Nights.

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  Case of Scrad  

 病院の空気は苦手だった。消毒液のにおいだけで、どこか暗い気分になる。ここにはおれを憂鬱にさせるものが多すぎた。例えば車椅子だとか、ワゴンの上に並べられた注射器だとか、そういう色々なものだ。
 真怨との戦いから一週間が経つ。黒さんは肩にある傷を最低限だけ治療して、おれを民間の病院――巳河総合病院に放り込んだ。これは笹原に関しても同じで、黒さん曰く、「傷の痛みでも噛み締めたまえ」とのことである。
 前回の戦いで真怨側も過度の打撃を負っているらしく、早々は手を出して来られないとのことだ。そのおかげで、パッといつものように傷を治してもらうこともなく、おれは病院に突っ込まれたまま、希釈されたオキシドールの匂いの中に身を浸しているわけだ。死にたくなるね。
 というわけで通り魔に刺されたことになっているおれこと厚木康哉のところには、時々客が来たり来なかったりする――見舞いと称した退屈しのぎの悪友二人組や過度に心配するお下げの少女や通り魔に縁があるわねと笑う軽薄な女やいつだってうるさい妹など――のだが、その日はたまたま、誰も来ることがなかったので、おれは笹原の見舞いに来た女性と入れ違いに病室を抜け出すことにした。どこかで見覚えがある顔だと思ったら、あの日、遊園地で笹原と一緒にいた女性だった。隣で笹原がハトがグレネードランチャー喰らったような顔をして呆けているのはとりあえず黙殺する。
 聞けば彼女は真怨との戦いで力尽きる寸前のおれと笹原を助けてくれたのだという。まともな礼が出来そうにないのでしばらく萎縮気味になるおれに、彼女は優しい笑みで「相互互助」と一言だけ囁いた。困ったときはお互い様ってことだろう。いい人なんだなってのはすぐにわかった。
 彼女にまた分室でと告げて、おれは病院内の徘徊に移った。後ろで笹原の慌て気味の声が聞こえるが、とりあえず聞こえない振りをした。いいじゃないか、見舞いの彼女。羨ましい話だね。
 リノリウムの床をスリッパでぺたぺたと歩く。
 廊下、待合室、ナースステーション。何人もの人とすれ違う。明るい顔をした人も、暗い顔をした人も、それぞれ同じくらいの数がいた。希望も絶望もひっくるめて流れていく時間。絶望に打ちひしがれた人を他人と割り切って捨て置くほどに達観は出来ないけれど、人々にはそれぞれの道があるとは思えるようになった。悲しい結末に向かって歩いている人がいるとして、その結末から救ってあげようと考えるのが傲慢なのかもしれないと。
 その結果として行き過ぎた絶望が生まれれば、それを叩き潰すのはおれたちの仕事だ。そこさえ押さえていれば、それでいい。
 そんなことをぼんやりと考えながら、屋上に向かうコースに足を向けたところ、通り道の個室病棟から筆舌に尽くしがたい音が聞こえた。おれでなくても立ち止まるような音だ。初見の人間ならこの病棟にはゴジラでもいるのかと疑ったことだろう。
 中身入りの金属の缶のタワーが崩れて人が一人埋まったような騒音だった。それを追いかけるようにどずん、とこれまた重い音が響く。パイプベッドをひっくり返したらこんな音が出るんじゃないだろうか。
 しばらく押し黙ってから、仕方なしに足を進めることにした。どうせ立ち止まっていても屋上にはたどり着けない。脇腹の傷が開かないようにそろそろと足を進めていくと、階段で一人の女性とかち合った。ベージュ色とのコートを纏い、印象的な髪型をした、長い黒髪の女である。スチールブルーをした猫目で、おれのほうを見てきょとんとした。怒らせていた様子の眉が和らぐ。
「あれ、コウヤ? 病室から出ていいの?」
「笹原に客が来ててさ。馬に蹴られたくなかったんだ」
 軽い口調で返すと、彼女は茶目っ気たっぷりに笑って、猫目をふんわりと細めた。やんちゃな猫のような勝気な瞳は、いつも透き通っていて曇ることを知らない。
「ははあ、なるほど。ユガラが行ったんだね。いいことだわ」
「ユガラさんって言うのか、あの人。珍しい名前だな……ところで、リリーナ」
「何?」
「病院内ではお静かに」
「約束破ったら罰が当たるの。それは天国でも地獄でも病院でも同じことよ」
 彼女――リリーナ=スクラッドは、ふん、と腕を組んだまま顔を反らした。つい五日前に知り合ったばかりのこの女性とは、その分け隔てのない態度からか、すぐに打ち解けることが出来た。知り合ってすぐに互いを自然にファーストネームで呼び合える異性なんてのも、中々珍しい。
「それにしたって限度ってあるだろ。隣の山田さんが心臓発作で死んだらどうすんだ」
「平気よ、あのおじいさん。あと六十年は生きるわ。暇さえあったら若い娘のお尻に手を伸ばしてるし」
「あの年から六十年っつったらギネスに載るぜ……」
「そうしたらお祝いの花でも贈ってあげようかしらね」
 しょうもない会話を交わしつつ、階段を上って近づく。反対に彼女は階段を下りてくる。すぐに交錯。軽い問いを投げかけてみる。
「これからどうすんの?」
「そうね……あんた達男衆が抜けた穴を埋めるためにちょっと夜勤を長くしてんのよ、今。夜に備えてちょっと寝ておくわ」
「わり。もう一週間で出るから、ちょっと待っててくれよ」
 片手を拝むように出して謝ってみせると、リリーナは快活な笑顔を見せて、平手をハイタッチ風におれの片手と重ねた。ぱん、といい音が鳴る。
「戻ってきたらいろいろ教えてあげるわよ。……それと、向こうでひっくり返ってるバカに、あんたからもちょっと言い聞かせておいてよ。病室に酒とタバコを持ち込むなって」
 マリワナ海溝ばりに深いため息をつくと、リリーナは軽く手を振って階段を下りていった。手を振り返してから、おれはもう数段、階段を上って廊下に出る。
 ドアが開きっ放しの三〇二号室。からからから、と空き缶が転がってくる。アドバイザー、だかノッポロクラシック、だか、そんな感じの銘柄のビールの缶だ。あの男は命が惜しくないんだろうか。
 中の惨状を予想しつつも、おれは病室を覗き込んだ。想像してた惨状のさらに斜め上を行く荒廃ぶり。土台から二列目までを名残として残した、ほんの数分前まではタワーであったのだろうビールの缶の山。その傍に藤色の布と果物を載せるような籠。あの二つで誤魔化そうとしたんだろうか。
 そのほかにもそこらじゅうに散らばった空き缶。そのうち幾つかには煙草の吸殻が満載で突き刺さっている。部屋の中はほんのり煙草のにおいがする。ちなみにパッケージも幾つか転がっていた。そのいずれもが、ラッキー・ストライク。
 あと、ベッドは本来下になるはずの面が上になっていた。賭けてもいい、こいつは退院するときに新しいベッドの代金を請求されるだろう。――そんな感じに荒れ果てた、もはや病室とも呼べないひどい空間の中心で、ひっくり返ったベッドに寄りかかったまま、男はけだるそうに手を上げた。
「よう、コウヤ。だいぶ顔色がマシになったな」
 ガンブルーの瞳。だらしなく肌蹴たガウン。水でも引っかぶったのか頭は濡れていて、ついでに咥えた煙草もずぶぬれだった。しかしそういう格好として、まあ認められなくもない、と思ってしまうのには、長すぎる脚だとか細い指だとか整った顔の造形だとか、そういう要素が絡んできてるに違いない。うらやましい話だね。
「よう、じゃねえだろ。おれは回復してるがこの部屋はひどくなる一方だな。婦長がまたカンカンになるぜ、このザマじゃあ」
 あきれた声で言ってやると、男――ジーク=スクラッドは濡れた口元の煙草をジッポライターで乾かしがてら、こともなげに言った。
「知ってる。だから片付けるのを手伝ってくれ、ってリリィに言ったんだ。微妙に開き直ったのが悪かったかな、更に部屋が荒れ果てた」
「たりめーだバカ野郎」
 それはリリーナにも火が点くってものだろう。特大の地雷を自分から進んで踏みに行くんだから、こいつはやっぱりよくわからない。自分も妹――佳奈に対してはこんなんなんだろうか、と思うとちょっと身の振り方を考えたくもなる。
 かなり辛辣に言ったつもりの台詞を、ジークは見回す動作でさらりと受け流すと、手に持った空き缶の中に結局乾かなかったらしいタバコを捨てた。物憂げに髪を掻きあげると、
「……しかしこのままだと追い出されかねんな。ちょっと片付けるのを手伝ってくれるか」
「そこでおれに回ってくるのかよ?!」
 全く、引きこもってればよかったと思うことしきりである。

 部屋を片付けるといっても、まだある酒をベッドの下に突っ込んだり見舞い品に偽装したりして巧妙に隠すのと、散乱した空き缶とタバコの箱をまとめてゴミ袋に突っ込み、それを婦長に見つからないようにごみステーションに運ぶだけのことだった。あとはひっくり返ったベッドだが、これは傷が開かないように難儀しながら二人で元の配置に戻した。この重いパイプベッドを一人でやすやすとひっくり返すとは、つくづくリリーナは怪力の持主だと思う。たぶん怒りも加味されているのだろうが。
 そしてそれを承知で妹を怒らせるジークもアホなのか傑物なのか区別がつけがたい。たぶん前者だとは思うけど。つくづくスクラッドと名前の付く連中は一癖も二癖もありすぎると思う。
 借りたほうきで床を掃き、一通り病室を整えなおしたころ、ベッドの隅に腰掛けたジークがガウンのポケットをあさり、煙草のパッケージを取り出した。やっぱりラッキーストライクだった。
「ここで吸うなよ」
「わかってるさ」
 釘を刺すと軽い調子で返事が返ってくる。億劫そうに体を持ち上げ、ジークは上を指差した。
「屋上へ行こう」
「……不良患者め」
「何とでも言え」
 悪態さえもするりと受け流し、ジークはおれより先に、滑るような動きで病室を抜け出した。
 ため息一つ、病室の掃除に粗がないことを確認してから部屋を出る。ジークはもう階上に行ったのか、廊下には影は見当たらなかった。
 確かにここの屋上は嫌いじゃない。少し肌寒くはあるが、消毒液の匂いがしないのは魅力的だった。建物の中のどこよりマシってものだ。
 屋上へ至るまで、都合四階分の高さをエレベーターを使わずに上りきって、埃臭い踊り場にある重いドアを押し開く。
 ――時刻、午後三時。夕焼けに変わる前のまだ高い太陽の下で、背の高いガウン姿の男が煙草をふかしている。言うまでもなく、ジークだった。
「遅かったな」
 振り返り、煙草を咥えたままジークはおれに向かって何かを放り投げた。片手で受け止めると少しだけ重い、なじみのある冷たさ。スポーツドリンクのペットボトルだった。
「労働の対価にしちゃ、しけてるぜ」
 キャップを空けながらぼやいてみると、ジークは嘆かわしいとばかり肩をすくめる。
「何もないよりは随分マシだろう? まあ、そのくらいで勘弁してくれ。財布の紐の番人が帰ってきちまったもんでな、無駄遣いが出来ないのさ」
「家出してた嫁さんが帰ってきたような口ぶりだな」
「似たようなもんだな」
 からかいの台詞はさらりと受け流される。笹原ならもう少し反応しそうなところだが、そこのところは大人の余裕って奴だろうか。
 ジークに並び立つようにゆっくりと脚を進めると、気遣ったのか、ジークは煙を軽く上に向けて吐いた。紫煙はすぐに風の中でほどけて見えなくなる。
 その姿を見ていると、自分にはない落ち着きだとか、余裕だとか、そういうものが見える気がした。こいつにもおれと同じようなルーキーの頃があったのだと言われても、釈然としない。
「なあ、ジーク」
「何だ?」
 煙草を咥えながらガンブルーの瞳をこちらに向けるジークに、おれはなんとなく浮かんだ疑問をぶつけた。
「ジークはどうして、猟人になったんだ? おれの場合はほら、なし崩し的にそうなったようなもんだけどさ。……いや、だからって覚悟が薄いとかそういうんじゃないんだけど」
 透徹とした目で見つめられると、少ししどろもどろになってしまう。最後のほうはほとんど口の中で呟くような調子になってしまいながら、反応をうかがってみる。
 ジークは、不意を打たれたようにしばらく沈黙すると、崩れそうな煙草の灰を払ってから、もう一度咥えなおして深く吸い込んだ。細く長く、沈黙と同じくらいの長さの煙を吐き出すと、少しばかり抑えた声で呟く。
「面白い話じゃないぜ。それに、長い。話をするのは嫌いじゃないが、これの半分は愚痴みたいなもんだ。もうちょっとオレが強かったらなっていう、そういう後悔の話でもある」
 それでも聞きたいか、と尋ねるような瞳。過去に踏み込もうとしてもジークは拒絶しなかった。今更引っ込みが付かない感じになって、おれは反射的に頷く。
「ジークがルーキーだった頃の話とか、興味あってさ。参考になるかもしれないし」
「参考、ね……なるかどうかはわからんが、まあ、暇つぶしにはちょうどいいかもしれないな」
 ジークはどこか苦笑がちに笑うと、空を見上げるように顔を上に向けた。
 そして、ゆっくりと語りだす。
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