――夕刻。
太陽の光は雲に遮られ、曇天から降り注ぐのはグレイの光。
スラム、普段ならば浮浪者がうろつくそこに、無数の白い影が行軍していた。
顔は白い面覆いによって明らかにならず、皆画一的に同じ白色の聖衣を纏う。
教えに反旗を翻した異分子を排除するために、彼らの手には武器が与えられていた。
聖職者は手にしてはならないはずの、殺傷用の兵器である。握られたそれらも、悪趣味なほどに白い。
散弾銃、自動小銃、自動拳銃、回転式拳銃、短機関銃。
装備だけで見れば、その聖職者達は軍隊とでも戦える戦力を持っていた。これで装甲車があれば完璧だ、必要とあらば空港くらいは占拠出来ただろう。
死蝋のような色をした白面と、色調をそろえた聖衣、そして銃。
彼らが整然と行進する姿は、スラムに住まう低所得者達を大いに怯えさせていた。
彼らは、一言も喋ることなく追っていた。
背教者を。
教えに背き、神罰を受ける事になった一人の――いや、一体の男を。
空はまるで塗りこめたような灰色。
落ちてくる同色の雨粒が、死蝋の面に弾けて滑る。
* * *
同刻。
男は、軍靴の足音高い路地裏の掃き溜めで冷たい息を吐いた。
男が行うのは呼吸活動ではなく、単純な排気行為だ。彼は呼吸をしているわけではない。
体温を伴わない呼気が、低温のために白く濁って灰色の町へ溶けていく。
軍靴の足音が聞こえてきた。足並みを揃えて、整然とやってくる。聖歌隊の伴わないガン・パレードだ。
それが自らを追ってくるものだという事も、彼はとうの昔に承知している。だというのに、彼に恐怖心はなかった。心に針があったとするならば、その触れ幅は限りなくゼロ。
――まるで。
恐怖という概念を知らないかのよう。
冷たい体が落ち来る雨を抱く。
産熱機能は働いていない。
キル・モードに入った彼の体は、全ての生理的機能を切り捨てる。
雨の降る路地裏、彼の横に体温は亡い。
二度と触れられない位置に、あの天使は飛んで行ってしまった。
彼は知らない。
手の届かない場所へ消えた者への哀悼を、どのように表せばいいのかを。
両手に握り締めた銃のグリップだけが、触覚として男の意識をその場に繋ぎとめる。
メモリーの奥で掠れる、ある少女との三年分の時間。
左手に握り締めた拳銃のグリップが軋む音を聞いて、男は漸く力を抜いた。
整然と響く足音は近く、すぐ傍にまで近付いてきた事を否応無しに意識させる。
男は、自らの銀眼に内蔵されたカメラを、サーマル・モードに切り替えた。
男は人体が発する微細な熱を感知し、壁越しにでも敵の所在を知ることが出来る。
彼は人間ではなく、人間の形をした何か別のものであった。
鉄の体と水銀の血液、培養された生体部品。
それが彼を構成する要素である。
軍靴の音の先頭。
曲がり角から白蝋の仮面が見えた瞬間に、男は行動を開始した。
曲がり角までは距離十五m。
持ち上げた左手の拳銃から、轟音が響く。
同時に姿勢を低くして、弾けるように駆けた。
距離を詰める。低姿勢、まるで肉食獣のような疾駆。身に纏ったベージュのコートが、バタバタと耳障りに暴れた。
銃声から間を置かず、横殴りの銃弾を受け、顔を出した聖職者はぐらりと体を傾けた。
弾丸は頭部に命中、ひび割れた白面と創傷面を濡らす血がそれを物語る。
男は走る。命中するまでは当然だった。
当たるように照準したのだ。当たらないはずがない。
男にはそれだけの自信があった。
聖者の群れは前衛が一人撃たれたのを見て、瞬時に散開の準備をした。
男の目には壁越しに無数の赤い影が散開するのが見える。
その動きは訓練されているものと言って差し支えない。
この場合のその処置は非常に正しいものである。迂闊に突っ込めば、死んだ者の二の舞だ。
教会兵はセオリー通りに遮蔽物に身を隠し、襲撃者を十字砲火するビジョンを抱いていたのだろう。
男には、その思考が手に取るようによく判った。集団戦の教本が教えている通りである。
教会兵たちが態勢を整え終わるその前に、男は薄いコートを翻し、建物の影から飛び出した。
最初に撃たれた聖者の体が、死体となって地面にくずおれようとする瞬間の事である。
飛び出した男は、死体を蹴り上げ浮かせて盾にした。
聖者の群れは一斉にトリガーを引くが、それに威嚇以上の意味はなかった。正確な照準など、出来てはいない。
男には浮かせた死体という盾があり、そして恐怖という感情がなかった。
故に、聖者の射撃は無駄以外の何物でもなく、大多数は外れた。辛うじて男に向かった数発も死体にめり込んで停弾し、終わる。
ほんの一瞬の空白。火線飛び交う戦場での、刹那的に確定された安全。
だがそれがどれほど短い一瞬であろうとも、男が筒先を聖職者達に向けるには、十分すぎた。
翻した男の右手には、三十二発の小口径拳銃弾を連続発射する凶器があった。
無骨で、およそ「使いやすさ」と言うものを考えずに作られたようなフォルムをしたサブマシンガンを、男はまるで手の延長のように精密に照準する。
時間は要らなかった。人を指差すのに時間をかける人間は居ない。
男にとって、銃を扱うとはそのくらい自然な行動である。
動作にすれば一挙動、時間にすれば秒に及ばぬ短時間。
彼が真っ直ぐに突き出したサブマシンガンの銃口が、教会兵を睨みつけて吼えた。
秒間二十二発ジャストの連射能力を持つ銃が、鋼鉄の右手の中で唸りをあげる。
だが連射される銃弾は、素人がそうするようにただばら撒かれているわけでは決してなかった。
目の前を遮る脱力した死体の隙間から、縫い通すように――一発一発が神業じみた技巧を以て放たれる。
銃弾が命を持ったようですらあった。
一人きっかり三発――それこそ一発の狂いすらなく、唸る拳銃弾が教会兵の胸を、或いは頭を、生存に必要な器官を破壊していく。
教会兵の統率が乱れた事を確認すると、男は浮かび上がった死体の襟首に左手の拳銃の銃口を引っ掛け、地面を蹴った。
男は一瞬たりとて止まらない。
戦場では停止が即座に死に――いや、破壊に繋がる事を知っている。
盾にした死体に不気味な音を立てて銃弾がめり込むのを感じながら、男は右手のマシンガンをなおも連射した。
ビルの間に荒々しく銃声が木霊し、そして、止んだ。
無機質な仮面舞踏会が、沈黙とともに終幕を告げる。
だが――舞台は彼に第二幕を要求する。
遠くから足音が聞こえる。
駆け抜けてくる軍靴の足音は、カーテンコールを許さない。
幕引きにはまだ早いと言うように駆けて来る。
死を運ぶ無機質な白い銃を持った、白い聖職者の足音が。
塗りこめた灰色の空、重苦しいグレイ。
灰色に混じる赤色、その中で――
「……リーヴ……」
彼が呟くのは、かつて隣にいたヒトの――いや、天使の名前だった。
[ A N G E L ]
その世界は、かつて「神の雷」とされる災害によって一度滅んだ。
既存の国家と言うシステムは根こそぎ破壊され、世界人口の三分の二が死滅した。
それでも、人類はまだ生きている。
誰かは言った。
「どんなクソみたいな世界でも、明日があるなら生きなきゃいけない」
ああ、確かに人間はそうかもしれないさ。
イーグル=トンプソンはその発言を肯定する。
しかし”だけど”、と付け加えて彼はいつもこう言っていた。
じゃあ、機械はどうすればいいって言うんだ?
* * *
機械と人が生きる街がある。
町の名前なんて、特に意味は無かった。
大体その僻地にある町なんて一つきりだったから、当たり前だった。
複数もないものを名前で識別するなんて、意味の無いことは誰もしない。
「神の雷」以降、人間たちは既存の最も信仰の篤かった宗教を、世界宗教として再編纂した。
雷は驕り昂ぶった人間たちへの神の裁きである。
故に信じよ。
神は常に我々を見ている。
敬虔に信じ、神を崇めよ。
世界宗教はそう謳う。
意識を持つ機械である、イーグル=トンプソンは神を信じていなかった。
彼はヒトの都合によって生み出され、ヒトによって運営されてきた。
ヒトと遜色なく思考し、動き、会話する自分は、即ち人と同じなのではないか、そう思うことすらある。
こんな思考ができるような存在をヒトが生み出したのならば、既に神と人間は等価だと常々信じていた。
だが人々は、そう思い込むには弱すぎた。
世界宗教は人々の心の奥底まで浸透し、世界で宗教に思考を染めないものは無かったのだ。
そこの所も同意はしかねながらもイーグルは解っていたから、余計なことは何も言わなかった。
余計な事を云ってスクラップにされるのは好みの結末ではない。
その程度の事は判断できるからこそ、何も言わなかった。
……少なくとも、その日が来るまでは。
世界宗教は旧世紀に無かった教義の一つとして、天使生成を謳っていた。
選ばれた清らかな少年と少女が、神にその身を捧げ、人としての体を捨てて天使になり、神に仕えると言う、機械であるイーグルにしてみれば理解できない風習である。
だが、それで人間たちが満足しているのなら何も言うことは無いと納得もしていた。
いつも彼は無機質な、冷たい銀の瞳でその儀式に連れて行かれる少年と少女を見ていた。
薬で自我を殺され、運ばれていく少年少女達。
機械に心は無い。それを見ても何も感じなかった。
……そう、少なくとも、その日が来るまでは。
* * *
イーグル=トンプソンにとっては、目の前に立つ全てのものがターゲットに過ぎない。彼は銃撃に慈悲を差し挟まず、感情という概念を知らなかった。
彼我の火力の比は控えめに見ても一対十。
悪くすればそれ以上の劣勢で、イーグルは劣っている。
にもかかわらず、彼は止まらない。誰にも止められない。
路地から援軍の一団が雪崩れ込み、周囲を確認した瞬間、銃弾は空から降り注いだ。
二人がそのサブマシンガンの銃弾に晒され、見えない手に突き飛ばされたように後ろに倒れる。
イーグルは落下の勢いに身を預けながら、銃弾を
雨霰と撒き散らし、着地地点の敵を薙ぎ払った。
――人間の形をしているとはいえ、イーグル=トンプソンの基本性能は人間とは桁が違う。
彼には物理的限界に迫る跳躍力、銃弾を見てから避ける反応力、あらゆる武器を手足のごとく扱う適応力がある。教会の外的戦闘用のバイオボーグとして開発されたイーグルは、戦闘素体としてのスペックで既に人間とは違うレベルにあった。
彼は一跳びでビルの三階の非常階段まで跳躍し、そこから教会兵に襲い掛かったのである。
雨のごとく銃弾を降らせるのは、牽制の意味も兼ねている。
流石に彼といえども、空中、しかも落下しながら正確な射撃を行うことは難しかった。
だが、地面に降り立てば話は別。
「
猛禽」の爪は、得物を引き裂き残さず黄泉路へ引きずり込む。
教会兵の取り囲むその中心に着地した瞬間、イーグルはその場に居た他の誰よりも早く行動を開始した。
イーグル=トンプソンは、
機械である。
精密すぎるその行動についていける人間はいない。
立ち上がらないまま、鋭角的に腕を伸ばす。それは彼にとっての照準と同義。指をさすように狙いを定め、引き金を引き死を生み出す。
反応できなければ、銃口に睨まれたものから順に死んでいく。
銃弾より素早く動く人間がいるとすれば話は別だが、教会兵たちは生憎そのような能力は持ち合わせなかった。
ベージュのコートがイーグルの動きに纏わりつき、残影の如く揺れる。
刹那、拳銃弾が爆裂する音が二挺分同時に響きわたった。
今度ばかりは発砲は愚か、教会兵たちは銃を向ける事すらままならない。
人間では思考速度に反応速度がついていかないその一瞬が、イーグルにとっては、ただ泥の中にいるかのように遅く、長い。
立ち上がりながら回転するように彼は動いた。
腕の稼動範囲を広げるように体を振りながら、右後方・左前方、右前方・左後方、前方・後方、と順に左腕と右腕がぴったりと一本の線を描く。銃口の直線上に敵を捉えるたびに
銃火が迸る。
飛び降りて着地した一瞬の膠着は静、それを打ち消す動としての一連の銃撃。左右十一発ずつ、計二十二発の銃弾をきっちりと吐き出すと、煙の中でイーグルは空っぽの弾倉を両手の銃から落とした。
立ち込める硝煙の中、弾倉が転がる音に教会兵たちが倒れる音が重なる。
* * *
「……今帰った」
「あ、お帰り。紅茶淹れるけど、付き合ってくれる?」
「そうして欲しいなら」
「少しだけでも自発的にものを云ってくれると、おねえさん嬉しいんだけどなー」
その日、家に帰り着いてドアを開け、当たり障りの無い会話を交わした。
ソファーの上に行儀良く座った彼女が茶を入れる。
アールグレイの香りが立ち上る。
イーグルは生体部品を多用したバイオボーグでもあったから、
栄養分の経口摂取が出来ないわけでもなかった。
「今日、天使になる連中を見た」
「……ああ、そういえば時期だもんね」
何気ない会話の隙間、いつも通りソーサーから持ち上げて、飲む。
成分は一瞬にして明らかになるが、それがどういう味なのか、
表現の仕方がわからない彼は、やっぱりいつも通りの仏頂面のままだった。
「どう?」
「解らん」
「……もう、いつもそれなんだから」
「糖分が比較的多めだと思うが」
「それが『甘い』って言うの、何回教えたかなあ」
「感覚と記憶が結びつかないんだ。仕方ないだろう」
「諦めてるんじゃないよ、イーグル」
いつも通りのやり取りに小さく笑う彼女は、リーヴという名前だった。
色素の薄い、白髪とはまた色合いを異にするくすんだ灰色の髪をショートボブにして纏めた、年頃の少女である。
煩雑なファミリーネームがあったはずだけど、それは誰も覚えていない。
彼女のほかにそのファミリーネームを名乗るものは、既に誰もいなかった。
良くある事故は、彼女から四人の家族を根こそぎ奪い取っていたから。
彼女の顔を見ていたら、ふと目が合った。彼女は柔らかく笑う。
イーグルは表情の変え方を知らない。
彼は機械だ。
鉄の体と水銀の血液、培養された生体部品。
それらは、思考を許しても感情を許さない。
「イーグル」
小さな、透き通った声。
「何だ」
「もし、だよ。私が急にいなくなったら、悲しい?」
「……何を藪から棒に。リーヴはずっとここにいる。そんな仮定は無意味だ」
「いいから。ね、悲しいと思ってくれる?」
彼女の声はいつも通り穏やかで透き通っていたのに、今は少しの焦燥を含んで聞こえてくる。
だけれど、彼は機械だった。感情なんて無い。
彼女が焦燥しているなどとは察せない。
答えあぐねて――それが困る、と言う思考活動であると自覚する前に、口が事務的に動く。
「俺は人じゃない」
「――」
「その疑問には答えるべき回答を持たない」
リーヴは、幾度かその言葉を咀嚼するように目を開けて、閉じて、やがて小さく笑った。
だからイーグル=トンプソンは、それで会話を終えてしまった。
笑うと言う表情の動きが、リーヴが不快を感じていない、マイナスの感情を抱いていない印だと知っていた。
「……そうだよね。……バカなこと訊いたね、あたし」
……その目が寂しいと云っていたことに、最後まで気付けない。
* * *
旧暦で言う8月3日。
リーヴスラシル=クーペルハイドは天使になった。
* * *
戦闘が始って、優に七十分が経過している。
その間彼は八度包囲され、その度に敵を全滅させてきた。
路地裏には死臭が満ちている。
白い聖衣を纏った教会兵達は、誰も彼もみんな生存に必要な部位をごっそりとぶちまけて、既に生命体ではなく有機物としてそこにころころと転がっていた。
その中心。仰臥し、空を見上げる。コートは血を吸って重く、赤く染まっていた。憂鬱な灰の空の下で、イーグルの周りだけが鮮やかに赤い。
両手に下げた拳銃とマシンガンもまた返り血でべっとりと濡れていた。
よほど近くで撃たなければ、そしてよほど何人も撃たなければ、そうはならないというのに。
体はもう、半分以上が壊れている。
生体部品が露出して、人間ならとっくに死んでいる状態のはずだ。
体を起こす。
臓腑から、体の芯から痛みと言う形をした危険信号が込み上げてくる。
それでも、立ち上がる。
彼は、赤いコートを翻した。
拍子に、露出した生体野から銀色の雫が零れ落ちる。
彼の体に赤い血は流れていない。
彼は人ではなかった。ただの
殺人機だった。
「――……!」
角を曲がる足音。
無機質な白い面覆いで顔を隠した聖職者がやってくる。
仲間が何人殺されようと、それに興味も持たないような素振りで、ただただイーグルを破壊せよと言う命令のためだけに走ってくる。
仮面の向こう側の表情なんて、血まみれの殺人機には解らない。
イーグルの左手で、拳銃が咆哮する。
秒速三六七メートルで銃口から吐き出されたちっぽけな弾丸が、二十メートルの距離を一瞬でなかったことにして、その仮面ごと白い聖職者を終わらせた。
まるで前から思い切りぶん殴られたみたいに、そいつはひっくり返ってそれきり動かない。
血の匂いに混じる、無煙火薬の甘い匂い。
立ち上る、銃口からの硝煙。
軍靴の足音は止まない。
男は、無表情な顔を殊更に冷たく歪めて、膝を撓めた。
絶望的な状況下、天を仰いでしまうほど絶望的な戦力比。
それでも、男の目から涙は零れない。
続いてやってきた後続がマシンガンでこちらを攻撃してくる。
その銃撃を紙一重でかわし、時折腕で防ぎ、体にめり込ませ、疲弊と破損を蓄積させながらも、イーグルの両手の銃は銃弾を吐き出す。
照準は極めて精確だった。
稼動機構に過度のダメージが残らなければ、照準が狂うはずなんて無い。
銃声、銃声、銃声、銃声、銃声、数人の教会兵の内臓が、腹から入って背中に抜ける銃弾によって爆散し、吹き飛ぶ。
銀色の血液を流しながら、駆け抜ける。
既に殺した白い仮面の数は覚えていない。
ライアットガンの散弾を二度まともに食らったのは覚えている。
小さな三発の粒弾が右眼窩のメインカメラを破壊していた。
だから、銀色の涙を流しながら、左目だけが殺すべき相手を見る。
望遠・
仰角三度修正・
発砲。
十五m先でショットガンを腰溜めにした男の頭が消失する。
* * *
何気なく、いつも通りに家に帰った一週間前、彼女は家にはいなかった。だから、探しに出た。
全てを知ったのは三日前。
天使になった彼女は、二度と家には戻ってこない。
二度と満ちることの無い紅茶のカップ。
小さな彼女のティーポットも、二度と使われることは無い。
だってイーグルは紅茶の入れ方なんて知らなかった。
彼は、最後までただの機械でしかないから。
外に出た今朝。
空から落ちる雨は酷く冷たく、見上げた彼の眼窩を濡らし、
涙のように頬を伝わり落ちる。空は泣いていた。
イーグル=トンプソンもまた、哭いていた。
* * *
不意に脳天を揺さぶるような銃声が響く。
それが後ろからのものだと気付く前に、右腕の重量が消失した。
ぼたりと重い何かが落ちる音。
視界の右端に銀色に染まった太い腕が転がっている。
後ろを見れば、何の事はない。白い教会兵の腕の中で、十二番ゲージの太い銃口が煙を上げていた。
イーグルは左手の白い銃を向けようとした。
ショットガンを持ったその教会兵により近いのは右腕だったはずだが、千切れ飛んだ右手に握っていた銃を撃つ事は出来ない。
だからそのとき初めて、彼は敵を殺すための最短距離を取る事が出来なかった。
自前の銃の弾は切れたから、教会兵が持っていた拳銃を奪い取って使っていたが、秒速三六七メートルの初速で九ミリの弾頭を吐き出すその制式拳銃は、しかして教会兵の頭を照準線上に捉えることは永久に無い。
彼が振り向くよりも、ショットガンのポンプが前後するほうがそれより僅かに早い。もう一度世界を揺るがすような銃声がして、イーグルの思考回路は吹き飛んだ。
それが、殺人機の最期だった。
メインメモリが、ショートする前に最期に思考する。
どうして自分はこんな事をしたのだろう。
スクラップになるのをよしとはしないはずだ。
教会の対外敵用バイオボーグである自分が、何故こんな非合理な事を。
――末期の瞬間に、答えを見つけた。
殺人機は、その合理的思考の中にある、最初で最後のバグを見つけた。
0と1が全てを決定する思考ルーチンの中で、割り切れない部分を見つけたのだ。
それは、天使になってしまった彼女に関することで、それを決して認められないと吼える、不可解な部分だった。
――ああ。つまりは、俺はあいつと一緒にいたかった。ただ、それだけ。
バグの正体を見つけ、それを許容した瞬間、イーグル=トンプソンは機械ではなくなっていた。
その最後の瞬間だけ、彼は確かに恋をする。
もう届かない、天使に。
じゅう、と、銃弾の射入口から入った水滴が
回路を灼く。
イーグル=トンプソンは、その瞬間に、たかだか数年の生涯を終えた。
それは、どうしようもない、小さな小さな恋の歌。
誰も聞くことのない、この世の果ての恋の歌だった。