-Ex-

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  イクス・ワン  

 少しだけ、昔の話をしよう。

 そこは、胎内のような暖かさを帯びた、けれど無機質なガラスの中だった。私が呼吸を繰り返すたびにごぼごぼと空気が漏れて視界を曇らせる。手は動く。けれど、目覚める以前の記憶はない。
 一般的と思われる常識的な事項と、私という無色のパーソナリティー、そしてこの現実に錯乱しない冷静さだけが頭の中に存在していた。
 手を差し伸べる。ガラスがやんわりと私の手をさえぎる。さして広くはない、円筒の中にいた。私を包むように、エメラルド色の水溶液が満ちている。マスクを外して味わいたくなる類の色ではない。
 水槽の外側に見える世界は全てが歪んで見える。いびつに歪曲された外の世界は、私がそこに出ることを拒んでいるかのようだった。四度目。息を吐く。泡になって、マスクと肌の間から呼気が漏れた。
 満ちた液体のために音が聞こえない。視覚情報もほとんどが当てにならない。けれど私は不安を覚えることはなかった。それがどうしてなのか類推するだけの知識は、持っていなかったのだけれど。
 私がマスクから送り込まれる空気で呼吸することに飽いた頃、歪んだ景色の向こうに見える鉄扉がスライドするのが見えた。ゆっくりと、部屋に誰かが足を踏み入れる。とくん、と心臓が動いた。自覚できるほどに。
 歩いてくる。
 魚眼レンズで映し出したように引き伸ばされた外の景色の中で、なぜかその人物だけが鮮明に見えた。汚れることを知らないかのような金髪をしていた。身長は高くも低くもない。眼の色は薄緑の景色に負けないほどに冴えたアイスブルーで、白衣に身を包んでいる。柔和そうな顔立ちに、完成された微笑。それは恐らく、私にとってどこの誰よりも完璧な造形だった。
 彼――距離が少し近くなって確信した、男性だ――はゆっくりと歩を進め、私がいるこの大きなシリンダーの壁面に手を触れた。唇が動く。私はそれを懸命に読み取ろうとしながら、縋るように手を伸ばした。
 その胸の高鳴りを、なんと形容すればいいのか。
 手がガラス越しに触れ合う、その瞬間に確信した。私は、彼の手で生み出され、彼のために生きることを約束付けられた存在なのだ。
 血流が早くなる。私は裸身を隠すこともしないまま、懸命に彼の手に触れた。手に返るのはガラスの感触ばかりだったが、僅かに伝わるその温もりだけは本当だったから。
 彼がまた何事か呟く。ごぼっ、と音。
 私を包み込む淡いエメラルドが、ゆっくりと足下に吸い込まれて消えていく。水溶液が消えることで私を覆っていた浮力はなくなり、シリンダーの底面に足が着いた。彼の長く細い指が、ゆっくりと右にあるコンソールを辿る。同時に空気の抜ける音がして、私の顔からマスクが剥がれ落ち、シリンダーのガラスがゆっくりと沈み込んでいった。じれったくなるほどゆっくり回転しながら、ガラスの壁が下へ吸い込まれていく。
 私たちは数秒の間、見つめあった。
 今、自分はどんな顔をしているのだろう。狂おしいまでの歓喜が全て顔に出てしまってはいないか。抱いたばかりの思慕を顔で燃やしてはいないか。不安になる。だって、私は彼に仕えるために生まれたのだ。
 必要ないと言われてしまうような事があったら、その時点で私の存在理由レイゾンデートルは消失する。口を開くことも出来ない。冴え冴えとした外気に身を震わせ、頼りなく震える足を晒しながら途方に暮れていると、彼が口を開いた。柔らかく伸びのあるテノールで。
「初めまして、一番機イクス・ワン
 私の鼓膜を溶かすつもりなのだろうか。くらくらするような声が聞こえる。そればかりではない、彼はさらに一歩私に近づき、その手で私の胸元をとん、と突いた。思わず仰け反ってしまう。口から何か声が漏れたかもしれない。動転しそうになった瞬間、虚空から白い布が湧き出すのが目に映った。
 ばさり、と音が聞こえたのも一瞬。汚すのがためらわれるような純白が、私にまとわりついていく。布の動きが止まる頃には身体の輪郭をぼやかす羽衣のような衣服を着た私がいた。
 何が起こったのかわからないまま、私は何度か彼のほうを見たが、彼は優しく微笑むだけだった。どのようにして脱ぐのか、見当も着かないような服だ。私が知っている常識の中にはこのような服は存在しない。暫く呆けたように布地を引っ張り離しとしていると、彼がまた唇を開いた。蕩けるようなテノールで。
「早速で済まないね。それは君の戦装束だ。イクス・ワン。現在、この施設に敵性存在が接近している。意味がわかるね」
 諭し言い含めるような口調を聴いた瞬間、私の意識が切り替わる。
 目を閉じる。自然に、彼に仇成そうとするものの存在を感じ取るために意識を研ぎ澄ませた。確かに囲まれている。高エネルギー反応が西に三。南から四。目を開く。
 試すような目つきで彼が私を見ているのに気付いて、よどみなく口を開いた。
「計、七機を確認しました」
「よろしい、では責務を果たしたまえ。戻れば、名を与える」
 まるで子供に宿題を申し渡す教師のように、彼は言った。
 理不尽な命令だ。ほんの十数分かそこら前に覚醒した、人間か否かも曖昧な生命体。体構造的に人間に近いのは見れば判るが、細部まで同一かどうかは怪しいものだ。その不明瞭な存在を捕まえて、「危険が迫った、排除しろ」とは、一体何の冗談だろう。
 ――とは、私は一切考えなかった。というよりも、その類の言葉は浮かんで来さえしなかったのだ。
 スイッチが入ったかのように、私は私を知る。先ほど自然に敵の存在を気取ることをしてみせたように、自分に何が出来るのかを学習する。リカバリ・スペースから実用領域への知識の移行。全てのロードを終えるまで、ずっと彼の声が反響する。溶けるように甘く、低く、私の全てを捕らえるような声。逆らうことなど出来はしない。
 ああ、それも当然だ。
 彼は、そう、
「イエス、マスター」
 私の、主なのだ。

 身体に違和感はない。
 エレベーターの中の鏡に、自分の姿が映る。私は初めて自分を見た。プラチナブロンドの長い髪と、鮮やかなエメラルドの瞳。細い顎と華奢な首、スレンダーな体躯。どこか他人を見るような感覚で自分の姿を観察している間に、エレベーターは最上階にたどり着いた。自分に見とれる趣味はない。身を翻してエレベーターを出ると、私は屋上へ通じる階段に足をかけた。一歩上るたび、この身体が自分のものであるという実感が強まっていく気がする。
 屋上の錆びた鉄扉を開き、風に身を躍らせた。
 空の彼方に、ちかちかと光る何かが見える。それが敵であるという事実を確認してから、私はゆっくりと背中を意識した。身体の中にうずもれたものを引きずり出す作業から始めなくてはならなかった。
「あ、あ、あ、あ……」
 掠れる声。めきめき、めりめりと軋んで、私の中から引きずり出されていくもの。信じがたいほどの苦痛は、主からの命令であるというだけで甘く痺れた。背中の肉が裂ける。血は出ない。もともとそういう風に出来ている。肩甲骨から派生する、腱で繋がれた畸形の骨格。
 見えないが、イメージは出来た。
 私は飛ぶのだ。
「リペア、……クリア。リストア、コンプリート」
 甘い苦痛を追い出すように無用な傷口を意識して閉塞し、とん、と地面を蹴る。重力という枷を脱ぎ捨てたように、私の身体は宙に飛んだ。あっさりと、拍子抜けするほどに簡単に高度を上げ、停止する。
『感度良好だ、イクス・ワン。こちらとも繋がったようだな』
「イエス、マスター。全力稼動を経ていないので限度は未知数ですが、状態は良好です」
『君がそう思う事が何よりも重要だ。――敵が接近しているのが見えるな』
 先ほど光点にしか見えなかった複数の機影が、ぼんやりとだがなんだか理解できる位置にまで接近してきていた。
 人がブースターを背負って飛んでいる――とでも言えばいいのか。黒光りする外骨格に身を包んだ人間大の飛行物体が七機、高速で飛んできているのが見える。
「視認しました」
「ソリッドボウルの試作型だな。空走兵エアランナーの一種だ。"プラス"の開発途上に得られた技術を転用したようだが、しかし君の敵ではない」
 主は、そこで言葉を切った。
 続く言葉がないことを確認してから、私は独り言を呟くように口を開く。
「ご命令を」
 見えない場所で、主が満足げに頷くのが判った。私は先走らない。私は自分で判断するが、私にしか理解できない主の内心を汲み取って動く。主の思考は私の思考よりも優先されるべきである。完全なる隷属感は、鎖のように私を包み込む。
「――では戦闘を開始したまえ、イクス・ワン。原理侵食を開始。君にできる全力で、彼らを完全に殲滅せよ、、、、、、、
 命令と同時に私は動いた。
 原理侵食、『翔羽フィアフェザー』、起動。
 畸形骨格が嬉しそうに啼いた。私の背中に、翼が広がる。
 無骨でただごつごつと節くれだっていた筈の骨格が、突如として存在しないはずの羽毛に包まれ、その長さを長大に変じる。原理侵食とは、現実を破壊して作り替える能力だ。心の形と在り様が、存在しえない夢を現実と化す。
 敵が空中に静止する。
 私は、喉の奥で絡む声を形にして、外へ引きずり出した。宣言する。
「了解しました、マスター。……イクス・ワン、交戦エンゲージ
 交戦報告をすると同時に、エアランナーが全機散開し、正面から交錯軌道で突っ込んでくる二機がマシンガンの砲門を開いた。
 それを目に焼きつけながら、私は全てを拒絶する防壁をイメージする。思考と同時に翼から白い羽根が舞い散り、眼前へ踊った。重さなど無いかに見えるその羽毛は、私と、マスターを害するものを遮断するための武器にして、防具。
 唸り飛ぶマシンガンの銃弾が、耳障りな音と火花を散らして弾け飛んだ。舞い散る羽毛に傷は無いのに、銃弾だけが散り落ちる。私の防御するという意思が、銃弾の終端エネルギーを上回った結果。常世に存在するあらゆる法則は、私の意思の前に捻じ曲がる。
「……!!」
 正面から来た二機に僅かに動揺が走る。だけどその動揺も一瞬。両脇を掠めてすれ違おうとした瞬間には、彼らは終わっている。私は翼を思い切り伸ばした。間髪入れず、目一杯に広げた翼から衝撃が伝わってくる。
 金属と肉体がひしゃげて飛び散る音がする。翼を回避し切れなかった二機のエアランナーは、あっさりと砕けて地面に墜落していった。
 残りのエアランナーに視線を這わせると、彼らは油断なく私を中心とした旋回軌道を取っている。だが、そうする事がすでに愚かだ。私と向き合った時点で、彼らに生存の道はない。生き延びたければ、百八十度回頭して即座に撤退を選択すべきだった。
 私の考えも知らず、彼らは斜線を重ねないようにしながら四方より立体交差軌道を描く。マシンガンの激しいマズルフラッシュを浴びながら、私は翼を波打たせ、羽ばたいた。私の周りに重力はない。出来損ないのバレルロールをするように、翼を振り回して一転し、当たるコースの銃弾を叩き落した。
 即座に上昇。振るった翼を一度羽ばたけば、優に十五メートルの距離を上昇できる。
 天へ、天へ。
 爆発的に高度を上げ、私は翼を打ち広げる。羽が硬化し、今度は盾ではなく刃と化した。高度を上げようと、紛い物の翼をつけたエアランナーたちが仰角軌道にコースを変更する瞬間、私は翼を射出した。
 その数、刹那の間に八百を超える。初速一〇二四メートル秒で飛ぶ羽の形をした殺意が、エアランナーたちを襲った。ガンメタリックの翼を、防弾用の装甲を、私の羽が刺し貫く。コントロールを失う以前に、即死だ。彼らは血ともオイルともつかない液体を撒き散らしながら、墜ちていく。
 翼を折られた鳥が落ちるように、声すらも上げられないまま。
 視界に動くものがいなくなったとき、私は空に浮かんでから初めて、息を深く吸った。
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