Nights.

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  Red stranger  

 黒塗りの刃が、確かに彼の上に振り下ろされた。
『ああ、死んだな』と無条件で思わされるような、峻烈な一撃だった。その動きは殺すことをまるでためらっていないような鋭さで、一般人に過ぎない男には手を上げる暇すらない。ひゅん、と音が走り、大上段から頭へと黒い刃が降ってくる。瞬きすらままならずに男は立ち尽くしていた。現実を直視できないまま、頭を割るであろう刃を見上げて硬直するほかない。まさにその刃があと三寸で男に届こうとしたその刹那のこと――
 風が、巻き起こった。
 巻き起こった熱風が立ち尽くしていた男に吹き付ける。産毛を焦がすような熱さ。渦を巻く爆風にたたらを踏んで一歩退く。まるで木を焼いているときのような火の粉が夜の空気に爆ぜ、弾ける音をいくつも立てた。
 見れば、黒い刃が踵に押さえ込まれて止まっている。彼の目に見えたものは、そこに突如「発生」した赤いコートをまとう人間と、照らされてもなお黒いままの刃を持った人影が、脚と刃を噛み合わせて静止している異様な図だった。
 赤い外套が異様なまでに眼に眩しい。血のような暗い赤ではなかった。あれは、「炎」だ。そう直感する。
 一拍遅れて、「救われた」という事実だけが頭に浮かぶ。その現実を認識した瞬間には、黒と赤の膠着は弾け飛び、動き出していた。
 蹴りに刃を押されるようにして後退した影がなぎ払うように右手の刃を横に振るう。だが、それは赤コートに当たる前に弾かれた。左の刃を振り下ろすが、これも同じ。……赤コートは驚嘆すべきことに、全ての攻撃を脚で弾いていた。瀑布ばくふの勢いで繰り出される黒の影の連撃すら、その技の前では鈍く霞む。脚と何度となくぶつかっているはずの刃は、しかして傷一つすら負わせるにあたわない。
 何度目の斬撃だったか。やや大振りになった一撃を見逃さず、赤コートは攻撃の方向をずらすように刃の腹を一際大きく蹴り飛ばした。瞬間、疾風と言ってすら生ぬるいような動きで赤コートは相手の懐に潜り込む。
 黒い影が防御に入ったのにも構わず、抉るような回し蹴りがガードの上から命中する。めきり、と何かが軋んだような音が響いた次の瞬間、影が横っ飛びに跳んで――いや、吹き飛ばされていた。あまりにも速過ぎて、赤コートがいかなる方法でか、連続でもう一撃を入れたのだ、ということしか解らない。
 赤コートは一瞬たりとて止まらない。吹き飛んだ影が体勢を整えるよりも早く追い縋り、捕捉していた。まだ滞空している影の下を潜るように滑り込み、蹴り上げる。今度こそ、何かが折れる音がした。まるで放り投げられた人形のように、影は奇妙な姿勢でぐるぐると回りながら飛んだ。それを追うように彼は、決然と顔を上げる。
 そのときになって初めて見えた赤コートの顔は、男と言い捨てるには幼すぎた。少年と言うのが相応しい、高校生くらいの子供。しかしその表情には、全てを納得させてしまうような威圧を備えている。「敵を討つ」と、彼の目は雄弁に語っていた。よどみのない、輝くような瞳で。
『殺し』のキラーズ――」
 若さの片鱗を覗かせる声が響く。宣誓するように言った瞬間、赤い少年は膝をかがめて、跳躍した。
 サッカーボールのように蹴り上げられた黒い影が落ちてくる。その落下コースと交差するように飛んだ少年は、空中で身体をひねって脚をバックスイングした。必殺の位置を模索するような刹那の間隙、そして、
地対空弾道弾パトリオットッ!!」
 叫びと同時の、流星にすら似た高速の蹴撃――!
 交錯の瞬間、まるで爆発のようにまばゆく炎が赤い光を撒き散らした。ガラスの割れる、音がする。優に八メートルほどの空中から、落ちてきたのは少年だけ。拍子抜けするほど軽い音を立て、危なげなく着地する。男に背中を向けていた。
 黒い影は――もう見えない。炎と共に消えてしまったのか。
「……」
 男は口を開いたが、言うべき言葉を探すことすら出来なかった。目の前で繰り広げられた光景は、あまりにも現実を無視していた。住むべき世界が違うのだと、赤い背中が言っているようにも感じられた。
 言葉を無くしたまま少年の背中を見ていると、声が響いた。
「――おっさん、見えんのか、おれが。めずらしいなあ……ってことは、アレも見えてたのか」
 跳ねた短髪を手で押さえ込みながら、少年が振り返る。
「ま……いいやな。もう殺したから。すぐ忘れられるよ、家に帰るまでには」
 そう言い捨てると、あんなことがあった後だというのに、あくびさえしながら少年が歩いていく。
 男は、右手を堅く握って、初めて通勤鞄を取り落としていることに気がついた。
 慌てて鞄を拾い上げて目を前に向けたときには、もうそこには何もなく、薄暗い道が自宅に向けて伸びているだけだった。
 ――ぼんやりといつもの帰り道を眺めてから、ふと男は首をかしげた。
 自分はどうして鞄を落としたのだろうか? なぜ前を見なくてはならないと思ったのだろうか――?


 ――古来、人と人の間に憎しみが生まれた瞬間から、動き始めた存在がある。
 人に害をなし、力ない人間には視認することすら叶わない。まれに素質を持ち、それらを視る力を持ったものは、その存在を見通せない暗がりになぞらえて、昏闇と呼ぶようになった。
 彼らが望むのは、不安定な状態から一個の存在としてこの世に定着すること、そして願望を叶えることである。大抵の場合、その願望は人を殺し、他者に不幸を振りまくものである。
 故に、昏闇とは消えなければならない存在だ。
 生きとし生けるもの全てに牙を剥く、絶対不変のその悪に、鉄槌を下そうとしたのは誰が最初だったのか。
 正確な記録など残ってはいなかった。だが、それでも昏闇に立ち向かった人間たちはいた。初めて昏闇を名付けた人間がいたように、確かに昏闇を殺し始めた人間は存在したのだ。
 彼らは歴史のある武装をかき集め、人の怨念や願望が染み付いたそれらを用いて、妄念の具現たる昏闇と戦った。
 多くの昏闇が失せ、そして多くの人間が死んだ。それでもまた昏闇は生まれ、人は亡き先達の遺志を継ぐ。
 科学で証明できないことはないと多くのものが信じるこの世の中で、昏闇と人間の争いはいまだ続いている。
 
 宵闇の中に身を融かしこみ、この世のものならざる力で昏闇と戦う人間たち。
 彼らは、夜に化け物じみた力を振るう自分たちを皮肉って、こう呼んだ。
 ――「Nightsよるをゆくもの」と。
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