-Ex-

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  目覚める前に  

 ほの暗い闇の底で最初に考えたのは、今の状況なら人が殺せるということだった。

 部屋の隅では弟と妹が毛布に身を包み、膝を抱えて震えている。部屋の温度は殆ど外気温と同じで、冬に入ろうかという時期には少々厳しいものがあった。部屋の隅のバケツからは悪臭が漂っている。何が入っているかなどすでにわかりきった事であった。日に一つ二つの出来合いのパンをかじっているだけでも、生きている以上出るものは出る。
 小さい、幼い嗚咽が聞こえた。
 弟がともに毛布に身を包んだ妹を慰めるように撫でていた。
「だいじょうぶだよ」
「なくなよ」
「もうすぐでられるよ」
 その哀れっぽい声もすぐに嗚咽交じりのものになり、やがては二人そろって泣き始める。
 ザイル=コルブラントは肩を竦めた。無理からぬこととはいえ、すすり泣く声はどうしようもなく神経を逆撫でする。
 父親がいつもの癇癪でザイルたちを部屋に閉じ込めてから十日が経った。最初の三日間にはいつもの如く嫌がらせのような殺人スナッフムービーを見せられたが、いまや一日二度の食事の時間以外は、父親の顔を見る事さえない。母親は随分前に失踪していた。もしかしたら、父親があの映像のようなやり方で殺して処分したのかもしれない。どちらにしてもあまり変わりのない事だった。
 父親の機嫌が悪いほうに傾くとこの部屋に閉じ込められるというのは随分前から承知していることだったが、流石に今回の仕打ちは少々堪える。こういったいわれのない懲罰を何度も受けているうちに、ザイルの身体はそれに耐えるために頑強になり、自分の身体の被害状況を把握する術を身に着けるに至っていた。それは一種の防御反応。生き延びる事を切に望む、彼の身体的な資質だった。
 その身体が、もってあと三日だと告げている。溜息をついて、弟たちに比べると薄っぺらく小さな毛布を身体に巻きつけなおす。
 ザイル=コルブラントは十三歳の少年である。小男だった父親を抜く一七〇センチメートルを越える身長があり、劣悪な環境の中を生き抜くために頑強に育まれた身体を持っている。そして、自分の置かれた境遇を憎むだけの余地を残して、自我を希釈するという芸当を心得ていた。自分に対する苦痛を、外的要因から来る情動を、「ああ、そういう話なのか」と他人事のように受け止め、それ以上の感慨を得ることなく受け流す。そういった特異な適応の仕方をした少年は、それでも今、この状況を作り出した父親を殺そうと半ば決意していた。
 三日目が来る前に扉が開けばいい。このまま行くと死因は栄養失調よりも凍死のほうが早く訪れる。
 外気温の低下は一週間前から見られていた。ここ三日ほどはますます顕著だ。このまま気温が落ちていけば、自分よりも早く弟と妹が死ぬことも判っている。別に口に出しはしない。死ねば死んだで、鬱陶しい声が聞こえなくなるとも思っていた。
 手の中の古ぼけたアイスピックを見つめる。
 この部屋に叩き込まれる前に、咄嗟に自分の机から持ち出したものだった。錆が浮いた針を見つめながら、少年はどこを刺せば上手く死ぬかばかりを考えていた。反撃を許さないうちに即死させなければ危険だ。人間は自分に危害を加えるものに対しては、どこまでも残酷になれる。
 針の長さを見る。心臓を刺すには、この短い針は少し頼りない。そして今の自分に滅多刺しにする体力的な余裕があるとは思えない。それならば、狙うべきなのは、自分に背中を向けたタイミング。後頭部のくぼみから間脳へ突き抜けるやや上傾きのコースで、頭蓋骨を擦り抜けて脳幹を破壊する。ザイルの脳裏には、その映像が克明に浮かび上がる。毎度おなじみ殺人ムービーのワンシーン、拳銃で頸を撃ち抜いたときの映像。狙うべき場所は判っていた。
 知らず息を潜め、彼はそのときを蛇のように待った。心は冷たく尖りきって、躊躇の欠片さえもない。
 恐らくはザイル=コルブラントは、このときからどこかが壊れていたのだろう。彼の倫理観や心は、彼の家庭が決定的に崩壊していたのと同じように、修復不能なほどに歪んでいた。彼自身が理解していた。アイスピックを見つめている間は、唇を笑みに歪めていられたから。

 一日と三時間が経ち、ザイルは一瞬の好機に飛びついた。

 部屋のドアを開き、動かないザイルをまず仮借なく蹴り飛ばした父親は、そのままザイルに背を向けて、奥で震えながら眠る少年と少女を蹴り起こしに向かった。ザイルは目を開け、ゆらりと立ち上がった。十三歳にして身長一七四センチメートル。大の男といって差し支えのない身体。アイスピックの針を一度撫でると、足音を潜めて二歩進み、強く地面を蹴った。
 動かない弟を一度強く蹴り飛ばした父親の頸の僅か上、後頭部のくぼみ。
 順手に握った針を、体重をかけて打ち込むように、間脳に届くコース――目と耳孔の延長線をなす斜めの線をなぞるように突き刺す。
 父親は一度びくんと痙攣して膝を付き、そのまま地面に倒れ込んだ。その身体が弛緩するまで、およそ数十秒。打ち込んだままのアイスピックが、まるで墓標のようだった。
 蹴り飛ばされて呻いていた弟が、上に圧し掛かられて目を覚ました妹が、逡巡するように数秒間固まって、父親の目になにも映っていないことに気付き、始めて悲鳴をあげた。
「うるさいな」
 ザイルは呆れたように呟いた。ほぼ二週間ぶりに使った声帯から出た声は、思ったよりも掠れてボロボロだった。
「おまえらはこのままこの部屋で、これと同じになりたかったのか」
 自分を脅かす外的要因を排除する。彼が考えたのはそれだけであり、それ以上でも以下でもない。殺人に関する感慨、人を殺したという罪悪感、そういったものとは彼は無縁の位置にいた。自己保存が最優先だ。これからの人生が希望に満ちたものだという腐った文句は信じていなかったが、それでもこの豚小屋に劣る環境で、虐げられた小動物のように死ぬのは真っ平だった。
 だが、弟と妹は違ったらしい。
 理解できないことに妹は父親に抱きすがりその名を何度も呼んでいる。弟も程度の差はあるにせよ、大同小異といったところだ。ザイルに向けられた目は揃ったように同じで、畏怖と恐怖、憎悪と不快、未知のものへの猜疑といったものが滲んでいる。
 弟が、舌っ足らずに「ひとごろし」と呟いた。
 妹の肩がびくんと震える。
 まだ暖かい死体から逃れるように体をばたつかせ、聞くに堪えない声を上げ始める妹。誘われるように恐慌状態になり、ザイルから妹をかばうように抱いて部屋の隅に逃れる弟。
 それを見ても、ザイルはやはり何も感じず、傷つかなかった。
 ただ呆れ、それきり父親だった死体、弟、妹という三個体への興味を失った。
「付き合いきれないな」
 内心をそのまま呟くと、身を翻す。体が動きなれていないせいで少しつんのめったが、すぐに感覚を取り戻す。手は震えていないし、思考も正常だ。半開きのドアを蹴り飛ばし、振り向きもせず部屋を出た。フローリングの床さえも、冷え切った足には暖かい。
 屋敷の中を、温かい風が吹いている。頬に触れる優しい風を感じて、ようやく少年は生存を実感した。
 一息つく間もなく、思考を切り替える。まずは何をするべきだろうか。父親の後頭部を貫いた感触が右手によみがえり、ザイルは軽く手をぶらぶらと振った。
 ――そう、武器。
 武器が欲しい。
 完成しきっていない肉体を補うためには非常に重要な要素。
 誰かを殺してその場に長く留まるようなことは、言い尽くせぬほどの愚だ。才能か、天性か、少年はそれを悟りきっていた。今や自分が追われる立場にあることを、明確に知っている。故に彼は外で生きていくために必要な武力を得ようとしていた。アイスピックでは足りない。もっと、迅速に危険を排除できる圧倒的で確実な暴力が必要だった。
 父親の書斎へ行こう。
 あそこには、自分が求めるものが転がっているはずだ。

 そうして、ザイル=コルブラントは、強靭な鉄を手に入れた。
 そのときから、それが彼の唯一のよりどころ。
 他者と会話するときの自己の存在が、他者の存在によって証明されるように、握ったスリムなグリップの感触が、常に少年の生存を保障している……。
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