-Ex-

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  忘れてきたもの  

  瞬間、口の中が痺れるような破裂音が響く。カナタの体が見えざる手に殴られたように左に吹っ飛んだ。アリカの頬に切り傷を残して、ウロボロスの拘束が解ける。カナタは派手な音を立てて転がって壁に激突し、崩れた壁材の中に沈んで沈黙した。
 アリカはへたり込みそうになりながら、何かが飛んできた方向を、見る。
 その先にいる。埃と血にまみれた服を纏った緋色の目の少年が。
「……あい、っててて……ザイルに怒られちゃうかな、勝手に使って」
  反動に顔を顰めながらも右腕を撫でて、少年はのんきな声で呟いた。見れば、彼の腕には冗談みたいに大きな銃がある。銃床から延びた配線チューブが、背に負った大きなバッテリーケースに繋がっていた。ぼやきながら、少年は取り回した銃――肩に引っ掛けて撃つような長物だ――に弾頭と思しきものを再装填する。
「お待たせ、アリカ」
 ――その銃は電磁投射銃サーマルガンだとかいう、ザイルの私費で購入した兵器だった。
 だが、そんなことよりも。そんなどうでもいいことよりも、アリカにとって大切なのは、彼が見せた笑顔だった。いつもの優しい声を聞いた瞬間、戦場だというのにアリカは泣きそうになってしまった。大好きなひとに、ヒーローみたいな――いや、ヒーローそのもののタイミングでやって来られたら、泣いてしまったってしょうがないと思う。
 ハセガワシキが立っている。彼女の視線の向こうで、にっこりと笑って。
「……シキッ!」
 アリカは流しそうだった涙を飲み込んで、硬直した足を叱咤する。シキに向けて、一直線に駆け出そうと足を踏み出した。――その時、
「……いーいこと……考えたぁ……」
 後ろから、淀んだ声が響いた。次いで、瓦礫の弾ける音。
 シキが驚愕の表情を浮かべる。それに気付いたアリカが後ろを振り向くよりも早く、彼女の横を疾風が通り抜けた。
「……直撃のはずッ……」
 シキが表情を歪め、言葉を呑む込む。駆け出そうとしたアリカを追い抜いたのは、あの長物の銃撃を喰らって沈黙したはずのカナタだった。シキが銃を向け、再び発砲する。巨大な紙風船を叩き潰したような音を立て、拳大の弾丸が発射される。だが、それはカナタがかすかに横にステップするだけで回避された。
「不意を打ったところまでは褒めてあげるよ。 なんで生きてるのか知らないけど……それならそれで、アリカが見てる前で、死ぬまで殺してやるッ!!」
「ちッ……!」
 瞬きほどの一瞬で、状況が目まぐるしく変わる。アリカはカナタを追いかけようとして、足がまともに動かないことに気付いた。恐怖で筋肉が凝り固まってしまったみたいに。震える足をイーヴィルアームで叩き、必死に踏み出そうとするが、やっとのことで動いた足は、常人と変わりないほどのスピードでしか動かない。
 追いつけない。
 視線の先で、シキがサーマルガンを捨てた。シキは凄まじい早さで肉薄するカナタを前に、身体にくくりつけていた何かのスイッチを押した。同時に壁から、いくつもの侵入者迎撃用の銃身が飛び出す。
 カメラのついた自動追尾歩哨銃セントリーガンがカナタを狙い、火を噴く。しかし、カメラの動くスピードではカナタを捉えきれない。殺到する銃弾のいずれもが、カナタを捉えることなく壁に穴を増やす。
 カナタはシキが捨てたサーマルガンを地面につく前に腕の一振りで破壊し、その破片が落ちる前にシキを射程圏内に納めた。右腕を振り被り、爪を開き、シキに向けて一直線に突き出そうとする。声もない、十五メートル先の世界。今のアリカには、掴むことかなわぬ距離だ。

 脳漿が散らばるところが、一瞬で想像できた。

 アリカは地面を踏みにじるように止まり、左腕を突き出した。反射的な行動だった。集中することも何も考えずに、ただ限界まで手を広げるイメージを走らせる。果たして、手のひらは中央から二つに割れた。その中から砲身が滑り出す。
 やらせない。死なせない、絶対に。だって彼がいないこの世界に、どんな意味があるだろう?
 シキは自分の全てだ。
 シキが自分の世界だ。
 ――彼が殺されたらきっとわたしは、自分が死んでしまうよりずっと苦しい――!
 失う恐れや行為への怒りの前に、切望が立つ。それは、全てを殺す殺人姫が持つ唯一の例外エクセプション
 祈りもせず、視界に現れた同心円ロックオンサイトに敵を重ね、刹那の間もなくアリカは叫んだ。
 ――届け!!
銃剣ベイオネットォ――ッ!!」
 その瞬間、迸るプラズマが、音の壁を無視して空間を削った。十五メートルの距離が一瞬でなかったことになる。アーマノイドの装甲さえたやすく貫く必殺の光が、カナタを殺すために牙を剥く。
 しかし――
「ッな……!?」
 カナタが腕をシキに突きつけて、嘲笑うためか振り向いたその一瞬が、明暗を分けた。
 カナタが回避行動を取る。背中を貫くはずだった必殺のコースが外れた。ベイオネットの光は、カナタの右腕をもぎ取るだけに留まる。肘のやや上から千切れた「ウロボロス」が、重い音を立てて廊下に転がった。
 ――外した。
 その事実を認めた瞬間、アリカの身体を熱病のような震えが襲った。腕から込み上げてくる熱が、身体の中に伝わって焼けるように熱い。ともすればへたり込んでしまいそうな倦怠感と脱力感が身体を覆う。
 座り込むわけには行かない。カナタはまだ立っている。弱みを見せれば、彼女は音よりも速く動いて、再びアリカを苦しめようとするだろう。アリカはベイオネットを撃った左腕をだらりと下ろし、虚勢だけで右腕を挙げた。
「……次は……心臓を、貰うわ」
 重い声を発する。シキが固唾を呑んで事態の推移を見守っている。沈黙の中、カナタの表情がぐしゃりと歪んだ。驚愕のそれから、更に強い憎悪と絶望を帯びて。
「なんだよ」
 ひしゃげた声だった。爪弾きにされたものが、境遇を呪って発する声だ。くるりとアリカへ向き直り、言葉を続ける。
「なんだよ、それ」
 カナタの目はもはやシキを見てさえいなかった。ただ、全身から憎悪の気配だけを撒き散らし、アリカをじっと見つめていた。自分の全霊をかけて憎むと、その空虚な目が語っている。
 視線に射竦められて、アリカはたじろぐように一歩退いた。
「なんで……なんでなんだよ……キミはなんでそんなのを持ってるんだよ……やり方によっては勝てるって言ったんだよ? 古賀さんは……ボクのウロボロスでも、イーヴィル・アームを砕くことは可能だって言ったんだよ、それなのに、なんだよこれ、おかしいじゃないか。肝心なものはみんなキミが持ってる。ボクがほしかったもの、名声も、信頼も、力も、ジョーカーだって、みんなキミだけが持ってる……!!」
 カナタはわなわなと震える左腕を持ち上げ、千切れた右腕を掴んだ。血の流れない機械の腕、痛覚さえないそれに異形の爪を立てる。ぎしぎしと軋む音がする。
「ボクたちは同じプラス≠フ候補生だったのに!! 強化人間フィジカライザーの中でも選りすぐりの存在だったはずなのに!! なんでボクとキミにはこんなに差があるんだ、おかしいだろぉオぉぉォォッ!!」
 カナタが地面を、靴の裏で食い締めた。彼女は速かった。前進したことにシキがまったく反応できないほどに。それはアリカが今まで見た中の、何よりも速かった。
 十五メートルがカナタの三歩で無に帰した。肉食獣と言うのもおこがましい、人の身体では成し得ないはずの速度で走りながら、カナタは意味を成さない絶叫を吐き出した。まるで血反吐を吐くような叫びだった。
 身体を覆う倦怠感が防御を許さない。反応するために動くことすらままならない。十五メートル先のシキの表情が今更のように変わる。彼の唇が自分の名前を呼ぼうとしていた。
 死が、敵の形をした死がやってくる。押し付けられる悲惨な運命を前に、脳だけが足掻くように動いているのが判った。
 アリカの中で、思考が走る。
 プラスとはなんだ? 強化人間フィジカライザーとは? この女が自分を知っている? 自分はこの女を知らないのに。この女は自分を知っているが、ベイオネットを知らなかった。憎んでいる。その格差を。わたしは何だ。いったい何者だったんだろう。あの雨のスクラップ置き場で、シキが抱きしめてくれるまでのわたしは、一体誰だったんだろう。ナユタノカナタ、異形の両腕、自分を殺すためにここに来た死神、彼女はどこから来た? フィジカライザー、強化人間、人体構造の四十パーセント以上を人工物に置換した戦闘用のサイボーグ、ソリッドボウルの尖兵。ソリッドボウル? わたしは、そこから、
 右腕が跳ね上がった。手のひらが中心から分かれ、砲門がせり出す。アリカの視界の中に、ロックオン・サイトが姿を現す。それは生きるための本能だったのだろうか。アリカにはよく判らなかった。ただ迫り来る脅威を排除しようとして、アリカは撃った事のなかった『二発目』を放とうとする。
 ――そこは、ゼロコンマゼロの世界。
 アラートが止まらない。全身が自分自身の熱で溶けてしまいそうな錯覚を覚える。
 カナタが左腕を振りかざして襲い掛かってくる。アリカは言う事を聞かない身体を宥めすかすように、最小限の動きで踏み込んだ。――膝の力を抜いて、右腕の高さを保ったまま身体だけを沈みこませる。一歩だけ、自分からカナタに向けて接近する。振り下ろされる敵の左腕、ウロボロスを、組み合うように正面から右腕、イーヴィルアームで受け止めた。
 視界が赤い。
 至近距離で一瞬だけカナタと向き合う。アリカは、デジャヴを感じた。いつかもこうした事があると。知らないはずの、知らないと言ったはずの相手が、頭のどこかにいる気がする。
 イーヴィルアームとウロボロスが噛み合っていたのは一瞬だ。だがアリカにとって、その一瞬は異常なまでに長い時間だった。右腕の根元に、破裂してしまいそうな熱がわだかまり、解放を待っている。これを撃てばどうなるか判らない。一発でこれほどひどい倦怠感と熱病のような全身の鈍痛に苛まれるのに、二発撃てば――
 目の前で、カナタが唇を動かす。声さえないこの超高速戦闘の中で、それでもその二文字は火を見るより明らかに読み取れた。
『死ね』
 ナイフのような無音の言葉に、アリカは答えなかった。二度目のトリガーを心の中で引き絞る。ただ、熱でグラつく頭の中で、撃鉄を落とすイメージを走らせた。
 光が腕から飛び出す一瞬前、アリカは、自分の頭の裏側で、脳が沸騰するような感覚を覚えた。――ごぼごぼと、気化した記憶の泡が、弾けた。


 ――雨の夜、長い戦い、追われながら、脱走、檻のようなあそこから。霧雨は戦ううちに土砂降りに変わる、両腕、イーヴィル・アーム。後ろから何かが追ってきている感覚がする。実際は誰もいないのに。――それは逃亡意識の現われだったのか、そう、確かにわたしは逃げたかった。今まで何も怖くなかった、怖くないと思っていた。自分が得体の知れない腕を持っていることに、疑問を感じることはなかった。ただ敵をひき潰す機械、それが自分であると認めていた。賞賛があり、それを受けるだけの実力があった。ならなぜ逃げたのだろう。理由は、たった一つだった。わたしの腕に備わった、この異常な力で、貫いてはいけないものを貫いてしまったからだ。
 わたしはアリカ。イツカノアリカ。小さな頃から孤児院で育てられた。母と父の顔は知らない。それこそ、遠い昔にかすんで消えてしまった記憶だ。わたしは十歳の頃、ソリッドボウルの研究室長に買われた。表向きは、養子として。本当は実験材料として。わたしにあつらえられた腕は、人なんて簡単に殺してしまえるようなものだった。人としての機能を、成長するたびに捨ててきた。体格にあわせて、日に日にイーヴィル・アームはバージョンアップされていく。わたしは年を取るたび殺人機械に近づいてきた。
 わたしはフィジカライザーと呼ばれる際物キワモノのサイボーグの中で一際優れていた。拒絶反応に慣れさせるために肉体を作り変えられて、イーヴィルアームを用いた戦闘に習熟させられたためだ。サラブレッドのようなもの。戦う相手は、最初にわたしの幼い顔を見て嘲笑い、その次の瞬間に泣き叫ぶことになった。わたしは何十人も殺し、いくつもいくつも壊した。誰もがわたしをナンバーワンと認めた。ただ一人、ナユタノカナタ以外は。
 カナタがわたしを嫌っても、わたしはナンバーワンである事を止めはしなかった。賞賛されれば心地よい、求められれば気持ちがいい。そうしてわたしはソリッドボウル・フィジカライザーズのトップとして君臨し続けた。
 そう……三年前のあの日まで。
 わたしはあのとき、メルトマテリアルの施設への攻撃命令を受け、信頼しあっていた仲間と共にそこへ赴いた。――そこであの天使に出会ったのだ。
 彼女は容赦なくわたしたちを排撃した。Exイクス、その一番機、セレイア。セレイア=アイオーン。純白の羽に無慈悲な死を孕ませた天使。彼女の攻撃にどうしようもなく追い詰められ、撤退を考えたあのとき、わたしは後方の、弾幕で釘付けにされた仲間たちを助けようと、物陰を出て手を伸ばした。
 手を伸ばしたはずだった。わたしの視界をいくつもの白い羽が突き抜けて、全身に熱が走るその時までは――
 そのつもり、だったのだ。

 わたしは傷を受けたときの事を覚えていない。だが、その次の瞬間のことは覚えている。わたしの腕の先に、巨大な光の槍があった。少なくともその時のわたしにはそう見えた。痛みに狂うようにわたしは腕を振り回したらしい。宙を飛ぶ天使がたじろぐように距離を離しているのが見えた。
 その遥か下。地上、わたしが助けようと手を伸ばした先で、四人の仲間がスクラップになって転がっていた。焼け焦げた傷口、もう動かない義肢、物言わぬ唇と硝子玉のような瞳。空ろに開いた唇が、なぜ殺したとわたしを攻め立てているようだった。
 そう。この腕に備わった銃剣ベイオネットが、わたしが信頼を置いていた、わたしに信頼を置いていた、彼らを殺めた。物言わぬたんぱく質と金属の塊に変えてしまった。
 わたしは叫んだ。光の槍は消えていた。逃げるために、一人ぼっちで駆け出した。もう守るべき仲間も、プライドも、何もかもなくなってしまっていた。追撃の火線や天使の羽が背中に突き刺さっても、わたしは振り返りもしなかった。雨に打たれて、流れる血と一緒に記憶まで流しだしたつもりになって、力尽きてしまうまで走って――
 たどり着いた地の果てのスクラップ置き場で、名前だけを握り締めたまま、ハセガワシキと出会ったのだ。
 わたしは、仲間を殺して、イーヴィルアームの真の姿を、知った――


 アリカがスパークするような記憶の奔流の中にいたのは、ほんの一瞬のことだった。組み合った異形の手と手の間で、光が炸裂する。アリカによって放たれた必殺の光条が、カナタのウロボロスを、殆ど爆裂に近い勢いで引き裂いた。
「ッあ、ああああああああああああああああああああああッ!!」
 カナタが、弾き飛ばされるように後ろに下がる。彼女の左腕は、右腕よりも手ひどく破壊されていた。半ばから切断されたようになっている右腕に比べ、左腕は内部から破壊されたように砕けている。焼け焦げたアクチュエータと外殻の成れの果てが、黒焦げの固まりとしてぶらぶらと揺れていた。
 アリカは呆然としながら、一歩踏み出す。身体を覆う熱は限界を通り越して、彼女に思考さえ許さない。ただ、かつての仲間に向けて、確かめるように――まともに動かないイーヴィル・アームを伸ばす。
 その瞬間、カナタが表情を引きつらせた。それは、アリカが過去に殺してきた人間が見せた顔と同じ――目の前の不可解なものに対する、絶望と恐怖に満ちた顔だった。
「ッ、あ、ぃ、ああああああアあああアああァああぁアあああッ!!」
 やり場のない感情を叫びに変えるように喉を絞り、カナタは逃げ出した。獣がどうしようもない力の差を悟った時のように、それこそ逃げるウサギのように。
 遠ざかる。背中が遠ざかっていく。カナタは立ち尽くすシキに目もくれず、動かぬ腕を提げて逃走する。その背中が見えなくなる前に、アリカは膝から崩れた。地面に前のめりに倒れこむ。
「アリカッ!」
 大事な人の声が聞こえる。アリカはか細い呼吸を繰り返しながら、取り戻した記憶をどう説明するかにばかり惑った。
 心の中がぐしゃぐしゃだ。色々な絵の具をぶちまけたパレットみたいに、ひっくり返した玩具箱の中みたいに――どれに目を絞ればいいのかわからなくなる。
 殺してしまった仲間のこと、自ら全て捨て去るように忘却した自分、カナタと自分とソリッドボウルの関係。ここに来てからの日々と、シキに対するどうしようもないくらいの執着と愛。
 意識が揺れる。蛍光灯を遮った影が、自分の傍に膝をつくのを感じた。ゆっくりと視線を上げると、シキが血相を変えていた。アリカは、大丈夫だと訴えようとして失敗した。喉からは詰まったような声しか出なくて、指一本動かせる気がしない。
「し……き」
 それでも、アリカは喉を掻き分けて愛しい少年の名前を呼んだ。
「ここにいるよ、アリカ」
 切羽詰った、けれど確かな声が降ってくる。少年の手が、アリカの前髪をそっと払い、頬に当てられる。ひんやりとした手のひらの温度を感じた瞬間、アリカはその安寧に身を任せた。瞼が錘をぶら下げられたみたいに落ちて、意識に黒いカーテンがかかる。
 シキの声が、遠ざかる。
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