にまた小さな国があるようなものだ。そして、一人一人が負担する額は本来の税金よりも遥かに大きい。この潤沢な資金に引き寄せられて集った技術者たちは、あらゆる技術を発展させ始めた。
 金を払えない、あるいは払わない連中は、安全の保障されたセキュリティゾーンからはじき出され、はみ出し者の集まるスラムへと追いやられる。安全性が確立されていない技術がそこを実験場にして開発されたのも、大成長の要因の一つだった。
 ――まあ、能書きは置いておこう。
 とっぷりと暮れた空。街路に乏しい明かりが点々と咲いている。その下に黒服の影がないことに深い息を吐いて、カーテンをかき寄せる。そうしてから、ベッドの上の女に向き直った。
 襲撃された事務所から逃げること二時間。ここは、凍京の外れの方。セキュリティゾーンから外れに外れた無法地帯だ。おかげさまでドンパチは日常茶飯事、シティポリスの連中はこっちまでは追いかけちゃこない。廃墟だらけの町並みの中に紛れた、かつてホテルだった建物に俺たちは潜んでいる。窓が割れていないのは幸いだった。それなりに暖が取れる。
 スプリングのいかれたベッドの上で足をバタつかせていた女が、俺が視線を向けると同時にぴたりと動きを止めた。比較的綺麗な枕を抱きしめるようにして、こちらに視線を注いでくる。
 部屋の薄暗がりの中、携帯ランプの光が女の顔に陰影をつけていた。年は十代の終わりごろか。少女でも女性でも、どっちの呼び方でも通るような顔の造形。あどけなさと妖艶さが同居している――まあ、言っちまえば相当な美人だ。ルビーみたいな瞳がこっちを測るように見つめている。ベッドの上に終端が踊る、夜明けの海に似た群青の髪。天然ものか人工物(インプラント)か知らないが、どっちでもいいと思えるだけの魅力がある。小柄で、身長は百六十センチもないだろうと思われた。
「……でだな。突っ込みどころは山ほどあるが、まずは状況を整理しようか」
 向かってくる視線を避けるように俺は部屋の反対側に歩いた。狭苦しい部屋だ。すぐに壁にぶち当たる。それを、まるでこの世の中のようだと思った。クリーム色の壁紙で覆われた壁に背中に預ける。
「確かに俺は厄除け屋だ。相原辰って名前がある。で、俺は仕事を請ける前には必ず三つのことを聞くことにしてるんだ。――ひとつ、依頼人の名前。ふたつ、報酬の額、みっつ、依頼の規模」
 立てた三本の指をくるりと畳み、腕組みをしてルビーの瞳を正面から見返す。
「それから依頼を受ける受けないをこっちで決めさせてもらってる。――それを踏まえた上でだな、まずは自己紹介と行こうじゃないか。こっちはもう事務所が半壊するって憂き目に遭ってるんだ。あんたの名前が壊しちまった通信機やら机やらより高いなんて言わせないぜ」
 俺が筋道立てて言うと、女は気のない息を吐いた。目に掛かる前髪をさらりと後ろに梳いて直す。
「……もうちょっとワイルドな人かと思ってたのに、ちょっと減点かな。手を引っ張って逃げてくれるところまでは百点だったのに。理屈っぽいのは苦手よ、もっとシンプルにできない?」
 いけしゃあしゃあと抜かす女に、ちょっと青筋が立った。この女は事務所を潰された俺の迷惑を映画の中の出来事程度にしか考えてないのか。
「あんまりふざけるなよ、プリンセス。俺が聞いたことに答えなきゃ、この依頼はなかったことになる。黒服どもに銃で蜂の巣にされるのと、暫く我慢して俺とお話しするのと、どっちを選ぶ?」
 目を細めて聞くと、女は肩を竦めた。その目に恐怖の色はない。
 ――それだけは評価してもいいか、と内心で思う。強気な女は嫌いじゃない。
「分かってるわよ、冗談の通じない人ね。……ま、思ったより取っ付きやすいタイプで助かったわ。もっと怖い人たちかと思ってたもの、厄除け屋って」
 物怖じしない女だな、と思った。割れた備え付けの鏡を横目で覗き込むと、鋭い三白眼とざんばらの茶髪をした悪人面の男がにらみ返してくる。こんな顔の男を怖がらない辺り、相当肝っ玉が据わっているんじゃないだろうか。
「わたしの名前はカスミ。ファミリーネームは……無いわ。だから、ただカスミって呼んでくれれば、それで」
 女――カスミは、枕を放り投げるようにベッドの上に投げ出して、赤い瞳を伏せた。
「そうかい。……分かった、それならカスミ。続けてもう二つだ。依頼の中身と、報酬の額を頼む」
 短く返すと、カスミは顔を上げ、驚いたような、きょとんとしたような、その中間みたいな顔をした。
「……聞かないの?」
「何をだ」
「ほら、名前の理由、とか」
「依頼に関係することならあとで分かるだろ。そうでないなら、他人の過去を詮索するのは好きじゃない」
 そっけないやり取りが、クリーム色の壁紙に当たって跳ね返って、毛足の長い絨毯(じゅうたん)の中に溶けた。
「……ドライなのね」
 何がおかしいのか、くす、と女の口から笑い声が漏れた。口紅すら引いていないあどけない唇が、ランプに照らされたまま僅かに歪む。視線を外し、カーテンで閉ざされた窓を見た。厚手の布が、揺れもしないで夜空をさえぎっていた。
「こうでもしなきゃ、生きていくのが辛いのさ。そういう街だ。……話がずれてるぜ、次を頼む」
 つまらない結論をはじき出し、話の続きを促す。僅かに迷うような逡巡のあとに、ソプラノの声がぽつりぽつりと話し始めた。
 なんてことのない、どこにでも転がっている話。
 母親は彼女が生まれたときに死に、彼女は男手ひとつで育てられたらしい。その父親はヤクザの弁護士で、裁判の度必死で駆けずり回っていたのだそうだ。しかし――まあ、当たり前のことだが、訴えられるくらいだからヤクザの連中も相当恨まれるような事をやってる。そいつを一人で弁護するなんてのは無茶な話だ。
 結果、隠蔽しきれない汚い事実を知りすぎ、思うように成果が上がらないこともあってか、彼女の父親は『処分』されたのだそうだ。そして帰ってこない父親を待ち続けるところに、ヤクザから迎えが来た、と。
 それが、七年前の話。そのときから彼女は父親の姓を名乗ることを許されず、ただの「カスミ」として生きてきたのだと言う。見目秀麗なのは見ればわかる。
「子供の頃からヤクザの情婦になるなんて救いようのない話よ」少しだけ疲れたようにカスミは笑った。「……七年間ね、ずっとカゴに押し込められてたようなものよ。ねだればそれなりに欲しいものは手に入ったけど、助けに来てくれる王子様と自由に生きていける世界だけは結局、ずっとお預けだったわ。夜が痛いのにも少しずつ慣れていったけど、痛くなくなってからは代わりに心が磨り減ってくような感じだった」
 どこにでもある事だ。この凍京だけじゃないだろう。似たような話は世界で聞けるはずだ。――だが、それだけに救いが無かった。茶化すような声で、カスミは続けた。
「だからね、思ったのよ。待ってても王子様が来ないなら、わたしから行かなくちゃ、ってね」
「……で、行動した結果、俺の事務所は半壊したわけだ」
 口を挟んでやると、彼女はいたずらっぽく肩を竦めて、赤い舌をちろりと出した。
「いいじゃない、さっきも言ってくれたでしょ? プリンセスって。お姫様をエスコートする王子様の道のりには苦難が沢山、って言うのが筋なのよ。ずっと昔からね」
「口の減らない女だな……まあ、いいさ。ついでに言うと、悪者からお姫様を助けるついでにお宝を手にするってのもよく聞くぜ。報酬はいくらだ?」
 俺の言葉にカスミは頬を膨らませた。減らず口はどっちよ、とぶつぶつ文句を言いながら、ベッドの横から何かを持ち上げる。事務所に来たときから持っていた、見るからに重そうなアタッシュケースだった。
 たおやかな指が無造作に番号を入力する。ロック・ランプが緑色に光り、アタッシュケースが開いた。
 ――この時代、現金紙幣を持って買い物をする人間は皆無であるとはいえ、その価値にはいささかの衰えもない。電子紙幣が主流になろうが、福沢諭吉の価値は変わらないのだ。
 開いたケースの向こう側には、福沢先生がなんとも言いがたい表情で、白いバンドで纏められ、ぎっしりと鎮座していた。
「これが財宝じゃ不足かしら?」
「……驚いたな」
 顔に驚きを出さないように必死になりながら平静な声を作り、札束の行列に目をやる。壁から背中を浮かせてベッドまで歩き、アタッシュケースの中から一束取り出してみた。薄闇の中ではあったが、紛れもなく本物だった。
「……囚われのお姫様が、また大層な宝物を持ち出してきたもんだな」
「取引に立ち会ってみたいっておねだりしたのよ。ケースの番号はいつも、組の人がメモを作ってるからそれを見て覚えたの。あとは車の中から逃げ出すだけだったわ。このお金でわたしは、あんたから自由を買うつもりよ。……で、どうかしら? これであんたの言った三つは、全部教えたけど?」
 ベッドに座ったまま挑戦的な目つきで俺を見上げてくるカスミに、俺は肩を竦めざるを得なかった。
「……厄除け屋、相原辰。この依頼、確かに引き受けた」
「……うん、それじゃ、頼りにしてるわ、シン」
 屈託のない女の笑いを見て、現金ながら俺は少しだけ心に浮き立つものを感じていた。……やっぱり、男ってのは単純だ。笑みにつられて涙に騙され、行き着く先はいつも地獄。嘆きたくなる。
 ……ただまあ、それでも。こんな綺麗な女を笑わせられるなら、地獄を見るのも悪くはないんじゃないだろうか。回れ右して自分の安全だけを考えるよりは、大分いいはずだ。ロックの神様だって言ってる。"いつも前を向け"。
 そうだろ、ロックンローラー?


 深夜。アナログの腕時計は午前二時三十分を刻んでいる。
 ベッドではカスミが静かな寝息を立てていた。俺はと言うと、この暗がりで地図と向き合い、脱出ルートを確保するのに躍起になっていた。……ランプはあまり必要ない。カスミが寝ると言い出したときから消して、視界を暗視モードに切り替えていた。
 凍京から脱出するためにはどうしたらいいか。陸路だとヤツらの目に触れるし、当然、公共の交通機構は使えない。となれば自然と空路も選択肢から除外される。となれば、残るのは海路だ。モーターボートを扱う技術はないが、ない技術は金で買えばいい。前金代わりに受け取った札束をもてあそびながら、一人の少年の名前を思い出す。
 シャーク=ザ・ソニック=<Jーティス。自称『凍京最速』。
 名前の通り海路を得意とするあいつなら、辿り着きさえすれば確実に運んでくれる。なんだかんだとうるさいガキだが、仕事の実力だけは大したものだ。そこにだけは信頼が置ける。
 シャークに頼るとすれば、課題は二つ。どうやってあいつに連絡をつけるかと、どうやって逃げるかが問題になる。
 事務所の位置を知られているならば、事務所に残した情報から携帯端末の情報も掌握されている可能性があった。……要するに、今俺が持っている携帯端末から電波を発信すると、盗聴の危険性や居場所が割れる可能性があるってことだ。
 だからシャークに連絡するのなら、俺とヤツにしか分からない言葉で、出来るかぎり東京湾に近い位置で連絡しなければならない。ヤクザどもが嗅ぎ付けたときには船の上、と言うのが理想だ。
 どうしたものかと考え始めて、もう随分になる。霞む目頭を揉み解して、でかいあくびを一つしたところで、ふと俺の耳におかしな音が入り込んできた。
 完全に無音だった世界、廃ホテルの二階にいる俺の耳に聞こえてきたのは、砂利を踏む音だった。
 気のせいにしてしまえるレベルの小さい音だったが、それは喩えようもなく不吉に聞こえる、警鐘じみた響きを持っているように思えた。目を閉じ、耳を澄ます。サイバーウェアを作動させて、聴覚を拡張した。……程なくして、また一つ。二つ。三つ。決して等間隔ではないが、時折聞こえてくる。
 俺は目を開いて、注意深く窓に身を寄せた。減音器付きの拳銃のグリップを握り、カーテンを僅かに開いて、隙間から外を見る。月だけが明かりの全てとなった外。そこに――薄い影を落として、夜の闇より暗い黒いスーツを着た男が四人、小汚い格好をした男に連れられて、足音低く歩いてきていた。
「……!」
 ――生きるためには、他人を売るのもこの街での生き方の一つだ。
 俺はともかく、カスミはこんなところでは目立ちすぎる。最後のほうは特に人目につかないよう注意していたが、どこに目があるのか分からない街だ。不備がなかったなんて傲慢なことは言えない。
 舌打ちをこらえながら素早くベッドにより、カスミの身体を揺さぶった。
「……ん……ぅー、ねむいー……まだねるー……」
 阿呆。お前は俺を墓の下に連れて行くつもりか。
「あと五分……」
 地獄逝きの列車に片足突っ込んでるぞ。いいから起きろ!
「……あ、シン? え、あれ、何? 距離近いよ? 夜這い?」
「このベッドを棺桶にしたいなら今すぐキスしてやるよバカ野郎。とっとと起きろ、連中が来た!」
 小声で叱咤すると、ルビーの瞳がようやく現実に帰ってきたように輝きを取り戻した。慌ててベッドから飛び降り靴を履く。
 それを横目にしながら、俺は拳銃に初弾を装填し、精度を上げるために減音器を外した。必要になれば撃つ。その覚悟は、この世界に踏み込んだとき(あのよる)からずっと変わらない。
 相手が聴覚拡張のサイバーウェアを持っているなら、多分居場所はもう割れている。持っていないことを祈るが、希望的観測でしかなかった。なら、最悪なほうを想定していたほうが気が楽になる。
「もう多分居場所はバレてる。場合によっちゃ銃も撃つ。お前に出来ることは一つだ、カスミ。何があっても足を止めないで俺について来い。そうすれば――必ず助けてやる」
 出来るか? と目で問いかけると、暗がりの中で赤い瞳が少しだけ迷うように揺れて――やがてぴたりと、定まった。
「……命、預けるわ」
 いい返事だ、と思った。

 部屋を飛び出す。暗視モードの視界はある程度までなら、光量を調節することで暗がりを鮮明に見通すことができる。
 避難するコースは三つ、非常階段と東階段、中央階段。非常階段は外に面しているし、派手に音が出る。よって除外。迷っている暇はなかった。広い中央階段を選ぶ。
 中央階段は二度と動かないエレベーターの横にある。確認済みだ。部屋を出て右に数メートルでエレベーターに辿り着く。
 階段のあるほうに足を進めようとした矢先、白いライトの光が闇を削る。反射的にブレーキをかけた瞬間、くぐもった銃の叫びとともに曲がり角の建材が弾け飛んだ。
「きゃっ……!」
「隠れろ!」
 カスミの手を引き、角に隠れる。
 ボヒュ、と押し込めたような銃声。発射音の高音部が聞こえない。減音器付きの銃だ。連射間隔からして恐らくは拳銃。マシンガンを持った人間は、敵を制圧するためにもっと銃弾をばらまくものだ。続く銃声、削られていく壁。
 足止めを食らうと、挟み撃ちの危険性が増える。また数センチ、壁がえぐれるのを見て、俺は大きく息を吸った。
「……本当にまったく、映画じみてきやがったぜ……カスミ、ケース貸せ」
 右手に銃を、左手に女を。これが映画でなくてなんだって言うんだろうか。
「え、で、でも、これ……」
「いいから。……呼んだらすぐに降りて来い、いいな」
 反論を許さず、ケースを彼女の手からもぎ取る。そして呼吸を止め、相手の弾丸の切れ目を待った。
 素人の射撃には癖がある。おっかなびっくり数発撃って止める、の繰り返しだ。その一瞬――弾丸が途切れるのを待つ。
 果たして、数秒後。ぴたりと射撃が止んだその瞬間、俺は強く念じた。――この感触は、喩えるならスイッチ。頭の真ん中にある、切り替え式のレバースイッチだ。OFFからONで、世界が変わる。
<Cyberware, Tran-S-pirit get ready. ver/ILLegal drive!!>
 一瞬後に響く銃声は、もはや鋭くはなく、刃を潰されたナイフのように鈍い。代わりに身体に伝わる全ての感覚が刃物のように鋭敏化される。頬をかすめる空気が、まるで泥の膜のように遅く重い。それを振り切って、野球ボール並みのスピードに感じられる銃弾を「くぐり抜け」た。
 陰から飛び出す。ケースを盾にし、階段に突っ込んだ。ケースに当たることを恐れたのか、次の発砲まで刹那の間が出来る。それを逃さず、俺は床を蹴って跳び、手すりに脚をつけて更に跳躍した。奴らにとっての一刹那は、俺にとっての数秒分にさえなりうる。
 敵を確認する。二人。と言うことは、残りの二人は別のコースから来ていると言うことか。
 息を止めたまま、空中でケースを振りかぶる。慌てたように黒服たちがライトと銃を持ち上げるが、遅い。それでなくても頭上を狙うのは訓練していなければ難しいのだ。ただ正面に撃つだけならば当たっても、動きのある、それも上から落ちてくる物体に弾丸を当てるのはきわめて困難だ。
 そのまま、踊り場で立ちすくむ片方にそのケースを投げつけ、もう片方に落下の勢いを乗せた跳び蹴りを仕掛けた。ケースがぶち当たる鈍い音と、俺の足に帰ってくる痺れるような衝撃。そのまま男を下敷きにするように着地する。
 相手の手からこぼれたライトを一つ拾い、残りの片方と拳銃を奪い取って階下に捨てる。男たちが起き上がる様子がないのを確認して、俺はようやく息を吸った。脳裏のスイッチが、バチンと音を立ててオフに切り替わる。世界が一瞬だけ闇に閉ざされ、足元を失いかける。壁に手を着くことで、どうにか踏みとどまった。
『タイプ・トランスピリット』――の、非正規品。『メルトマテリアル』社製の神経加速プラットフォームで、一般には流通していないサイバーウェアである。あこぎな闇医者を脅して脳味噌に埋め込んだものだ。同クラスの製品の中ではトップクラスの性能を持つ。その分負担も大きく、長時間の使用は命を縮めるが、一呼吸までならこうして眩暈程度で済んでいた。少なくとも今までの経験では。
「だが……しかし、疲れるな。追加料金を取りたいところだ。おい、終わったぞ」
 鋭く呼びつけると、角からおっかなびっくりと顔が出る。ライトで、階段を照らしてやった。すぐに駆け下りてくる。
 転がった黒服の二人に目を丸くしながらも、カスミはケースを拾い上げ、小さく息を吐いた。
「……どうやったの?」
「見たままさ」
 返答になっていないとカスミが文句を言い出す前に、階段を急ぎ足で下りる。後ろから、小さな足音が慌てたように付いてきた。警戒しながらロビーを横切り、埃っぽい廃墟を抜け出す。
 突破されるとは考えていなかったのか、外に待ち構えている連中はいなかった。まあ、夜中にどやどやと多人数でやってきて感づかれるほど間抜けなこともない。正しい選択だったのだろうが、結果はご覧の通りだ。
 だが、連中も馬鹿じゃない。中央階段で伸びた二人を発見すればすぐに追っ手を差し向けてくるだろう。
 一刻も早く移動手段を確保して、シャークに連絡を入れなければならなかった。
 静かな廃墟の列を駆け抜けていく。……一分とせず、俺たちの足音に続いて、追っ手の足音が混ざり始めた。
「そっちだ、回りこめ!!」
「……了解!」
 俺たちの位置を把握しているのか、指示を飛ばしあうような声が聞こえてくる。
 聞こえていたのか、俺の左手を握るカスミの手に力がこもった。視線を後ろに流せば、紅玉のような瞳が俺を見ていた。媚びるでもなく、取り入ろうとするでもなく、俺を信じていいのかだけを心配しているような瞳。
 そんな目をされたら、信じさせたくなる。厄除け屋としてのプライド以上に、男として。
 俺は唇の端に笑みを張り付け、吹き付ける逆風の中に言葉を浮かべた。確かに届くように少し大きく。
「俺の背中についてこい。お前がする事は、ただそれだけでいい。――助けてやるって言ったろう?」
 返答を聞かないまま、俺は前に向き直った。影から、一人の男が顔を出す。黒服。銃をこっちに向けるその前に、カスミの手を離して加速する。手足に仕込んだ人工筋肉の収縮率を調節し、一瞬で最大級に加速。地面を這うような低姿勢で駆け抜け、相手の目の前まで接近する。
 うろたえたように黒服が二発銃弾を撃つが、狙いは甘い。俺の頬を掠めて、銃弾は後ろに爆ぜて消えた。左手で相手の右手を銃ごと押さえて封じ、右足で腹部を蹴りこむ。内臓を壊しかねないほどにめり込んだ爪先を足がかりに跳び、勢いを殺さないまま左ヒザを相手の顎に叩きつけた。男の上体が傾き、物も言わずに倒れ伏す。口から血の泡を吐きながらピクリとも動かない。
 一発目だけで十分だった気もするが、ダメ押しがあって悪かった試しはない。念のため、ってのはいつだって大切だ。『念のため』で顎を砕かれる側はたまったもんじゃないだろうが。
 間髪いれずに振り向くと、カスミの後ろの曲がり角でまた二人ほどが顔を出す。泡を食って追いかけてくる様子を見ると、あの金は相当大切なもののようだ。もっとも今更、はいお返しします、なんてのが通用するとは思えないし、なによりあれはこの仕事の依頼料だ。返してやるつもりなどもとよりない。
「後ろを振り返るな!」
 足を止めかけるカスミを叱責しながら、俺は地理状況を確認した。ここはスラムだ。利用できるものならいくらでもある。目に入るのは燃料缶らしき赤いドラム缶、建築途中の建物付近に吊り下げられたままの建材。
 防護対象が近いのに爆発は避けるべきだ、と決断したときには、持ち上げた小口径の拳銃が三発、甲高い銃声と共に火を噴いていた。鉄骨を纏めていたワイヤーに二発分、目にも鮮やかな赤い花火が咲く。縒り合わされた鋼線が引き千切れていく軋みに背を向け、追いついてきたカスミの手を取ってまた走り始めた。背後で、派手に崩れ落ちる鉄骨の音に悲鳴が飲み込まれていった。轟音と悲鳴が鼓膜を揺らすのを感じながら、俺はこの上なくシニカルに見えるように、表情をゆがめる。
「アーメン。天の幸運と医者の技術に、命の無事を祈っておくよ」
 言い捨てて肩を竦める。その語尾に、かすれた笑い声が混じった。
 目をやると、恐怖と爽快感が綯い交ぜになったような――初の空戦で敵機を撃墜したパイロットのような顔をして、カスミが濡れた瞳を揺らしていた。唇がわななくように震えて、言葉を紡ぎだす。
「……あの台詞、取っておいた方がよかったかもしれないって、今思ったわ」
「どの台詞だ?」
 風に溶けて消えていく声、流れていく景色。弾んだ息のまま、カスミは白い息とともに、俺の耳に言葉を吹き込んだ。
「映画みたいって、言ったでしょ」
next | index
Copyright (c) 2008 TAKA All rights reserved.